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第97話 古着修繕箱、十日後の沈黙

 古着修繕箱は、十日間、ほとんど動いていなかった。


 夫人会の作業棚の下段。


 紫布札が結ばれた木箱。


 白い小札には、こう書かれている。


 ――古着修繕箱。十日後確認。担当、クララ子爵未亡人。放置品確認。


 その紫布札は、きちんと残っていた。


 見直し日も消えていない。


 担当者名も読める。


 だが、箱の中身は十日前とほとんど同じだった。


 いや、正確には少し増えていた。


 それが問題だった。


 減るはずの箱が、増えている。


 リリアナは箱の前で、しばらく黙っていた。


 クララ子爵未亡人も、同じように黙っていた。


 普段は穏やかで、困った時ほど静かに考える人だ。


 そのクララ夫人が、今日は明らかに落ち込んでいる。


「申し訳ありません」


 彼女は小さく言った。


「担当を引き受けたのに、進められませんでした」


 リリアナは、すぐには慰めなかった。


 慰めたい気持ちはあった。


 しかし、ここで「そんなことありません」と言えば、箱の沈黙を見ないことになる。


 かといって「失敗です」と切り捨てるのも違う。


 紫札は、責めるための札ではない。


 見に戻るための札だ。


 今日、戻ってきた。


 そして、箱は沈黙していた。


 まず、それを認める必要がある。


「進んでいないことを確認できました」


 リリアナは、ゆっくり言った。


 クララ夫人が顔を上げる。


「それは……慰めですか?」


「いいえ。確認です」


 自分で言って、少し冷たいと思った。


 でも、今はその冷たさが必要だった。


 夫人会の作業室には、エレノア、リリアナ、クララ子爵未亡人、デリア夫人、ミリアム夫人、ベアトリス侯爵夫人、そして記録係のオスカーがいた。


 今日は古着修繕箱の十日後確認の日である。


 南区孤児院の窓布確認で、紫札は機能した。


 問題が見つかり、修正案が出た。


 だから今日も同じように進むと思っていた。


 だが、窓布と古着は違った。


 窓布は、現場に掛かっていた。


 使われていた。


 ほつれ、緩み、誤解が見えた。


 古着修繕箱は、作業室の隅で黙っていた。


 誰にも着られず、誰にも直されず、ただ積まれていた。


 箱の中には、さまざまな服が入っていた。


 袖口がほつれた子ども用の上着。

 裾が破れた厚手のスカート。

 ボタンが三つ足りない男児用の外套。

 襟だけ妙に擦り切れた作業服。

 虫食いのある毛織り。

 まだ使えそうだが、どこをどう直せばよいのか分かりにくい古い衣類。


 十日前、これらは「修繕必要」として箱に入れられた。


 だが、その後、ほとんど手がつかなかった。


 理由は、記録にも少しだけ書かれている。


 ――担当日未設定。

 ――修繕難易度不明。

 ――材料不足の可能性。

 ――判断待ち。


 判断待ち。


 リリアナは、その言葉に引っかかった。


「判断待ちが多いですね」


 オスカーが記録を確認する。


「はい。修繕するか、布として再利用するか、廃棄するかが決まらないものが多く、箱に戻されています」


「戻されている」


「はい」


 箱の沈黙は、何もしていない沈黙ではなかった。


 誰かが手に取った。


 迷った。


 判断できなかった。


 そして戻した。


 それが十日間、繰り返されたのだ。


 ベアトリス夫人が扇を閉じた。


「この箱、名前が悪いですわね」


 クララ夫人が驚いたように見る。


「名前?」


「修繕箱、でしょう。修繕できるものだけが入っているように見える。でも実際には、修繕できるか分からないもの、布に回すべきもの、捨てるべきもの、判断が怖いものが混ざっています」


 ミリアム夫人が頷いた。


「箱の中で、すでに渋滞していますわ」


 渋滞。


 リリアナは、その言葉に頷いた。


 たしかに、これは放置ではなく渋滞に近い。


 道が一本しかないから、進まない。


 修繕箱という名なのに、中には修繕以前の判断が必要な服がある。


 デリア夫人が記録した。


 ――修繕箱内で判断が渋滞。箱名と実態が不一致。


 エレノアは、箱の中から一着を取り上げた。


 厚手の子ども用外套だ。


 布は良い。


 しかし、袖口が大きく擦り切れ、裏地も裂けている。


「これは、修繕できますか?」


 クララ夫人は布を見て、少し迷った。


「できなくはありません。ただ、かなり手間がかかります。袖口を当て布で補強し、裏地も縫い直す必要があります」


「その手間をかける価値は?」


 クララ夫人は黙った。


 ここが難しいのだ。


 価値があると言えば、誰かが時間をかけなければならない。


 価値がないと言えば、まだ使えそうな服を捨てるようで胸が痛む。


 夫人会の女性たちは、そこに弱い。


 可哀想。

 もったいない。

 まだ使えるかも。

 誰かが直せるかも。


 その「誰か」が誰なのか決まらないまま、箱に戻る。


 リリアナは、聖リディア産婆院の父欄を思い出した。


 空白を守る。


 でも放置しない。


 この箱にも、今は決めない服があってよいのかもしれない。


 だが、決めないなら「いつ誰が見るか」が必要だ。


「これ、一着ずつ“次に誰が見るか”を書かないと、また戻りますね」


 リリアナが言うと、クララ夫人は深く頷いた。


「ええ。私も、それができていませんでした」


 ベアトリス夫人がすかさず言った。


「それから、修繕できるかどうかを夫人会だけで決めようとしない方がよろしいですわ。私たちは、もったいないという感情で縫い目を増やします」


「縫い目を増やす……」


「実際に縫う人の時間を見ないまま、“もう少し直せば使えますわ”と言うのです」


 痛い言葉だった。


 けれど、誰も否定しなかった。


 リリアナは、前に調理場で聞いた試作費の話を思い出した。


 菓子の品質を保つために、調理場の賄いを削ってはいけない。


 古着も同じだ。


 「まだ使える」と言って修繕係の時間を削ってはいけない。


 無償の善意に乗せてはいけない。


「修繕時間も費用ですね」


 リリアナが言った。


 クララ夫人が顔を上げる。


「はい。糸や布だけではなく、時間も費用です」


 デリア夫人が記録へ加えた。


 ――修繕時間を費用として扱う。無償の善意前提にしない。


 エミリア夫人は今日いない。


 南区孤児院の窓布担当で疲れが出たため、休むよう言われている。


 その判断も、紫札の学びから来ていた。


 担当者は責める者でも責められる者でもない。


 見に戻る役を持つ者。


 だから、役を持つ人の疲労も見なければならない。


 クララ夫人は、箱の前で小さく息を吐いた。


「正直に言います。私はこの箱を見るのが少し怖くなっていました」


「怖い?」


 リリアナが聞くと、クララ夫人は苦笑した。


「はい。どれも、捨てるには惜しい。けれど直すには手間がかかる。選ぼうとすると、誰かの暮らしを軽んじているような気がして」


 ミリアム夫人が静かに言った。


「“これはもう捨てましょう”と言うのは、少し罪悪感がありますものね」


「ええ」


 クララ夫人は頷く。


「古着は、着ていた人の気配があります。窓布より、ずっと近い」


 その言葉に、リリアナは箱の中を見た。


 たしかに、古着には人の形が残っている。


 擦れた袖。


 伸びた襟。


 膝のあたりだけ薄くなったズボン。


 何度も手を入れた跡のある縫い目。


 誰かが着ていた。


 誰かの体温があった。


 だから、簡単に切れない。


 簡単に捨てられない。


 しかし、その気配に引きずられすぎると、次に使う人へ渡せない。


「古着は、気持ちだけでは仕分けできないですね」


 リリアナは言った。


「はい」


 クララ夫人は頷く。


「基準が必要です」


 そこで、エレノアが白紙を出した。


「箱を分けましょう」


 作業室の空気が少し動いた。


「修繕箱を一つにしない。まず四つに分けます」


 エレノアは紙に書いた。


 一、すぐ直す。

 二、材料待ち。

 三、専門判断。

 四、布材・廃棄判断。


 ベアトリス夫人が少し首を傾げる。


「“廃棄”と書くと、また誰も入れたがらないのでは?」


「だから、布材・廃棄判断です」


 エレノアは答えた。


「布として使える部分があるかを先に見る。完全廃棄は最後」


 クララ夫人の顔が少し明るくなった。


「それなら、入れやすいです」


 リリアナは手帳に書いた。


 ――捨てる前に、布材として見られるか確認する。


 ただし、これも危険だ。


 何でも布材になると言って残せば、また箱が増える。


 デリア夫人がすぐに言った。


「布材箱も期限が必要です。使う予定がない端切れが増えれば、また別の沈黙になります」


「では、布材箱にも紫札ですね」


 リリアナが言うと、全員が少し笑った。


 だが、冗談では終わらなかった。


 布材箱にも見直し日をつけることになった。


 ――布材候補。十四日後確認。使い道未定のものは再判断。


 ミリアム夫人が言った。


「箱が増えすぎるのも問題ですわね」


「はい」


 エレノアは頷いた。


「だから、四箱に分ける代わりに、箱ごとの上限を決めます」


「上限?」


「箱から溢れたら、新しい服を入れる前に判断する」


 リリアナは目を見開いた。


 これも大事だ。


 箱は、いくらでも飲み込むものにしてはいけない。


 満杯になったら、見なければならない。


 デリア夫人が記録した。


 ――箱ごとに上限を設定。上限超過時は新規受け入れ前に判断日を設ける。


 さっそく作業が始まった。


 まず、箱の中身を全部出す。


 リリアナも手伝おうとしたが、マルタに近い動きでクララ夫人が止めた。


「手袋をつけてください」


「あ、はい」


 古着には埃や虫食いがある。


 素手で触るものではない。


 リリアナは手袋をつけた。


 これもまた、現場でなければ忘れがちなことだった。


 古着は、机の上に一着ずつ広げられた。


 すぐ直す箱には、本当に簡単なものだけ入れる。


 ボタン一つ。


 裾の小さなほつれ。


 紐の付け直し。


 材料待ち箱には、当て布や替えボタンがあれば直せるもの。


 専門判断箱には、修繕係や仕立屋の目が必要なもの。


 布材・廃棄判断箱には、服としては難しいが布として使えるかもしれないもの。


 作業は思ったより時間がかかった。


 一着ごとに迷う。


 特に「専門判断」と「布材・廃棄判断」の境目が難しい。


 ベアトリス夫人は、意外なほど冷静に判断した。


「これは専門判断へ」


「なぜですか?」


 リリアナが尋ねると、彼女は布を指で示す。


「表地は良いですが、裏の傷みが深い。素人が直すと、表だけ整ってすぐ破れます。見栄えの良さに騙される服です」


 見栄えの良さに騙される服。


 ベアトリス夫人らしい表現だった。


 リリアナは思わず書き留めた。


 次に、クララ夫人が古い作業服を手に取った。


「これは……布材でしょうか」


 袖も襟も擦り切れている。


 だが、背中の布はまだ厚い。


 修繕係の女性がいれば、すぐ判断できただろう。


 今日は夫人会側だけなので、専門判断へ回すことになった。


 リリアナは少し迷った。


「布材にできそうなのに?」


「できそう、で切ると後で困ります」


 クララ夫人が言った。


「切った後に、実は直せたと言われても戻せません」


 なるほど、と思った。


 戻せない判断には、慎重さがいる。


 記録に入る。


 ――切断・廃棄など戻せない判断は、専門者確認後。


 箱を分けていくうちに、古着修繕箱の沈黙の理由が少しずつ見えてきた。


 ひとつは、分類が粗すぎたこと。


 ひとつは、修繕時間を費用として見ていなかったこと。


 ひとつは、捨てる罪悪感。


 ひとつは、専門判断が必要なものまで夫人会で抱え込んだこと。


 そして、もうひとつ。


 誰が次に見るかが決まっていなかったこと。


 クララ夫人は、四つに分けられた箱を見て、少しだけ表情を緩めた。


「これなら、進められそうです」


「全部を一度に直そうとしなくていいですから」


 リリアナが言うと、クララ夫人は頷いた。


「まず、すぐ直す箱からですね」


 デリア夫人が問う。


「何日で見ますか?」


 クララ夫人は少し考えた。


「三日後に、すぐ直す箱を確認します。材料待ちは七日後。専門判断は、修繕係の方に来ていただける日に合わせます。布材・廃棄判断は十四日後」


 紫札が四枚必要になった。


 リリアナは苦笑した。


「また増えましたね」


 ベアトリス夫人が言う。


「箱を増やしたのですから、札も増えますわ。ただし、放置するより安い」


「安い?」


「ええ。沈黙した箱は、保管場所と気力を食べます」


 デリア夫人が深く頷いた。


「本当に」


 その言葉には、実感があった。


 沈黙した箱は、ただそこにあるだけではない。


 見る人を少し疲れさせる。


 誰かがやらなければ、と思わせる。


 でも、誰も手をつけられない。


 そういう箱が増えると、善意の場そのものが重くなる。


 リリアナは書いた。


 ――沈黙した箱は、保管場所と気力を食べる。


 作業の終わりに、クララ夫人は元の紫布札を外した。


 古着修繕箱という一つの札は、役目を終えた。


 ただし、「終了」ではない。


 「修正」だ。


 新しい記録には、こう書かれた。


 ――古着修繕箱、十日後確認。箱内品ほぼ未処理、むしろ増加。原因、分類粗さ、判断待ち、修繕時間未計上、廃棄罪悪感、専門判断不足。対応として四箱へ分割。旧紫札は修正として外し、新紫札四枚へ移行。


 クララ夫人は、その記録に署名した。


 手は少し震えていたが、顔は朝より落ち着いていた。


「失敗を署名するのは、少し勇気がいりますね」


「失敗ではなく、修正の記録です」


 リリアナが言うと、クララ夫人は微笑んだ。


「そう言っていただけると、少し楽です」


「でも、進まなかったことは書きます」


「はい。それも必要です」


 夕方、北翼へ戻った後、リリアナは今日の報告を書いた。


 ――古着修繕箱の十日後確認をした。箱はほとんど進んでおらず、むしろ増えていた。

 ――クララ様は責任を感じていた。でも、紫札は責めるためではなく、見に戻るための札。

 ――修繕箱という名前が粗すぎた。中には、すぐ直せるもの、材料待ち、専門判断、布材・廃棄判断が混ざっていた。

 ――修繕時間も費用。無償の善意前提にしない。

 ――古着は、人の気配があって捨てにくい。気持ちだけでは仕分けできない。

 ――箱を四つに分けた。すぐ直す、材料待ち、専門判断、布材・廃棄判断。

 ――戻せない判断は専門者確認後。

 ――箱ごとに上限と見直し日を置く。

 ――沈黙した箱は、保管場所と気力を食べる。


 最後に、少し考えてから書いた。


 ――進まなかったことも、見に戻ったから分かった。沈黙している箱には、怠けだけではなく、迷いと怖さが入っていることがある。


 エレノアはそれを読んで、静かに頷いた。


「今日もよい記録ね」


「箱、怖かったです」


「ええ」


「誰かの服って、ただの布じゃないんですね」


「そうね」


「でも、だからこそ、次の誰かに渡せる形にしないといけない」


「ええ」


 リリアナは、手帳を閉じる前にもう一行書いた。


 ――思い出を理由に箱へ戻すだけでは、次の人の寒さは減らない。


 夫人会の作業室では、その夜、四つの箱にそれぞれ紫布札が結ばれていた。


 すぐ直す箱。

 材料待ち箱。

 専門判断箱。

 布材・廃棄判断箱。


 沈黙していた一つの箱は、四つの声を持った。


 まだ何も直ってはいない。


 けれど、次に誰が見るかは決まった。


 沈黙は、少しだけ破られた。

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