第77話 小さな春挨拶会、開幕
春挨拶会の朝、公爵家の庭には、派手な花飾りがなかった。
その代わり、冬を越した枝物が、細い花瓶にすっと挿されていた。
庭師が選んだものだ。
豪華ではない。
けれど、寂しくもなかった。
まだ固い蕾のついた枝。
淡く色づき始めた小花。
香りはほとんどないが、光を受けると枝先が静かに明るく見える。
リリアナは、小広間の入口でそれを見つめていた。
「前より、ずっと少ないですね」
隣に立つエレノアが頷く。
「ええ」
「でも、なくてもいい、とは思わない」
「そうね」
「少なくても、春っぽいです」
「庭師がかなり考えてくれたそうよ」
リリアナは、花瓶の根元に小さな札があることに気づいた。
――庭枝使用。追加購入なし。庭師作業時間、通常管理内。
思わず苦笑する。
「ここまで記録するの?」
「庭師に無理をさせていない確認よ」
「……大事ですね」
リリアナは、もう一度枝物を見た。
花は減った。
でも、誰かの無償の負担で飾った春ではない。
そのことが、今は少し誇らしかった。
今日、彼女が着ているのは薄桃色のドレスだった。
新しい刺繍は足していない。
胸元のリボンは整えただけ。
髪にはエレノアから借りた小さな銀のピン。
真珠の髪飾りは使わなかった。
鏡で見た時、少しだけ物足りなく感じた。
けれど、見慣れると悪くなかった。
以前より控えめで、少し落ち着いていて、それでもリリアナらしい柔らかさは残っている。
可愛いと思いたい。
そう思っていいと、昨日自分で書いた。
だから今日は、そう思うことにした。
「似合っているわ」
エレノアが言った。
リリアナは少しだけ頬を染めた。
「朝も言ってくれました」
「何度言ってもいいでしょう」
「浮かれます」
「今日は少しならいいわ」
「では、少しだけ」
リリアナは小さく笑った。
小広間の奥では、マルタが最終確認をしている。
茶は二種類。
菓子は一種類。
手土産なし。
贈答品受領箱なし。
代わりに、受付には一枚の説明紙が置かれていた。
――本日は贈答品および手土産を一律に辞退しております。
――お持ちいただいた場合も、受領せずお返しいたします。
――ご厚意はお気持ちとして頂戴いたします。
リリアナは、その紙を何度も読んだ。
一律に。
例外なし。
その言葉が大事だ。
花籠も扉になる。
ミリアム夫人の言葉を思い出す。
扉を開けない。
今日の自分は、そのために立つ。
ヘルマン監督官は、会場の隅に控えていた。
目立たないが、存在感はある。
今日は公爵家の行事であると同時に、王家監督下の初めての社交行事でもあった。
社交界の目は、当然そこを見る。
監督官がどこまで口を出すのか。
エレノアがどの位置に立つのか。
リリアナがどんな顔で客を迎えるのか。
セレスティア夫人は姿を見せるのか。
グレゴール公爵はどうしているのか。
茶菓子はどれほど質素なのか。
花は減ったのか。
ドレスは新調されたのか。
人々は、挨拶をしながら全部見るだろう。
社交界は、目が多い。
そして、その目は優しいとは限らない。
「リリアナ」
エレノアが静かに呼んだ。
「はい」
「見る人は見るわ」
「はい」
「言う人は言う」
「はい」
「でも、今日の目的は、笑われないことではない」
「小さな春の挨拶を、決めた形で行うこと」
「そう」
リリアナは深呼吸した。
「戻さない」
「ええ」
最初の馬車が到着した。
受付の女官が名を告げる。
「アデレード老伯爵夫人、ご到着です」
リリアナは思わず顔を上げた。
――見栄を減らす春も、春です。
あの返書をくれた老婦人だ。
小柄な老伯爵夫人は、濃い灰緑のドレスを着ていた。
古いが、手入れが行き届いている。
宝石は小さなものを一つだけ。
歩く速度はゆっくりだが、目は驚くほど鋭かった。
彼女はエレノアに礼をし、次にリリアナを見た。
「今年の春は、ずいぶん軽くなりましたね」
リリアナは一瞬、どう返すべきか迷った。
軽くなった。
それは褒め言葉にも、皮肉にも聞こえる。
だが、老伯爵夫人の目には笑いがあった。
嘲笑ではなく、少し面白がるような温かさだった。
リリアナは、ゆっくり答えた。
「はい。花も菓子も減りました。でも、春は来ました」
老伯爵夫人は目を細めた。
「よろしい。春を金貨で買う癖を直すには、少し勇気がいります」
「……はい」
「そのドレス、見覚えがありますよ」
リリアナの胸がどきりとした。
やはり言われた。
去年と同じ。
そう続くのだろうか。
しかし老伯爵夫人は、穏やかに言った。
「よく似合っています。前より、あなたの顔が見える」
「顔、ですか」
「ええ。飾りが多すぎると、若い娘は飾りに着られますからね」
リリアナは少し驚いた。
そんなふうに言われるとは思わなかった。
老伯爵夫人は、扇で口元を隠しながら続ける。
「もっとも、私も若い頃は飾りに着られておりました。人は年を取ると、昔の自分を棚に上げられるようになります」
エレノアが微かに笑う。
リリアナも、少しだけ笑った。
「本日は、ご出席ありがとうございます」
「礼は短くて結構。今日は席も短いのでしょう?」
「はい」
「それもよろしい。長すぎる茶会は、たいてい誰かの悪口で長くなります」
そう言って、老伯爵夫人は小広間へ入っていった。
最初の客が彼女でよかった。
リリアナは、心からそう思った。
次に到着したのは、クララ子爵未亡人だった。
彼女は約束通り、贈答品ではなく資料として薄い紙束を持参していた。
受付で、その扱いを確認する。
「庭師の覚書です。贈り物ではなく、枝物の扱いに関する写しです。不要でしたらお返しください」
受付の女官は、準備していた通りに応じた。
「資料として受領いたします。受領記録に残します」
「ありがとうございます」
クララ夫人は、リリアナに向かって微笑んだ。
「お庭の枝物、とてもよいですね」
「庭師に伝えます」
「ぜひ。花瓶の足元に余白があるのも、かえって春らしいです」
リリアナは、ほっとした。
余白。
そう言えば聞こえがいい。
しかし今日は、その言葉に甘えすぎないようにしたい。
「ありがとうございます。追加購入を控えた分、庭のものを使っています」
「それで十分です」
クララ夫人は、少し声を落とした。
「窓布の時も思いましたが、足すより整える方が難しい時がありますね」
「今日、まさにそう思いました」
リリアナが言うと、クララ夫人は小さく頷いた。
「よい春になりますように」
その言葉には、含意がなかった。
ただの祈りだった。
少しずつ客は増えていった。
例年なら、玄関広間から庭まで人で溢れた。
今年は違う。
馬車の数も少ない。
人の声も控えめだ。
それでも、小広間は空っぽにはならなかった。
エミリア伯爵夫人は、リリアナのドレスを見るなり笑顔になった。
「そのドレス、前にお召しでしたよね」
直球だった。
リリアナの心臓が跳ねる。
だが、エミリア夫人の顔に嫌味はなかった。
「はい。補修して、今年も着ることにしました」
「素敵です。わたくしも、最近ようやく去年の帽子を直して使うことにしました。以前なら、新しい羽飾りを足していましたけれど」
彼女は少し照れたように笑った。
「足さないの、意外と勇気がいりますね」
「はい。とても」
リリアナは心から頷いた。
エミリア夫人は、小声で言った。
「胸元、足したくなりませんでした?」
「なりました」
「正直」
「なりました。でも足しませんでした」
「偉いです」
「偉いというより、必死でした」
二人は小さく笑った。
その会話が、リリアナには嬉しかった。
誰かと、足さない寂しさを共有できる。
それは思っていたより救いになる。
しかし、全員がそうではない。
ベアトリス侯爵夫人が到着した時、小広間の空気が少し変わった。
彼女は、今年の挨拶会にふさわしいとは言い難い華やかな装いで現れた。
鮮やかな薔薇色のドレス。
胸元には大粒の宝石。
香水も、控えめとは言えない。
招待状には香りを控えるとは書いていない。
だから規則違反ではない。
けれど、この場に対して明らかに強すぎる。
リリアナは一瞬、圧倒された。
昔の自分なら、憧れたかもしれない。
あれほど華やかなら、誰にも笑われない。
そう思ったかもしれない。
ベアトリス夫人は優雅に礼をした。
「ごきげんよう、エレノア様、リリアナ様。本日はお招きありがとうございます。まあ、本当に可愛らしい、小さなお席ですこと」
小さな。
その言葉に、わずかな針がある。
リリアナは喉が詰まりかけた。
エレノアが答える前に、リリアナは一歩だけ前に出た。
「ご出席ありがとうございます。はい。今年は小さな席にいたしました」
認める。
隠さない。
ベアトリス夫人の目が、ほんの少し細くなった。
「以前の春茶会を存じておりますので、少し寂しく感じますわ。あの香り高い招待状も、見事な花飾りも、皆様楽しみにしておりましたのに」
「私も好きでした」
リリアナは正直に言った。
周囲にいた数人が、ちらりとこちらを見た。
ベアトリス夫人も少し意外そうな顔をした。
リリアナは続ける。
「でも、今年はこの形にしました。必要な修繕と日々の備えを先に整えるためです」
「まあ。ご立派ですこと」
その言葉は、褒めていなかった。
リリアナは少しだけ胸が痛んだ。
だが、踏みとどまった。
「立派かどうかは、まだ分かりません。続けられるかを見ます」
小広間の端で、アデレード老伯爵夫人がわずかに扇を止めた。
ミリアム夫人も、少しだけ目を細める。
ベアトリス夫人は、微笑みを崩さなかった。
「続ける。よいお言葉ですわね」
「はい。今日だけ華やかさを控えて終わり、では意味がないので」
リリアナは、言いながら自分でも驚いていた。
声が震えていない。
怖い。
でも、言える。
ベアトリス夫人は、視線をリリアナのドレスへ落とした。
「そのお召し物も、以前拝見したような」
来た。
リリアナは、息を吸った。
「はい。以前のドレスを補修しました。新しい刺繍は足していません」
ざわ、と小さな空気が動いた。
自分から言った。
言わなくてもいいことを、でも隠しても仕方のないことを。
ベアトリス夫人は、ゆっくり扇を開いた。
「まあ。お若いのに、なんと慎ましい」
「慎ましいかどうかは分かりません。ただ、今あるものを使うことにしました」
「それはそれは」
その時、横から老伯爵夫人の声が入った。
「ベアトリス様。若い方が去年のドレスを直して着るのは、悪いことではありませんよ」
ベアトリス夫人の笑みが、ほんの少し固まった。
「もちろんですわ、アデレード様」
「私など、三十年前のショールをまだ使っております。物持ちがよいと、孫に笑われますがね」
老伯爵夫人は、扇で軽く自分の肩を指した。
確かに、彼女のショールは古そうだった。
しかし、それが不思議と品よく見える。
「古いものを直す目は、家を長持ちさせます。流行だけ追う家は、たいてい帳簿が先に倒れます」
小広間に、一瞬だけ沈黙が落ちた。
ベアトリス夫人は笑っている。
だが、その笑みは少し薄くなっていた。
「さすが、アデレード様。含蓄あるお言葉ですこと」
「年寄りは含蓄が増えて困ります。重くて持ち歩くのも大変です」
老伯爵夫人の一言で、何人かが小さく笑った。
空気が少し和らいだ。
リリアナは、心の中で深く息を吐いた。
助けられた。
だが、逃げ切ったわけではない。
ベアトリス夫人は小広間へ入る前に、ふと受付へ目を向けた。
「ところで、本当に贈答品はお受け取りにならないの?」
来た。
受付の女官が姿勢を正す。
リリアナも、エレノアも視線を向けた。
「はい。本日は一律に辞退しております」
エレノアが答えた。
ベアトリス夫人は、扇の陰で微笑む。
「当家の者が、ほんの小さな花籠を馬車に置いておりますの。返礼などもちろん不要ですわ。せっかくの春ですもの、入口にでも飾っていただければと思いましたのに」
花籠。
扉だ。
リリアナの背中に、緊張が走った。
小広間にいる何人かが、聞き耳を立てているのが分かる。
ここで受け取れば、一律辞退は崩れる。
断れば、冷たいと言われるかもしれない。
エレノアは静かに言った。
「お気持ちに感謝いたします。ただ、本日はすべての贈答品を一律に辞退しております。花籠も受け取れません」
「まあ、花まで贈答品になってしまいますの?」
ベアトリス夫人の声は甘い。
リリアナは、思わず口を開いた。
「はい」
自分でも驚くほど、はっきり出た。
「花も、受け取れば記録と返礼の対象になります。今日は例外を作らないと決めています」
ベアトリス夫人はリリアナを見た。
「ずいぶんお詳しくなられましたのね」
「少しずつ学んでいます」
「その学びは、楽しい?」
意地の悪い問いだった。
リリアナは少し考えた。
「楽しいことばかりではありません」
正直に答えた。
「でも、知らないままよりはいいです」
その言葉に、今度こそ小さな沈黙が落ちた。
ベアトリス夫人は、しばらくリリアナを見ていた。
やがて、扇を閉じる。
「では、花籠は持ち帰らせましょう」
「ありがとうございます」
リリアナは礼をした。
足が少し震えていた。
だが、立っていられた。
ベアトリス夫人が小広間へ入った後、エレノアが小さく言った。
「よく答えたわ」
「怖かったです」
「ええ」
「でも、花籠は扉でした」
「そうね」
「閉めました」
「ええ」
その時、受付の女官が小さく記録紙へ書き込んだ。
――ベアトリス侯爵夫人より花籠持参申し出。贈答品一律辞退方針により受領せず。本人了承。返却。
リリアナは、その文字を見た。
紙に残る。
今日、扉を閉めたことが残る。
それで少しだけ安心した。
小さな春挨拶会は、静かに始まった。
音楽家の派手な演奏はない。
屋敷付きの奏者が、短い春の曲を控えめに弾く。
茶菓子は一種類だけ。
花は少ない。
だが、会場は凍りついてはいなかった。
支援的な客たちが、少しずつ場の空気を作っていた。
クララ夫人は庭師の覚書についてハンナと話している。
エミリア夫人は窓布の番号札についてリリアナに質問している。
アデレード老伯爵夫人は、若い夫人たちに「贈答品を持たない茶会は手が軽くてよい」と笑っている。
ベアトリス夫人は、まだ扇の陰で何かを観察している。
完全に穏やかではない。
けれど、崩れてもいない。
エレノアは会場の端で、その様子を見ていた。
この挨拶会は、美談ではない。
公爵家が急に清廉になったわけでもない。
笑われている。
試されている。
探られている。
それでも、ここまで来た。
香りのない招待状を出し、返書の嫌味を受け、薄桃色のドレスに新しい刺繍を足さず、花籠を断った。
一つずつ。
小さなことを一つずつ。
リリアナが、少し離れた場所でエミリア夫人に説明している。
「番号札は、布を洗った後に戻すためです。窓が全部同じ大きさではないので」
その顔には、まだ緊張がある。
でも、以前のように可愛く見られるためだけに笑っているのではない。
自分の言葉で説明している。
その姿を見て、エレノアは静かに息を吐いた。
小さな春は、始まったばかりだ。
まだ何も終わっていない。
ベアトリス夫人のような客は、これからも揺さぶってくるだろう。
社交界の笑いも止まらない。
それでも、今日の最初の扉は閉められた。
花籠は、受け取らなかった。
その記録は残った。




