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第76話 薄桃色のドレス、刺繍を足さない日

 薄桃色のドレスは、思っていたより綺麗なままだった。


 衣装箱から出されたそれを見た瞬間、リリアナは少しだけ息を止めた。


 春茶会のために仕立てられた、あのドレス。


 柔らかな桃色の布。

 袖口に並ぶ白い花の刺繍。

 裾に控えめに入った淡い銀糸。

 当時のリリアナには、世界でいちばん自分に似合う服のように思えた。


 いや、正直に言えば、今見ても似合うと思う。


 そのことが、少し苦しかった。


 嫌いになれたなら楽だった。


 このドレスは過剰装飾です。

 教育費名目では不適切です。

 刺繍追加は赤分類です。

 だから、もう見たくありません。


 そう言い切れたなら、どれほど簡単だっただろう。


 けれど、衣装係のエリスがそっと広げたドレスは、やはり美しかった。


 リリアナの肌色に合う柔らかな桃色。

 動くたびに春の光を拾う袖口。

 母が「まあ、可愛い」と笑った日の記憶。


 全部、まだそこにある。


 北翼の小衣装室には、エレノア、リリアナ、マルタ、衣装係のエリス、そして記録係として若い女官が一人いた。


 本来なら、公爵令嬢のドレス直しに記録係などいない。


 だが今回は違う。


 春挨拶会で着用する衣装は、王家監督下の支出再整理の一部でもある。


 新調しない。

 刺繍を足さない。

 既存品を補修して使う。

 その補修費を記録する。

 新たな装飾費を発生させない。


 言葉にすると簡単だ。


 しかし、目の前にドレスが置かれると、簡単ではなかった。


 リリアナは、袖口の刺繍に指先を触れた。


「これ、やっぱり綺麗ですね」


 声に、少しだけ罪悪感が混ざった。


 エレノアは隣で静かに言った。


「綺麗ね」


「赤札なのに」


「赤札は、刺繍そのものの美しさを否定する札ではないわ」


「分かってるつもりなんだけど……」


 リリアナは小さく息を吐いた。


「綺麗だと思うたびに、駄目なことを考えている気がする」


「それは違うわ」


 エレノアの声は、少しだけ強かった。


「綺麗なものを綺麗だと思うことは悪くない。問題は、どの名目で、何を後回しにして、その綺麗さを買ったかよ」


「うん」


「だから今回は、綺麗さを増やすのではなく、今あるものを使う」


「はい」


 リリアナは頷いた。


 それでも、胸の奥のもやもやは残る。


 衣装係のエリスが、控えめに口を開いた。


「リリアナ様。補修箇所をご確認いただいてもよろしいでしょうか」


「お願いします」


 エリスは、ドレスの裾を丁寧に持ち上げた。


「裾の内側に、少し擦れがございます。外からはほとんど見えません。ここは補強した方がよろしいかと」


「はい」


「袖口の刺繍は、大きなほつれはありません。ただ、右袖の端に糸の浮きが一か所ございます」


「直せますか?」


「直せます。新しい刺繍を加えるのではなく、元の糸を留め直すだけです」


 エリスは言葉を選んでいた。


 新しい刺繍ではない。


 元の糸を留め直す。


 それが今回の線引きだ。


 リリアナは、記録係の女官へ視線を向けた。


「今の、記録してください。追加ではなく、留め直し」


「はい」


 女官が書き留める。


 ――右袖刺繍糸浮き一か所。新規装飾ではなく既存刺繍留め直し。


 リリアナは、その文字を見て少しだけ安心した。


 紙に残る。


 なら、後で誰かが「新しく刺繍を足したのでは」と言っても、説明できる。


 最近、リリアナは紙に残ることの安心をよく知るようになった。


 毛布の移管記録もそうだった。


 匿名箱の対応結果もそうだった。


 ノルの限定記録もそうだった。


 紙は人を縛ることもある。


 けれど、正しく使えば、誰かの選択を守ることもある。


「それから……」


 エリスが少し言いよどんだ。


「何?」


 リリアナが聞くと、エリスはドレスの胸元を見た。


「胸元の飾りリボンが、少し古く見えます。以前でしたら、ここへ新しい小花飾りを足して、春らしくするところですが……」


 言葉が途中で消えた。


 リリアナの胸が、少し痛んだ。


 以前なら、間違いなく足していた。


 白い小花の飾り。


 薄いレース。


 淡い銀の糸。


 ほんの少しだけなら、と言って。


 母もきっと頷いただろう。


 「まあ、そのくらいなら」と。


 その「そのくらい」が積み重なってきたのだ。


 リリアナは、胸元のリボンを見つめた。


 確かに少し古い。


 新品の華やかさはない。


 でも、壊れてはいない。


 汚れてもいない。


「小花飾りは足しません」


 リリアナは言った。


 思ったより、声はしっかりしていた。


「リボンは、整えるだけでお願いします」


 エリスは深く頷いた。


「承知いたしました」


 記録係が書く。


 ――胸元リボン、新規小花飾り追加なし。整えのみ。


 その文字を見た瞬間、リリアナの中で何かが少しだけ揺れた。


 ああ、本当に足さないのだ。


 今年の春、私は新しい小花を胸につけない。


 それだけのことなのに、まるで昔の自分に小さく別れを告げているようだった。


 マルタが静かに言った。


「リリアナ様。おつらければ、少し休憩を」


「大丈夫です」


 そう言ってから、リリアナは自分で首を横に振った。


「いえ。少し休憩します」


 エレノアが、ほんの少し目を細めた。


 以前なら、リリアナは「大丈夫」と言い張っただろう。


 今日は自分で訂正した。


 衣装室の隅に用意された椅子へ移る。


 小さな茶が出された。


 菓子はない。


 今は衣装確認の休憩であって、茶会ではないからだ。


 リリアナは茶を両手で持ち、じっと湯気を見た。


「思ったより、つらいです」


「ええ」


 エレノアは隣に座った。


「ただの服なのに」


「ただの服ではないからでしょう」


「うん」


 リリアナは小さく頷いた。


「あのドレス、私、好きだった。今も好き。だけど、赤札もついてる。お母様の笑顔もある。使用人宿舎の暖房費もある。社交界に笑われる怖さもある。全部くっついてる」


「ええ」


「全部くっついているのに、分類しないといけない」


「そうね」


「分類って、冷たいですね」


 リリアナはぽつりと言った。


 エレノアは少し考えてから答える。


「冷たいから、助かることもあるわ」


「助かる?」


「感情だけで見ると、全部捨てるか、全部守るかになってしまう。分類は冷たいけれど、その冷たさで、物を一つずつ見られる」


 リリアナは、茶の水面を見つめた。


「全部捨てなくていい」


「ええ」


「全部守らなくてもいい」


「ええ」


「小花飾りは、足さない」


「ええ」


 リリアナは深く息を吸った。


「大丈夫。戻れます」


「戻ってこられた?」


「たぶん」


「では、もう少し休んでから続けましょう」


 その時、衣装室の扉が軽く叩かれた。


 マルタが出ると、外にはヘルマン監督官の補佐官がいた。


「セレスティア夫人より、リリアナ様へ監督官経由の伝言です」


 リリアナの手が止まった。


 エレノアも顔を上げる。


 補佐官が封書を差し出した。


 ヘルマン監督官の確認印がある。


 マルタが受け取り、エレノアへ渡した。


「読む?」


 エレノアが尋ねる。


 リリアナは少し迷った。


「ここで?」


「無理なら後で」


「……読みます」


 封を切る。


 中には短い手紙が一枚だけ入っていた。


 母の字。


 以前より少し硬い。


 泣きながら書いたのかもしれない。


 でも、文面は短かった。


 エレノアが読み上げるのではなく、リリアナ自身が目で追った。


 ――リリアナへ。

 ――薄桃色のドレスを直す日だと聞きました。

 ――私は、あの袖口の白い刺繍が好きでした。あなたにとても似合うと思っていました。今もそう思います。

 ――でも、今年は新しい刺繍を足さないでください。

 ――足したくなるのは、たぶん私も同じです。けれど、それを足さないことが、今の私たちに必要なのだと思います。

 ――あのドレスを着るあなたが可愛かったことと、その費用の扱いが間違っていたことは、両方本当です。

 ――今年の春、あなたが同じドレスを別の気持ちで着るなら、私はそれを見られなくても、覚えておきます。

 ――母、セレスティア。


 リリアナは、手紙を読み終えると、しばらく動かなかった。


 涙は出ていた。


 でも、崩れなかった。


「お母様も、足したくなるんだ」


 小さな声だった。


「そうね」


 エレノアが答える。


「お母様も、同じなんだ」


「ええ」


「足さないでください、って書いてる」


「ええ」


 リリアナは手紙を胸に押し当てそうになり、途中で止めた。


 インクが滲むかもしれないと思ったのだろう。


 代わりに、机の上にそっと置いた。


「返事、今は書かない」


「分かったわ」


「でも、伝言だけお願いしたい」


「何と?」


 リリアナは少し考えた。


「足しません。着ます。泣きました。でも、大丈夫です」


 マルタが静かに頷いた。


「監督官経由で、そのままお伝えいたします」


「そのまま?」


「はい。必要以上に整えない方がよろしいかと」


 リリアナは少しだけ笑った。


「はい。そのままで」


 休憩の後、衣装確認は再開した。


 リリアナは先ほどより落ち着いていた。


 涙の跡は残っている。


 けれど、声はしっかりしている。


 エリスが胸元のリボンを丁寧に整え、仮縫いをした。


 小花飾りは足さない。


 首元には、以前使っていた小さな白いリボンを合わせる案が出た。


 新規購入ではない。


 手持ちの小物から選ぶ。


 リリアナは白いリボンを見て、少し首を傾げた。


「これ、少し地味?」


 エリスが慎重に言う。


「以前のリリアナ様でしたら、もう少し華やかなものをお勧めしたと思います」


「今は?」


「今の春挨拶会には、合っていると思います」


 リリアナは鏡の前に立った。


 薄桃色のドレス。


 袖口の白い刺繍。


 胸元は整えただけ。


 首元に、手持ちの白いリボン。


 以前より華やかさは少ない。


 けれど、みすぼらしくはなかった。


 少し控えめで、少し寂しくて、それでも春らしい。


「変じゃない?」


 リリアナは、鏡越しにエレノアへ聞いた。


「変ではないわ」


「可愛い?」


 言ってから、彼女は少し恥ずかしそうにした。


 エレノアは、ほんの少し微笑んだ。


「可愛いわ」


 リリアナの目が揺れた。


「……よかった」


「ただし」


「ただし?」


「今日の可愛いは、新しい刺繍で作った可愛いではないわね」


 リリアナは鏡の中の自分を見た。


「うん」


「前の自分を全部捨てず、でも同じ増やし方をしない可愛い」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「それ、記録に書くには長いですね」


「確かに」


「でも、覚えておきます」


 記録係が遠慮がちに言った。


「あの、今の言葉も、衣装確認記録に入れますか?」


 リリアナとエレノアは、思わず顔を見合わせた。


 エレノアが少し考えた後、言った。


「感情記録ではなく、方針として短く」


 記録係は頷き、書いた。


 ――方針。既存ドレスを再利用し、新規装飾を足さず、過去の装いを全否定せず使用する。


 リリアナはそれを覗き込み、少しだけ笑った。


「硬い」


「記録ですから」


 女官が真面目に答える。


「でも、いいです」


 次は髪飾りだった。


 真珠の髪飾りは使わないことにした。


 誕生日の贈り物であり、まだ気持ちの整理がついていないからだ。


 代わりに、古い白いリボンと、小さな銀のピンを使う。


 銀のピンはエレノアのお下がりだった。


 リリアナはそれを受け取って、少し驚いた。


「お姉様の?」


「昔使っていたものよ」


「いいの?」


「ええ。新しく買うよりいいでしょう」


「でも、お姉様のものを私が」


「嫌なら別のものを」


「嫌じゃない」


 リリアナは、銀のピンを手のひらに乗せた。


 小さく、装飾も控えめ。


 でも、品がある。


「これ、使います」


 エリスが髪に当てると、薄桃色のドレスに思ったよりよく合った。


 リリアナは鏡を見て、少しだけ目を細めた。


「前より、少しお姉様っぽい」


「そう?」


「うん。でも、私っぽさもある」


「それはよかった」


 マルタが静かに言った。


「とてもよくお似合いです」


 リリアナは、嬉しそうにした。


 今度は浮かれすぎないように手帳を探そうとしたが、ドレス姿なので手元にない。


 少し困った顔をすると、エレノアが言った。


「今は浮かれてもいいわ」


「いいの?」


「少しなら」


 リリアナは鏡の前で、ほんの少しだけ笑った。


 昔のように、無邪気にくるりと回ることはしなかった。


 でも、裾を少しだけ持ち上げて、春の光を見るように角度を変えた。


 袖口の白い刺繍が揺れる。


 それはやはり綺麗だった。


 午前の終わりには、補修内容が確定した。


 裾の内側補強。

 右袖刺繍糸の留め直し。

 胸元リボンの整え。

 新規小花飾り追加なし。

 手持ちの白リボン使用。

 エレノア旧所有の銀ピン使用。

 真珠髪飾りは今回は使用しない。

 新規支出は補修糸と最低限の手間賃のみ。


 財務書記が計算し、見積もりを出した。


 従来なら、新調または追加装飾で銀貨数十枚。


 今回は、銀貨三枚未満。


 リリアナはその数字を見て、しばらく黙った。


「こんなに違うんだ」


「ええ」


 エレノアは頷く。


「銀貨三枚でも、安いわけではない。でも、必要な補修費ね」


「前は、簡単に足してた」


「そうね」


「これで浮いた分は、冬季宿舎安全費?」


「一部は」


 リリアナは頷いた。


 そして、記録用紙の端に自分で一文を書いた。


 ――新しい刺繍を足さなかった分は、使用人宿舎冬季安全費へ回す。


 ヘルマン監督官が後で見たら、少し分類が曖昧だと言うかもしれない。


 でも、今のリリアナには必要な一文だった。


 午後、リリアナは衣装確認の報告書を書いた。


 ――薄桃色のドレスを確認した。

 ――袖口の白い刺繍は綺麗だった。今も好きだった。

 ――右袖の糸浮きは留め直す。胸元に新しい小花飾りは足さない。首元は手持ちの白リボン。髪にはエレノアお姉様の銀ピンを借りる。

 ――真珠の髪飾りは今回は使わない。まだ気持ちの整理がついていないから。

 ――お母様から手紙が来た。「今年は新しい刺繍を足さないでください」と書いてあった。泣いた。でも、足さないと決めた。

 ――前の自分を全部捨てず、でも同じ増やし方をしない。


 最後の一文を書いた時、リリアナは少し手を止めた。


 それから、もう一行足した。


 ――私は、今日も可愛いと思いたかった。思ってもいいと分かった。


 エレノアは報告書を読んで、静かに頷いた。


「とてもよい記録だと思う」


 リリアナは、少し照れた。


「最後の一文、子供っぽい?」


「いいえ」


「本当に?」


「ええ。可愛くありたい気持ちを、全部悪いものにしないことも大事よ」


 リリアナは、目を伏せた。


「よかった」


 その日の夕方、セレスティアへ伝言が送られた。


 ――リリアナ様より。

 ――足しません。着ます。泣きました。でも、大丈夫です。


 それだけ。


 監督官経由の文としては、あまりにも簡素だった。


 だが、ヘルマンはそのまま送った。


 余計な飾りはつけなかった。


 翌朝、短い返答が戻った。


 ――読みました。

 ――私も泣きました。

 ――足さない春を、覚えます。

 ――セレスティア。


 リリアナは、その返答を読んでしばらく泣いた。


 今度は、少しだけ声を出して泣いた。


 エレノアは隣にいた。


 慰めすぎず、離れすぎず。


 泣き終えたリリアナは、赤くなった目で言った。


「お母様と、同じことで泣いたの、久しぶりかもしれない」


「そう」


「でも、前みたいに慰めに行かなきゃとは思わない」


「ええ」


「それでいい?」


「それでいいわ」


 リリアナは涙を拭き、手帳を開いた。


 ――お母様も泣いた。でも、私は慰めに行かない。今は、それでいい。


 薄桃色のドレスは、補修のため衣装係に預けられた。


 新しい刺繍は足されない。


 小花飾りも足されない。


 けれど、裾は整えられ、袖の糸は留め直される。


 過去を全部捨てるのではなく、ほつれたところだけを直す。


 そのドレスを着て、リリアナは小さな春挨拶会に立つ。


 笑う者もいるだろう。


 去年と同じだと囁く者もいるだろう。


 みすぼらしくなったと言う者もいるかもしれない。


 それでも、彼女は立つ。


 新しい刺繍を足さない春に。


 足さないことを選んだ春に。

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