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第75話 返ってきた返事、笑う社交界

 招待状を出してから三日目の朝、ヴァレンシュタイン公爵家には返事が届き始めた。


 早いものは、丁寧だった。


 紙も上等で、字も美しい。


 ――このたびは春のご挨拶会へのご案内、誠にありがとうございます。謹んで出席いたします。


 それだけの、礼儀正しい返事。


 だが、すべてがそうではなかった。


 北翼の小会議室には、返書が種類ごとに分けられていた。


 出席。

 欠席。

 確認事項あり。

 贈答品辞退への問い合わせ。

 返礼不要の確認。

 そして、ヘルマン監督官が淡々と作った最後の箱。


 ――含意あり。


 リリアナは、その札を見て首を傾げた。


「含意あり?」


 エレノアは返書を一通手に取りながら答えた。


「そのまま読めば丁寧だけれど、別の意味が含まれている返事よ」


「嫌味ってこと?」


「大まかには」


「含意あり、上品すぎる言い方ですね」


 リリアナが思わず言うと、ミリアム夫人が扇を閉じて笑った。


「社交界では、嫌味にも上等な紙を使いますのよ」


「嫌です……」


「慣れすぎても困りますけれど、読めないと刺されますわ」


 リリアナは少し身を縮めた。


 今日は、返書整理のためにミリアム夫人とデリア夫人も同席している。


 春挨拶会は公爵家の行事だが、社交界の反応を読むには、夫人会改革組の目が役に立つ。


 ヘルマン監督官は数字と手続きには強いが、貴婦人たちの柔らかな毒には、別種の解釈が必要だった。


 デリア夫人が一通の返書を開いた。


「こちら、ランズベリー伯爵夫人からです」


 彼女は静かに読み上げる。


「――このたびは、たいへん慎ましやかな春の席へお招きいただき、ありがとうございます。公爵家におかれましても、時代に合わせたご倹約をなさるとのこと、深く感銘を受けました。当日はあいにく先約がございますが、皆様の新たなご門出がつつましくも温かなものとなりますよう、お祈り申し上げます」


 読み終えた瞬間、リリアナは眉を寄せた。


「……なんか、嫌」


「正解ですわ」


 ミリアム夫人が即答した。


「“たいへん慎ましやか”“ご倹約”“つつましくも”が三つ並んでおります。これは、かなり笑っておりますわね」


「笑ってる……」


 リリアナの顔が赤くなる。


 怒りと恥ずかしさが混ざった色だった。


「倹約は悪いことじゃないのに」


「ええ。悪いことではありません。ただ、相手は“公爵家が倹約しなければならないほど落ちた”と匂わせています」


「そういう言い方、ずるいです」


「社交界は、ずるい言い方の宝庫ですわ」


 リリアナは、少し黙った。


 手元の招待状控えを見つめる。


 香りのない封筒。

 飾りのない紙。

 贈答品辞退。

 小さな春の挨拶会。


 覚悟していた。


 笑われるかもしれない、と。


 でも、実際に返書として目の前に置かれると、思っていたより痛い。


 薄桃色のドレスを再利用することも、新しい刺繍を足さないことも、自分では少し納得できていた。


 けれど他人に笑われると、急にみすぼらしいことをしているような気持ちになる。


 あの香りの招待状を出したくなる。


 華やかな花で部屋を埋めたくなる。


 「公爵家はまだ美しい」と、誰かに言わせたくなる。


 その気持ちが自分の中にあることが、リリアナは少し怖かった。


「リリアナ」


 エレノアが呼んだ。


「はい」


「今、戻したくなった?」


 見抜かれていた。


 リリアナは唇を噛み、正直に頷いた。


「少し」


「それでいいわ。思うこと自体は止められない」


「でも、戻しません」


「ええ」


「……戻しません」


 リリアナは、自分に言い聞かせるようにもう一度言った。


 ヘルマンが、返書の分類欄に記入する。


 ランズベリー伯爵夫人。欠席。含意あり。対応不要。今後の関係、観察。


「対応しないのですか?」


 リリアナが聞くと、ヘルマンは淡々と答えた。


「返礼を送る必要はありません。欠席受理のみで十分です」


「でも、嫌味を言われたのに」


「嫌味に費用をかけて返答する必要はありません」


 あまりにも冷静な返事だった。


 ミリアム夫人が楽しそうに頷く。


「名言ですわね。嫌味に費用をかけない。夫人会にも貼っておきたいくらいです」


 リリアナは少しだけ笑ってしまった。


 胸の痛みが、ほんの少し軽くなる。


 次の返書は、もっと露骨ではないが、別の難しさがあった。


 差出人は、オルティス侯爵夫人。


 ――贈答品および手土産をご辞退とのこと、承知いたしました。ただ、当家より季節の花籠のみお届けしたく存じます。返礼は不要にて、お受け取りいただければ幸いです。


 リリアナは首を傾げた。


「返礼不要って書いてあるなら、受け取ってもいいのでは?」


 デリア夫人が静かに首を振った。


「危ないです」


「危ない?」


「贈答品辞退と書いたにもかかわらず、例外を作ることになります。しかも“返礼不要”と言われても、社交上、本当に返礼しないわけにはいかない場合が多いのです」


 ミリアム夫人が続ける。


「一つ受け取れば、他の家も“当家も特別に”と言い始めますわ。花籠が、関係維持費の入口になります」


 リリアナは、少し嫌そうに顔をしかめた。


「花籠なのに」


「花籠ですわ。でも、花籠は扉にもなります」


 エレノアが返答案を書いた。


 ――ご厚意に深く感謝申し上げます。本年は家政整理中につき、すべての贈答品を一律に辞退しております。お気持ちのみありがたく頂戴いたします。


 リリアナはそれを読んだ。


「一律に、が大事?」


「ええ」


「例外を作らないため」


「そう」


「花も悪くないけど、花籠が扉になる」


 ミリアム夫人が笑った。


「だいぶ社交界の毒に慣れてきましたわね」


「慣れたくないです」


「その気持ちは大切になさいませ」


 次の返書は、意外にも温かかった。


 差出人は、クララ子爵未亡人。


 夫人会で窓布作業に参加した女性だ。


 ――ご案内を拝見いたしました。華やかさを控えると記されていて、少し寂しく感じたのも本当です。ですが、必要な修繕と日々の備えを先に整えるという一文に、深く頷きました。出席いたします。贈答品は持参いたしません。代わりに、当日は庭の枝物の扱いについて、我が家の庭師の簡単な覚書をお持ちします。贈り物ではなく、必要であれば参考資料としてお使いください。


 リリアナの顔が少し明るくなった。


「これは、いい返事?」


「とても良い返事です」


 エレノアが言った。


 デリア夫人も頷く。


「贈答品ではなく参考資料。こちらの趣旨を理解してくださっています」


「枝物の扱いなら、花代削減にも役立つかもしれませんね」


 リリアナが言うと、ヘルマンが分類欄に記入した。


 出席。贈答なし。参考資料持参予定。受領可。ただし資料として記録。


「資料も記録するの?」


「はい」


 ヘルマンは当然のように言った。


「贈答品ではないことを記録します」


「何でも記録……」


「記録しないと、後で贈答品扱いになる可能性があります」


「なるほど」


 リリアナは手帳に書いた。


 ――良い返事でも記録する。贈答品ではなく資料として受け取る。


 次に届いたのは、若い伯爵夫人エミリアからの返事だった。


 彼女も夫人会の窓布作業に参加した一人だ。


 文面は少しぎこちなかった。


 ――ご案内ありがとうございます。出席いたします。正直に申しますと、以前の春茶会の菓子が好きでしたので、少し残念です。でも、洗濯場の小窓を思い出しました。ささやかな席で十分です。手土産は持参しません。もし差し支えなければ、当日、窓布の番号札について少しお話を伺いたいです。


 リリアナは、思わず笑った。


「小窓、ここにも」


「小窓は強いですわね」


 ミリアム夫人が言う。


「一度、自分で風を見た人は違います」


 デリア夫人の声は静かだった。


「茶菓子が好きだったと書いてくださるのも、正直でよいと思います」


「寂しいって、書いていいんですね」


 リリアナが呟く。


 エレノアは頷いた。


「寂しさを隠さなくても、方針に同意することはできるわ」


「それ、私も同じです」


「ええ」


 リリアナは、少し安心した顔で返書を見た。


 笑う社交界ばかりではない。


 寂しいと書きながら、理解してくれる人もいる。


 それは小さな支えだった。


 しかし、次の返事でまた空気は変わった。


 差出人は、ベアトリス侯爵夫人。


 王都社交界でもかなり声の大きい人物で、夫人会事件では直接の不正関与はなかったが、オルガ・ベルナールと近かった。


 文面は、たいへん丁寧だった。


 ――ご案内を拝読し、胸を打たれました。使用人の方々の日々の備えを優先なさるとは、まことに慈悲深きご判断。かつての華やかなヴァレンシュタイン家を知る者としては、少々寂しくもございますが、新たな質素の道を歩まれる皆様を、陰ながら応援申し上げます。


 リリアナは読み終えて、顔をしかめた。


「これは……褒めてない」


 ミリアム夫人が満足げに頷いた。


「読みが鋭くなってきましたわ」


「“質素の道”って、絶対笑っていますよね」


「笑っていますわね」


 デリア夫人も静かに言った。


「しかも“使用人の方々の日々の備え”と具体的に書いています。こちらは招待状に具体名を入れていません。どこかから話を聞き、あえて書いたのでしょう」


 エレノアの目が少し細くなった。


「使用人宿舎の件が、すでに外へ漏れている?」


 ヘルマンが返書を受け取って確認した。


「可能性があります。ただし、監督下の家政整理は完全な秘密ではありません。問題は、どの程度の情報が、どの表現で広がっているかです」


「調べますか?」


 リリアナが聞く。


 ヘルマンはすぐには頷かなかった。


「調査範囲を決める必要があります。単なる推測や社交噂なら、広く追うほど噂を大きくします。内部情報の漏洩が疑われる場合のみ、確認します」


「何でも知ろうとしない?」


 リリアナが言うと、エレノアは頷いた。


「そう。必要な範囲で」


 また、知らない義務だった。


 ただし、今回は少し違う。


 噂を放置しすぎても危険だ。


 使用人宿舎の暖房修繕が、美談や嘲笑の材料にされれば、宿舎の人々を傷つける。


 だから、線引きが必要だった。


 デリア夫人が提案した。


「返書への対応は、欠席なら欠席受理。出席なら通常受理。ただし、“使用人の方々”という表現については、こちらから広げない方がよいと思います」


「なぜ?」


 リリアナが尋ねる。


「反論すると、“やはり使用人宿舎の話なのね”と広がります。相手はそれを待っているかもしれません」


「ずるい……」


「ええ」


 ミリアム夫人が、少し辛辣に言った。


「ベアトリス様は、わざと扉の隙間に扇を差し込む方ですわ。こちらが開けると、笑いながら入ってきます」


 リリアナは思わず想像してしまい、嫌そうな顔をした。


「怖いです」


「社交界ではよくいます」


「もっと怖いです」


 エレノアは返答案を書いた。


 ――ご厚情に感謝申し上げます。本会は小さな挨拶の席として、予定通り執り行います。贈答品および手土産は一律にご辞退しておりますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。


 使用人の語は入れない。


 質素の道にも反応しない。


 ただ、予定通り行うと返す。


 ヘルマンが分類した。


 含意あり。出席可否未記載のため確認要。情報漏洩疑い、現時点では調査保留。類似表現が複数出た場合、確認。


 リリアナは、その「類似表現が複数出た場合」という文を見た。


「一通だけでは追わない。複数なら見る」


「はい」


 ヘルマンが答える。


「噂も記録するのですか」


「必要なら。ただし、噂を記録する時は、事実と分けます」


 リリアナは頷き、手帳に書いた。


 ――噂は事実と分ける。一通だけでは追いすぎない。複数なら見る。


 返書整理は、夕方近くまで続いた。


 出席は、予想より少なかった。


 欠席は多い。


 それも、ただの欠席だけではない。


 「先約があり」と書きながら、明らかに距離を取る家。


 「体調不良」と書きながら、別の夜会には出るだろう家。


 「新たなご方針に感銘」と書きながら、実際には面白がっている家。


 だが、全てが悪いわけでもなかった。


 クララ夫人のように理解を示す返事。


 エミリア夫人のように寂しさを正直に書く返事。


 ある老伯爵夫人からは、短くこうあった。


 ――見栄を減らす春も、春です。出席します。贈り物は持ちません。


 リリアナはその一文を見て、しばらく黙った。


「見栄を減らす春も、春……」


「よい言葉ね」


 エレノアが言う。


「この方、どなた?」


「アデレード老伯爵夫人。昔から少し変わった方ですわ」


 ミリアム夫人が答えた。


「でも、こういう時に本質を突きます」


 リリアナは、その返書を大切そうに分類箱へ入れた。


 出席。贈答なし。含意なし。支援的。


 ヘルマンの分類が少し硬くて、リリアナは笑った。


「支援的って」


「他に適切な語がありません」


「温かい、とか」


「分類語としては曖昧です」


 ヘルマンは真面目だった。


 結局、「支援的」で落ち着いた。


 その日の最後に、社交界の反応まとめが作られた。


 出席予定、十七家。

 欠席、二十九家。

 返答保留、六家。

 贈答品問い合わせ、八件。

 含意あり、十一件。

 支援的返答、五件。

 警戒すべき表現、三件。


 リリアナは数字を見て、少し肩を落とした。


「欠席、多いですね」


「想定内です」


 ヘルマンが言った。


「公爵家監督下の初回行事です。距離を置く家は出ます」


「笑っている家も多い」


「はい」


「悔しいです」


 その言葉に、誰も「悔しがるな」とは言わなかった。


 エレノアが静かに言う。


「悔しいわね」


「お姉様も?」


「ええ」


「平気そうに見えます」


「平気ではないわ。けれど、戻す理由にはしない」


 リリアナは少しだけ息を吸った。


「私も、戻す理由にはしません」


「ええ」


「でも、悔しい」


「それは記録していいわ」


 リリアナは手帳を開いた。


 ――返書。欠席多い。笑っている返事もある。悔しい。

 ――悔しさは、香りの招待状へ戻す理由にはしない。

 ――見栄を減らす春も、春。


 書き終えた後、リリアナはアデレード老伯爵夫人の返書をもう一度読んだ。


 見栄を減らす春も、春です。


 その言葉に、少しだけ救われた。


 夜、エレノアは春挨拶会返書整理の報告をまとめた。


 ――小さな春挨拶会返書初回整理。欠席多数。贈答品辞退への問い合わせ複数。含意ある返答十一件。使用人宿舎等を匂わせる表現三件。現時点では広範調査を行わず、類似表現継続時に確認。贈答品例外は認めず、一律辞退。

 ――支援的返答もあり。クララ子爵未亡人より枝物扱い資料持参希望。エミリア伯爵夫人より窓布番号札への関心。アデレード老伯爵夫人より「見栄を減らす春も、春」との返答。


 付記。


 ――社交界の嘲笑は、方針を戻す理由にはしない。ただし、噂が支援対象者や使用人を傷つける場合は、事実と噂を分けて対処する。

 ――贈答品辞退は例外を作らない。花籠も扉になる。


 書き終えると、リリアナがそっと声をかけた。


「お姉様」


「何?」


「春挨拶会、怖いです」


「ええ」


「笑われるかもしれない」


「もう少し笑われているわ」


「そうでした」


 リリアナは苦笑した。


「でも、出席してくれる人もいる」


「ええ」


「贈り物を持たないで来てくれる人もいる」


「ええ」


「薄桃色のドレス、着ます」


 エレノアはペンを置いた。


「決めたの?」


「はい。新しい刺繍は足しません。髪飾りも、今あるものを使います。ちょっと恥ずかしいけど」


「恥ずかしい?」


「去年と同じ服だって言われるかも」


「言う人はいるでしょうね」


「はい。でも、言われてもいいです」


 リリアナは、少し震える声で続けた。


「同じ服を着るのが恥ずかしいんじゃなくて、同じ失敗をする方が恥ずかしいと思うから」


 エレノアは、しばらく妹を見た。


 少し前のリリアナなら、絶対に言えなかった言葉だ。


 可愛いと言われることを失うのが怖くて、新しいものを求めただろう。


 今も怖いはずだ。


 それでも、彼女は選んだ。


「よいと思うわ」


 エレノアが言うと、リリアナは泣きそうな顔で笑った。


「少しだけ、褒めてください」


「よく決めたわ」


「ありがとうございます」


「浮かれすぎない?」


「今日は少しだけ浮かれます」


 リリアナはそう言って、ほんの少しだけ胸を張った。


 エレノアは笑った。


「少しなら」


 小さな春挨拶会は、まだ始まっていない。


 だが、社交界はすでに笑っていた。


 遠巻きに眺める者。


 含み笑いを紙に乗せる者。


 花籠で扉を開けようとする者。


 それでも、戻さない。


 香りの招待状へ。


 金の縁取りへ。


 新しい刺繍へ。


 関係維持費へ。


 戻さない。


 春は、見栄を減らしても来る。


 そのことを確かめるために、ヴァレンシュタイン公爵家は次の準備へ進んだ。

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