第74話 小さな春挨拶会の招待状
春の招待状は、いつもなら香りから決まった。
薄い花の香を移した上質な紙。
淡い金で縁取られた封筒。
公爵家の紋章を押した封蝋。
季節の挨拶を飾る、少し大げさな言い回し。
それがヴァレンシュタイン公爵家の春だった。
春の茶会は、公爵家がまだ公爵家であることを王都へ示す場でもあった。
庭の花が咲いた。
新しい菓子が届いた。
娘たちのドレスが整った。
夫人たちが集まり、笑い、噂を交わし、次の縁談や寄付や派閥の空気を探る。
リリアナにとっても、春の茶会は嫌いなものではなかった。
むしろ、好きだった。
自分のために仕立てられたドレスを着て、母に髪を整えてもらい、客人たちに「まあ、リリアナ様、今年もお可愛らしい」と言われる。
その時間は、確かに甘かった。
けれど今年、机の上に置かれている招待状案は、以前のものとはまるで違っていた。
紙は上質だが、飾りはない。
封筒も無地。
香りも移していない。
金の縁取りもない。
そして、招待状の表題にはこうある。
――ヴァレンシュタイン公爵家 春の小さな挨拶会のご案内。
「小さな、って書くんだ……」
リリアナは、机の上の試し刷りを見つめながら呟いた。
北翼の小会議室には、エレノア、リリアナ、ヘルマン監督官、マルタ、財務書記、そして夫人会改革担当としてデリア夫人とミリアム夫人がいた。
本来、公爵家の招待状に夫人会の二人が関わる必要はない。
だが今回は、春の大規模茶会を小規模挨拶会へ変える初回である。
社交界への伝え方を誤れば、「ヴァレンシュタイン家は落ちた」「王家監督下でみすぼらしくなった」「使用人宿舎の暖房費などと称して社交を怠った」と好き勝手に言われるだろう。
もちろん、多少は言われる。
それは避けられない。
問題は、言われることを恐れて、また見栄えに逃げるかどうかだった。
ヘルマンは試し刷りを一枚手に取り、淡々と言った。
「従来の招待状費と比較すると、今回の簡素様式で銀貨十一枚相当の削減になります」
「招待状だけで?」
リリアナが目を丸くする。
「はい。紙質、香り付け、縁飾り、封蝋装飾、筆耕費を含みます」
「香り付けって、そんなに」
「少額に見えますが、数が多いと累積します」
累積。
最近よく聞く言葉だった。
髪飾りも、花代も、招待状の香りも、一つ一つは「それくらい」と思えてしまう。
けれど、その「それくらい」が積み重なると、使用人宿舎の暖房費になる。
リリアナは、無地の封筒に指を置いた。
「前の招待状、好きでした」
正直な言葉だった。
誰もすぐには否定しなかった。
エレノアも、ただ頷いた。
「綺麗だったわね」
「はい。封筒を開けた時に、ふわっと香りがして。春が来たんだって感じがして」
「それは悪いことではないわ」
「でも、今年はやめる」
「ええ」
「寂しいです」
「そうね」
リリアナは少しだけ笑った。
「最近、寂しいって言っても怒られないから助かります」
ミリアム夫人が柔らかく笑った。
「寂しいものは寂しいですわ。問題は、寂しいからといって元通りにしてしまうことです」
「はい」
デリア夫人が招待状案を見ながら言った。
「ただ、簡素すぎると、受け取った側は別の意味を読みます。公爵家が礼を失した、と」
「やはり、そう思われますか」
エレノアが問う。
「思う方はいます。特に、こちらの失墜を待っている方は」
デリア夫人は静かに答えた。
「ですから、簡素にする理由を隠すのではなく、しかし美談として飾らない文面が必要です」
「美談として飾らない」
リリアナは繰り返した。
ミリアム夫人が頷く。
「『使用人たちのために社交費を削りました』などと書けば、今度は使用人を社交の飾りにしてしまいますわ」
「あ……」
リリアナは顔を上げた。
そうだ。
暖房費に回すことを誇らしげに語れば、それはまた別の見栄になる。
使用人宿舎の寒さを、今度は公爵家再建の美談に使ってしまう。
それは違う。
「でも、何も書かないと、ただ貧しくなったと思われます」
リリアナが言うと、ヘルマンが頷いた。
「その通りです。隠しすぎれば噂になります。出しすぎれば美談化します。必要な範囲で説明する必要があります」
エレノアは、最初の文案を読み上げた。
「――春暖の候、皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。本年、ヴァレンシュタイン公爵家では、王家監督下における家政整理の一環として、従来の大規模茶会を改め、小さな挨拶会を催すことといたしました」
そこまでは、悪くない。
だが、次の一文でリリアナは眉を寄せた。
「――簡素な席ではございますが、皆様との変わらぬご厚誼に感謝し、春のご挨拶を申し上げたく存じます」
リリアナは少し考えた。
「“変わらぬ”って、少し違う気がします」
デリア夫人が目を向ける。
「なぜ?」
「変わらぬご厚誼って書くと、何も変わっていないみたいです。でも、変わりますよね。大きな茶会じゃないし、贈り物もやめるし、無理に華やかにはしない。だから、変わらぬって書くと嘘っぽい気がします」
エレノアは、静かに頷いた。
「確かに」
ミリアム夫人も微笑んだ。
「良い感覚ですわ。社交文では“変わらぬ”を便利に使いますけれど、今回は逆効果かもしれません」
リリアナは少しだけ嬉しそうにしたが、すぐ戻った。
「では、どう書けば?」
エレノアが問うと、リリアナはしばらく招待状を見つめた。
「……“新しい形で”はどうでしょう」
「新しい形で?」
「はい。“これまでとは異なる小さな形ではございますが”みたいな。変わることは認める。でも、礼を失うつもりではないって」
デリア夫人がペンを取った。
「こうでしょうか」
彼女は新しい文を滑らかに書く。
――これまでとは異なる小さな形ではございますが、皆様へ改めて春のご挨拶を申し上げたく、ささやかな席を設けることといたしました。
リリアナは頷いた。
「そちらの方が、嘘が少ない気がします」
「嘘が少ない招待状」
ミリアム夫人が楽しそうに言った。
「今の夫人会にも必要な概念ですわね」
次に問題になったのは、削減理由をどこまで書くかだった。
ヘルマンの案では、別紙に家政整理の概要を付けることになっていた。
招待状本体には詳しく書かず、希望者には監督下の家政整理方針を簡易に説明する。
だが、デリア夫人は首を横に振った。
「別紙にすると、読まれないか、逆に噂になります。招待状本文に一文だけ入れる方がよいと思います」
「一文」
エレノアが言う。
ミリアム夫人が候補を出した。
「――家内費用の整理に伴い、華美を控えた席といたします」
リリアナはすぐに顔をしかめた。
「それだと、なんだか怒っているみたい」
「では、こちらは?」
デリア夫人が書く。
「――本年より、家政の優先順位を見直し、必要な修繕と日々の備えを先に整えることといたしました」
部屋が静かになった。
リリアナは、その文をじっと見た。
使用人宿舎、とは書いていない。
暖房費、とも書いていない。
けれど、何かを先に整えるために華やかさを控えるのだと分かる。
美談にはしていない。
隠してもいない。
「これがいいと思います」
リリアナは言った。
「“日々の備え”なら、使用人さんたちを飾りにしない。でも、何もなかったふりにもならない」
エレノアも頷いた。
「採用しましょう」
ヘルマンが記録する。
――招待状本文に、家政優先順位見直しの一文を追加。使用人宿舎等の具体名は招待状には記載せず、問い合わせがあった場合は監督官確認済みの説明文で対応。
次は、招待客の選定だった。
ここが一番厄介だった。
大規模茶会を小規模にするということは、呼ばない相手が出るということだ。
呼ばれなかった者は、必ず理由を探す。
自分が軽んじられたのか。
公爵家が派閥を切ったのか。
王家監督の影響なのか。
夫人会事件に関わったから避けられたのか。
すべてを防ぐことはできない。
だが、基準を曖昧にすれば、また「関係維持費」が顔を出す。
招待客一覧を前に、リリアナは少し青ざめた。
「この中から選ぶの……」
「基準で選びます」
ヘルマンが言った。
「本人の好悪ではありません」
基準は三つだった。
一、王家監督下における正式挨拶が必要な家。
二、公爵家領地・財務・修繕に関わる実務連絡がある家。
三、過去の夫人会不正に関与せず、今後の公的社交上、最低限の関係維持が必要な家。
リリアナが首を傾げた。
「友人枠は?」
場が少し止まった。
リリアナはすぐに顔を赤くした。
「ごめんなさい。変なことを聞きました」
ミリアム夫人が首を横に振った。
「変ではありませんわ。むしろ、大切です」
「でも、費用を削る場で友人なんて」
デリア夫人が静かに言った。
「人間関係をすべて実務で切ると、別の歪みが出ます」
エレノアも頷いた。
「ただし、友人枠を広げすぎると小規模ではなくなる。リリアナの私的な友人を招くなら、春挨拶会とは別に、後日ごく小さな私的面会を設定する方がいいかもしれないわ」
「私的面会……」
「菓子も簡素に。ドレスも新調なし。会う目的をはっきりさせる」
リリアナは少し考えた。
「友人に、今の私を見せるのが怖いです」
「どうして?」
「前みたいに可愛い服で、何も知らない顔で笑えないから」
その言葉に、部屋が静かになった。
リリアナは続けた。
「でも、全部実務の顔だけになるのも、少し寂しい」
ミリアム夫人が、柔らかく言った。
「それなら、今のあなたに会ってもらう練習が必要ですわ」
「今の私」
「ええ。以前より少し地味で、少し疲れていて、でも前よりずっと自分で立とうとしているリリアナ様に」
リリアナの目が少し潤んだ。
けれど、泣かなかった。
「では、友人枠は春挨拶会とは別にします。今回は実務基準で」
ヘルマンが頷いた。
「記録します」
招待客は、従来の三分の一以下に絞られた。
春挨拶会の時間も短くする。
庭全体ではなく、南側小広間とその前の小さな庭だけを使う。
菓子は三種類から一種類へ。
茶葉は二種類。
花は庭の枝物を中心に。
音楽家は呼ばず、屋敷付きの奏者が短く弾く。
贈答品なし。
帰りの手土産なし。
代わりに、必要な家には後日、正式文書を送る。
リリアナは、その一覧を見て小さく言った。
「本当に小さい」
「ええ」
エレノアが答える。
「でも、ゼロではないわ」
「はい」
ゼロにするのは簡単だったかもしれない。
全部やめて、全部暖房費へ。
それは一見、正しい。
だが、公爵家は社会の中で生きている。
礼を完全に断てば、別の場所で支障が出る。
大事なのは、華やかさのために寒さを隠さないこと。
そして、寒さを見るために人との礼まで乱暴に捨てないこと。
また、両方本当だった。
最後に、招待状の本文が整った。
エレノアが読み上げる。
――春暖の候、皆様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
――本年、ヴァレンシュタイン公爵家では、王家監督下における家政整理の一環として、従来の大規模茶会を改め、小さな春の挨拶会を催すことといたしました。
――家政の優先順位を見直し、必要な修繕と日々の備えを先に整えるため、これまでとは異なるささやかな席となります。
――華美なもてなしは控えますが、皆様へ改めて春のご挨拶を申し上げたく、下記の通りご案内申し上げます。
――なお、本会は短時間の挨拶を主とし、贈答品および手土産はご辞退申し上げます。
リリアナは、最後の一文に目を留めた。
「贈答品も辞退するの?」
「受け取れば、返礼費が発生するから」
エレノアが答える。
「あと、贈答の関係を整理している最中だからよ」
「そうか……」
ミリアム夫人が笑った。
「贈答品辞退で一番ざわつくでしょうね」
「やはり?」
「ええ。でも、そこを曖昧にすると、また関係維持費が戻りますわ」
リリアナは、うんざりしたように言った。
「関係維持費、強敵ですね」
「本当に」
デリア夫人が真面目に頷いたので、少しだけ笑いが起きた。
招待状の封蝋は、公爵家の紋章ではなく、監督下の補助印を添えることになった。
公爵家の招待であることに変わりはない。
だが、王家監督下で内容確認済みであることも示す。
それは少し屈辱的でもある。
けれど、今の公爵家には必要だった。
リリアナは、最初の一通が封じられるのを見ていた。
香りのない封筒。
飾りのない紙。
けれど、嘘も少ない。
「これが、今年の春なんですね」
「ええ」
エレノアは答えた。
「小さな春」
「寂しいけど、嫌いじゃないです」
「そう」
「ちょっとだけ、怖いです」
「何が?」
「これを受け取った人たちが、どう思うか」
それは当然の不安だった。
社交界は優しくない。
ヴァレンシュタイン家の変化を、面白がる者もいるだろう。
落ちぶれたと笑う者もいる。
美談めかして褒めながら、裏で噂を広げる者もいる。
それでも、送る。
エレノアは言った。
「怖いからこそ、文面を整えたわ」
「それでも言われる」
「ええ」
「言われても、戻さない?」
「戻さない」
リリアナは頷いた。
「私も、戻さない」
その言い方が少し強くて、エレノアは妹を見た。
リリアナは、招待状を見つめている。
「前の春も好きでした。でも、今年はこれで送ります」
それは小さな決意だった。
その日の夕方、セレスティアから所見が届いた。
招待状案を監督官経由で確認した返答だった。
――文面を確認しました。
――香りのない招待状を見ると、胸が痛みました。私は春の招待状に香りを移すのが好きでした。リリアナが封筒を開いて笑う顔も、客人たちが褒める声も、好きでした。
――ですが今年は、この形でよいと思います。
――「必要な修繕と日々の備えを先に整える」という一文を、私は忘れないようにします。
――贈答品辞退も受け入れます。返礼の美しさに逃げない練習をします。
――リリアナが薄桃色のドレスを再利用するなら、私は新しい刺繍を勧めません。
――セレスティア。
リリアナは、所見を読んで少し泣いた。
でも、泣きながら笑った。
「お母様、香りの招待状、好きだったんだ」
「あなたと同じね」
「うん」
「親子ね」
「うん……」
リリアナは涙を拭った。
「でも、新しい刺繍を勧めないって書いてる」
「ええ」
「お母様も、我慢してる」
「我慢というより、選び直しているのだと思うわ」
リリアナは、その言葉を手帳に書いた。
――我慢ではなく、選び直し。
しばらくして、もう一文足した。
――前の春が好きだったことと、今年の春を小さくすること。両方本当。
招待状は翌朝、発送された。
数は少ない。
封筒も簡素。
香りもない。
だが、一通一通に、今のヴァレンシュタイン公爵家の姿勢が入っていた。
見栄を完全に捨てたわけではない。
社交を断ったわけでもない。
ただ、暖房より花を先にしないと決めた。
返礼より備えを先にすると決めた。
それだけのことだ。
だが、公爵家にとっては大きな変化だった。
招待状が運び出されるのを見送った後、リリアナはぽつりと言った。
「春が来るの、少し怖いです」
「ええ」
「でも、少し楽しみです」
「それも、ええ」
リリアナは笑った。
「両方本当」
エレノアも頷いた。
「両方本当」
小さな春挨拶会の招待状は、王都へ向かった。
華やかな噂の種になるかもしれない。
冷たい笑いを呼ぶかもしれない。
それでも、今年の春はこの形で始まる。
香りのない封筒で。
嘘の少ない言葉で。
新しい刺繍のない薄桃色のドレスで。
そして、使用人宿舎の暖房費という、これまで招待状には決して書かれなかった現実を背にして。




