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第73話 暖房費と、王都社交費の削減

 使用人宿舎の応急修繕が始まった翌々日、ヴァレンシュタイン公爵家の帳簿に、一本の太い線が引かれた。


 暖房費。


 薪代、煙道修繕費、窓枠補修費、風除け板、追加毛布、窓布の新調、古毛布の再利用加工費、温度記録用の小さな計測具。


 ひとつひとつは、王都の大貴族の支出として見れば、驚くほど大きな額ではない。


 だが、それらをまとめて「冬季宿舎安全費」として正式な費目にした時、初めて見えるものがあった。


 これまで、その費目は存在していなかった。


 薪代は家政費の隅にあった。


 修繕費は建物維持費の下にあった。


 毛布は備品費に混ざっていた。


 使用人宿舎の寒さは、どこか一つの欄にまとまっていなかった。


 だから、見えにくかった。


 どれも小さな不足として処理され、次の季節へ流され、また冬が来る。


 ヘルマン監督官は、机の上に新しい予算表を置いた。


「本日は、使用人宿舎冬季安全費の恒常化と、その財源としての王都社交費削減を協議します」


 ヴァレンシュタイン公爵家の南側会議室。


 かつては茶会前の打ち合わせに使われた部屋である。


 今は、帳簿、見積書、修繕計画、過去三年分の社交費一覧が並んでいた。


 出席者は、ヘルマン監督官、エレノア、リリアナ、家令代理、財務書記、ハンナ、そして別室から監督官立会いで意見書を提出したセレスティア。


 グレゴール公爵本人は出席しない。


 当主権限停止中であり、直接の発言は監督官経由に限られている。


 ただし、父の所見は机の端に置かれていた。


 ――家の顔を守り、家の足元を見なかった。


 その一文が、今日の会議の中心にあった。


 リリアナは、社交費一覧を見つめていた。


 顔色はよくない。


 けれど、逃げてはいない。


 表には、過去三年分の王都社交費が細かく並んでいる。


 春の夫人会茶会。

 夏の庭園夜会。

 王宮挨拶用馬車飾り。

 季節の花代。

 茶菓子代。

 贈答品。

 仕立て追加費。

 音楽家謝礼。

 招待状装飾費。

 非公式手土産。

 夫人会関係維持費。


 リリアナは、最後の項目を指でなぞった。


「関係維持費……」


 嫌な響きだった。


 今なら分かる。


 関係を維持するために必要な支出はある。


 だが、その言葉はあまりにも多くを隠せる。


 誰に、何のために、どれほど渡したのか。


 それを書かないまま「関係維持」と言えば、帳簿は綺麗に見える。


 けれど、実際には何も見えていない。


 ヘルマンが説明を始めた。


「使用人宿舎の冬季安全費を恒常化する場合、今年度残りの予算から銀貨三百二十枚相当を確保する必要があります。応急修繕費はすでに監督権限で執行済みですが、本修繕と冬季運用費には継続財源が必要です」


 リリアナが小さく尋ねた。


「銀貨三百二十枚……それは、多いのですか」


 財務書記が答える。


「公爵家全体では、出せない額ではございません。ただし、何かを削らなければなりません」


「何か」


「はい」


 ヘルマンが、次の紙を出した。


 削減候補一覧。


 一、春の大規模茶会の中止。

 二、王都夜会用馬車飾りの更新停止。

 三、夫人会向け季節贈答の半減。

 四、リリアナ様関連新規装飾費の凍結。

 五、セレスティア夫人主催の私的茶会費の停止。

 六、客間花代の一部削減。

 七、音楽家謝礼の見直し。


 リリアナは、四番を見た。


 自分の名前がある。


 新規装飾費の凍結。


 胸が痛むのは、まだそこに未練があるからだ。


 新しいリボンや髪飾りを欲しいと思う自分は、まだいる。


 それを完全に消せない。


 けれど、昨日見た使用人宿舎の冷気も、もう消せない。


 厚着すれば眠れます。


 そう言ったハンナの声が耳に残っている。


「四番は、凍結でいいです」


 リリアナは言った。


 自分でも驚くほど早く言葉が出た。


 エレノアは妹を見る。


「今すぐ決めなくてもいいわ」


「いいの。これは、決められる」


「本当に?」


「はい」


 リリアナは、少し手を握った。


「今あるもので足ります。必要な公式行事があれば、既存品を直します。どうしても必要な時は、理由を書いて申請します」


 ヘルマンが記録した。


 ――リリアナ様新規装飾費、本人同意の上で凍結。ただし公式行事上必要な修繕・再利用は申請制。


 リリアナは、その文面を見て少し息を吐いた。


 全部捨てる、ではない。


 全部我慢する、でもない。


 必要なら申請する。


 理由を書く。


 それなら、少し耐えられる。


 次に、春の大規模茶会。


 これは公爵家にとって大きかった。


 毎年、ヴァレンシュタイン家は春に大規模な茶会を開いていた。


 貴族夫人たちを招き、王都での存在感を示す。


 リリアナにとっても、春の茶会は少し特別だった。


 新しいドレス。


 庭の花。


 菓子。


 母の笑顔。


 自分が「可愛い」と言われる場。


 だが、その茶会の費用だけで、使用人宿舎の本修繕費の半分近くが出る。


 数字は、容赦がなかった。


「春の茶会は中止ではなく、縮小では駄目ですか」


 リリアナが聞いた。


 ヘルマンは答える前に、彼女の顔を見た。


「理由を伺っても?」


 リリアナは少し考えた。


「全部やめると、社交上の連絡が急に切れるかもしれません。あと……私は、茶会そのものが全部悪いとは思いたくありません」


 声が少し弱くなる。


 それでも続けた。


「花も悪くない。でも、花だけでは寒さは防げない。だから、花を全部なくすのではなく、暖房を先にして、残った範囲で小さくするのがいいと思います」


 ヘルマンは、しばらく黙った。


 財務書記も、手元の計算表を見る。


 エレノアは何も言わなかった。


 ここは、リリアナが自分で考えたことを最後まで出す場だ。


 ヘルマンが問う。


「縮小する場合、どこを削りますか」


 リリアナは息を吸った。


「招待人数。花代。菓子の種類。馬車飾り。音楽家の人数。あと、私の新調ドレスはなし。既存の薄桃色のドレスを直します」


 薄桃色。


 刺繍追加が赤札になったドレスだ。


 そのドレスを、もう一度着る。


 ただし、新しく飾るためではなく、使えるものとして。


「茶会の目的は?」


 ヘルマンがさらに聞いた。


 リリアナは、少し詰まった。


 以前なら、社交のため、体面のため、と答えただろう。


 今は、それだけでは弱い。


「……監督下の公爵家として、春の挨拶を完全に欠かさないため。あと、支出削減と冬季宿舎安全費の新設を、社交界へ隠さず伝えるため」


 エレノアが、少しだけ目を動かした。


 良い答えだ。


 ヘルマンも頷いた。


「では、大規模茶会中止ではなく、目的を変更した小規模春挨拶会へ再設計する案とします。費用は従来の三割以下。浮いた分を冬季宿舎安全費へ」


 財務書記が計算する。


「それで銀貨百二十枚程度は確保できます」


 リリアナは、少しだけほっとした。


 茶会を守った、というより、茶会を別の形に変えた。


 花を消さず、暖房を先にした。


 それが今の自分には、いちばん正直だった。


 次は、夫人会向け季節贈答。


 セレスティアの意見書が読まれた。


 ヘルマンが淡々と読み上げる。


「セレスティア夫人所見。夫人会向け贈答は半減ではなく、一時停止を受け入れる。理由、現状では関係維持の名目で過剰支出を再発させる恐れがあるため。ただし、必要な礼状は簡素に送付すること。贈答ではなく、正式な文書で関係を維持する練習をしたい」


 リリアナは、少し驚いた顔をした。


「お母様が、一時停止って……」


 エレノアも、わずかに目を伏せた。


 母にとって、夫人会向け贈答を止めるのは苦しいはずだ。


 長くそれで関係を保ってきた。


 贈ることで、会に居場所を作ってきた。


 それを一時停止する。


 怖いだろう。


 だが、母はそれを受け入れた。


 泣いて済ませるのではなく、帳簿の上で。


「母上の所見を採用してよいと思います」


 エレノアが言った。


 ヘルマンは頷いた。


「では、夫人会向け季節贈答は一時停止。礼状は簡素化。必要な公的連絡のみ継続」


 銀貨八十枚。


 これで確保できる。


 次は、客間花代。


 これは意外と議論になった。


 家令代理は、花代削減に難色を示した。


「客間の花を削りすぎますと、公爵家の印象が悪くなります」


 それは、ある意味で正しい。


 客を迎える場に花がないのは、貴族家として寂しい。


 リリアナは、すぐに「削ればいい」とは言わなかった。


 南区孤児院でロウ夫人が言った言葉を思い出していた。


 花も悪いものではありません。

 ただ、花だけでは寒さは防げません。


「花は、全部なくさなくていいと思います」


 リリアナは言った。


「でも、毎回高価な季節花でなくてもいい。庭の花や、長持ちする枝物を使えませんか」


 家令代理が考える。


「庭師と相談すれば可能です。ただし、冬場は種類が限られます」


「限られていいです。客間が寂しくならない程度で」


 エレノアが補足した。


「花代を削減し、庭師の追加負担が増えすぎないよう管理してください。削った結果、別の誰かに無償労働が回るのは避けます」


 ヘルマンが記録する。


 ――客間花代、半減。庭の花・枝物活用。ただし庭師の追加労働時間を記録。無償負担化を避ける。


 リリアナは、その一文に強く頷いた。


 節約のために、また誰かの負担を見えなくしてはいけない。


 暖房費を出すために、庭師の休みを削るなら、それもまた別の空白になる。


 会議は、昼まで続いた。


 削ることは、思ったより疲れる。


 ただ減らせばいいわけではない。


 減らした結果、何が壊れるのか。


 誰が困るのか。


 何を残すのか。


 どこまでなら耐えられるのか。


 ひとつずつ見なければならない。


 リリアナは途中で、小さく言った。


「これ、ドレス帳と同じですね」


 エレノアが聞き返す。


「同じ?」


「全部悪いってすると楽。全部必要だったって言うのも楽。一つずつ見るのがつらい」


 ヘルマンが、珍しく少しだけ頷いた。


「その通りです」


 リリアナは疲れたように笑った。


「正解しても、嬉しくないですね」


「財務ではよくあります」


 ヘルマンの返しが真面目すぎて、リリアナは少しだけ笑った。


 昼食休憩の後、削減案はひとまずまとまった。


 リリアナ新規装飾費の凍結。

 春の大規模茶会を小規模春挨拶会へ再設計。

 夫人会向け季節贈答の一時停止。

 客間花代の半減。

 馬車飾り更新停止。

 音楽家謝礼の一部削減。

 セレスティア私的茶会費の停止。


 合計で、銀貨三百五十枚相当。


 冬季宿舎安全費に必要な額を上回る。


 余剰分は、下級使用人退職積立の不足補填へ回すことになった。


 リリアナは、その最後の項目を見て、ほっとした。


「暖房だけじゃなくて、退職積立にも回るんですね」


「はい」


 ヘルマンが答える。


「寒さは今夜の問題ですが、退職積立は将来の問題です。どちらも見なければなりません」


「未来の寒さみたい」


 リリアナが呟いた。


 ヘルマンがペンを止めた。


「よい表現です」


「本当ですか?」


「はい」


 リリアナは少しだけ嬉しそうにした。


 そして、すぐに手帳へ書いた。


 ――退職積立は、未来の寒さを防ぐもの。


 その日の夕方、セレスティアへ削減案の要約が届けられた。


 返事はすぐには来ないと思われた。


 けれど、夜には短い所見が届いた。


 ――削減案を受け入れます。

 ――春の茶会を小規模挨拶会へ変えることにも同意します。

 ――ただし、リリアナが既存の薄桃色のドレスを着るなら、刺繍追加の赤札を隠すためではなく、再利用の意味を本人が理解した上で着ることを望みます。

 ――私が選んだ刺繍が不適切だったことと、そのドレスを着たリリアナが可愛かったことは、両方本当です。

 ――使用人宿舎の暖房費に回ることを、記録してください。セレスティア。


 リリアナは、その所見を読んで黙った。


 目に涙が浮かぶ。


 でも、泣き崩れはしなかった。


「お母様、両方本当って書いてる」


「ええ」


「私の言葉、伝わったのかな」


「伝わったのだと思うわ」


 リリアナは、薄桃色のドレスを思い出していたのだろう。


 白い花刺繍。


 春の茶会。


 母の笑顔。


 赤札。


 暖房費。


 すべてが一つに重なる。


「私、着てもいいかな」


 リリアナが小さく聞いた。


「あなたが着たいなら」


「着たい。でも、前みたいに“可愛いでしょう”って着るのとは違う気がする」


「どう着るの?」


「……使えるものを使うため。あと、あの時の私を全部嫌いにならないため。でも、新しい刺繍は足さない」


 エレノアは頷いた。


「よいと思う」


「それで、浮いたお金が宿舎の暖房になるって知って着る」


「ええ」


 リリアナは手帳に書いた。


 ――薄桃色のドレスを再利用する。新しい刺繍は足さない。浮いた費用は冬季宿舎安全費へ。

 ――可愛かった記憶を捨てず、でも同じ使い方はしない。


 その夜、公爵家の予算表に正式な修正が入った。


 新しい費目名。


 冬季宿舎安全費。


 その下に、小さな説明が添えられた。


 ――使用人宿舎の暖房、窓布、毛布、煙道、風除け、温度記録、冬季備品管理に充てる。王都社交費削減分より拠出。


 エレノアは、その文字を見て静かに息を吐いた。


 ようやく、寒さに名前がついた。


 今までばらばらの費目に隠れていた寒さが、一つの欄になった。


 欄ができれば、毎年見られる。


 削られそうになれば、誰かが気づける。


 冬季宿舎安全費。


 地味な名前だ。


 だが、公爵家の未来には必要な名前だった。


 翌朝、使用人宿舎へ簡単な通知が出された。


 ――本年度より、使用人宿舎冬季安全費を正式費目として設けます。

 ――応急修繕に続き、本修繕を進めます。

 ――客用毛布の一部は、使用人宿舎冬季備品へ正式移管しました。返却不要です。

 ――今後も温度記録と体感欄を確認します。不安な場所があれば、ハンナを通じて記録してください。


 ハンナから返ってきた返答は短かった。


 ――承知しました。昨夜も足先の冷えで起きる者が少なかったようです。裏廊下端はまだ冷えます。次回確認をお願いします。


 「まだ冷えます」と書かれている。


 それが、エレノアには嬉しかった。


 我慢していない。


 まだ不安な場所を、ちゃんと出している。


 制度は少しだけ働き始めている。


 リリアナも、その返答を読んで頷いた。


「言ってくれた」


「ええ」


「裏廊下端、次に見る」


「そうね」


 彼女は手帳に書いた。


 ――暖房費は、寒さに名前をつける欄。

 ――削った社交費で、誰かの足先が冷えずに眠れる。

 ――でも、まだ冷える場所は残る。次に見る。


 書き終えてから、リリアナは少しだけ窓の外を見た。


「お姉様」


「何?」


「社交費を削るの、少し寂しいです」


「ええ」


「でも、宿舎が暖かくなるのは嬉しいです」


「ええ」


「両方本当」


「そうね」


 リリアナは、小さく笑った。


「最近、両方本当ばっかり」


「人の暮らしは、だいたいそうよ」


「面倒ですね」


「面倒ね」


 エレノアも少し笑った。


 その笑いは、暗くはなかった。


 王都社交費は削られた。


 花は減る。


 茶会は小さくなる。


 新しいドレスは作られない。


 けれど、使用人宿舎には暖房費という欄ができた。


 それは公爵家が、顔だけでなく足元を見るための最初の費目だった。

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