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第72話 使用人宿舎、冬前の修繕

 使用人宿舎の暖房修繕は、三日後に始まった。


 決定から着工までが早かったのは、王家監督官ヘルマンが「冬は待ちません」と短く言い切ったからだった。


 ヴァレンシュタイン公爵家の王都屋敷は、表から見れば立派だった。


 白い石壁。

 整えられた庭木。

 客を迎える玄関広間には、磨かれた燭台と季節の花。

 応接室には厚い絨毯が敷かれ、暖炉の火はいつも美しく整えられていた。


 けれど、屋敷の裏へ回ると空気は変わる。


 調理場の裏口。

 薪置き場。

 洗濯場。

 馬車小屋へ続く石畳。

 そして、そのさらに奥に、使用人たちの宿舎があった。


 エレノアは、そこへ足を運んだことがほとんどなかった。


 幼い頃、迷い込んだことはある。


 侍女にすぐ連れ戻された。


 「お嬢様のいらっしゃる場所ではありません」と。


 その言葉を、当時のエレノアは深く考えなかった。


 自分には自分のいる場所があり、使用人には使用人のいる場所がある。


 そういうものだと思っていた。


 だが今、その「いらっしゃる場所ではない」と言われてきた場所こそ、父と母が見なかった空白の一つだった。


 宿舎は、倒れかけているわけではない。


 壁も屋根も、外から見れば保たれている。


 だが、近づけばすぐ分かった。


 窓枠の隙間。

 廊下の床板の軋み。

 暖炉の煙道のひび。

 寝室へ続く扉の下から入る風。

 そして何より、空気が冷たい。


 屋敷の表側にある客間の冷たさとは違う。


 人が我慢することに慣れた冷たさだった。


 エレノアの隣で、リリアナが息を呑んだ。


「ここ……同じ屋敷の中なの?」


 その声は小さかった。


 責めるようでも、驚きだけでもない。


 どう受け取ればいいか分からない声だった。


 ヘルマン監督官が淡々と答える。


「敷地内ではありますが、建物としては別です。使用人宿舎は二十年前に一度改修されています。その後、暖房設備の本格修繕は行われていません」


「二十年……」


 リリアナは、手袋をした手で自分の外套の袖を握った。


 彼女の外套は厚く、上質だった。


 今日の外出用に派手なものは避けているが、それでも布の質は隠せない。


 宿舎の廊下に立つ下働きの少女の肩掛けとは、まるで違う。


 リリアナは、その差に気づいてしまった顔をしていた。


 エレノアも気づいていた。


 気づかずにいられなかった。


 出迎えたのは、宿舎管理を任されている年配の女使用人だった。


 名をハンナという。


 髪には白いものが混じり、背筋は少し曲がっているが、目はしっかりしていた。


 ハンナは深く礼をした。


「エレノア様、リリアナ様。こちらまでお運びいただき、恐れ入ります」


「恐れ入る必要はありません」


 エレノアは答えた。


「今日はこちらが確認に来ました。修繕箇所を教えてください」


 ハンナは一瞬だけ迷った。


 貴族令嬢に、使用人宿舎の傷んだ場所を見せることにためらいがあるのだろう。


 それもまた、この家の習慣だった。


 見せない。


 知らせない。


 綺麗な場所だけを表に出す。


 けれど、今日はそれでは進まない。


 エレノアは静かに言った。


「遠慮なくお願いします。見なければ直せません」


 ハンナの目が、ほんの少し動いた。


 そして、彼女は頷いた。


「では、こちらへ」


 最初に案内されたのは、北側の共同寝室だった。


 若い女中たちが使う部屋だという。


 寝台は整えられている。


 毛布も畳まれている。


 だが、窓に近づくと冷気が分かった。


 指先を近づけるだけで、風が入っている。


 リリアナが、思わず言った。


「窓布は?」


 南区孤児院の経験が、そのまま口から出たのだろう。


 ハンナは少し驚いた顔をした。


「ございます。ただ、洗濯が追いつかない時は薄いものを代わりに掛けております」


 壁際には、古い布が畳まれていた。


 何度も洗われ、端がほつれている。


 リリアナはそれを見つめた。


「番号は?」


「番号?」


「どの窓にどの布か分かるように……」


 言いかけて、リリアナは自分で止まった。


 今ここで、いきなり孤児院のやり方を押しつけてもいけない。


 彼女は一度息を吸い直した。


「すみません。孤児院で、窓布に番号をつけて管理していたので、ここでも使えるかもしれないと思いました」


 ハンナは少し考えた。


「それは、助かるかもしれません。窓の大きさが少しずつ違いますので」


 ヘルマンがすぐに記録した。


 ――使用人宿舎北側共同寝室、窓布番号管理導入検討。布端ほつれ多数。新調または補修必要。


 リリアナは少しだけ安心した顔をした。


 押しつけではなく、提案として受け取ってもらえた。


 次に、暖炉を見た。


 煙道にひびがある。


 火を強くすると煙が戻るため、夜は弱く焚くしかないという。


「寒くないのですか」


 リリアナが聞いた瞬間、部屋の空気が少しだけ止まった。


 聞き方が悪かったわけではない。


 ただ、その問いはあまりにもまっすぐだった。


 ハンナは、少しだけ困ったように笑った。


「寒うございます。ただ、厚着をすれば眠れますので」


 リリアナは唇を噛んだ。


 その答えを、彼女はもうそのまま受け取れない。


 厚着をすれば眠れる。


 それは、大丈夫という意味ではない。


 我慢できるという意味だ。


 エレノアはヘルマンへ視線を向けた。


「優先修繕に入れてください」


「すでに一番に入っています。煙道補修、窓枠修繕、扉下隙間の板追加。職人は本日午後から入ります」


「仮対応は?」


「今夜から追加毛布と簡易風除け板を入れます」


 リリアナがすぐに言った。


「追加毛布は、どこから?」


 ヘルマンが答える。


「公爵家倉庫からです。未使用の客用毛布があります」


「客用……」


 リリアナは小さく繰り返した。


 客人のための毛布は倉庫にあり、使用人は寒い部屋で厚着して寝ていた。


 その事実が、彼女の顔に影を落とす。


「出してもいいの?」


 リリアナが尋ねた。


 ヘルマンは淡々と答える。


「今は王家監督下です。必要な場所へ回します」


 その言葉に、ハンナがわずかに目を見開いた。


「客用を、こちらへ?」


「はい」


「よろしいのでしょうか」


 その問いに、リリアナが先に答えた。


「よろしいと思います」


 声は震えていたが、はっきりしていた。


「客人が寒い時だけ毛布が必要なのではありません。ここで働く人も寒いなら、必要です」


 ハンナはリリアナを見た。


 驚きと、戸惑いと、少しだけ別の感情が混じった目だった。


「……ありがとうございます」


 リリアナは、礼を言われて苦しそうな顔をした。


「私に礼を言わないでください。今まで見ていなかった側なので」


 その言葉に、エレノアは少しだけ胸を突かれた。


 自分もまた、見ていなかった側だ。


 リリアナだけではない。


 エレノアは仕事をしていた。


 帳簿を見ていた。


 けれど、この宿舎に足を運んでいなかった。


 数字の上で「使用人宿舎暖房修繕延期」を見たのは最近だ。


 現場の冷たさを知ったのは今日だ。


 遅い。


 それでも、今日から直すしかない。


 次に案内されたのは、下級使用人の食事部屋だった。


 小さな机が並び、椅子の脚には補修跡がある。


 窓際の壁に、うっすら湿気の跡があった。


 穀物倉の湿気対策と同じく、ここにも湿気がある。


 ハンナは言った。


「雨の強い日、壁のこちら側が冷えます。暖炉を焚くと少し乾きますが、薪を節約するよう言われておりましたので」


「誰に?」


 エレノアが問う。


「以前の家政担当からです。薪の消費が多いと、冬の終わりに不足するかもしれないと」


 ヘルマンが確認する。


「薪の実際の在庫は?」


「監督後に調べました。冬を越すには足ります。ただし、客間用を優先する前提で組まれていました」


 また、同じ構図だった。


 表の顔を温め、裏を冷やす。


 公爵家は、文字通りそうしてきた。


 リリアナが小さく呟いた。


「私たちの部屋は、いつも暖かかった」


「ええ」


 エレノアは答えた。


「その暖かさの配分を、誰かが決めていた」


「お父様とお母様?」


「最終的には」


 リリアナは手帳を開いた。


 震える字で書く。


 ――暖かさにも配分がある。

 ――私の部屋が暖かかったことと、ここが寒かったことはつながっている。


 その文字を、エレノアは横から見た。


 リリアナは今、自分の過去の快適さを憎もうとしている。


 それは危ない。


 だが、今は止めるより、少し待つべきだと思った。


 すぐに慰めると、見ようとしているものを遮ってしまう。


 ハンナが、少し遠慮がちに言った。


「お嬢様方が悪いわけではございません」


 リリアナは顔を上げた。


「でも、知らなかったことは事実です」


「はい」


 ハンナは静かに頷いた。


「ですが、知らなかった方が、今日こうして見に来てくださったことも事実です」


 リリアナは、その言葉に何も返せなかった。


 ただ、手帳にもう一行足した。


 ――知らなかったことと、今日見に来たこと。両方事実。


 職人たちは午後から入った。


 まず煙道の応急補修。


 次に窓枠の隙間埋め。


 扉下の風除け板。


 古い窓布の採寸。


 追加毛布の搬入。


 使用人たちは、最初どこか落ち着かなかった。


 自分たちの宿舎に公爵家の令嬢や王家監督官が立ち入り、職人が入る。


 しかも、客用倉庫から毛布が運ばれてくる。


 ありがたいより先に、戸惑うのは当然だった。


 若い女中の一人が、小声でハンナに言った。


「本当に使ってよいのでしょうか。あとで返せと言われませんか」


 その声が、リリアナにも聞こえた。


 リリアナは一瞬、何か言いかけた。


 だが、自分が言っても不安が消えるとは限らないと思い直したのだろう。


 エレノアを見た。


 エレノアは頷き、ヘルマンへ言った。


「毛布の移管記録を作りましょう。客用倉庫から使用人宿舎冬季備品へ正式移管。返却不要。洗濯管理は宿舎側。ただし破損時の責任を使用人個人へ負わせない」


 ヘルマンはすぐ記録した。


 ハンナがほっとした顔になる。


 リリアナも、そこでようやく言った。


「紙に残せば、あとで返せと言われにくいですか」


 ハンナは頷いた。


「はい。紙にあれば、私どもも説明できます」


「なら、紙に残しましょう」


 リリアナは、少しだけ強く言った。


 慰めではなく、手続き。


 それが安心になることを、彼女は学び始めている。


 エレノアは、妹の横顔を見た。


 かつてのリリアナは、泣いて謝ったかもしれない。


 あるいは「私の毛布を全部使って」と言ったかもしれない。


 それも善意ではある。


 だが、今日の彼女は違う。


 移管記録を残すことを選んだ。


 その方が、明日の安心になる。


 夕方になる頃、宿舎の廊下には木屑の匂いと新しい布の匂いが混ざっていた。


 煙道の応急補修は終わり、暖炉の火を少し強くしても煙が戻らなくなった。


 窓枠には簡易の詰め物が入り、風はかなり弱まった。


 扉下には風除け板が付けられた。


 完全な修繕ではない。


 本格改修には、さらに日数がかかる。


 それでも、今夜の寒さは少し違うはずだった。


 ハンナは、暖炉の前に立ってしばらく黙っていた。


 火の色が、彼女の顔を照らしている。


「暖かいですね」


 リリアナが言うと、ハンナは小さく笑った。


「はい。暖かいです」


 その一言が、リリアナにはかなり重かったらしい。


 彼女は少しだけ目を潤ませた。


 でも泣かなかった。


 泣いてもよい場面かもしれない。


 けれど、今は泣くより見る方を選んだようだった。


「次に見る日は?」


 リリアナが尋ねた。


 ヘルマンは答えた。


「三日後に応急補修後確認。一週間後に職人による本修繕見積もり。十日後に追加毛布と窓布管理状況確認」


「窓布番号は?」


「明日から採寸し、二日後に番号札を付けます」


 リリアナは頷き、手帳に書いた。


 ――三日後。七日後。十日後。

 ――暖かい、で終わらせない。次に見る。


 その時、宿舎の入口に一人の少女が立っているのに気づいた。


 年はリリアナより少し下だろう。


 下働きの見習いらしい。


 手には古い毛布を抱えている。


 彼女はリリアナと目が合うと、慌てて礼をした。


「申し訳ございません」


「どうしたの?」


 リリアナが聞くと、少女は怯えたように毛布を抱え直した。


「その……古い毛布を、捨てるのかと」


 ハンナが説明した。


「古いものも、使えるものは作業場用に回します。捨てるものは確認後です」


 少女は少し安心したようだった。


「これ、端は破れていますが、膝に掛けるには使えます」


 リリアナは、毛布を見た。


 端が擦り切れている。


 でも、まだ使える部分はある。


 南区孤児院の布と同じだ。


 綺麗かどうかではなく、用途を見る。


「用途札を作りましょう」


 リリアナが言った。


 ヘルマンが顔を上げる。


「用途札?」


「新しい毛布、寝具用。古いけど使える毛布、作業場膝掛け用。破れすぎているもの、裁断して詰め物や掃除用。捨てる前に用途を分けるといいと思います」


 ハンナが驚いたように目を瞬いた。


「それは助かります。今までは、まだ使えるかどうかを私どもで迷っておりましたので」


「孤児院の古着仕分けで、用途を先に書くことになったんです。防寒、作業用、室内用、修繕必要、廃棄って」


 リリアナは少しだけ自信なさそうに言った。


「ここでも使えるかと思って」


 ヘルマンは記録した。


 ――宿舎毛布管理、用途札導入。寝具用、作業膝掛け用、裁断再利用、廃棄。破損責任は個人に負わせない。


 少女は毛布を抱えたまま、少しだけ笑った。


「捨てなくていいんですね」


「使えるなら」


 リリアナは答えた。


「でも、寒いなら新しいものを使ってください。古いものを我慢して使うための分類ではないです」


 そこは、はっきり言った。


 古いものを大事にすることと、必要なものを渡さないことは違う。


 少女は、少し戸惑いながらも頷いた。


「はい」


 その日の作業が終わる頃、エレノアは宿舎の入口でハンナに確認した。


「今夜、不足するものはありますか」


 ハンナはすぐには答えなかった。


 長年の習慣で、足りないと言うこと自体に慣れていないのだろう。


 エレノアは言葉を変えた。


「今日の修繕後でも、まだ不安な場所はありますか」


 ハンナは、少し考えた。


「裏廊下の端が、まだ冷えます。そこは本修繕の時でよいと思っておりましたが」


「今夜の仮対応は?」


「古い衝立を置けば、少しは」


「置きましょう。衝立が不足するなら倉庫から出します」


 ヘルマンが記録する。


 ハンナは、今度は遠慮せず頷いた。


「お願いいたします」


 リリアナが小さく言った。


「言ってもらえた」


 エレノアは頷いた。


「ええ」


 足りないと言える。


 それも、制度の一部だ。


 我慢するのが当たり前だった場所で、足りないと言えるようになるまでには時間がかかる。


 だから最初は、聞き方も変えなければならない。


 「不足はありますか」ではなく、「不安な場所はありますか」。


 その方が答えやすいこともある。


 帰りの馬車の中で、リリアナは疲れ切っていた。


 ドレス帳を開いた翌日に、使用人宿舎を見る。


 感情が追いつかないのも当然だった。


 けれど彼女は、眠らずに手帳を開いた。


 揺れる文字で書いていく。


 ――使用人宿舎。窓枠、煙道、扉下、毛布。

 ――厚着すれば眠れる、は大丈夫ではない。

 ――客用毛布を正式移管。紙に残すと安心になる。

 ――古い毛布は用途札。寝具用、作業膝掛け用、裁断再利用、廃棄。

 ――古いものを大事にすることと、必要なものを渡さないことは違う。

 ――足りないと聞くより、不安な場所を聞く方が答えやすいことがある。


 そこまで書いて、リリアナは手を止めた。


「お姉様」


「何?」


「私、昨日までドレス帳を見て、今日は宿舎を見て……少し、頭がぐちゃぐちゃです」


「当然よ」


「私のドレスが全部悪いわけじゃないって言ってくれたでしょう。でも、今日あそこを見たら、やっぱり悪かった気がして」


「気持ちは分かるわ」


「でも、全部悪いってすると、また雑になる?」


「ええ」


 エレノアは答えた。


「全部悪い、とすると楽なの。考えなくて済むから」


「楽なんだ」


「そう。全部必要だった、と言うのも楽。全部悪かった、と言うのも楽。一つずつ見るのが一番つらい」


 リリアナは、窓の外を見た。


 夕暮れの道が流れていく。


「一つずつ見る」


「ええ」


「今日は、暖房」


「今日は、暖房」


「次は、ドレス帳の続き?」


「少し休んでからね」


 リリアナは、疲れた顔で笑った。


「休憩が必要」


「ええ」


「お姉様も」


「……ええ」


 最近、そこで言い返せなくなってきた。


 王宮に戻ると、北翼の小会議室で簡単な報告会が開かれた。


 参加者はエレノア、リリアナ、ヘルマン、マルタ、そしてカイン。


 カインは報告書を読み、最初に言った。


「今夜の宿舎温度を測れ」


 ヘルマンが頷く。


「すでに指示しています。暖炉点火後、就寝前、夜半、早朝の四回」


「よい」


 リリアナが驚いた顔をした。


「温度を測るの?」


 カインが答える。


「暖かくなった気がする、では足りない」


「数字も必要……」


「そうだ」


 リリアナは手帳に書いた。


 ――暖かくなった気がする、では足りない。温度を測る。


 エレノアは少しだけ笑った。


「また新しい欄が増えるわね」


「必要な欄だ」


 カインは即答した。


 宿舎暖房確認表が、その場で作られた。


 部屋名。

 修繕箇所。

 暖炉点火時刻。

 就寝前温度。

 夜半温度。

 早朝温度。

 体感欄。

 不安な場所。

 次に見る日。


 リリアナが見て、言った。


「体感欄は必要です。数字が同じでも、風があると寒いかもしれないから」


 カインが頷いた。


「入れろ」


 ヘルマンが書き足す。


 リリアナは少しだけ嬉しそうにしたが、すぐ戻った。


 それを見て、マルタが微かに微笑んだ。


 翌朝、最初の温度記録が届いた。


 共同寝室の夜半温度は、前日推定より明らかに高い。


 煙戻りなし。


 窓際の風は弱い。


 ただし、裏廊下端はまだ冷える。


 衝立で軽減したが、本修繕必要。


 ハンナの体感欄には、こう書かれていた。


 ――昨夜は、若い者たちが足先の冷えで起きることが少なかったようです。


 リリアナは、その一文を何度も読んだ。


「足先の冷えで起きることが少なかった……」


 それだけ。


 でも、それが大きい。


 南区孤児院の「窓際を嫌がらなくなった」と同じだ。


 生活の変化は、こういう文で届く。


 エレノアは、報告書へ付記した。


 ――使用人宿舎暖房応急修繕、初夜効果あり。裏廊下端は継続課題。本修繕まで仮対応を続ける。客用毛布の正式移管、用途札導入。温度記録および体感欄を継続。


 そして、自分の手帳に書く。


 ――家の足元を見るとは、誰が夜中に足先の冷えで起きていたかを知ることでもある。


 その文を書いた時、父の所見を思い出した。


 家の顔を守り、家の足元を見なかった。


 今日、エレノアたちは足元を見た。


 まだ一部だけだ。


 でも、見た。


 直した。


 次に見る日を決めた。


 それが、公爵家監督の最初の修繕だった。


 リリアナは、自分の報告書の最後にこう書いた。


 ――私は暖かい部屋で眠っていた。それを全部悪いとはしない。でも、同じ屋敷で寒くて起きていた人がいたことを、これからは忘れない。


 エレノアはそれを読んで、静かに頷いた。


 忘れない。


 それは、許しより先に必要なことだった。

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