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第70話 リリアナ、ドレス帳を開く

 リリアナがドレス帳を開く日が来た。


 それは、誰かに命じられたわけではなかった。


 王家監督官ヘルマンから、公爵家の支出再分類資料は届いていた。

 リリアナの社交費。

 教育費。

 装飾費。

 茶会準備費。

 王太子妃候補としての体裁維持費。

 そして、セレスティア夫人が「必要」と判断した細かな支出。


 それらの一覧を見るだけでも十分だった。


 数字は冷たい。


 銀貨何枚。

 金貨何枚。

 仕立て代。

 宝飾修繕費。

 髪飾り代。

 舞踏靴代。

 季節ごとの外套。

 茶会用手袋。

 王宮挨拶用の淡色ドレス。

 夜会用の刺繍入りドレス。


 数字は、言い訳をしない。


 けれど、数字だけでは分からないものもある。


 そのドレスを着た日の気持ち。


 母に褒められた記憶。


 鏡の前で少しだけ自分を好きになれた瞬間。


 エレノアが忙しそうに書類を読んでいる横で、自分だけが新しいリボンを選んでいた後ろめたさ。


 全部が混ざっている。


 だからリリアナは、自分から言った。


「ドレス帳を見たいです」


 北翼の執務室でそう言った時、エレノアはすぐには頷かなかった。


 机の向こうで、姉はしばらくリリアナを見ていた。


「今、見る必要がある?」


「あると思う」


「つらくなるかもしれないわ」


「たぶん、なる」


「全部を自分の罪にしないと約束できる?」


 リリアナは、すぐには答えられなかった。


 それを約束するのは、少し難しかった。


 だって、自分のために使われたお金だ。


 自分が綺麗だと言われたくて選んだものもある。


 母に勧められるまま受け取ったものもある。


 知らなかったから悪くない、で終わらせたくない。


 でも、全部自分が悪いとも言えない。


 その境目が、まだ上手く分からない。


「約束は……努力します」


 リリアナは正直に言った。


「でも、もし全部自分のせいにしそうになったら、止めてほしい」


「分かったわ」


「お姉様も、一緒にいてくれる?」


「ええ」


 エレノアは頷いた。


「ただし、途中でやめてもいい。泣いてもいい。怒ってもいい。でも、数字と記憶を混ぜすぎないこと」


「混ぜすぎない?」


「数字は数字。記憶は記憶。どちらも大事だけれど、同じものではないわ」


 リリアナは、その言葉を手帳に書いた。


 ――数字は数字。記憶は記憶。同じものではない。


 それが今日の最初の支えになった。


 公爵家から運ばれてきたドレス帳は、三冊あった。


 一冊目は、季節ごとの仕立て記録。


 二冊目は、王宮行事と夜会用。


 三冊目は、装飾品と小物。


 どれも美しかった。


 厚い革表紙に、薄い金の縁取り。


 中には布見本が貼られ、仕立て屋の名、注文日、用途、金額、支払い元が細かく書かれている。


 リリアナは、最初の一冊を開いた瞬間、胸が詰まった。


 薄桃色の春用ドレス。


 布見本に触れると、指先に記憶が戻る。


「これ……十三歳の春の茶会で着た」


 思わず言葉がこぼれた。


「お母様が、私には桃色が似合うって」


 エレノアは隣で静かに聞いている。


 リリアナはページを見る。


 用途。春の夫人会親善茶会。

 仕立て代。銀貨八十枚。

 刺繍追加。銀貨二十枚。

 髪飾り。銀貨十二枚。

 支払い元。教育支度費。


「教育支度費……」


 リリアナは眉を寄せた。


「これ、教育費なの?」


「名目上は」


「でも、勉強じゃない」


「王太子妃候補としての社交教育に必要、という扱いだったのでしょう」


「必要だったのかな」


「一部は必要だったと思うわ。社交の場に出るには、相応の装いが求められるから」


「でも、刺繍追加は?」


「そこは検討が必要ね」


 リリアナは、布見本に触れたまま黙った。


 この刺繍を、とても気に入っていた。


 袖口に小さな白い花が連なっていて、動くたびに光る。


 母が「まあ、可愛い」と笑った。


 あの時、自分は嬉しかった。


 それは本当だ。


 でも、その銀貨二十枚が、使用人宿舎の暖房修理を少しでも進められたかもしれない。


 そう思うと、嬉しかった記憶が急に濁る。


「嫌いにならなくていい」


 エレノアが言った。


 リリアナは顔を上げる。


「今、そう思ったでしょう」


「……うん」


「そのドレスを好きだったことは、嘘にしなくていい。問題は、費用の名目と優先順位。そして、あなたがそれを知らされていなかったこと」


「でも、私も欲しいって言った」


「十三歳のあなたが、家全体の予算と使用人宿舎の暖房修理を比較して判断できた?」


「できない」


「なら、その責任は当主と家政判断者にある」


「でも、これからは?」


「これからは、知った上で選ぶ責任がある」


 リリアナは、静かに頷いた。


 過去と未来。


 分けなければならない。


 過去の自分を裁きすぎない。


 未来の自分を甘やかしすぎない。


 それもまた、難しい。


 次のページには、淡い水色のドレスがあった。


 リリアナは、思わず小さく笑った。


「これは、ユリウス殿下に褒められた」


 言ってから、少しだけ気まずくなる。


 エレノアは表情を変えなかった。


「そう」


「ごめんなさい」


「何に対して?」


「分からないけど……お姉様の婚約者だったのに、私、褒められて嬉しかった」


 エレノアは、しばらく黙った。


 リリアナはその沈黙が怖かった。


 でも、逃げなかった。


 エレノアは静かに言った。


「嬉しかったこと自体を、なかったことにしなくていいわ」


「でも」


「ただ、その嬉しさの周りに何があったのかは、見なければならない。殿下が私から目を逸らしていたこと。あなたが知らないまま中心に置かれていたこと。父と母がそれを利用したこと」


「うん」


「感情は罪そのものではない。でも、感情を利用された構造は記録する」


 リリアナは、その言葉を手帳に書いた。


 ――感情は罪そのものではない。でも、利用された構造は記録する。


 少し難しい。


 でも、今日の自分には必要だった。


 ページを進める。


 舞踏会用の白いドレス。


 王宮挨拶用の薄紫のドレス。


 夏の庭園茶会用の帽子。


 冬の外套。


 真珠の髪飾り。


 レースの手袋。


 どれも記憶がある。


 どれも好きだった。


 そして、どれも高かった。


 リリアナは途中で手を止めた。


「お姉様のドレス帳は?」


「私の?」


「うん。あるの?」


「あるはずよ。ただ、量は少ないと思うわ」


「見たい」


 エレノアは少しだけ眉を動かした。


「今?」


「今、比べたい」


「比べると、つらくなるかもしれない」


「でも、見ないと分からない」


 エレノアはしばらく考え、マルタへ頼んで別の薄い帳面を持ってきてもらった。


 エレノアの装い記録。


 リリアナのものより、ずっと薄かった。


 表紙も質素で、布見本の数も少ない。


 用途は、王宮正式行事、王太子妃候補教育、葬儀、公式茶会。


 色は落ち着いたものが多い。


 濃紺。

 灰青。

 白。

 銀糸の少ない正装。


 リリアナは、ページをめくる手を止めた。


「少ない……」


「必要分はあったわ」


「でも、私よりずっと少ない」


「あなたは“華やかな次女”として扱われていた。私は“有能な長女”として扱われていた。それだけよ」


「それだけじゃない」


 リリアナは首を横に振った。


「私、可愛くされていた。その間、お姉様は働かされていた」


「働いたことと、あなたが可愛くされていたことは、同じ紙に載っていても同じ罪ではないわ」


「でも、つながっている」


「ええ。つながっている。だから見るの」


 リリアナは涙をこらえた。


 泣きそうになる。


 でも、泣けばまたエレノアに慰めてもらうことになる。


 それが嫌で、少しだけ上を向いた。


「泣いてもいいわ」


 エレノアが言った。


「でも、泣いたら話が止まる」


「止まってもいい」


「今日は、止めたくない」


 リリアナは涙を拭い、もう一度ドレス帳を見た。


「続けます」


 その言い方は、少し大人びていた。


 次に開いたのは、装飾品の帳面だった。


 ここはさらに複雑だった。


 髪飾り、ブローチ、リボン、靴飾り、手袋飾り。


 小さなものほど、気軽に買われている。


 一つ一つは大きな額ではない。


 だが、合計するとかなりの額になる。


 ヘルマン監督官の再分類表には、赤い印が付いていた。


 ――小口装飾費の累積過大。

 ――教育費への混入多数。

 ――承認者、セレスティア夫人。最終承認、グレゴール公爵。


 リリアナは、小さな真珠の髪飾りの項目を見つけた。


「あ、これ……」


 声が少し柔らかくなる。


「お母様が、誕生日にくださったもの」


 その横に、支払い元がある。


 教育支度費。


 リリアナは、黙った。


「贈り物じゃなかったのかな」


「母の気持ちとしては、贈り物だったと思う」


「でも帳簿では教育費」


「そう」


「嫌だな」


「そうね」


 リリアナは、髪飾りの絵を見つめた。


 母が笑っていた。


 自分も笑っていた。


 誕生日の朝だった。


 その記憶は、綺麗なままだ。


 でも帳簿では、別の顔をしている。


「記憶と数字は同じじゃない」


 リリアナは、小さく言った。


「でも、同じ物の中に入っている」


「ええ」


「難しい」


「とても」


 エレノアはそれ以上言わなかった。


 リリアナが自分で考える時間を残した。


 しばらくして、リリアナは手帳に書いた。


 ――お母様からの贈り物だった真珠の髪飾り。記憶としては嬉しい。帳簿としては教育費混入。両方本当。

 ――両方本当な時、片方を消さない。


 書きながら、少し涙が落ちた。


 今度は止めなかった。


 ただ、涙が乾くまで少し待ち、続きを書いた。


 ――これから贈り物を受け取る時、どこから出たお金かを知る必要がある。


 エレノアは、それを読んで静かに頷いた。


「よい記録ね」


「嬉しくない記録だけど」


「必要な記録よ」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「最近、嬉しくないけど必要なことが多い」


「大人になると増えるわ」


「ミリアム様も同じことを言ってた」


「正しいわね」


 昼前、ヘルマン監督官が合流した。


 ドレス帳の再分類を正式に進めるためだ。


 彼は、相変わらず感情を表に出さず、帳面を確認した。


「リリアナ様に関係する支出の分類案をお持ちしました」


 机に三色の札が置かれる。


 青。必要教育費。

 黄。社交体裁費。

 赤。過剰装飾または名目不適切。

 白。保留。


 リリアナは札を見て、少し緊張した。


「私が分類するのですか」


「全てではありません。まず、ご自身で分かる範囲を確認していただきます。最終判断は監督官と財務官が行います」


「私の気持ちは入れていいの?」


 ヘルマンは一瞬だけ考えた。


「気持ちは、分類の根拠にはなりません。ただし、用途確認の参考にはなります」


 厳しい。


 でも、正しい。


 リリアナは頷いた。


「分かりました」


 最初の薄桃色の春用ドレス。


 リリアナは迷った。


「ドレス本体は……社交教育に必要だったと思います。だから青か黄?」


 ヘルマンが説明する。


「公式教育に必須なら青。社交上望ましいが過剰ではないなら黄」


「なら、黄。刺繍追加は……赤」


 自分で言った。


 胸が少し痛んだ。


 でも、言えた。


「髪飾りは?」


「黄か赤……」


 リリアナは少し悩み、エレノアを見る。


 エレノアは助け舟を出さない。


 自分で考えろということだ。


「同じ茶会で、すでに別の髪飾りがあったなら赤。なかったなら黄。確認が必要なので白」


 ヘルマンが、少しだけ目を細めた。


「よい判断です」


 リリアナは、少しだけ嬉しくなった。


 だが、すぐに手帳を押さえた。


「浮かれすぎない」


 ヘルマンがわずかに首を傾げた。


 エレノアは説明しなかった。


 分類作業は、思った以上に疲れた。


 綺麗な思い出に赤札を置くことがある。


 逆に、思ったより必要だったものに青札を置くこともある。


 全てを悪とするのは簡単だ。


 全てを必要だったと言い張るのも簡単だ。


 一つずつ見るのが、一番つらい。


 白札が増える。


 分からないものは保留。


 以前のリリアナなら、白札を嫌がっただろう。


 今は、白札があることに少し安心する。


 分からないものを分からないまま残せる。


 それは逃げではなく、次に確認するための場所だ。


 昼過ぎ、リリアナはとうとう手を止めた。


「疲れました」


 自分で言えた。


 エレノアはすぐに頷いた。


「休憩しましょう」


「まだ残ってる」


「残していいわ」


「でも」


「疲れたまま分類すると、全部赤にしたくなるでしょう」


 図星だった。


 リリアナは少し目を丸くした。


「分かるの?」


「分かるわ」


「今、全部赤にしたくなっていました」


「だから休憩」


 ヘルマンも頷いた。


「分類作業は、感情疲労が出ます。休憩を挟むべきです」


 感情疲労。


 また新しい言葉だ。


 リリアナは手帳に書いた。


 ――感情疲労。疲れると全部悪く見える。休憩が必要。


 休憩中、リリアナはエレノアと二人で中庭を歩いた。


 冬の風は冷たい。


 だが、室内でドレス帳と向き合っていたせいか、その冷たさが少し心地よかった。


「お姉様」


「何?」


「私、まだ綺麗な服が好き」


「ええ」


「それを言うの、怖かった」


「どうして?」


「反省していないみたいだから」


 エレノアは、足を止めずに言った。


「綺麗な服が好きなことと、支出の優先順位を学ぶことは両立するわ」


「本当に?」


「ええ。大切なのは、何のために、どこから、どれだけ使うかを知ること。あと、自分の華やかさで誰かの寒さを隠さないこと」


 リリアナは、少しだけ目を伏せた。


「自分の華やかさで、誰かの寒さを隠さない」


「そう」


「それ、書く」


 彼女は立ったまま手帳を開き、丁寧に書いた。


 ――綺麗な服を好きでいてもいい。でも、自分の華やかさで誰かの寒さを隠さない。


 書き終えた時、リリアナは少し泣きそうな顔で笑った。


「これなら、好きでいてもいい気がする」


「ええ」


「いつか、自分で働いたお金でドレスを作ってもいい?」


「もちろん」


「その時は、用途欄に何て書けばいい?」


 エレノアは少し考えた。


「本人の嗜好による私費支出」


「硬い」


「では、自分で選んだ服」


「そっちがいい」


 二人は小さく笑った。


 午後の分類作業では、リリアナの手つきが少し落ち着いていた。


 全部を赤にしない。


 全部を黄にも青にもしない。


 分からなければ白。


 必要だったものは必要と認める。


 過剰だったものは過剰と認める。


 嬉しかった記憶は、記憶として残す。


 帳簿の不正確さは、不正確さとして直す。


 夕方までに、一冊目の半分ほどが終わった。


 全部ではない。


 だが、十分だった。


 ヘルマン監督官は分類済みの頁を確認し、言った。


「初回としては非常に有用です。ご本人の用途記憶があることで、再分類が進みます」


 リリアナは少し疲れた顔で頷いた。


「役に立つならよかったです」


「ただし、無理に全てを思い出す必要はありません。記憶が曖昧なものは曖昧としてください」


「はい」


 その言葉にも、少し救われた。


 覚えていないことを責めなくていい。


 曖昧な記憶を、綺麗に作り直さなくていい。


 曖昧なら曖昧と書く。


 それも記録だ。


 その夜、リリアナは自分の報告書を書いた。


 ――ドレス帳を開いた。

 春の茶会の薄桃色ドレス、王宮挨拶用の水色ドレス、誕生日の真珠髪飾りなどを確認した。

 記憶として嬉しいものと、帳簿として問題があるものが同じ物の中にあった。

 ドレス本体は社交体裁費、刺繍追加は過剰装飾、髪飾りは用途確認保留など、分類を始めた。

 分かったこと。数字は数字、記憶は記憶。同じではないが、同じ物の中に入ることがある。

 綺麗な服を好きでいてもいい。でも、自分の華やかさで誰かの寒さを隠さない。


 最後に、少し迷ってから一文を足した。


 ――私は、可愛いと言われた時間を全部捨てない。でも、それに使われたお金の出どころは見る。


 エレノアはそれを読み、しばらく黙っていた。


 リリアナは不安そうに聞く。


「変?」


「いいえ」


「甘い?」


「いいえ。とても大事な記録だと思う」


 リリアナは、ほっとしたように息を吐いた。


「よかった」


 エレノアは、自分の手帳にも書いた。


 ――リリアナ、ドレス帳初回確認。過去の華やかさを全否定せず、支出分類へ進む。感情疲労あり。休憩により継続可能。

 ――綺麗なものを悪とせず、隠された寒さを見逃さないこと。


 書き終えた後、エレノアは少しだけドレス帳に触れた。


 薄桃色の布見本。


 水色の布。


 真珠の髪飾りの絵。


 それらは、妹を飾ったものだった。


 同時に、家の空白を隠したものでもあった。


 どちらか一方にしてしまうのは簡単だ。


 美しい思い出か、罪の証拠か。


 だが、本当は両方だ。


 両方として記録することが、きっと必要なのだ。

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