表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹に婚約者も家名も奪われましたが、私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/14

第7話 冷徹宰相カイン、動く

 王宮には、誰も近づきたがらない執務室がある。


 北翼の最奥。


 陽当たりは悪く、窓の外には庭園ではなく、王宮の外壁と古い監視塔が見えるだけ。豪奢な装飾も、香り高い花も、客人を和ませる柔らかな長椅子もない。


 壁一面の書棚。


 大きな執務机。


 整然と積まれた文書。


 火の気の少ない暖炉。


 そして、部屋の主の性格をそのまま映したような、無駄のない空気。


 そこが、王弟カイン・レオ・グランベルクの執務室だった。


 国王の弟。


 王太子ユリウスの叔父。


 そして、王宮で最も恐れられる冷徹宰相。


 貴族たちは彼を「鉄筆の宰相」と呼ぶ。


 理由は簡単だった。


 カインは情に流されない。


 家名に媚びない。


 泣き落としを聞かない。


 そして、一度署名した命令書は、鉄で刻まれたように覆らない。


 その日も、彼はいつも通り机に向かっていた。


 王妃の葬儀後、王宮内は目に見えて乱れている。だが、カインの執務室だけは違った。文書は分類ごとに積まれ、報告は時系列順に並び、未決裁案件は赤紐、要確認案件は黒紐、緊急案件は銀の留め具で留められている。


 混乱が嫌いなのではない。


 混乱の中で、誰が何を隠すかを知っているだけだ。


「殿下」


 扉の外から、低い声がした。


「入れ」


 カインは顔を上げずに答えた。


 入ってきたのは、彼の秘書官であるオスカーだった。細身で眼鏡をかけた若い官吏だが、王宮内の噂と文書の流れを読む目は鋭い。


 彼は数枚の報告書を机の左側に置いた。


「王太子殿下周辺の直近三日分の報告です」


「読んだ順に話せ」


「はい。まず、王妃陛下の葬儀から七日目の夜、王太子ユリウス殿下がエレノア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢との婚約を破棄。新たな婚約者候補として、妹君のリリアナ嬢を内定」


 カインの筆が止まった。


 ほんの一瞬だけだった。


「続けろ」


「翌朝、東翼執務室よりエレノア嬢の机と資料が移動。リリアナ嬢が同室を使用開始。王太子妃候補業務の引き継ぎは、簡略版の引継書のみ」


「のみ?」


「エレノア嬢は、追加説明を正式文書で求めるよう伝えたとのことです」


 カインの口元が、かすかに動いた。


 笑ったのではない。


 理解したのだ。


「賢い」


 短く、それだけ言った。


 オスカーは続ける。


「その翌日、リリアナ嬢主催の王宮茶会が予定より早く終了。ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人を隣席に配置。財務官夫人と孤児院後援会のロウ夫人を正面席に配置。セルベリア大使夫人アデライナ様を王家から遠い席へ配置」


「火薬庫に蝋燭を投げ込んだようなものだな」


「はい。茶会後、夫人方から非公式な不満が複数。特にセルベリア大使館からは、儀礼上の扱いについて抗議含みの問い合わせがありました」


「エレノア嬢の引継書には?」


「避けるよう明記されていたとのことです」


「ならば、失態ではなく無視だ」


 カインは報告書の一枚を手に取った。


 目を通す速度は速い。


 だが、読み飛ばしてはいない。


 紙の端に記された日付、署名、担当官の名まで確認している。


「次」


「二日目。セルベリア王国との非公開協定文書が所在不明となりました。大使は正午までの提示を求めましたが、提示できず。大使は帰国準備に入り、王都を離れました」


 カインの瞳が、わずかに冷える。


「どの協定だ」


「国境孤児保護、薬草交易、ならびに王妃陛下の私的保証を含む文書と思われます」


「思われます、か」


「原本確認ができておりませんので」


「文書庫の分類担当は」


「王妃陛下と、エレノア嬢です」


「東翼執務室の第三棚」


 カインが即答した。


 オスカーが少し目を見開く。


「ご存じでしたか」


「王妃から一度だけ相談を受けた。セルベリアとの文書は青紐、灰封、月桂樹印。公式文書庫へ移す前に東翼で照合すると」


「その通りです。エレノア嬢の引継書にも同様の記載がありました」


「なら、なぜ見つからない」


「リリアナ嬢の入室時に資料が移動され、分類が崩れたものと」


 カインは報告書を机に戻した。


 乱暴ではない。


 だが、紙の音がやけに硬く響いた。


「愚かだな」


 その一言で、部屋の温度が下がったようだった。


 オスカーは表情を変えず、次の報告へ移る。


「三日目。王妃陛下の遺産目録と現物が一致せず。月涙石の首飾り、金細工の百合簪、青玉腕輪の一部、慈善箱の中身、薬草園管理印章、寄付証明書原本が所在不明」


 カインの目が、報告書の一点で止まった。


「月涙石」


「はい」


「ヴァレンシュタイン公爵家の社交界披露宴で、似た石をリリアナ嬢が身につけていた記録がある」


 オスカーは別の紙を差し出した。


「こちらに写しがございます。二年前、リリアナ嬢の社交界デビュー時の装身具記録です。贈り主はグレゴール公爵。入手先は表向き、サルヴィ商会」


「サルヴィ商会」


「王妃基金の支出先の一つでもあります」


 部屋の沈黙が深くなった。


 カインは椅子の背にもたれない。


 机の上で両手を組み、淡々と報告書を見ている。


 しかし、オスカーは知っていた。


 カインが怒っている時ほど、動きが少なくなることを。


「財務官は何と言っている」


「記録上の誤差として、内々の処理を主張」


「当然そう言うだろうな」


「女官長マルタが書面化を主張。リリアナ嬢が了承したため、国王陛下および王太子殿下へ報告書が上がっています」


「リリアナ嬢が了承したのか」


「はい」


 カインは少しだけ目を細めた。


「泣いて逃げるだけの娘ではない、か。だが遅い」


 オスカーは何も言わなかった。


 カインは報告書を時系列に並べ直した。


 婚約破棄。


 執務室交代。


 茶会崩壊。


 密約文書所在不明。


 遺産目録不一致。


 王妃基金の不審。


 それらは別々の事件に見える。


 しかし、線を引けば一つの形が浮かぶ。


 王妃エレオノーラが死んだ。


 王妃が支えていた複数の仕組みが、表の管理者を失った。


 その管理を実質的に担っていたエレノアも、王宮から外された。


 すると、隠れていた腐食が一気に露出した。


 腐食は、最近始まったものではない。


 ずっと前からあった。


 エレノアが、それを抑えていたのだ。


「ユリウスは何をしている」


「本日午後より、国王陛下へセルベリア大使帰国の件を報告。王妃遺産目録の不一致については、まだ全体を理解されていないご様子です」


「理解しようとしていないの間違いだ」


 カインは立ち上がった。


 長身の影が、机の上の文書に落ちる。


「ユリウスの執務室へ行く」


「今からですか」


「遅すぎるくらいだ」


 オスカーはすぐに書類を整えた。


「エレノア嬢への接触は」


「後だ。先に、王太子殿下が何を切り捨てたのかを本人に確認する」


 その声には、王族の叔父としての情ではなく、宰相としての厳しさがあった。


 カインが北翼の執務室を出ると、廊下の空気が変わった。


 すれ違う官吏たちが次々に頭を下げる。


 女官たちは壁際へ寄る。


 近衛騎士ですら、わずかに背筋を正した。


 王弟カインが動く。


 その事実だけで、王宮内に緊張が走る。


 彼はめったに自ら動かない。


 必要な時は文書を出す。


 命令書を送る。


 召喚状を届ける。


 それで十分だからだ。


 その彼が、自分の足で王太子の執務室へ向かっている。


 それは、事態がすでに「若い王太子の失敗」では済まないところに入ったことを意味していた。


 南翼の王太子執務室前で、侍従が青ざめて礼をした。


「カイン殿下」


「ユリウスは中か」


「はい。ただいま、ローレン様と財務局の報告を……」


「開けろ」


「ですが」


「開けろ」


 侍従は抵抗しなかった。


 扉が開く。


 室内では、ユリウスが書類を前に苛立っていた。側近ローレン、財務官、数名の文書官が立っている。


 リリアナの姿はない。


 カインが入室すると、全員が一斉に立ち上がった。


「叔父上」


 ユリウスの声には、明らかな戸惑いがあった。


「何の御用でしょう」


「報告を聞きに来た」


「報告なら、後ほど正式に」


「今聞く」


 カインは、空いている椅子には座らなかった。


 王太子の机の前に立ち、ユリウスを見下ろす。


「セルベリア大使が帰国準備に入った理由を説明しろ」


 ユリウスは唇を結んだ。


「文書確認が少し遅れただけです」


「少し」


 カインは、同じ言葉を繰り返した。


「亡き王妃が隣国王家と交わした非公開協定の原本を提示できず、大使が本国へ確認を求めた。それを少しと言うのか」


「王宮内の混乱もあります。王妃が亡くなったばかりで」


「ならば、なぜその混乱を整理していた者を外した」


 室内が静まり返る。


 ユリウスの顔が強張った。


「エレノアのことですか」


「他に誰がいる」


「婚約の問題です。私的な……」


「王太子の婚約は私的問題ではない」


 カインの声は荒くない。


 だが、ユリウスの言葉を完全に断ち切った。


「まして、王妃文書の実務担当者を正式な引き継ぎなしで外すことが、私的な問題で済むはずがない」


 ユリウスは反論しようとした。


 だが、カインは続ける。


「茶会の席次は誰が承認した」


「それは……リリアナが考え、私が認めました」


「結果は」


「一部の夫人方が、必要以上に騒いだだけです」


 カインは机の上に一枚の報告書を置いた。


 ハウゼン侯爵夫人からの抗議。

 ミルド伯爵夫人の欠席連絡。

 セルベリア大使夫人の不快表明。

 孤児院後援会からの基金支出確認。


「これを、一部の夫人方の感情問題だと思うなら、王太子として重症だ」


 ユリウスの顔が赤くなる。


「叔父上は、私を侮辱されるのですか」


「侮辱ではない。診断だ」


 財務官が慌てて口を挟んだ。


「カイン殿下、王太子殿下もお疲れでございます。王妃陛下の件から続いて、王宮全体が混乱しており……」


 カインの視線が財務官へ移った。


 それだけで、財務官は言葉を止めた。


「王妃の遺産目録について聞こう」


「は、はい」


「月涙石の首飾りが所在不明。百合簪も所在不明。青玉腕輪は一点不足。慈善箱は封破損。薬草園管理印章も消えている。これを記録上の誤差として内々に処理しようとした理由は」


 財務官の額に汗が滲む。


「確認が不十分な段階で騒ぎ立てるのは、王妃陛下の名誉に関わると判断いたしました」


「王妃の名誉に関わるから、記録を伏せる?」


「伏せるのではなく、整理を」


「言葉を飾るな」


 カインの声が一段低くなった。


「担保登録された宝飾品が消え、基金に関わる印章が消え、寄付証明原本がない。それを内々に処理したがる者は、誤差を恐れているのではない。記録を恐れている」


 財務官は何も言えなくなった。


 ユリウスは苛立ちを隠せずに言う。


「まだ不正と決まったわけではありません」


「誰が決まったと言った」


 カインはユリウスを見る。


「だが、不正の可能性を示す記録を、可能性の段階で潰そうとした者はいる」


 ユリウスは黙った。


 室内にいる全員が、財務官を見ないようにしていた。


 見ないことが、むしろ答えになっている。


「エレノア嬢は、この件を知っていたのか」


 カインが問う。


 誰も答えなかった。


 マルタがいれば答えただろう。


 だが、この場に彼女はいない。


 代わりに、若い文書官が震える声で言った。


「おそらく……何らかの不審は把握されていたかと」


「根拠は」


「遺品の箱に、エレノア様の覚え書きがございました。財務官立ち会い不要、王妃陛下より直接確認の指示あり、と」


 カインはゆっくりと財務官を見た。


 財務官の顔から血の気が引く。


「面白い覚え書きだ」


「それは、誤解でございます」


「私はまだ何も言っていない」


 財務官は口を閉ざした。


 カインは、再びユリウスへ向き直る。


「ユリウス。お前はエレノア嬢が十年間、何をしていたか説明できるか」


「彼女は……王太子妃候補として、私を補佐していました」


「補佐とは何だ」


「会議資料の整理や、茶会の準備や……」


「や?」


 ユリウスは言葉に詰まった。


 カインは容赦しなかった。


「お前は、彼女が王妃の代理でどの基金を確認していたか知っているか」


「……」


「セルベリア文書の分類を説明できるか」


「……」


「茶会の席次において、ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人を離す理由を知っていたか」


「それは」


「知っていたか」


「……知らなかった」


「王妃の遺産のうち、担保登録されている宝飾品と、私的遺品の区別は」


「……」


「王太子演説の外交表現を、誰が直していた」


「……エレノアだ」


「お前の失言で怒らせた地方伯を、誰が手紙で宥めた」


「エレノアだ」


「隣国大使の好む儀礼形式を、誰が事前に伝えていた」


「……エレノアだ」


 ユリウスの声が、少しずつ小さくなった。


 カインは静かに言った。


「お前は、自分を支えていた柱を、飾り棚か何かだと思って切り捨てた」


 ユリウスの顔に、屈辱が浮かぶ。


「私は、リリアナを選んだだけです」


「それは自由だ。婚約者として誰を望むかは、感情の問題もある」


 カインは一拍置いた。


「だが、王太子として、実務担当者を切るなら手順がある。権限移譲、文書引継ぎ、保管確認、関係各所への通達、暫定補佐の任命。お前は何をした」


 ユリウスは答えられない。


「リリアナ嬢は可憐だろう。人の心に寄り添うのだろう。お前を笑わせてくれるのだろう」


 カインの声は冷たい。


「だが、国はお前の笑顔のために存在しているのではない」


 室内の誰も動かなかった。


 ユリウスは唇を震わせる。


「叔父上は、私にエレノアを呼び戻せと言うのですか」


「違う」


 カインは即答した。


 ユリウスが目を上げる。


「呼び戻せば済む段階は過ぎた」


「では、どうしろと」


「まず、自分が何を壊したかを記録で確認しろ」


 カインは机の上に命令書を置いた。


「王妃遺産目録不一致に関する臨時監査を開始する。財務官は本日より関連資料を提出。王妃基金の支出記録、担保登録、薬草園管理印章の使用履歴、すべてだ」


 財務官が青ざめる。


「殿下、それは正式な国王裁可が」


「すでに取ってある」


 カインは懐から別の文書を出した。


 国王の署名と王印。


 財務官は膝から力が抜けそうな顔をした。


 ユリウスも驚いている。


「父上が……?」


「お前がセルベリア大使を帰国させた時点で、国王は動かざるを得ない」


「私は帰国させたわけでは」


「止められなかったのなら同じだ」


 カインは書類をオスカーへ渡す。


「財務官の執務室を封鎖。関連台帳の移動を禁じる。文書官二名、近衛二名をつけろ」


「かしこまりました」


 財務官が慌てて声を上げる。


「お待ちください! 私は何も隠してなど」


「ならば提出できるな」


「それは……」


「提出できないのか」


 財務官は黙った。


 カインは、すでに彼を見ていなかった。


 次に見るべきものは、王太子だった。


「ユリウス」


「……はい」


「エレノア嬢に正式な召喚状を出すな」


 ユリウスは顔を上げた。


「なぜです」


「お前が出せば、命令になる。彼女はもうお前の婚約者ではない。王宮の都合で捨て、王宮の都合で呼び戻す。その程度の扱いをすれば、王妃が残したものまで失う」


「では、誰が」


「私が行く」


 室内に、また別の沈黙が落ちた。


 王弟カインが、直々にエレノアを訪ねる。


 それが何を意味するか、王宮にいる者なら分かる。


 彼女は、捨てられた令嬢として呼び戻されるのではない。


 王弟が会いに行くべき人物として扱われる。


 その差は大きかった。


「叔父上が、わざわざ?」


 ユリウスの声には、理解できないという響きがあった。


 カインは冷たく答えた。


「彼女の持つ証言と記録が必要だからだ」


「記録……」


「そして、亡き王妃が彼女に何を託したのかを確認する必要がある」


 ユリウスは眉をひそめた。


「王妃が?」


 カインは答えなかった。


 今ここで言うべきことではない。


 王妃エレオノーラは、生前、カインに一度だけ話していた。


『私が死んだあと、王宮は必ずエレノアを切り捨てます』


 あの時、カインは即座に否定しなかった。


 この王宮なら、やりかねないと思ったからだ。


『その時は、彼女を道具としてではなく、証人として迎えてください』


 王妃は、痩せた手で黒封蝋の封筒を撫でていた。


『あの子は自分の価値を知らない。皆が便利に使いすぎたせいで』


 カインは、その言葉を忘れていない。


「オスカー」


「はい」


「馬車を用意しろ。護衛は最低限でいい。大仰にするな」


「行き先は、ヴァレンシュタイン公爵家でよろしいですか」


「違う」


 カインは短く答えた。


「エレノア嬢は公爵家には戻っていない。王都外れの旧邸だ」


 ユリウスが驚いたように言った。


「なぜ、それを」


「王宮を出た人間の行き先くらい、確認する」


「私は……」


 ユリウスは言葉を失った。


 彼は知らなかった。


 エレノアがどこへ行ったのか。


 昨日も、今日も、彼女がどこで何をしているのか。


 知ろうとしなかった。


 必要になれば呼べば来ると思っていたからだ。


 カインはそれを見抜いたように、淡々と言った。


「お前は、彼女を失ったのではない。彼女を見る機会を、自分で捨てた」


 ユリウスは何も言えなかった。


 カインは踵を返した。


 扉へ向かう直前、もう一度だけ振り向く。


「財務官」


「は、はい」


「監査前に一枚でも記録を動かせば、横領ではなく証拠隠滅として扱う」


 財務官の膝が、今度こそ震えた。


「ユリウス」


「……はい」


「リリアナ嬢を慰める前に、彼女に引継書を読ませろ。泣いても、分からないものは分からないままだ」


 ユリウスの顔が歪む。


 しかし、反論はできなかった。


 カインは部屋を出た。


 廊下では、すでに噂の気配が走り始めている。


 冷徹宰相が王太子を叱責した。


 財務官の執務室が封鎖されるらしい。


 王弟自ら、追放された公爵令嬢を訪ねるらしい。


 王宮の空気が、また変わる。


 今度は混乱ではなく、監査の気配だった。


 夕刻前、カインの馬車は王宮を出た。


 護衛は二名。


 随行はオスカーだけ。


 王弟の外出としては、驚くほど静かな出立だった。


 馬車の中で、オスカーは控えめに言った。


「エレノア嬢は、王宮へ戻るでしょうか」


「戻るかどうかを決めるのは彼女だ」


「王宮には、彼女が必要です」


「必要だから戻れ、ではまた道具扱いだ」


 カインは窓の外を見た。


 王都の中心から外れ、馬車は貴族街の端へ向かっていく。豪奢な屋敷が少しずつ減り、古い石壁と静かな庭を持つ邸宅が増えていく。


「彼女に必要なのは謝罪ではない」


「では、何を?」


「権限だ」


 カインは短く答えた。


「責任を負わせるなら、権限を渡す。証言を求めるなら、身分を守る。記録を見せるなら、記録を扱う資格を与える。それができないなら、王宮は彼女に触れるべきではない」


 オスカーは少しだけ目を伏せた。


「王妃陛下が、エレノア嬢を信じた理由が分かる気がします」


「王妃は人を見る目があった」


「殿下も、以前からエレノア嬢を?」


 カインは沈黙した。


 窓の外を、古い樫並木が流れていく。


「彼女の報告書は、嘘をつかなかった」


「報告書、ですか」


「多くの者は、読む者に都合のよい形へ整える。だが、彼女の報告書は事実と推測を分けていた。感情と記録を混ぜなかった。分からないことを分からないと書ける者は、王宮では貴重だ」


 それは、カインなりの最大級の評価だった。


 オスカーは静かに頷く。


 馬車はやがて、王都外れの旧邸へ着いた。


 古いが手入れされた門。


 広くはないが、静かな庭。


 王宮のような権威はない。


 だが、そこには不思議な落ち着きがあった。


 門番が王弟の紋章を見て慌てて頭を下げる。


 カインは馬車を降りた。


「先触れは出してあるな」


「はい。ただし、大仰な名乗りは避けました」


「それでいい」


 扉の前で、若い侍女が青ざめながら礼をした。


「カイン殿下……エレノア様がお待ちです」


「通してくれ」


 屋敷の中は、古い木と紙の匂いがした。


 王宮の香水や蝋燭の匂いとは違う。


 廊下を進み、応接室へ案内される。


 そこに、エレノアが立っていた。


 濃紺の簡素なドレス。


 飾りの少ない髪。


 顔色は少し悪い。


 それでも、姿勢はまっすぐだった。


 彼女は深く礼を取る。


「カイン殿下。お越しいただき、恐れ入ります」


 カインは彼女を見た。


 王宮で見るより、ずっと細く見えた。


 それが、今まで王宮の重さを一人で背負っていた証のようにも見えた。


「エレノア嬢」


「はい」


「まず、王宮を代表して謝罪する」


 エレノアの目が、わずかに揺れた。


 謝罪を予想していなかったのだろう。


 だがカインは、形式だけで頭を下げたのではない。


 王弟として。


 宰相として。


 王妃が信じた者を粗末に扱った王宮の一員として、彼は深く頭を下げた。


「あなたの働きを正しく扱わず、手順も権限も無視して職務から外した。王宮の失態だ」


 エレノアはすぐには答えなかった。


 彼女の表情は崩れない。


 けれど、指先だけがわずかに強く握られていた。


「……殿下が謝罪なさることではございません」


「それを決めるのは私だ」


 カインは顔を上げた。


「私は、あなたを利用しに来たのではない。君の証言と、君自身の意思を確認しに来た」


 エレノアの瞳が、静かにカインを見つめ返した。


「王宮で、何か起きているのですね」


「起きている。茶会、セルベリア、王妃遺産、王妃基金。すべてがつながり始めた」


「……そうですか」


 驚いた顔ではなかった。


 やはり知っていたのだ、とカインは思った。


 正確には、すべてを断定していたわけではない。


 だが、彼女は疑っていた。


 記録を追っていた。


 カインは一歩、前へ出る。


「亡き王妃の遺言状を、君が持っているはずだ」


 部屋の空気が止まった。


 侍女アニーが、息を呑む。


 エレノアは、胸元にそっと手を当てた。


 黒封蝋の封筒が、そこにある。


 王妃が最後に託したもの。


 王宮から切り捨てられた時、王弟カインへ見せなさいと言われたもの。


 エレノアは、静かに言った。


「王妃陛下は、殿下がそう仰ることまでご存じだったのでしょうか」


「王妃は、王宮が愚かな選択をすることを知っていた」


 カインは答えた。


「そして、その後に君が必要になることも」


 エレノアは目を伏せた。


 その表情に、ほんの少しだけ痛みが浮かぶ。


 必要になる。


 その言葉は、彼女にとって慰めではないのだろう。


 ずっと必要とされてきた。


 だが、正しく扱われてこなかった。


 カインは言い直した。


「君の能力が必要だ。だが、それ以上に、君の意思が必要だ」


 エレノアは顔を上げた。


「私の意思」


「王宮に戻るかどうか。証言するかどうか。王妃の遺言状を開くかどうか。すべて、君が決める」


 エレノアは長い沈黙のあと、胸元から黒い封筒を取り出した。


 黒封蝋には、月桂樹と百合。


 亡き王妃エレオノーラの個人紋章。


 カインの表情が、初めてわずかに変わった。


 重いものを見る目だった。


 エレノアは封筒を両手で持つ。


「王妃様は、私に仰いました。王宮に居場所を失った時、カイン殿下へ見せなさいと」


「ああ」


「私は、居場所を失いました」


 静かな声だった。


 だが、その一言には、婚約破棄の痛みも、家族に切り捨てられた痛みも、十年分の沈黙も含まれていた。


「ですから、殿下にお見せします」


 エレノアは、黒封蝋の遺言状を差し出した。


 カインはすぐには受け取らなかった。


 まず、彼女の目を見た。


「開ける覚悟はあるか」


「ありません」


 エレノアは正直に答えた。


「ですが、開けなければならないのでしょう」


 その答えに、カインはわずかに頷いた。


「なら、共に確認しよう」


 黒封蝋の遺言状が、二人の間に置かれる。


 王宮を揺るがす火種が、ようやく表へ出ようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ