第7話 冷徹宰相カイン、動く
王宮には、誰も近づきたがらない執務室がある。
北翼の最奥。
陽当たりは悪く、窓の外には庭園ではなく、王宮の外壁と古い監視塔が見えるだけ。豪奢な装飾も、香り高い花も、客人を和ませる柔らかな長椅子もない。
壁一面の書棚。
大きな執務机。
整然と積まれた文書。
火の気の少ない暖炉。
そして、部屋の主の性格をそのまま映したような、無駄のない空気。
そこが、王弟カイン・レオ・グランベルクの執務室だった。
国王の弟。
王太子ユリウスの叔父。
そして、王宮で最も恐れられる冷徹宰相。
貴族たちは彼を「鉄筆の宰相」と呼ぶ。
理由は簡単だった。
カインは情に流されない。
家名に媚びない。
泣き落としを聞かない。
そして、一度署名した命令書は、鉄で刻まれたように覆らない。
その日も、彼はいつも通り机に向かっていた。
王妃の葬儀後、王宮内は目に見えて乱れている。だが、カインの執務室だけは違った。文書は分類ごとに積まれ、報告は時系列順に並び、未決裁案件は赤紐、要確認案件は黒紐、緊急案件は銀の留め具で留められている。
混乱が嫌いなのではない。
混乱の中で、誰が何を隠すかを知っているだけだ。
「殿下」
扉の外から、低い声がした。
「入れ」
カインは顔を上げずに答えた。
入ってきたのは、彼の秘書官であるオスカーだった。細身で眼鏡をかけた若い官吏だが、王宮内の噂と文書の流れを読む目は鋭い。
彼は数枚の報告書を机の左側に置いた。
「王太子殿下周辺の直近三日分の報告です」
「読んだ順に話せ」
「はい。まず、王妃陛下の葬儀から七日目の夜、王太子ユリウス殿下がエレノア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢との婚約を破棄。新たな婚約者候補として、妹君のリリアナ嬢を内定」
カインの筆が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
「続けろ」
「翌朝、東翼執務室よりエレノア嬢の机と資料が移動。リリアナ嬢が同室を使用開始。王太子妃候補業務の引き継ぎは、簡略版の引継書のみ」
「のみ?」
「エレノア嬢は、追加説明を正式文書で求めるよう伝えたとのことです」
カインの口元が、かすかに動いた。
笑ったのではない。
理解したのだ。
「賢い」
短く、それだけ言った。
オスカーは続ける。
「その翌日、リリアナ嬢主催の王宮茶会が予定より早く終了。ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人を隣席に配置。財務官夫人と孤児院後援会のロウ夫人を正面席に配置。セルベリア大使夫人アデライナ様を王家から遠い席へ配置」
「火薬庫に蝋燭を投げ込んだようなものだな」
「はい。茶会後、夫人方から非公式な不満が複数。特にセルベリア大使館からは、儀礼上の扱いについて抗議含みの問い合わせがありました」
「エレノア嬢の引継書には?」
「避けるよう明記されていたとのことです」
「ならば、失態ではなく無視だ」
カインは報告書の一枚を手に取った。
目を通す速度は速い。
だが、読み飛ばしてはいない。
紙の端に記された日付、署名、担当官の名まで確認している。
「次」
「二日目。セルベリア王国との非公開協定文書が所在不明となりました。大使は正午までの提示を求めましたが、提示できず。大使は帰国準備に入り、王都を離れました」
カインの瞳が、わずかに冷える。
「どの協定だ」
「国境孤児保護、薬草交易、ならびに王妃陛下の私的保証を含む文書と思われます」
「思われます、か」
「原本確認ができておりませんので」
「文書庫の分類担当は」
「王妃陛下と、エレノア嬢です」
「東翼執務室の第三棚」
カインが即答した。
オスカーが少し目を見開く。
「ご存じでしたか」
「王妃から一度だけ相談を受けた。セルベリアとの文書は青紐、灰封、月桂樹印。公式文書庫へ移す前に東翼で照合すると」
「その通りです。エレノア嬢の引継書にも同様の記載がありました」
「なら、なぜ見つからない」
「リリアナ嬢の入室時に資料が移動され、分類が崩れたものと」
カインは報告書を机に戻した。
乱暴ではない。
だが、紙の音がやけに硬く響いた。
「愚かだな」
その一言で、部屋の温度が下がったようだった。
オスカーは表情を変えず、次の報告へ移る。
「三日目。王妃陛下の遺産目録と現物が一致せず。月涙石の首飾り、金細工の百合簪、青玉腕輪の一部、慈善箱の中身、薬草園管理印章、寄付証明書原本が所在不明」
カインの目が、報告書の一点で止まった。
「月涙石」
「はい」
「ヴァレンシュタイン公爵家の社交界披露宴で、似た石をリリアナ嬢が身につけていた記録がある」
オスカーは別の紙を差し出した。
「こちらに写しがございます。二年前、リリアナ嬢の社交界デビュー時の装身具記録です。贈り主はグレゴール公爵。入手先は表向き、サルヴィ商会」
「サルヴィ商会」
「王妃基金の支出先の一つでもあります」
部屋の沈黙が深くなった。
カインは椅子の背にもたれない。
机の上で両手を組み、淡々と報告書を見ている。
しかし、オスカーは知っていた。
カインが怒っている時ほど、動きが少なくなることを。
「財務官は何と言っている」
「記録上の誤差として、内々の処理を主張」
「当然そう言うだろうな」
「女官長マルタが書面化を主張。リリアナ嬢が了承したため、国王陛下および王太子殿下へ報告書が上がっています」
「リリアナ嬢が了承したのか」
「はい」
カインは少しだけ目を細めた。
「泣いて逃げるだけの娘ではない、か。だが遅い」
オスカーは何も言わなかった。
カインは報告書を時系列に並べ直した。
婚約破棄。
執務室交代。
茶会崩壊。
密約文書所在不明。
遺産目録不一致。
王妃基金の不審。
それらは別々の事件に見える。
しかし、線を引けば一つの形が浮かぶ。
王妃エレオノーラが死んだ。
王妃が支えていた複数の仕組みが、表の管理者を失った。
その管理を実質的に担っていたエレノアも、王宮から外された。
すると、隠れていた腐食が一気に露出した。
腐食は、最近始まったものではない。
ずっと前からあった。
エレノアが、それを抑えていたのだ。
「ユリウスは何をしている」
「本日午後より、国王陛下へセルベリア大使帰国の件を報告。王妃遺産目録の不一致については、まだ全体を理解されていないご様子です」
「理解しようとしていないの間違いだ」
カインは立ち上がった。
長身の影が、机の上の文書に落ちる。
「ユリウスの執務室へ行く」
「今からですか」
「遅すぎるくらいだ」
オスカーはすぐに書類を整えた。
「エレノア嬢への接触は」
「後だ。先に、王太子殿下が何を切り捨てたのかを本人に確認する」
その声には、王族の叔父としての情ではなく、宰相としての厳しさがあった。
カインが北翼の執務室を出ると、廊下の空気が変わった。
すれ違う官吏たちが次々に頭を下げる。
女官たちは壁際へ寄る。
近衛騎士ですら、わずかに背筋を正した。
王弟カインが動く。
その事実だけで、王宮内に緊張が走る。
彼はめったに自ら動かない。
必要な時は文書を出す。
命令書を送る。
召喚状を届ける。
それで十分だからだ。
その彼が、自分の足で王太子の執務室へ向かっている。
それは、事態がすでに「若い王太子の失敗」では済まないところに入ったことを意味していた。
南翼の王太子執務室前で、侍従が青ざめて礼をした。
「カイン殿下」
「ユリウスは中か」
「はい。ただいま、ローレン様と財務局の報告を……」
「開けろ」
「ですが」
「開けろ」
侍従は抵抗しなかった。
扉が開く。
室内では、ユリウスが書類を前に苛立っていた。側近ローレン、財務官、数名の文書官が立っている。
リリアナの姿はない。
カインが入室すると、全員が一斉に立ち上がった。
「叔父上」
ユリウスの声には、明らかな戸惑いがあった。
「何の御用でしょう」
「報告を聞きに来た」
「報告なら、後ほど正式に」
「今聞く」
カインは、空いている椅子には座らなかった。
王太子の机の前に立ち、ユリウスを見下ろす。
「セルベリア大使が帰国準備に入った理由を説明しろ」
ユリウスは唇を結んだ。
「文書確認が少し遅れただけです」
「少し」
カインは、同じ言葉を繰り返した。
「亡き王妃が隣国王家と交わした非公開協定の原本を提示できず、大使が本国へ確認を求めた。それを少しと言うのか」
「王宮内の混乱もあります。王妃が亡くなったばかりで」
「ならば、なぜその混乱を整理していた者を外した」
室内が静まり返る。
ユリウスの顔が強張った。
「エレノアのことですか」
「他に誰がいる」
「婚約の問題です。私的な……」
「王太子の婚約は私的問題ではない」
カインの声は荒くない。
だが、ユリウスの言葉を完全に断ち切った。
「まして、王妃文書の実務担当者を正式な引き継ぎなしで外すことが、私的な問題で済むはずがない」
ユリウスは反論しようとした。
だが、カインは続ける。
「茶会の席次は誰が承認した」
「それは……リリアナが考え、私が認めました」
「結果は」
「一部の夫人方が、必要以上に騒いだだけです」
カインは机の上に一枚の報告書を置いた。
ハウゼン侯爵夫人からの抗議。
ミルド伯爵夫人の欠席連絡。
セルベリア大使夫人の不快表明。
孤児院後援会からの基金支出確認。
「これを、一部の夫人方の感情問題だと思うなら、王太子として重症だ」
ユリウスの顔が赤くなる。
「叔父上は、私を侮辱されるのですか」
「侮辱ではない。診断だ」
財務官が慌てて口を挟んだ。
「カイン殿下、王太子殿下もお疲れでございます。王妃陛下の件から続いて、王宮全体が混乱しており……」
カインの視線が財務官へ移った。
それだけで、財務官は言葉を止めた。
「王妃の遺産目録について聞こう」
「は、はい」
「月涙石の首飾りが所在不明。百合簪も所在不明。青玉腕輪は一点不足。慈善箱は封破損。薬草園管理印章も消えている。これを記録上の誤差として内々に処理しようとした理由は」
財務官の額に汗が滲む。
「確認が不十分な段階で騒ぎ立てるのは、王妃陛下の名誉に関わると判断いたしました」
「王妃の名誉に関わるから、記録を伏せる?」
「伏せるのではなく、整理を」
「言葉を飾るな」
カインの声が一段低くなった。
「担保登録された宝飾品が消え、基金に関わる印章が消え、寄付証明原本がない。それを内々に処理したがる者は、誤差を恐れているのではない。記録を恐れている」
財務官は何も言えなくなった。
ユリウスは苛立ちを隠せずに言う。
「まだ不正と決まったわけではありません」
「誰が決まったと言った」
カインはユリウスを見る。
「だが、不正の可能性を示す記録を、可能性の段階で潰そうとした者はいる」
ユリウスは黙った。
室内にいる全員が、財務官を見ないようにしていた。
見ないことが、むしろ答えになっている。
「エレノア嬢は、この件を知っていたのか」
カインが問う。
誰も答えなかった。
マルタがいれば答えただろう。
だが、この場に彼女はいない。
代わりに、若い文書官が震える声で言った。
「おそらく……何らかの不審は把握されていたかと」
「根拠は」
「遺品の箱に、エレノア様の覚え書きがございました。財務官立ち会い不要、王妃陛下より直接確認の指示あり、と」
カインはゆっくりと財務官を見た。
財務官の顔から血の気が引く。
「面白い覚え書きだ」
「それは、誤解でございます」
「私はまだ何も言っていない」
財務官は口を閉ざした。
カインは、再びユリウスへ向き直る。
「ユリウス。お前はエレノア嬢が十年間、何をしていたか説明できるか」
「彼女は……王太子妃候補として、私を補佐していました」
「補佐とは何だ」
「会議資料の整理や、茶会の準備や……」
「や?」
ユリウスは言葉に詰まった。
カインは容赦しなかった。
「お前は、彼女が王妃の代理でどの基金を確認していたか知っているか」
「……」
「セルベリア文書の分類を説明できるか」
「……」
「茶会の席次において、ハウゼン侯爵夫人とミルド伯爵夫人を離す理由を知っていたか」
「それは」
「知っていたか」
「……知らなかった」
「王妃の遺産のうち、担保登録されている宝飾品と、私的遺品の区別は」
「……」
「王太子演説の外交表現を、誰が直していた」
「……エレノアだ」
「お前の失言で怒らせた地方伯を、誰が手紙で宥めた」
「エレノアだ」
「隣国大使の好む儀礼形式を、誰が事前に伝えていた」
「……エレノアだ」
ユリウスの声が、少しずつ小さくなった。
カインは静かに言った。
「お前は、自分を支えていた柱を、飾り棚か何かだと思って切り捨てた」
ユリウスの顔に、屈辱が浮かぶ。
「私は、リリアナを選んだだけです」
「それは自由だ。婚約者として誰を望むかは、感情の問題もある」
カインは一拍置いた。
「だが、王太子として、実務担当者を切るなら手順がある。権限移譲、文書引継ぎ、保管確認、関係各所への通達、暫定補佐の任命。お前は何をした」
ユリウスは答えられない。
「リリアナ嬢は可憐だろう。人の心に寄り添うのだろう。お前を笑わせてくれるのだろう」
カインの声は冷たい。
「だが、国はお前の笑顔のために存在しているのではない」
室内の誰も動かなかった。
ユリウスは唇を震わせる。
「叔父上は、私にエレノアを呼び戻せと言うのですか」
「違う」
カインは即答した。
ユリウスが目を上げる。
「呼び戻せば済む段階は過ぎた」
「では、どうしろと」
「まず、自分が何を壊したかを記録で確認しろ」
カインは机の上に命令書を置いた。
「王妃遺産目録不一致に関する臨時監査を開始する。財務官は本日より関連資料を提出。王妃基金の支出記録、担保登録、薬草園管理印章の使用履歴、すべてだ」
財務官が青ざめる。
「殿下、それは正式な国王裁可が」
「すでに取ってある」
カインは懐から別の文書を出した。
国王の署名と王印。
財務官は膝から力が抜けそうな顔をした。
ユリウスも驚いている。
「父上が……?」
「お前がセルベリア大使を帰国させた時点で、国王は動かざるを得ない」
「私は帰国させたわけでは」
「止められなかったのなら同じだ」
カインは書類をオスカーへ渡す。
「財務官の執務室を封鎖。関連台帳の移動を禁じる。文書官二名、近衛二名をつけろ」
「かしこまりました」
財務官が慌てて声を上げる。
「お待ちください! 私は何も隠してなど」
「ならば提出できるな」
「それは……」
「提出できないのか」
財務官は黙った。
カインは、すでに彼を見ていなかった。
次に見るべきものは、王太子だった。
「ユリウス」
「……はい」
「エレノア嬢に正式な召喚状を出すな」
ユリウスは顔を上げた。
「なぜです」
「お前が出せば、命令になる。彼女はもうお前の婚約者ではない。王宮の都合で捨て、王宮の都合で呼び戻す。その程度の扱いをすれば、王妃が残したものまで失う」
「では、誰が」
「私が行く」
室内に、また別の沈黙が落ちた。
王弟カインが、直々にエレノアを訪ねる。
それが何を意味するか、王宮にいる者なら分かる。
彼女は、捨てられた令嬢として呼び戻されるのではない。
王弟が会いに行くべき人物として扱われる。
その差は大きかった。
「叔父上が、わざわざ?」
ユリウスの声には、理解できないという響きがあった。
カインは冷たく答えた。
「彼女の持つ証言と記録が必要だからだ」
「記録……」
「そして、亡き王妃が彼女に何を託したのかを確認する必要がある」
ユリウスは眉をひそめた。
「王妃が?」
カインは答えなかった。
今ここで言うべきことではない。
王妃エレオノーラは、生前、カインに一度だけ話していた。
『私が死んだあと、王宮は必ずエレノアを切り捨てます』
あの時、カインは即座に否定しなかった。
この王宮なら、やりかねないと思ったからだ。
『その時は、彼女を道具としてではなく、証人として迎えてください』
王妃は、痩せた手で黒封蝋の封筒を撫でていた。
『あの子は自分の価値を知らない。皆が便利に使いすぎたせいで』
カインは、その言葉を忘れていない。
「オスカー」
「はい」
「馬車を用意しろ。護衛は最低限でいい。大仰にするな」
「行き先は、ヴァレンシュタイン公爵家でよろしいですか」
「違う」
カインは短く答えた。
「エレノア嬢は公爵家には戻っていない。王都外れの旧邸だ」
ユリウスが驚いたように言った。
「なぜ、それを」
「王宮を出た人間の行き先くらい、確認する」
「私は……」
ユリウスは言葉を失った。
彼は知らなかった。
エレノアがどこへ行ったのか。
昨日も、今日も、彼女がどこで何をしているのか。
知ろうとしなかった。
必要になれば呼べば来ると思っていたからだ。
カインはそれを見抜いたように、淡々と言った。
「お前は、彼女を失ったのではない。彼女を見る機会を、自分で捨てた」
ユリウスは何も言えなかった。
カインは踵を返した。
扉へ向かう直前、もう一度だけ振り向く。
「財務官」
「は、はい」
「監査前に一枚でも記録を動かせば、横領ではなく証拠隠滅として扱う」
財務官の膝が、今度こそ震えた。
「ユリウス」
「……はい」
「リリアナ嬢を慰める前に、彼女に引継書を読ませろ。泣いても、分からないものは分からないままだ」
ユリウスの顔が歪む。
しかし、反論はできなかった。
カインは部屋を出た。
廊下では、すでに噂の気配が走り始めている。
冷徹宰相が王太子を叱責した。
財務官の執務室が封鎖されるらしい。
王弟自ら、追放された公爵令嬢を訪ねるらしい。
王宮の空気が、また変わる。
今度は混乱ではなく、監査の気配だった。
夕刻前、カインの馬車は王宮を出た。
護衛は二名。
随行はオスカーだけ。
王弟の外出としては、驚くほど静かな出立だった。
馬車の中で、オスカーは控えめに言った。
「エレノア嬢は、王宮へ戻るでしょうか」
「戻るかどうかを決めるのは彼女だ」
「王宮には、彼女が必要です」
「必要だから戻れ、ではまた道具扱いだ」
カインは窓の外を見た。
王都の中心から外れ、馬車は貴族街の端へ向かっていく。豪奢な屋敷が少しずつ減り、古い石壁と静かな庭を持つ邸宅が増えていく。
「彼女に必要なのは謝罪ではない」
「では、何を?」
「権限だ」
カインは短く答えた。
「責任を負わせるなら、権限を渡す。証言を求めるなら、身分を守る。記録を見せるなら、記録を扱う資格を与える。それができないなら、王宮は彼女に触れるべきではない」
オスカーは少しだけ目を伏せた。
「王妃陛下が、エレノア嬢を信じた理由が分かる気がします」
「王妃は人を見る目があった」
「殿下も、以前からエレノア嬢を?」
カインは沈黙した。
窓の外を、古い樫並木が流れていく。
「彼女の報告書は、嘘をつかなかった」
「報告書、ですか」
「多くの者は、読む者に都合のよい形へ整える。だが、彼女の報告書は事実と推測を分けていた。感情と記録を混ぜなかった。分からないことを分からないと書ける者は、王宮では貴重だ」
それは、カインなりの最大級の評価だった。
オスカーは静かに頷く。
馬車はやがて、王都外れの旧邸へ着いた。
古いが手入れされた門。
広くはないが、静かな庭。
王宮のような権威はない。
だが、そこには不思議な落ち着きがあった。
門番が王弟の紋章を見て慌てて頭を下げる。
カインは馬車を降りた。
「先触れは出してあるな」
「はい。ただし、大仰な名乗りは避けました」
「それでいい」
扉の前で、若い侍女が青ざめながら礼をした。
「カイン殿下……エレノア様がお待ちです」
「通してくれ」
屋敷の中は、古い木と紙の匂いがした。
王宮の香水や蝋燭の匂いとは違う。
廊下を進み、応接室へ案内される。
そこに、エレノアが立っていた。
濃紺の簡素なドレス。
飾りの少ない髪。
顔色は少し悪い。
それでも、姿勢はまっすぐだった。
彼女は深く礼を取る。
「カイン殿下。お越しいただき、恐れ入ります」
カインは彼女を見た。
王宮で見るより、ずっと細く見えた。
それが、今まで王宮の重さを一人で背負っていた証のようにも見えた。
「エレノア嬢」
「はい」
「まず、王宮を代表して謝罪する」
エレノアの目が、わずかに揺れた。
謝罪を予想していなかったのだろう。
だがカインは、形式だけで頭を下げたのではない。
王弟として。
宰相として。
王妃が信じた者を粗末に扱った王宮の一員として、彼は深く頭を下げた。
「あなたの働きを正しく扱わず、手順も権限も無視して職務から外した。王宮の失態だ」
エレノアはすぐには答えなかった。
彼女の表情は崩れない。
けれど、指先だけがわずかに強く握られていた。
「……殿下が謝罪なさることではございません」
「それを決めるのは私だ」
カインは顔を上げた。
「私は、あなたを利用しに来たのではない。君の証言と、君自身の意思を確認しに来た」
エレノアの瞳が、静かにカインを見つめ返した。
「王宮で、何か起きているのですね」
「起きている。茶会、セルベリア、王妃遺産、王妃基金。すべてがつながり始めた」
「……そうですか」
驚いた顔ではなかった。
やはり知っていたのだ、とカインは思った。
正確には、すべてを断定していたわけではない。
だが、彼女は疑っていた。
記録を追っていた。
カインは一歩、前へ出る。
「亡き王妃の遺言状を、君が持っているはずだ」
部屋の空気が止まった。
侍女アニーが、息を呑む。
エレノアは、胸元にそっと手を当てた。
黒封蝋の封筒が、そこにある。
王妃が最後に託したもの。
王宮から切り捨てられた時、王弟カインへ見せなさいと言われたもの。
エレノアは、静かに言った。
「王妃陛下は、殿下がそう仰ることまでご存じだったのでしょうか」
「王妃は、王宮が愚かな選択をすることを知っていた」
カインは答えた。
「そして、その後に君が必要になることも」
エレノアは目を伏せた。
その表情に、ほんの少しだけ痛みが浮かぶ。
必要になる。
その言葉は、彼女にとって慰めではないのだろう。
ずっと必要とされてきた。
だが、正しく扱われてこなかった。
カインは言い直した。
「君の能力が必要だ。だが、それ以上に、君の意思が必要だ」
エレノアは顔を上げた。
「私の意思」
「王宮に戻るかどうか。証言するかどうか。王妃の遺言状を開くかどうか。すべて、君が決める」
エレノアは長い沈黙のあと、胸元から黒い封筒を取り出した。
黒封蝋には、月桂樹と百合。
亡き王妃エレオノーラの個人紋章。
カインの表情が、初めてわずかに変わった。
重いものを見る目だった。
エレノアは封筒を両手で持つ。
「王妃様は、私に仰いました。王宮に居場所を失った時、カイン殿下へ見せなさいと」
「ああ」
「私は、居場所を失いました」
静かな声だった。
だが、その一言には、婚約破棄の痛みも、家族に切り捨てられた痛みも、十年分の沈黙も含まれていた。
「ですから、殿下にお見せします」
エレノアは、黒封蝋の遺言状を差し出した。
カインはすぐには受け取らなかった。
まず、彼女の目を見た。
「開ける覚悟はあるか」
「ありません」
エレノアは正直に答えた。
「ですが、開けなければならないのでしょう」
その答えに、カインはわずかに頷いた。
「なら、共に確認しよう」
黒封蝋の遺言状が、二人の間に置かれる。
王宮を揺るがす火種が、ようやく表へ出ようとしていた。




