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妹に婚約者も家名も奪われましたが、私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第8話 追放された令嬢は、祖母の屋敷で眠る

 祖母の旧邸には、王宮のような匂いがなかった。


 磨き上げられた大理石の冷たさも、香水と蝋燭が混ざった甘い息苦しさも、廊下を行き交う官吏たちの紙とインクの匂いもない。


 ここにあるのは、古い木の床の匂いと、乾いた本の匂いと、庭から入ってくる湿った土の匂いだった。


 エレノアは、その朝、窓辺の椅子に座ったまま、しばらく何もしていなかった。


 目の前の小さな丸机には、冷めかけた紅茶がある。


 アニーが淹れてくれたものだ。王宮で出される一級品ではない。茶葉も少し粗く、香りも強すぎる。けれど、湯気の向こうに誰かの思惑がないだけで、ひどく穏やかに感じられた。


 王宮で飲む紅茶には、いつも意味があった。


 誰に先に出すか。


 どの茶器を使うか。


 王妃の喪中にふさわしいか。


 隣国大使夫人の好みに合うか。


 王太子の機嫌を損ねないか。


 リリアナが寂しそうにしていないか。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど今、目の前の紅茶は、ただエレノアのために置かれている。


 それが、落ち着かなかった。


「お口に合いませんでしたか?」


 控えていたアニーが、不安そうに尋ねた。


 エレノアは顔を上げる。


「いいえ。美味しいわ」


「でも、全然召し上がっていらっしゃらないので」


「……飲むのを忘れていたの」


 そう答えると、アニーは少しだけ目を丸くした。


 王宮では、そんな返事をすれば笑われただろう。


 可愛げのない冗談だと。


 あるいは、疲れているなら休めばいいのにと、軽く流されただろう。


 だが、アニーは笑わなかった。


「お疲れなのです」


 彼女は、ただそう言った。


 エレノアは、手元の茶器を見下ろした。


「疲れているのかしら」


「はい」


「そう」


 自分では、よく分からなかった。


 疲れとは、もっと分かりやすいものだと思っていた。


 足が重いとか、目が霞むとか、頭が痛いとか。


 けれど今のエレノアは、体よりも内側のどこかが空洞になったようだった。


 怒りも、悲しみも、すぐには出てこない。


 ただ、何か大きな音が遠くで鳴ったあと、耳の奥に残る静けさのようなものがある。


 王太子ユリウスとの婚約が破棄された。


 妹リリアナが新たな婚約者候補になった。


 父と母は、妹を支えろと言った。


 王宮は、エレノアの机を片づけた。


 茶会は崩れ、隣国大使は帰国を告げ、王妃の遺品目録は合わなかった。


 それらは、確かに起きた出来事だ。


 けれど、その中心にいたはずのエレノアだけが、どこか一歩外に立っているようだった。


 王宮の崩壊を望んだわけではない。


 王太子が恥をかけばいいと思ったわけでもない。


 リリアナが泣けばいいと思ったわけでもない。


 ただ、もう自分が無償で駆けつけることはできないと思った。


 それだけだった。


 アニーが静かに言った。


「少し、お休みになりますか」


「昼間から?」


「はい」


「私は、そんなに怠け者に見える?」


「いいえ」


 アニーは、慌てて首を横に振った。


「ですが、このお屋敷では、具合が悪い時に休んでも叱られません」


 その言葉は、思いがけない場所を刺した。


 具合が悪い時に休んでも叱られない。


 そんな当たり前のことを、エレノアは少し考えなければ理解できなかった。


 王宮では、休むにも理由が必要だった。


 熱があっても、王太子の演説原稿が未完成なら起きた。


 頭痛がしても、王妃基金の支出承認が遅れていれば机に向かった。


 眠れなくても、翌朝の茶会席次を見直した。


 公爵家でも同じだった。


 リリアナが熱を出せば、家中が騒いだ。


 エレノアが熱を出せば、母は言った。


 あなたは強い子でしょう。


 強い子は、休む理由を持てない。


「少しだけ」


 エレノアは、ようやくそう言った。


「目を閉じるだけなら」


 アニーの顔が、ほっと緩んだ。


「寝室を整えてまいります」


「ここでいいわ」


「ここで、ですか」


「ええ。庭が見えるから」


 アニーは何か言いたそうにしたが、すぐに膝掛けを持ってきた。


 古い生成りの膝掛けだった。高価なものではない。けれど、丁寧に洗われ、よく干されている匂いがした。


 エレノアはそれを受け取り、膝にかける。


 窓の外では、祖母の庭が静かに揺れていた。


 手入れの行き届いた王宮庭園とは違う。


 枝は少し伸びすぎ、花壇の端には雑草もある。けれど、その不完全さが目に優しかった。


 いつの間にか、瞼が重くなる。


 眠るつもりはなかった。


 ただ、少し目を閉じるだけ。


 そう思った。


 しかし、意識は思ったより早く沈んだ。


 夢を見た。


 幼い頃の夢だった。


 公爵家の広い居間。


 暖炉の前で、リリアナが泣いている。


 原因は、エレノアの髪飾りだった。


 祖母から贈られた銀細工の髪飾り。小さな百合の花を模したもので、エレノアはそれを大切にしていた。


 リリアナが欲しがった。


 母が困ったように微笑む。


『エレノア、あなたはお姉様でしょう?』


 父は新聞から顔も上げずに言う。


『譲ってやれ。そんなもので揉めるな』


 そんなもの。


 エレノアにとっては、大切なものだった。


 けれど、そう言えなかった。


 言えば、リリアナがもっと泣く。


 母が困る。


 父が不機嫌になる。


 だから、差し出した。


 リリアナは泣き止み、母はほっとし、父は何も言わなかった。


 誰も、エレノアを褒めなかった。


 ただ、揉め事が終わっただけだった。


 次の夢では、王宮の廊下を歩いていた。


 書類を抱えたまま、ユリウスを追いかけている。


『殿下、今日の会議では西方領の税負担について問われます。先ほどの数字ではなく、こちらの修正版を』


『分かっている』


 ユリウスはそう言いながら、書類を見ない。


『殿下、セルベリア大使夫人には最初に王妃陛下のお見舞いへの礼を』


『細かいな、君は』


『必要なことです』


『だから息が詰まるんだ』


 夢の中のエレノアは、立ち止まらなかった。


 立ち止まれば、置いていかれるから。


 必要なことを言わなければ、誰かが失敗するから。


 失敗すれば、結局自分が後始末をするから。


 最後に、王妃の病室が見えた。


 白い寝台。


 薄く開いたカーテン。


 痩せた手。


 王妃エレオノーラは、枕元に座るエレノアへ微笑んでいた。


『エレノア』


『はい、王妃様』


『眠りなさい』


『まだ確認すべき書類が』


『眠りなさい』


 その声は、いつになく厳しかった。


『あなたが倒れれば、皆が困るからではありません』


 王妃は、細い指でエレノアの手に触れた。


『あなたが、あなた自身を失ってしまうからです』


 そこで、エレノアは目を覚ました。


 窓の外は、少し暗くなっていた。


 昼寝と呼ぶには、長く眠ってしまったらしい。


 暖炉には小さな火が入っている。膝掛けは肩まで引き上げられていた。アニーがしてくれたのだろう。


 エレノアは、しばらく動けなかった。


 夢の中の王妃の声が、まだ胸に残っていた。


 眠りなさい。


 たったそれだけの言葉で、涙が出そうになる。


 しかし、涙は落ちなかった。


 その代わり、扉の向こうで足音がした。


 控えめだが、急いでいる足音。


 アニーが扉を叩く。


「エレノア様」


「どうぞ」


 扉が開き、アニーが顔を出した。


 その表情は緊張している。


「王宮から、お客様です」


「マルタ?」


「いえ」


 アニーは息を整えた。


「王弟カイン殿下でございます」


 部屋の空気が、一瞬で変わった。


 エレノアは立ち上がろうとして、膝掛けが落ちそうになる。慌てて押さえた自分に、わずかに苦笑した。


 眠っていたせいで、髪も少し乱れているだろう。


 王弟を迎える姿としては、ふさわしくない。


 だが、もう王宮の完璧な令嬢として振る舞う気力はなかった。


「応接室へお通しして。すぐに行きます」


「はい」


 アニーが出ていく。


 エレノアは鏡の前に立った。


 顔色は悪い。


 目元には眠った後の淡い赤みがある。


 それでも、身だしなみだけは整えた。


 濃紺のドレスの襟元を直し、髪を軽くまとめ直す。


 胸元には、黒封蝋の遺言状がある。


 王妃が託したもの。


 そして、王妃が言った相手。


 王弟カインへ見せなさい。


 ついに、その時が来たのだ。


 応接室に入ると、カインは窓際に立っていた。


 王宮で見かける時と同じ、黒に近い礼服。


 無駄な装飾はない。


 だが、立っているだけで場の重心が変わる。


 彼の隣には、細身の秘書官らしき男が控えている。オスカーと名乗った記憶があった。


 エレノアが礼を取ると、カインはすぐに向き直った。


「突然の訪問を許してほしい」


「殿下をお迎えするには、粗末な屋敷で申し訳ございません」


「王宮より落ち着く」


 意外な返答だった。


 エレノアが少しだけ目を上げると、カインは真顔のままだった。


 冗談ではないらしい。


「お座りください」


「その前に、謝罪する」


 カインはそう言うと、深く頭を下げた。


 エレノアは息を呑んだ。


 王弟が、公爵令嬢に頭を下げる。


 それがどれほど異例か、彼女には分かる。


「殿下」


「王宮は、あなたを正しく扱わなかった。王太子妃候補の立場から外すなら、本来は正式な引継ぎと権限整理が必要だった。にもかかわらず、それを怠った」


「殿下が謝罪なさることではありません」


「王宮の失態だ。私は王宮の政務を預かる者として謝罪する」


 その言葉は、まっすぐだった。


 慰めではない。


 同情でもない。


 状況を正確に認めた上での謝罪だった。


 エレノアは、どう返せばよいのか分からなかった。


 ひどいことを言われた時の返し方なら分かる。


 感情を押し殺し、礼を取り、必要な言葉だけを返せばいい。


 だが、正しく謝罪された時の受け取り方を、彼女は知らなかった。


「……恐れ入ります」


 結局、それだけを言った。


 カインは顔を上げる。


「あなたを王宮に戻せと命じに来たわけではない」


 エレノアは静かに彼を見る。


「では、何のために」


「あなたの証言と、あなた自身の意思を確認しに来た」


「私の意思」


「ああ」


 カインは応接椅子に座るよう促した。


 エレノアが座ると、彼も向かいに腰を下ろす。オスカーは少し離れた場所に立ったままだった。


「王宮で、いくつかの問題が表面化した。茶会の失態。セルベリア大使の帰国。王妃遺産目録の不一致。王妃基金の不審な支出」


「……存じております」


「マルタからか」


「はい」


「なら、話が早い」


 カインは、持参した書類を机に置いた。


「これらは別々の失態ではない。王妃陛下の死後、あなたが外されたことで、抑えられていた歪みが表に出た」


「私は、抑えていたつもりはありません」


「だろうな」


 カインは淡々と言った。


「あなたは、仕事をしていただけだ」


 その一言に、エレノアは思わず目を伏せた。


 仕事をしていただけ。


 そう言われたのは、初めてだった。


 冷たいのではなく。


 可愛げがないのではなく。


 正しすぎるのでもなく。


 ただ、仕事をしていた。


 それを誰かにそのまま認められることが、こんなに苦しいとは思わなかった。


「エレノア嬢」


 カインの声が少しだけ低くなる。


「あなたは、王妃基金の不審に気づいていたな」


 エレノアは、すぐには答えなかった。


 窓の外で、風が樫の葉を揺らしている。


「断定はしておりません」


「気づいていたかと聞いている」


「……はい」


 認めると、胸の奥が重くなった。


「いつからだ」


「王妃様の病状が悪化される少し前からです。薬草園への支出記録と、実際の納入量が合いませんでした。その後、孤児院修繕費の差し戻し、慈善箱の封の傷、宝飾品担保の登録違いが続きました」


「記録は」


「手控えならございます。ただし、正式な機密文書は持ち出しておりません」


「当然だ」


 カインは頷いた。


「あなたなら、持ち出さない」


 その信頼の仕方に、エレノアはまた少し戸惑った。


 疑われることには慣れている。


 疑われないことには慣れていない。


「不審な支出先に、サルヴィ商会があるか」


 エレノアは、カインを見た。


「ご存じなのですね」


「調べた」


「はい。サルヴィ商会は、王妃基金から薬草園整備費を受けています。しかし、納入量と金額が釣り合いません。また、同商会はヴァレンシュタイン公爵家の後援を受けています」


「あなたの父だな」


「はい」


 父。


 その言葉を口にすると、胸の奥が微かに痛んだ。


 もう期待していないと思っていた。


 それでも、父が王妃基金に関わる不正に関与している可能性を考えると、体のどこかが冷える。


「父が直接関与した証拠は、まだありません」


「まだ、か」


「はい。断定できる段階ではありません」


「あなたは、父を庇っているのか」


 エレノアは首を横に振った。


「証拠なしに断じたくないだけです」


 カインの目が、わずかに細くなった。


 不快ではなく、評価するような目だった。


「王妃があなたを信じた理由が分かる」


 王妃。


 その名が出た瞬間、エレノアは胸元に手を当てた。


 カインはその動きを見逃さなかった。


「王妃陛下から、何か預かっているな」


 部屋が静まる。


 アニーが扉のそばで息を呑む気配がした。


 エレノアは、ゆっくりと黒い封筒を取り出した。


 黒封蝋には、月桂樹と百合。


 王妃エレオノーラの個人紋章。


 カインの表情が、初めてほんの少しだけ変わった。


「やはり」


「王妃様は、私に仰いました」


 エレノアは封筒を両手で持った。


「私が王宮に居場所を失った時、カイン殿下へ見せなさいと」


「あなたは、居場所を失ったと思うか」


 その問いは、思ったよりも静かだった。


 エレノアはすぐには答えられなかった。


 王宮の机は、もうリリアナのものになった。


 王太子の隣も、妹のものになった。


 公爵家に戻れば、父母はまた彼女に妹を支えろと言うだろう。


 ならば、自分の居場所はどこにあるのか。


 この古い屋敷は、静かだ。


 けれど、逃げ場所であっても、まだ居場所とは呼べない。


「失ったのだと思います」


 エレノアは言った。


「少なくとも、昨日まで私が立っていた場所は、もう私のものではありません」


「そうか」


 カインは短く答えた。


「なら、王妃の言葉どおりだ」


 エレノアは封筒を机の上に置いた。


 開けるべきか。


 まだ、手が動かない。


 王妃が何を遺したのか、知りたい。


 けれど、知ってしまえば、戻れない気もした。


 カインは急かさなかった。


 彼はただ、封筒ではなくエレノアを見ていた。


「開ける覚悟はあるか」


「ありません」


 エレノアは正直に答えた。


「ですが、開けなければならないのでしょう」


「おそらく」


「殿下は、内容をご存じですか」


「すべては知らない」


「一部は?」


「王妃は、王宮があなたを切り捨てることを予見していた」


 エレノアの指が、封筒の端に触れたまま止まる。


「なぜ……」


「この王宮は、便利な者を正しく評価しない。王妃はそれを知っていた」


「私は、便利だったのでしょうか」


「そうだ」


 カインは否定しなかった。


 その率直さに、エレノアは少しだけ息を呑む。


「あなたは便利だった。だから皆が甘えた。だが、便利であることと、軽んじてよいことは違う」


 その言葉は、静かに胸へ落ちた。


 慰めの言葉ではない。


 だから、嘘がなかった。


 エレノアは、黒封蝋を見つめた。


 王妃は、何を考えてこれを託したのか。


 自分を守るためか。


 王宮を裁くためか。


 それとも、もっと別の未来のためか。


「殿下」


「何だ」


「もし、この遺言状に王宮を揺るがすことが書かれていた場合、私はどうなりますか」


「私が保護する」


「王弟殿下として?」


「宰相として。そして、王妃に託された者を守る者として」


 エレノアは目を伏せた。


 守る。


 その言葉に、甘さはなかった。


 だからこそ、信じられる気がした。


 カインは花束を差し出しているのではない。


 情熱的な言葉を囁いているわけでもない。


 ただ、必要な権限と保護を提示している。


 エレノアにとって、それはどんな甘い言葉よりも現実的だった。


「では」


 エレノアは静かに言った。


「王妃様の遺言状を、確認いたします」


 黒封蝋へ手をかける。


 しかし、その時、カインが手を上げた。


「待て」


「何か」


「開封には証人がいる」


 オスカーが一歩前へ出る。


「私が記録を」


「いいえ」


 エレノアは首を横に振った。


 カインが彼女を見る。


「なぜ」


「王妃様は、私が王宮に居場所を失った時、殿下へ見せなさいと仰いました。ですが、遺言状である以上、正式な開封記録が必要です。王宮へ戻るつもりはありませんが、手続きは守るべきです」


 カインの口元が、ほんのわずかに動いた。


 今度は、微かに笑ったのかもしれない。


「あなたらしい」


「冷たいでしょうか」


「いや」


 カインは即答した。


「正しい」


 その一言で、エレノアは不覚にも言葉を失いかけた。


 正しい。


 その言葉は、ユリウスが言った時には責める刃だった。


 君は正しすぎる。


 けれど、カインの声では違った。


 正しいことが、欠点ではないものとして扱われていた。


 エレノアは、少しだけ息を吸った。


「では、正式な証人を」


「マルタを呼ぶ。王妃の最期に立ち会った女官長だ。加えて、私の秘書官オスカーが記録を取る。開封場所は、この屋敷でよい。王宮に持ち込めば、余計な手が伸びる」


「よろしいのですか」


「今の王宮より、この屋敷の方が安全だ」


 皮肉でも冗談でもなく、カインはそう言った。


 エレノアは黒封蝋の封筒を見つめる。


 まだ開けない。


 けれど、もう逃げることはできない。


 いや、違う。


 逃げられないのではない。


 自分で開けると決めたのだ。


 その差は、今のエレノアにとって大きかった。


「アニー」


 エレノアが呼ぶと、扉のそばの侍女が背筋を伸ばした。


「はい」


「マルタへ使いを。王妃陛下の件で、至急こちらへ来てほしいと」


「かしこまりました」


 アニーが部屋を出ていく。


 その足音を聞きながら、エレノアは窓の外へ視線を向けた。


 祖母の庭は夕闇に沈み始めていた。


 王宮では、今も誰かが書類を探し、誰かが責任を押しつけ、誰かが泣いているのだろう。


 その中心へ、いずれ戻らなければならない。


 だが、もう以前と同じ戻り方はしない。


 婚約者としてでもない。


 公爵家の娘としてでもない。


 妹を支える姉としてでもない。


 王妃が最後に信じた証人として。


 エレノアは、黒封蝋の遺言状にそっと手を置いた。


「王妃様」


 声は小さかった。


「私は、今度こそ記録を見ます」


 カインは何も言わなかった。


 ただ、静かに頷いた。


 その夜、祖母の旧邸には久しぶりに明かりが灯り続けた。


 王宮から遠く離れた古い屋敷。


 追放された令嬢が眠り、目を覚ました場所。


 そこに、亡き王妃の遺言状が置かれている。


 王宮を揺るがす真実は、まだ黒い封蝋の奥で眠っていた。

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