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第59話 夫人会、窓布を掛ける日

 夫人会が孤児院へ行く、と聞いた時、王宮の何人かは少し奇妙な顔をした。


 慈善慰問なら、これまでにもあった。


 花を持って行く。

 菓子を持って行く。

 子供たちへ微笑みかける。

 院長から感謝の言葉を受け取る。

 帰ってから茶会で「子供たちがとても喜んでいた」と語る。


 そういう訪問なら、王都の貴婦人たちは慣れている。


 だが今回は違った。


 目的は、窓布を掛けることだった。


 しかも、王妃基金評議会の記録に基づく正式な作業補助である。


 持参品は、花束ではない。


 布紐。

 針。

 補修用の糸。

 留め具。

 替えの札。

 受領記録用紙。

 作業確認欄付きの窓布管理表。


 南区孤児院の北側寝室では、雨漏り修繕後に窓布が掛けられたが、まだ全室分が整っていなかった。


 特に食堂と洗濯場に近い小部屋は、古い布を仮留めしているだけで、風が入る。


 その作業を、夫人会が手伝う。


 ただそれだけの話だ。


 だが、その「ただそれだけ」を本当に行うために、デリア・ラングフォード侯爵夫人は三日かけて参加者を絞った。


 最初の希望者は多かった。


 判決後、夫人会の評判は地に落ちている。


 誰もが少しでも名誉を取り戻したかった。


 孤児院へ行き、王妃基金再建に協力したとなれば、社交界で語れる。


 そう考えた夫人たちが、何人も名乗り出た。


 だが、ミリアム・ローゼン侯爵夫人が参加条件を書いた紙を回した途端、人数は半分以下になった。


 条件は簡単だった。


 華美な服装禁止。

 香水禁止。

 作業中の私語制限。

 子供へ個人的な贈り物を渡す場合は事前記録。

 写真画、肖像画、宣伝用記録画の依頼禁止。

 孤児院側から礼を求めない。

 手が汚れる作業を拒否しない。

 体調が悪くなった場合はすぐ申告し、無理に働き続けない。


 この時点で、まず「香水禁止」に顔をしかめた者がいた。


 次に「礼を求めない」で黙った者がいた。


 最後に「手が汚れる作業を拒否しない」で、何人かは都合が悪くなった。


 結局、参加者は五人になった。


 デリア夫人。


 ミリアム夫人。


 若い伯爵夫人のエミリア。


 子爵未亡人のクララ。


 そして、夫人会に入ったばかりの準男爵夫人メイベル。


 この五人に、王妃基金臨時長としてエレノア、学習補助としてリリアナ、記録係としてオスカー、立会いとしてマルタが同行する。


 カインは来ない。


 王弟が行けば、また現場の動きが硬くなるからだ。


 ただし、王弟府から護衛は最低限つけられた。


 出発前、北翼の小会議室で最終確認が行われた。


 机の上には、窓布管理表が並んでいる。


 リリアナが作った分かりやすい説明版も添えられていた。


 ――どの窓に、どの布を掛けたか分かるように番号をつけます。

 ――布が傷んでいたら、勝手に捨てず、傷み欄に書きます。

 ――子供に手伝ってもらう時は、危ない作業をさせません。

 ――「これくらい大丈夫」と思った時ほど、確認しましょう。


 最後の一文は、ロウ夫人の言葉をリリアナが少し柔らかくしたものだった。


 ミリアム夫人はそれを読み、微笑んだ。


「リリアナ様、ずいぶん分かりやすくなりましたわ」


「ありがとうございます。でも、ロウ夫人に見せたら、まだ長いって言われるかもしれません」


「たぶん言われますわね」


 ミリアム夫人はあっさり頷いた。


 デリア夫人は、今日も控えめな濃紫の服を着ていた。以前の彼女なら、慈善訪問にも品の良い宝飾を添えただろう。


 今日は指輪も最小限だ。


 ただ、手袋だけは上等だった。


 それを見たミリアム夫人が、少し眉を上げる。


「その手袋で作業なさるの?」


 デリア夫人は手元を見て、少し気まずそうにした。


「……替えを持ってきました」


「汚れる方を最初からお使いになった方がよろしいですわ」


「分かっています」


 デリア夫人は、小さな布袋から簡素な手袋を出した。


 慣れない手つきで付け替える。


 その動作が、どこか象徴的だった。


 美しく見せるための手から、作業するための手へ。


 リリアナは、それをじっと見ていた。


 デリア夫人は視線に気づき、少しだけ苦笑した。


「変ですか?」


「いいえ」


 リリアナは首を横に振った。


「私も最初、作業用の服に慣れませんでした」


「今も慣れているようには見えませんわ」


 ミリアム夫人がさらりと言う。


 リリアナは頬を赤くした。


「少しは慣れました」


「少し、ですわね」


「はい。少しです」


 以前なら、そこでむきになっていただろう。


 でも今のリリアナは、少しと認められる。


 それもまた、変化だった。


 馬車の中でも、夫人たちは静かだった。


 いつもの茶会へ向かうような華やかさはない。


 エミリア伯爵夫人は若く、緊張しているのか何度も手袋を直していた。


 クララ夫人は未亡人らしい落ち着きで窓の外を見ている。


 メイベル夫人は、明らかに不安そうだった。


「私、針仕事は得意ではなくて」


 彼女が小声で言った。


 リリアナがすぐに反応する。


「私もです。玉結びが大きすぎると注意されました」


 メイベル夫人は驚いたように彼女を見た。


「リリアナ様が?」


「はい。孤児院のニナさんに教えてもらいました」


「孤児院の子に……」


 メイベル夫人の声には、ほんの少しだけ戸惑いがあった。


 悪意ではない。


 ただ、貴族令嬢が孤児院の子から針を教わるという光景を、すぐには飲み込めなかったのだろう。


 リリアナは、その戸惑いを感じ取った。


 少し前の自分も、同じように戸惑ったはずだ。


「とても上手でした」


 リリアナは言った。


「私は教わらなかったら、布が引っかかる結び方をしていました」


 ミリアム夫人が横から微笑む。


「大きすぎる善意は布を引っかける、ですわね」


 エミリア伯爵夫人が首を傾げる。


「それは?」


 リリアナとミリアム夫人は、顔を見合わせて少し笑った。


「今日、分かると思います」


 南区孤児院へ着くと、ロウ夫人がいつもの黒い服で出迎えた。


 相手が侯爵夫人であろうと、公爵令嬢であろうと、王妃基金臨時長であろうと、態度は変わらない。


「ようこそ。作業場所はこちらです。今日は寒いので、上着は邪魔にならない場所へ。香りの強いものを身につけている方はいませんね?」


 貴婦人たちが一瞬、顔を見合わせた。


 歓迎の言葉より先に香りの確認。


 これがロウ夫人である。


 デリア夫人は静かに答えた。


「本日は香水を使っておりません」


「ありがとうございます。子供の中に、香りで咳が出る子がいますので」


 その説明に、デリア夫人はわずかに表情を変えた。


 香水禁止。


 それは、夫人会への嫌味ではなかった。


 必要な配慮だった。


「配慮が足りませんでした」


「今日から足せばよろしいと思います」


 ロウ夫人はそう言って、すぐに中へ案内した。


 孤児院の廊下には、前回より少し温かさがあった。


 窓布が増えたからだろう。


 北側寝室の雨漏りは止まり、子供たちは食堂へ寝台を移さずに済んでいる。


 それでも、建物全体はまだ古い。


 窓枠は歪み、壁の漆喰は剥がれ、小部屋の隅には風が入る。


 ロウ夫人は食堂の窓を指した。


「今日はここからです。食堂は子供たちが長く過ごします。仮布では風を防ぎきれません」


 机の上には、布束が並んでいた。


 夫人会から持ち込まれた布もある。


 ただし、豪華なものではない。


 厚手で洗いやすく、色も落ち着いたものだ。


 以前の夫人会なら、見た目の美しい布を選んだかもしれない。


 今日は、ロウ夫人が事前に「洗えること、乾きやすいこと、丈夫なこと」を条件として出していた。


 ミリアム夫人は、その条件通りに選んだらしい。


「色が地味ではありませんか?」


 エミリア伯爵夫人が少し気にしたように言う。


 ロウ夫人は即答した。


「汚れが見えないほど濃すぎず、汚れが目立ちすぎるほど薄すぎず、良い色です」


「そういう見方なのですね」


「はい。汚れが見えないと洗い時を逃します。目立ちすぎると、子供たちが気にします」


 エミリア夫人は、少し恥ずかしそうに頷いた。


 布一枚にも、現場の理由がある。


 見栄えだけでは決められない。


 作業は、まず番号確認から始まった。


 リリアナが説明する。


「窓には上から順番に番号がついています。布にも同じ番号をつけます。混ざると、次に洗った時に合わなくなるそうです」


 メイベル夫人が、布を見ながら言った。


「同じ大きさに見えますけれど」


 ロウ夫人が窓枠を指した。


「古い建物ですので、全部少しずつ違います」


「そんなに?」


「測ると分かります」


 オスカーが寸法表を出した。


 一番窓、幅が指二本分広い。

 二番窓、右下に歪みあり。

 三番窓、留め具位置高め。

 四番窓、枠欠けあり。


 貴婦人たちは、その表を見て少し黙った。


 窓は窓。


 そう思っていたものが、一つずつ違う。


 それは、人間と同じかもしれない。


 同じ「子供」「貧しい人」「支援先」と一括りにしていたものが、実際にはそれぞれ違うように。


「では、一番から」


 ミリアム夫人が袖をまくった。


 その姿を見て、他の夫人たちも慌てて動く。


 デリア夫人は記録係に回った。


 自分からそう申し出た。


「私は作業の手より、確認の方が向いていると思います。ですが、書くだけでなく、現物も見ます」


 ロウ夫人は彼女を見て、少しだけ頷いた。


「では、番号と傷み欄をお願いします」


「承知しました」


 かつて夫人会の別口資金を見逃した代表が、今は孤児院の窓布の傷み欄を書く。


 その光景に、エレノアは静かな意味を感じた。


 罰だけではない。


 役目を変える。


 それも再建なのだ。


 最初の難関は、留め具だった。


 古い窓枠に新しい布を掛けようとすると、位置が微妙に合わない。


 職人を呼ぶほどではないが、手間はかかる。


 ミリアム夫人が布を持ち、エミリア夫人が紐を通し、マルタが支える。


 リリアナは番号確認。


 メイベル夫人は針を持って立っていたが、少し手が震えていた。


 ニナが横から見ている。


 前回、リリアナに玉結びを教えた少女だ。


 今日も、実に真剣な顔をしている。


「あの」


 ニナが言った。


 メイベル夫人が振り向く。


「そこ、先に端を折った方がいいです。ほつれます」


 貴族夫人に、孤児院の少女が作業指示を出す。


 場が一瞬だけ止まった。


 メイベル夫人の顔に、戸惑いが浮かぶ。


 だが、リリアナがすぐに言った。


「ニナさんは布に詳しいです。私も教わりました」


 その一言で、メイベル夫人は少し息を吐いた。


「では、教えてくださる?」


 ニナは、少しだけ驚いた顔をした。


「いいんですか」


「ええ。私は分からないまま縫う方が怖いです」


 その返事は、リリアナの胸にすっと入ってきた。


 分からないまま進めない。


 ここでも同じだった。


 ニナはメイベル夫人の横へ行き、小さな手で布端を折る。


「こうです。ここを少し内側に」


「なるほど」


「玉結びは小さめに」


「それは聞いたことがありますわ」


 メイベル夫人は、少しだけ笑った。


 ニナも笑った。


 最初の緊張が、少しほぐれた。


 作業は思ったより時間がかかった。


 布を掛けるだけなら簡単に見える。


 だが、実際には違う。


 窓枠を拭く。

 傷みを確認する。

 布番号を合わせる。

 端を補強する。

 紐を通す。

 留め具を確認する。

 掛けた後に隙間を見る。

 記録する。


 そのたびに、誰かが「これくらい大丈夫では」と言いかける。


 そして誰かが「確認しましょう」と止める。


 最初に「これくらい」と言ったのはエミリア夫人だった。


 二番窓の右下に少し隙間が残った時だ。


「でも、ほんの少しですし」


 ロウ夫人が振り向いた。


「そのほんの少しから風が入ります」


 エミリア夫人はすぐに顔を赤くした。


「申し訳ありません」


「責めているのではありません。ここでは、ほんの少しが夜になると大きくなります」


 リリアナは、その言葉を手帳に書いた。


 ――現場では、ほんの少しが夜になると大きくなる。


 王宮では見逃されるような隙間も、子供の寝る場所では寒さになる。


 数字の端数も、布の隙間も、名前の聞き間違いも。


 小さなものが、誰かの夜を変える。


 三番窓の作業中、クララ夫人が急に手を止めた。


 彼女は未亡人で、落ち着いた人だったが、窓枠の古い傷を見つめたまま黙っている。


 ミリアム夫人が気づいた。


「クララ様?」


 クララ夫人は、少しだけ微笑んだ。


「いえ。昔、夫の領地の古い診療所にも、こういう窓がありました。私はそこへ花を持って行ったことはあったのですが、窓を見たことはありませんでした」


 静かな告白だった。


「花瓶は覚えているのです。子供たちが喜んだ顔も。でも、窓の隙間は覚えていない」


 誰もすぐには言葉を返さなかった。


 クララ夫人は、自分の手で窓枠を撫でた。


「私は、見たいものだけ見ていたのですね」


 デリア夫人が記録の手を止めずに言った。


「私たちの多くが、そうでしたわ」


「これからは?」


 クララ夫人が問う。


 デリア夫人は少し考えた。


「花瓶も見て、窓も見ます」


 その答えに、ロウ夫人が小さく頷いた。


「それでよろしいと思います。花も、悪いものではありません」


「そうなのですか?」


 エミリア夫人が驚いたように聞く。


 ロウ夫人は少しだけ笑った。


「子供たちは花も喜びます。ただ、花だけでは寒さは防げません」


 その一言に、夫人たちはそれぞれの顔で頷いた。


 慈善のすべてが間違っていたわけではない。


 菓子も花も、笑顔も、時には必要だ。


 ただ、それだけで終わっていたことが問題だった。


 昼近くになり、半分の窓布が掛かった。


 子供たちは食堂の端で作業を見守っている。


 手伝いたそうにする子もいるが、ロウ夫人が危ない作業は止めている。


 その代わり、番号札を運ぶ係、布端の糸くずを集める係、完成した窓を見て隙間を探す係が作られた。


 隙間を探す係の子供たちは、妙に張り切った。


「ここ、風!」


「ここも!」


「これは大丈夫?」


 次々に指摘が入る。


 エミリア夫人は最初こそ戸惑っていたが、だんだん真剣に応じるようになった。


「そこはもう少し締めましょう」


「ここは?」


「そこは……ロウ夫人、どうでしょう」


 分からない時に聞く。


 それが自然になっていく。


 リリアナは、その様子を見て思った。


 これは夫人会だけの作業ではない。


 子供たちも、自分の過ごす場所を確認している。


 支援される側が、ただ受け取るだけではない。


 一緒に困らない形を探す。


 自分が言った言葉が、ここで少し形になっている。


 昼食は、孤児院の食堂で取った。


 夫人たちも、子供たちと同じ簡単なスープとパンを食べた。


 王宮から持ち込んだ菓子はない。


 今日は作業日であり、慰問日ではないからだ。


 メイベル夫人は最初、木の椀を両手で持つのに少し戸惑っていたが、一口飲むと小さく言った。


「温かいです」


 ニナが隣で言う。


「今日は具が多い日です」


「そうなの?」


「はい。昨日、麦が届いたから」


 メイベル夫人は、スープの中の麦を見た。


 王妃基金から届いた麦。


 救貧院にも、孤児院にも、こうして届いている。


 彼女は、ゆっくり食べた。


 午後の作業では、洗濯場の小窓に取りかかった。


 ここが最も難しかった。


 窓枠が歪んでいるだけでなく、湿気が多く、布がすぐ傷みやすい。


 ロウ夫人は言った。


「ここは高価な布より、替えやすい布の方がいいです」


 デリア夫人が記録しながら問う。


「見栄えより交換頻度、ですね」


「はい。洗濯場ですから」


「では、管理表にも交換目安欄を足しましょう」


 デリア夫人が自然に言った。


 エレノアは、その横顔を見た。


 以前のデリア夫人なら、こういう実務の細部を現場任せにしていたかもしれない。


 今は、自分で欄を足す提案をしている。


 小さな変化。


 だが、本物の変化だった。


「交換目安欄、よいと思います」


 エレノアが言うと、デリア夫人は少しだけ安堵したように頷いた。


「ありがとうございます」


「ただし、欄を増やしすぎると現場が困ります」


 すぐに付け加えると、デリア夫人は苦笑した。


「ええ。リリアナ様に確認していただきましょう」


 リリアナは急に振られて驚いた。


「私ですか?」


「分かりやすさを見る係ですもの」


「そうでした」


 リリアナは管理表を見て、少し考えた。


「交換目安は、難しい言い方かもしれません。『次に見る日』では駄目ですか?」


 ロウ夫人がすぐに頷いた。


「その方がいいです」


 デリア夫人は、素直に書き直した。


 交換目安欄、ではなく、次に見る日。


 言葉ひとつで、記録は現場に近づく。


 夕方前、すべての窓布が掛かった。


 食堂、小部屋、洗濯場、北側廊下。


 完璧ではない。


 古い建物は古いままだ。


 窓枠の歪みも、壁の傷も、すべては直っていない。


 だが、風は明らかにやわらいでいた。


 子供たちが食堂に集まり、窓の前で手をかざしている。


「寒くない!」


「ここ、前より平気」


「布、曲がってる?」


「それは味ですわ」


 エミリア夫人が言い、すぐにロウ夫人に見られて慌てた。


「いえ、確認します」


 子供たちが笑った。


 夫人たちも笑った。


 デリア夫人は、最後の確認欄に署名した。


 夫人会代表としてではない。


 作業確認者の一人として。


 署名する手が、少しだけ止まる。


 エレノアはそれを見ていた。


「どうかされましたか」


「いえ」


 デリア夫人は、紙から目を離さずに言った。


「署名の前に、今日は本当に見たかを考えました」


「それは大事です」


「ええ」


 彼女は、自分の名前を書いた。


 デリア・ラングフォード。


 その下に、空欄理由欄ではなく、確認内容を書いた。


 ――窓番号一から八。布番号一致。傷みなし。洗濯場小窓のみ、七日後再確認。


 デリア夫人はペンを置いた。


「こんなに短い署名なのに、以前より重いですわね」


 エレノアは静かに頷いた。


「見た署名ですから」


 帰り際、ロウ夫人が夫人たちを玄関先まで送った。


 感謝の言葉は短かった。


「助かりました」


 それだけ。


 だが、今日の夫人たちには、その短さで十分だった。


 以前なら、もっと丁寧な礼を期待した者もいたかもしれない。


 今日は誰も不満を言わなかった。


 メイベル夫人は、ニナに向かって少し腰をかがめた。


「教えてくださってありがとう」


 ニナは照れたように首を振った。


「玉結び、小さくなりました」


「ええ。あなたのおかげです」


 ニナは、少し誇らしそうに笑った。


 リリアナはその横で、自分まで嬉しくなった。


 馬車に戻る前、デリア夫人がエレノアに言った。


「今日のことを、夫人会で報告します」


「お願いします」


「ただし、成功談としてではなく、作業報告として」


「その方がよいと思います」


「失敗も報告します。手袋のことも、隙間を見落としかけたことも、布の言葉を間違えたことも」


「それも重要です」


 デリア夫人は、小さく息を吐いた。


「夫人会は、華やかな成功報告ばかり集めてきました。これからは、失敗報告も残さなければなりませんね」


 ミリアム夫人が横から言う。


「失敗報告会なんて、社交界で流行るかしら」


「流行らなくて結構です」


 デリア夫人は即答した。


「でも、必要です」


 その言葉に、ミリアム夫人は満足げに微笑んだ。


 帰りの馬車の中は、朝より静かだった。


 疲れていた。


 手も、肩も、腰も。


 貴婦人たちの中には、普段使わない筋肉が悲鳴を上げている者もいる。


 それでも、空気は悪くなかった。


 エミリア夫人が、ぽつりと言った。


「花を持って行く方が、ずっと楽でした」


 誰も否定しなかった。


 彼女は続ける。


「でも、今日の方が……何と言えばいいのでしょう。帰ってから、子供たちがどうしているか想像できます」


「窓の前にいるかもしれませんわね」


 ミリアム夫人が言う。


「隙間を探しているかも」


 リリアナが言うと、メイベル夫人が笑った。


「それは困ります。見つかったら直しに行かないと」


「行けばよろしいのです」


 デリア夫人が言った。


 その声に迷いはなかった。


「夫人会の作業は、今日で終わりではありません。七日後に洗濯場小窓の再確認があります」


 馬車の中で、夫人たちは顔を見合わせた。


 七日後。


 もう次の予定がある。


 慈善は一度行って終わりではない。


 次に見る日がある。


 そのことを、今日全員が覚えた。


 王宮へ戻った後、エレノアは作業報告をまとめた。


 ――南区孤児院窓布作業。夫人会参加五名。食堂、小部屋、洗濯場、北側廊下に布設置。番号管理実施。洗濯場小窓は湿気により七日後再確認。作業中、孤児院児童ニナより布端処理指導あり。夫人会側、現場指示を受け入れ作業継続。署名者デリア・ラングフォード、現物確認済み。


 その下に、付記として書く。


 ――夫人会慈善活動は、慰問から作業支援へ一部転換可能。成功報告のみならず、失敗報告および再確認日を残すことが必要。


 書き終えると、リリアナが横から覗き込んだ。


「今日の報告、私も書いていい?」


「もちろん」


 リリアナは自分の紙を広げ、しばらく考えてから書き出した。


 ――夫人会の方々と孤児院へ行き、窓布を掛ける手伝いをした。布には番号が必要で、窓は全部同じではない。香水禁止は礼儀ではなく、咳が出る子への配慮だった。花も悪くないが、花だけでは寒さは防げない。

 ――分かったこと。見栄えのよい支援と、夜に寒くない支援は違うことがある。

 ――次に確認すること。七日後、洗濯場小窓が湿気でどうなったか。


 エレノアはそれを読んだ。


「とてもよい報告ね」


 リリアナは少しだけ嬉しそうにした。


「本当?」


「ええ。特に、花も悪くないが、花だけでは寒さは防げない、というところ」


「ロウ夫人の言葉です」


「あなたの記録として残す価値があるわ」


 リリアナは頷き、最後に一文を足した。


 ――大きすぎる善意は布を引っかける。小さく結んでも、ほどけないようにする。


 それを見て、エレノアは少し笑った。


「いい言葉ね」


「ニナさんとミリアム夫人のおかげです」


「そうね」


 窓の外は、もう暗くなり始めていた。


 南区孤児院では、今夜、食堂の風が少しやわらいでいるだろう。


 子供たちは窓布を触り、番号札を見て、隙間を探しているかもしれない。


 七日後には、また誰かが見に行く。


 それが大事だった。


 一度の善意ではなく、次に見る約束。


 夫人会は、ようやくその入口に立った。

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