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第58話 ベルナール卿の証言補足

 ベルナール卿から補足証言の申し出があった。


 その報告が届いたのは、公爵家からの手紙を受け取った翌朝だった。


 北翼の執務室には、まだ昨夜の静けさが少し残っていた。机の端には、エレノア宛ての母セレスティアからの手紙が置かれている。返事はまだ書いていない。


 その横に、新しい報告書が置かれた。


 差出人は、ベルナール分家監督官。


 内容は短い。


 ――ベルナール卿、体調の許す範囲で追加証言を希望。

 ――主な内容は、オルガ・ベルナール夫人の行動について、自身が「知らなかった」と述べた範囲の補足。

 ――また、分家財産の一部を王妃基金補填へ充てる意思を示す。

 ――証言場所はベルナール邸内を希望。医師立会い必須。


 エレノアは、その文字をしばらく見つめた。


 ベルナール卿。


 オルガの夫。


 病弱な当主。


 妻と家令に守られ、知らされず、しかし完全に何も気づいていなかったわけではない男。


 裁判では、彼は被告ではなく関係証人として扱われた。直接の指示や資金工作への関与は認められず、病床にいたことも考慮された。


 けれど、彼自身はそれで終わらせたくないらしい。


「補足証言、ですか」


 隣で報告書を読んだオスカーが呟いた。


「判決後に申し出るのは珍しいですね」


「珍しいけれど、不自然ではありません」


 エレノアは答えた。


「判決が出たことで、ようやく話せることもあるのでしょう」


 判決前の証言は、どうしても自分や家を守る色が混ざる。


 判決後は違う。


 処分は下った。


 逃げ道は減った。


 だからこそ、自分の中に残ったものを言葉にしようとする者もいる。


 それが罪を軽くするためなのか。


 悔悟なのか。


 あるいは、ただ黙っていられなくなっただけなのか。


 それは聞いてみなければ分からない。


 扉が叩かれた。


 入ってきたのはカインだった。


 いつものように無駄のない足取りで近づき、エレノアの前の報告書を見た。


「ベルナール卿か」


「はい。補足証言を希望しています」


「行くのか」


「行くべきだと思います」


「体調は?」


「医師立会いで短時間なら可能とのことです」


 カインは少し考えた。


「私も同行する」


「王弟殿下が?」


「ベルナール分家の監督処理に関わる。分家財産の一部補填を申し出ているなら、王家代表が聞く必要がある」


「分かりました」


 そう答えた時、廊下から軽い足音が近づいてきた。


 そして、扉の向こうで止まる。


「入ってもいい?」


 リリアナだった。


 エレノアが許可すると、リリアナは手帳を抱えて入ってきた。今日は午前の基礎実務教育があるはずだが、まだ始業前らしい。


「おはようございます。……何かあったの?」


 彼女は部屋の空気を見て、少しだけ表情を引き締めた。


「ベルナール卿が補足証言を希望しているの」


「オルガ様の旦那様?」


「ええ」


 リリアナは、少し考えた。


「病気の方よね」


「そう」


「知らないまま守られていた人」


 エレノアは頷いた。


 その言い方は、少し鋭い。


 以前なら、リリアナは「かわいそうな方」と言ったかもしれない。今は、もう少し違う見方をしている。


「私、同席しない方がいい?」


「今回は、しない方がいいわ」


 エレノアはすぐに答えた。


「病床での証言になるし、分家財産やオルガ夫人の内情にも触れる。あなたの学習には、あとで要約を共有する形がいいと思う」


「分かった」


 リリアナは素直に頷いた。


 少し前なら「私も知りたい」と食い下がったかもしれない。


 今は、知ることにも段階があると理解し始めている。


「でも、あとで教えて」


「もちろん」


「知らないままにしないで」


 その言葉に、エレノアは少しだけ胸を突かれた。


 知らないままにしないで。


 リリアナの願いでもあり、ベルナール卿の後悔でもある。


「約束するわ」


 エレノアが答えると、リリアナは安心したように頷いた。


 それから、ふとカインを見た。


「殿下、今日は休憩予定を入れていますか?」


 カインの眉が、ほんのわずかに動いた。


「朝からそれか」


「大事です」


「入れている」


「何時ですか?」


「夕刻」


「長さは?」


「……一時間」


 リリアナは満足そうに頷いた。


「よろしいと思います」


 王弟殿下に対して「よろしいと思います」と言える令嬢は、王国中を探してもそう多くないだろう。


 カインは何も言わなかった。


 だが、エレノアには少しだけ面白がっているように見えた。


 ベルナール邸へ向かったのは、その日の午後だった。


 空は晴れていたが、風は冷たい。


 馬車の中で、エレノアはベルナール分家の資料を読み返していた。


 ベルナール家は、ヴァレンシュタイン公爵家の分家である。


 領地は小さく、収入も多くない。


 当主ベルナール卿は若い頃から体が弱く、社交にも出られなかった。


 妻オルガは、その代わりに夫人会や慈善活動で顔をつなぎ、家の名を保ってきた。


 それだけなら、献身的な妻だった。


 だが、その献身はいつしか、分家を本家の上へ押し上げる執着へ変わった。


 夫を守ると言いながら、夫に知らせなかった。


 家を守ると言いながら、家を罪へ巻き込んだ。


 その構図は、どこかヴァレンシュタイン公爵家とも似ている。


 家を守る。


 娘を守る。


 夫を守る。


 守るという言葉は、どうしてこれほど簡単に人を閉じ込めるのだろう。


「考え込んでいるな」


 向かいに座るカインが言った。


「ベルナール卿の証言内容を考えていました」


「それだけか?」


「……分家と公爵家は似ていると思いました」


 カインは黙って続きを促した。


「誰かを守るという名で、本人を遠ざける。父は家のために私とリリアナを駒にした。母はリリアナを守るために何も知らせなかった。オルガ夫人は夫を守るために夫へ知らせなかった。アルマンは当主を守るために家を動かした」


「そして守られた側も、知らないことで楽をすることがある」


 カインが言った。


 エレノアは顔を上げた。


「はい」


 リリアナも、そう認め始めている。


 ベルナール卿も、前にそう言っていた。


 知らないまま守られることを選んだ、と。


「人は、自分が見ないで済む理由を与えられると、思ったより簡単に受け取る」


「殿下も?」


「私もだ」


 意外な返答だった。


 エレノアが黙っていると、カインは窓の外を見たまま続けた。


「王家の人間は、見ようと思えば多くを見られる。だが、すべては見られない。だから部下を置く。制度を置く。報告を読ませる。そこで、見ない理由も生まれる」


「殿下でも、見なかったものがあると?」


「ある」


 短い答えだった。


 それ以上は言わない。


 だが、その一言だけで十分だった。


 カインは完璧な監督者ではない。


 彼もまた、見落としたものを抱えている。


 それを自覚しているからこそ、今の彼の厳しさがあるのかもしれなかった。


 ベルナール邸は、判決前よりさらに静かになっていた。


 門前に派手な馬車はない。


 訪問客もいない。


 庭は手入れされているが、どこか寂しい。


 家令アルマンがいなくなったことで、屋敷の芯が抜けたようにも見える。


 しかし、使用人たちは逃げ散ってはいなかった。


 王家監督下で給金が仮払いされ、療養費も止められていないからだ。


 監督官の判断は正しかった。


 屋敷に入ると、暫定家政補助官が出迎えた。


「ベルナール卿は寝室でお待ちです。医師も同席しております」


 案内された寝室は、以前と同じく薄暗かった。


 薬草の匂い。


 厚い布の掛かった窓。


 小さな暖炉。


 寝台の上で、ベルナール卿は上体を起こしていた。


 顔色は悪い。


 だが、目は前よりはっきりしていた。


 病人の弱さの奥に、何かを言い切ろうとする緊張があった。


「王弟殿下。エレノア様」


 彼は、浅く頭を下げようとした。


 カインが止める。


「そのままでいい」


「失礼いたします」


 ベルナール卿は、かすかに微笑んだ。


「判決の後にお呼び立てする形になり、申し訳ありません」


「証言の申し出があったと聞きました」


 エレノアが言うと、彼は頷いた。


「はい。昨日まで、私は『知らなかった』と言いました。それは嘘ではありません。ですが、十分ではありませんでした」


 医師が脇で脈を見ている。


 証言は短時間に限られる。


 エレノアは記録紙を用意した。


「どういう意味でしょうか」


「私は、詳細を知りませんでした。妻が何に誰を使い、どの金をどこへ流したのか。アルマンがどの帳簿を隠したのか。それは知らなかった」


 ベルナール卿は、そこで一度咳をした。


 医師が薬湯を差し出す。


 彼は一口飲み、続けた。


「けれど、妻が何かを急いでいることは知っていました」


 エレノアの筆が動く。


「いつ頃から?」


「王妃陛下の病が重くなった頃です。妻は、夫人会の用事が増えたと言って外出が多くなった。帰ってくると、ひどく疲れているのに、妙に目だけが冴えていました」


「その時、問いたださなかったのですか」


「問いただしませんでした」


 ベルナール卿は、静かに言った。


「私は、妻に頼っていました。私にはできないことを、妻がしている。社交も、家の名を保つことも、夫人会とのつながりも。だから、妻が何かを隠していると感じても、見ないことにした」


「なぜですか」


「見てしまえば、止めなければならなかったからです」


 寝室が静かになった。


 その言葉は、重かった。


 知らなかった。


 だが、見ないことを選んだ。


 それは違う。


 ベルナール卿は、自分でその違いを言いに来たのだ。


「止める力がないと言い訳しました。体が弱いから、家政は妻とアルマンに任せるしかないと。けれど本当は、止めた後のことが怖かったのです」


「後のこと?」


「妻が私を失望した目で見ること。アルマンが、この家を守る気がない当主だと見ること。使用人たちが、病弱なだけでなく役に立たない主人だと思うこと」


 ベルナール卿は、薄く笑った。


 自嘲の笑みだった。


「私は、病弱であることを盾にしていました。体が弱いから仕方ない。妻がやってくれるから仕方ない。そう言って、当主であることから逃げていた」


 エレノアは、静かに記録する。


 逃げていた。


 その言葉を、彼自身が使った。


「オルガ夫人を止める機会はありましたか」


 カインが問う。


 ベルナール卿は、少し目を伏せた。


「一度、ありました」


「いつだ」


「偽王妃書簡が動く少し前です。妻の机に、王妃陛下の筆跡練習のような紙片を見ました」


 エレノアの手が止まった。


 カインの目が鋭くなる。


「それは、これまでの証言にありません」


「はい。言い出せませんでした」


「なぜ」


「自分がそれを見たのに、何も言わなかったことを認めることになるからです」


 ベルナール卿は、苦しそうに息をした。


 医師が止めようとするが、彼は手で制した。


「紙片は、すぐに妻が片づけました。私は、ただ『何を書いていたのか』と聞いた。妻は『夫人会の祈祷文の写しです』と答えた。私は、それ以上聞かなかった」


「王妃陛下の筆跡だと分かっていたのですか」


「似ていると思いました。確信はありません。ただ、王妃陛下からの書簡を何度か見たことがありましたから」


「なぜ、その時点で王宮へ知らせなかったのです」


 エレノアの声は、自分でも少し硬く聞こえた。


 ベルナール卿は、まっすぐ彼女を見た。


「怖かったからです」


 飾らない答えだった。


「妻がそんなことをしているはずがないと思いたかった。もし本当にそうなら、私は妻を止めなければならない。アルマンを問いたださなければならない。分家の未来を、自分の手で壊さなければならない。だから、見間違いだと思うことにした」


 エレノアは、胸の奥が重くなった。


 これは判決を変える証言ではないかもしれない。


 だが、事件の空欄を埋める証言だった。


 オルガが偽書簡を準備していた痕跡を、夫は見ていた。


 そして、見なかったことにした。


 その一瞬もまた、王妃の死へつながる細い線の一つだった。


「この証言は、追加記録として正式に提出します」


 エレノアが言うと、ベルナール卿は頷いた。


「お願いします」


「処分の再検討につながる可能性もあります」


「構いません」


 彼は静かに言った。


「私は被告ではありませんでした。けれど、無関係ではありません。妻に知らせなかったのは妻の罪です。ですが、私が見ないことにしたのは私の罪です」


 その言葉に、エレノアは筆を止めそうになった。


 見ないことにした罪。


 それは、王太子府にも、公爵家にも、夫人会にもあった。


 そして、誰の中にも少しずつあるものかもしれない。


「もう一つ、申し出があります」


 ベルナール卿は、医師を見てから続けた。


「ベルナール分家の自由財産の一部を、王妃基金の補填へ充てたい」


 カインが問う。


「金額は」


「大きな額ではありません。分家は豊かではありませんので。ただ、療養費と使用人給金、屋敷維持に必要な分を除いた一部です。詳細は監督官と確認済みです」


 暫定家政補助官が別紙を出した。


 エレノアは確認する。


 銀貨三百枚相当。


 不正資金の規模からすれば大きくはない。


 だが、ベルナール分家にとっては小さくない額だった。


「これは、オルガ夫人の不正財産没収とは別ですね」


「はい。私自身の意思です」


「理由は?」


 ベルナール卿は、少しだけ窓の方を見た。


「妻が王妃基金を利用した。アルマンが分家の名で金を受け取った。私が知らなかったと言っても、ベルナールの名はそこにあります。だから、ベルナールの名で返すものが必要です」


「家名のためですか」


 エレノアが問う。


 少し厳しい問いだった。


 ベルナール卿は、静かに首を振った。


「最初は、そう思いました。家名を少しでも清めたいと。けれど、それではまた同じです」


「同じ?」


「家のために、という言葉に逃げることになります」


 彼は薄く笑った。


「今は、違う言葉で言いたい。王妃基金から届くはずだった支援を、誰かに戻すためです。家名を守るためではなく、私が見なかった空欄の一部を埋めるために」


 エレノアは、しばらく黙った。


 その言葉が完全に正しいのかは分からない。


 金で埋まらないものもある。


 王妃の命は戻らない。


 オルガの罪も消えない。


 ベルナール卿の見なかった一瞬も、消えるわけではない。


 それでも、補填は必要だ。


 戻せるものは戻さなければならない。


「受け入れます。ただし、王妃基金補填金として記録し、使途は評議会で決めます。ベルナール家の名誉回復の宣伝には使いません」


「もちろんです」


 ベルナール卿は、少しだけ安心したように息を吐いた。


「むしろ、名を出さなくてよい」


「完全匿名にはできません。公的補填ですので」


「では、必要な記録だけで」


「はい」


 カインが補足する。


「分家の生活維持に支障が出る額は認めない。罪の補填のために、使用人給金や療養費を削ることも許さない」


 ベルナール卿は、小さく笑った。


「王弟殿下は、厳しい上に細かい」


「必要だ」


「ええ。今は、その細かさに救われます」


 その言葉に、カインは返事をしなかった。


 証言は、まだ続いた。


 ベルナール卿は、オルガとの結婚当初のことを話した。


 彼女は最初から野心的だったわけではない。


 むしろ、若い頃は不器用なほど真面目で、病弱な夫を支えようと必死だった。


 夫の代わりに社交へ出て、失礼な言葉を受け流し、分家を軽く見る本家筋に頭を下げた。


 その中で、少しずつ変わっていった。


 誰も見てくれないなら、見ざるを得ない場所へ上がるしかない。

 支えるだけの妻では、家ごと消える。

 善意は利用できる。

 夫人会は動かせる。

 王太子府は甘い。

 本家は腐っている。

 王妃は邪魔だ。


 そうなっていくのを、ベルナール卿はそばで見ていた。


 止めなかった。


 むしろ、どこかで誇らしく思っていた時期さえあったという。


 妻は強い。


 自分にはできないことをしてくれる。


 そう思うことで、自分の弱さを正当化していた。


「私は、妻を怪物にしたくありません」


 ベルナール卿は言った。


「ですが、妻を悲劇の献身者だけにもしたくありません。あれは、私が愛した女性であり、私が止めなかった人であり、多くの人を傷つけた罪人です」


 エレノアは、その言葉を一字ずつ記録した。


 怪物でも、悲劇の献身者でもなく。


 人。


 王妃の言葉に、また戻る。


 記録は、人を人として残すためにある。


 その難しさが、ここにもあった。


「オルガ夫人へ、伝えたいことはありますか」


 エレノアが尋ねると、ベルナール卿は目を閉じた。


 しばらく沈黙する。


 そして言った。


「伝えたいことは、たくさんあります。怒りもあります。なぜ、と聞きたい。私を守ると言いながら、私から当主である機会を奪ったことも責めたい」


「はい」


「でも、それと同時に、私が彼女に任せきりだったことも伝えなければならない。君だけが悪いと言えば、また私は見ない側に戻ってしまう」


 彼は苦笑した。


「難しいですね。夫婦として話すことも、証言より難しい」


「手紙を書きますか」


 エレノアが言うと、ベルナール卿は少し驚いたように目を開けた。


「手紙……」


「監督下で内容確認は必要になります。すぐに届けられるとは限りません。オルガ夫人が受け取るかも、向こうの判断です」


「それでも、書けるなら」


「はい」


 ベルナール卿は、静かに頷いた。


「書きます。いつ届くか、読まれるかは分からなくても」


「よいと思います」


 リリアナの母への手紙を思い出した。


 今すぐ会うのは怖い。


 でも、読んだと伝える。


 手紙は、すべてを解決するものではない。


 ただ、距離を測る道具になる。


 ベルナール卿にも、それが必要なのかもしれない。


 証言はそこで終わった。


 医師が強く止めたからだ。


 ベルナール卿は疲れ切っていたが、顔にはどこか安堵があった。


「エレノア様」


 彼が呼ぶ。


「はい」


「リリアナ様に、伝えていただけますか」


「内容によります」


 ベルナール卿は微かに笑った。


「あなたは本当にそう仰る」


「必要ですので」


「では、こう伝えてください。知らないまま守られることは、時に甘い。だからこそ、そこから出ようとする人を笑ってはならない、と」


 エレノアは頷いた。


「伝えます」


「それから、王太子殿下にも。任せることは必要です。ですが、任せた後に何を見なかったのかを、どうか忘れないでください、と」


「伝えます」


 ベルナール卿は、最後にカインを見た。


「王弟殿下。ベルナール分家は、残りますか」


 カインは、しばらく彼を見ていた。


「残すかどうかは、これからの監督結果による」


「そうですか」


「だが、潰すために監督しているわけではない」


 ベルナール卿は、深く息を吐いた。


「それで十分です」


 屋敷を出る頃には、夕方が近づいていた。


 空は少し赤く、庭の影が長く伸びている。


 馬車へ向かう途中、エレノアは振り返ってベルナール邸を見た。


 小さな分家の屋敷。


 そこには、罪があった。


 見ないことにした人がいた。


 知らされなかった人もいた。


 家を守るという言葉が、人を閉じ込めた。


 けれど今、その家は完全に潰されるのではなく、監督下で自分の形を問われている。


 残るかどうかは、まだ分からない。


 だが、少なくとも、もう同じ形では残れない。


 馬車の中で、カインが言った。


「重い証言だったな」


「はい」


「判決を覆すほどではないが、記録としては大きい」


「見なかったことにした一瞬が、事件の中にいくつもありますね」


「そうだ」


 エレノアは、自分の手帳を開いた。


 ベルナール卿の言葉を、簡潔に書く。


 ――知らなかった、では足りない。見ないことを選んだ場合、その選択も記録すべきである。


 書き終えると、カインが目を向けた。


「また新しい欄が増えそうだな」


「見なかった理由欄、でしょうか」


「恐ろしい帳票だ」


「必要かもしれません」


「否定できない」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 やがてカインが言った。


「リリアナ嬢には、今日のうちに伝えるのか」


「はい。約束しました。知らないままにしないと」


「よい」


 王宮に戻ると、リリアナは北翼の小会議室で待っていた。


 机には、基礎実務教育の紙が広がっている。


 だが、彼女の視線は何度も扉へ向いていたのだろう。エレノアが入ると、すぐに立ち上がった。


「お帰りなさい」


「ただいま」


 その言葉が、少しずつ自然になっている。


 エレノアは椅子に座り、リリアナにも座るよう促した。


「ベルナール卿の補足証言について話すわ」


「はい」


 リリアナは手帳を開いた。


 エレノアは、できるだけ順序立てて説明した。


 ベルナール卿が、詳細は知らなかったが、妻が何かを隠していることに気づいていたこと。


 王妃の筆跡練習のような紙片を見たこと。


 それ以上聞かなかったこと。


 病弱さを理由に、当主として止めることから逃げていたこと。


 分家財産の一部を王妃基金補填へ充てる意思を示したこと。


 オルガを怪物にも悲劇の献身者にもしたくないと言ったこと。


 リリアナへの伝言も伝えた。


 知らないまま守られることは、時に甘い。だからこそ、そこから出ようとする人を笑ってはならない。


 リリアナは、黙って聞いていた。


 手帳に書く手が、途中で何度か止まった。


「甘い……」


 彼女は小さく言った。


「知らないままって、甘いのね」


「そう感じることもあると思うわ」


「私、分かる」


 リリアナは、少しだけ苦い顔をした。


「何も知らないと、責任も見なくていい。可愛いって言われて、守られて、嫌な書類はお姉様が見てくれる。楽だった」


「ええ」


「でも、楽なままだと、誰かに使われる」


「そうね」


「ベルナール卿も、そうだったの?」


「本人は、そう証言したわ」


 リリアナは、手帳に書いた。


 ――知らないまま守られることは甘い。でも、そこから出ないと、誰かに使われる。

 ――出ようとする人を笑ってはいけない。


 書き終えると、彼女は少し考えた。


「お母様にも、同じことが言えるのかな」


「どういう意味?」


「お母様も、公爵夫人としての形に守られていたのかなって。涙で場を止められる母、可愛い娘を守る母、強い娘に甘える母。そこから出るのは怖いのかな」


 エレノアは、すぐには答えなかった。


 リリアナの見方は、少しずつ深くなっている。


 母をただ責めるだけではなく、母も役割にいたのだと見始めている。


 それは、許しとは違う。


 だが、人として見ることに近い。


「そうかもしれないわ」


 エレノアは答えた。


「ただし、それは母の責任を消すものではない」


「うん。分かる」


 リリアナは頷いた。


「人として見ることと、許すことは違うのね」


「ええ」


「難しい」


「とても」


 リリアナは、手帳の端に小さく書いた。


 ――人として見ることと、許すことは違う。


 それを見て、エレノアは王妃の言葉を思い出した。


 記録は、人を人として残すためにある。


 人として残す。


 それは、美化することではない。


 罪を薄めることでもない。


 複雑なまま、記録することだ。


 その夜、エレノアはベルナール卿の補足証言を正式記録にまとめた。


 法務官へ提出するための文書は、簡潔でなければならない。


 だが、簡潔にしすぎてはいけない。


 彼が何を知らず、何を見て、何を見なかったことにしたのか。


 その境目を曖昧にすると、この証言の意味が消える。


 ――ベルナール卿は、オルガ・ベルナールの具体的工作内容を知らなかったとしつつ、王妃陛下筆跡に類似する練習紙片を見たこと、妻の不審な外出増加および精神的昂揚を認識していたことを補足証言した。本人は、体調不良および当主としての自信喪失を理由に、これ以上の確認を避けたと述べる。

 ――本人発言。「知らなかった、では足りない。私は見ないことを選んだ」

 ――分家自由財産の一部を王妃基金補填金として拠出する意思あり。使途は評議会判断とし、家名回復宣伝には用いない。


 書き終えた時、少しだけ手が重かった。


 この記録は、誰かを劇的に救うものではない。


 判決を大きく変えるものでもない。


 しかし、事件の空欄をひとつ埋めた。


 見なかったことにした人が、見なかったと書いた。


 それは、再建に必要な記録だった。


 エレノアは自分の手帳も開いた。


 そこに、一文を加える。


 ――守られる甘さを責めるだけでは足りない。人がそこへ逃げたくなる理由も記録する。ただし、逃げた結果の責任は消えない。


 灯りの下で、その文字を見つめる。


 ベルナール卿は、オルガへ手紙を書くと言った。


 リリアナは母へ返事を書いた。


 自分はまだ、母へ返事を書けていない。


 それぞれの距離がある。


 それぞれの空欄がある。


 その空欄を、無理に同じ速さで埋める必要はない。


 ただ、見ないことにはしない。


 それだけは、守らなければならなかった。

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