第57話 公爵家からの手紙
公爵家から手紙が届いたのは、救貧院で名前を書いた翌日のことだった。
朝の王宮は、いつもと変わらず忙しかった。
北翼の廊下では、女官が花瓶の水を替え、書記官が書類箱を抱えて足早に歩き、王妃基金の臨時窓口には、早くも二人の相談者が座っていた。
判決が出ても、翌日は来る。
翌日が来れば、さらに次の翌日も来る。
リリアナは、その当たり前のことを、最近になってようやく実感し始めていた。
裁判が終われば、何かが大きく切り替わるのだと思っていた。
悪い人が裁かれ、王宮が静まり、自分はしばらく泣いて、それから少しずつ前を向くのだと。
でも実際には、泣く暇もなく、麦は運ばれ、薪は数えられ、薬草は匂いを確かめられ、帳簿には空欄理由欄が足され、王太子府では印あり未確認疑いが増えていた。
世界は、思っていたよりずっと事務的に続く。
そして、その事務の中に、人の痛みも混ざっている。
リリアナは救貧院で書いた報告書の写しを抱え、エレノアの執務室へ向かっていた。
昨日の報告書に、フィオナ司祭から補足が入ったのだ。
灰色という仮名の少年について。
妹の熱は高いが、薬草茶で少し落ち着いたこと。
次回、臨時雇用窓口とは別に、医療支援へつなぐ必要があること。
本人が本名を名乗るかどうかは、急がないこと。
その三点が書かれていた。
リリアナは、その紙を何度も読んだ。
本名を急がない。
その一文に、妙に安心した。
名前を聞けなかったことが失敗ではないと、もう一度確認してもらえたような気がしたからだ。
執務室の扉の前に着くと、中から声が聞こえた。
エレノアと、王家監督官ヘルマンの声だった。
「……では、公爵夫人からの手紙は二通ですね」
「はい。一通はリリアナ様宛て。もう一通は、エレノア様宛てです」
リリアナは、思わず足を止めた。
手紙。
公爵夫人。
お母様から。
心臓が、急に強く鳴った。
扉を叩こうとしていた手が止まる。
中では、エレノアが静かに答えていた。
「内容確認は?」
「監督官立会いのもと、封前に確認済みです。脅迫、命令、証拠隠し、外部連絡の指示はありません。ただし、感情的な記述はあります」
「母の手紙ですから」
「はい」
ヘルマンは、少しだけ声を落とした。
「読むかどうかは、ご本人の判断に委ねるようにとの判決条項に従います」
「分かりました」
リリアナは、そこでようやく扉を叩いた。
中の会話が止まる。
「どうぞ」
エレノアの声。
リリアナは扉を開けた。
机の上には、二通の封書が置かれていた。
一通は淡い藤色の封筒。
もう一通は白い封筒。
どちらにも、見慣れた筆跡で名前が書かれている。
リリアナ・ヴァレンシュタインへ。
エレノア・ヴァレンシュタインへ。
母の字だった。
幼い頃、誕生日の贈り物に添えられていた字。
茶会の招待状で見た字。
ドレスの仕立て直しの指示書に書かれていた字。
優しくて、少し丸みがあって、いつも花の香りのする紙に載っていた字。
リリアナは、その封筒を見ただけで、胸が詰まった。
「お母様から……」
「ええ」
エレノアは、いつものように静かだった。
けれど、その静けさの奥に緊張があることを、今のリリアナは少しだけ分かる。
これは、姉にとっても軽いものではない。
母からの手紙。
裁判の後に届いた手紙。
それは、ただ読むだけの紙ではなかった。
ヘルマン監督官が礼をした。
「私は外で待機しております。必要であればお呼びください」
「ありがとうございます」
エレノアが答えると、ヘルマンは部屋を出た。
扉が閉まる。
部屋には、姉妹と二通の手紙が残った。
リリアナは椅子に座らなかった。
立ったまま、封筒を見つめていた。
「読まなくてもいいのよ」
エレノアが言った。
「分かってる」
「今日でなくてもいい」
「うん」
「マルタに同席してもらってもいい」
「うん」
返事はできる。
でも、手は伸びない。
リリアナは、自分の手帳を抱え直した。
そこには、昨日書いた言葉がある。
名前を書く時、その人の次を考える。
では、手紙を読む時は?
お母様の次を考えるのか。
自分の次を考えるのか。
それとも、読まないという選択も、次へ進むための橋になるのか。
「怖い」
リリアナは、正直に言った。
エレノアは頷いた。
「そうね」
「お母様の字を見ただけで、戻りそうになる」
「どこへ?」
「可愛いリリアナに」
自分で言って、胸が痛んだ。
可愛いリリアナ。
何も知らなくていい娘。
泣けば許される娘。
お母様が守ってくれる娘。
ずっと嫌だったわけではない。
むしろ、長い間そこにいたかった。
だから怖い。
手紙を読んだ瞬間、またそこへ戻りたくなってしまうかもしれない。
お母様が泣いているなら、すぐ会いに行かなければならないと思うかもしれない。
お母様が謝っていたら、すぐ許さなければ悪い娘になる気がするかもしれない。
それが怖い。
「読んだら、すぐ返事を書かないといけない?」
「いいえ」
「泣いていたら?」
「泣いても、返事は急がなくていい」
「会いたいって書いてあったら?」
「会うかどうかは、あなたが決める」
「私が?」
「ええ」
リリアナは、そこで少しだけ笑いそうになった。
笑えない場面なのに。
「最近、何でも私が決めるのね」
「それが本人の意思を尊重するということよ」
「重い」
「重いわね」
「お姉様も、王妃様の条項で同じことを言われた時、重かった?」
「とても」
「そうなんだ」
リリアナは、ようやく椅子に座った。
それから、封筒へそっと手を伸ばした。
触れる。
まだ開けない。
紙は柔らかかった。
昔と同じような、少し高価な紙。
でも封蝋は簡素で、公爵夫人の華やかな私的印ではなく、王家監督下の確認印が添えられている。
母はもう、自由に社交文を書ける立場ではない。
その事実が、封筒の端に滲んでいた。
「読む」
リリアナは言った。
「今?」
「うん。でも、一人では読まない」
「マルタを呼ぶ?」
リリアナは少し迷った。
そして首を横に振った。
「エレノアお姉様にいてほしい」
エレノアは、一瞬だけ目を伏せた。
それから頷く。
「分かったわ」
「途中で止めてもいい?」
「もちろん」
「泣いても?」
「ええ」
「返事は?」
「後で決める」
リリアナは深呼吸をした。
封を切る。
中には、数枚の便箋が入っていた。
母の字が並んでいる。
リリアナへ。
そう始まっていた。
可愛いリリアナへ、ではなかった。
ただ、リリアナへ。
そのことだけで、リリアナの目に涙が浮かんだ。
母は、呼び方を変えようとしている。
まだたった一行。
でも、そこに努力が見えた。
リリアナは、震える声で読み始めた。
「リリアナへ。判決の後、あなたにすぐ手紙を書くべきか迷いました。私が書くことで、あなたにまた母を慰めなければならないと思わせてしまうのではないかと、監督官に何度も確認しました」
リリアナの手が止まる。
エレノアは何も言わない。
「私は今まで、あなたに何度も泣いて見せました。あなたを責めるつもりではなくても、私が泣くことで、あなたは私を慰めようとしました。母である私が、娘であるあなたに慰められていたのだと、今になって知りました」
涙が落ちそうになり、リリアナは慌てて便箋を少し離した。
滲ませたくなかった。
「続けられる?」
エレノアが聞く。
「うん」
リリアナは、もう一度息を吸った。
「あなたを守っていると思っていました。難しいことを知らせなければ、あなたは傷つかずに済むと思っていました。けれど私は、あなたから知る機会を奪っていました。あなたを可愛い娘のまま閉じ込めていました」
声が震える。
それでも読む。
「あなたが学び始めたと聞きました。帳簿を読み、救貧院で名前を書く手伝いをしていると聞きました。嬉しいと思う前に、私は恥ずかしくなりました。私はあなたに、そのようなことは似合わないと思っていたからです。可愛いリリアナに帳簿は重い、救貧院は怖い、そんな場所へ行かせたくない。私は、まだそう考えてしまう母です」
リリアナは、涙を拭った。
母は、自分の中にまだ残るものを書いている。
きれいに反省したふりではない。
まだそう考えてしまう母です。
その一文は、痛い。
でも、嘘ではない。
「けれど、それでも書きます。リリアナ。あなたが学ぶことを、止めません。私が寂しくても、あなたが私から少し離れても、止めません。あなたが私に会いたくないなら、待ちます。あなたが私の手紙を読みたくないなら、それも受け入れます」
便箋の字が、少し揺れていた。
母が泣きながら書いたのかもしれない。
リリアナは唇を噛んだ。
「私は、あなたに謝りたいことが多すぎます。でも、謝罪を急がせることも、あなたを縛るのだと教えられました。だから今日は、一つだけ書きます。あなたを何も知らない娘にして、ごめんなさい」
そこまで読んだところで、リリアナは声が出なくなった。
便箋を机に置き、両手で顔を覆う。
泣き声は抑えた。
でも、肩が震えていた。
エレノアは、しばらく待った。
急かさない。
慰めすぎない。
リリアナが自分で呼吸を戻すのを待つ。
やがて、リリアナは顔を上げた。
「続き、読める」
「ええ」
もう一枚。
「エレノアにも、私は手紙を書きました。あなたに何を書いたかを、姉に先に知らせるようなことはしません。これはあなたへの手紙です。けれど、あなたが望むなら、エレノアに見せてもかまいません。望まないなら、見せなくてもかまいません」
リリアナは、少しだけエレノアを見た。
「見せてるね」
「ええ」
「でも、私が決めた」
「そうね」
リリアナは少しだけ頷き、最後の部分を読んだ。
「私は、あなたを今すぐ抱きしめたいと思っています。けれど、そう書くことも、あなたを困らせるかもしれません。だから、今は書くだけにします。私は待っています。あなたが自分の足で来たいと思った時に。来ないと決めた時も、その決定を受け止める練習をします。母として、初めてあなたを待つ練習をします。セレスティア」
最後に、母の名があった。
公爵夫人としてではなく。
お母様としてでもなく。
セレスティア。
リリアナは、手紙を机に置いた。
涙で頬が濡れている。
けれど、崩れてはいなかった。
「お母様、ずるい」
最初に出たのは、その言葉だった。
エレノアは黙っていた。
「こんなの、読んだら会いたくなる」
「会いたい?」
「分からない」
リリアナは正直に言った。
「会いたい気もする。でも、会ったらまた泣く。お母様も泣く。そしたら、私、また慰めちゃうかもしれない」
「それが怖い?」
「うん」
「では、今は返事だけにする?」
「返事……」
リリアナは、手紙を見た。
すぐに返すべきなのか。
返さない方がいいのか。
分からない。
でも、以前より少しだけ分かることもある。
返事を書かないことと、母を捨てることは同じではない。
会わないことと、母を嫌うことも同じではない。
今はまだ無理、と書いてもいい。
それは昨日、法廷で言えたことだ。
「短く返す」
リリアナは言った。
「今日?」
「うん。長い返事は書けない。でも、読んだことだけは伝えたい。あと……今すぐ会うのはまだ怖いって」
「よいと思うわ」
「お姉様、見てくれる?」
「あなたが望むなら」
「望む」
リリアナは紙を取り、少し考えた。
何度もペンを置き、また持つ。
そして書き始めた。
お母様へ。
手紙を読みました。
泣きました。
今すぐ会いたい気持ちもあります。でも、会うのはまだ怖いです。
私は救貧院で名前を書く手伝いをしました。名前を書くことは思っていたより重かったです。
私も、少しずつ学びます。
お母様も、待つ練習をしてください。
リリアナ。
それだけだった。
短い。
けれど、リリアナの言葉だった。
エレノアは読み終え、静かに頷いた。
「とてもよい返事です」
「短すぎない?」
「今はこれでいい」
「冷たくない?」
「正直よ」
「お母様、泣くかな」
「泣くかもしれないわ」
「それでも?」
「それでも、あなたの返事よ」
リリアナは、手紙を畳んだ。
涙はまだ残っている。
でも、手はさっきより落ち着いていた。
自分で決めた。
読んだ。
泣いた。
会うのはまだ怖い。
でも返事を書く。
それだけで、少し前に進んだ気がした。
封をする前に、リリアナは自分の手帳を開いた。
そして書いた。
――手紙を読むことは、相手の気持ちを全部背負うことではない。
――返事は、相手を安心させるためだけに書かなくていい。
――私は、今すぐ会うのは怖い。でも、手紙は読めた。
書き終えると、エレノアの方を見た。
「お姉様の手紙は?」
机の上には、白い封筒が残っている。
エレノア・ヴァレンシュタインへ。
母の字。
エレノアは、その封筒を見つめた。
手を伸ばさない。
リリアナは、先ほど自分が言われた言葉を返すように言った。
「読まなくてもいいよ」
エレノアは、少しだけ目を上げた。
「ええ」
「今日じゃなくてもいい」
「ええ」
「マルタに同席してもらってもいい」
「……そうね」
「私にいてほしかったら、いる」
その言葉に、エレノアはしばらく黙った。
リリアナは、自分でも驚いていた。
姉に、そんなことを言えるようになったのだ。
自分が支えられる側だけではなく、少しだけ支える側に回る。
それは怖いけれど、嫌ではなかった。
エレノアは、白い封筒に触れた。
「読むわ」
「今?」
「ええ」
「私、いる?」
「いてほしい」
それは、とても小さな声だった。
リリアナは胸が詰まりそうになりながら頷いた。
「いる」
エレノアは封を切った。
便箋は一枚だけだった。
リリアナ宛てより短い。
エレノアは、黙って読み始めた。
声には出さなかった。
リリアナは、姉の表情を見ていた。
エレノアの顔はあまり変わらない。
けれど、読み進めるうちに、指先がほんの少し強く紙を握った。
読み終えても、すぐには何も言わなかった。
「……何て?」
リリアナは、小さく尋ねた。
エレノアは、便箋を机に置いた。
「読んでいいわ」
リリアナは迷った。
でも、姉が差し出したのだから受け取った。
手紙は、こう始まっていた。
エレノアへ。
私はあなたに、長い謝罪を書く資格がまだありません。
あなたを強い子だと思い、強い子でいさせました。
あなたが怖いと言わないことに甘えました。
あなたが泣かないことに安心しました。
あなたができることを、できるから当然だと思いました。
リリアナは、喉が詰まった。
これは、姉に向けられるべき言葉だった。
自分が読むには、少し苦しい。
でも、エレノアが読んでいいと言った。
だから続けた。
あなたに母として謝りたいと思うたび、私はまたあなたに「許す娘」の役割を押しつけようとしているのではないかと怖くなります。
だから、今日は謝罪ではなく、認めることだけを書きます。
私は、あなたに甘えました。
公爵夫人として、母として、あなたの才に甘えました。
あなたが自分の意思で王妃基金臨時長を続けると聞きました。誇らしいと思う前に、私はまたあなたに役目を背負わせているのではないかと不安になりました。
その不安は、私が背負うべきものです。あなたに背負わせるものではありません。
リリアナは、ちらりとエレノアを見た。
エレノアは静かに座っている。
だが、目は便箋ではなく、机の木目を見ていた。
最後の数行。
エレノア。
あなたが私を許す必要はありません。
あなたが私を母と呼びたくない日があっても、私はそれを責めません。
いつか、あなたが私に怒りを向けるなら、私は逃げずに聞く練習をします。
そして、もしあなたが望むなら、いつか母ではなく、セレスティアという一人の人間として、あなたの前に座らせてください。
セレスティア。
リリアナは、便箋を置いた。
部屋が静かになる。
エレノアは、長く黙っていた。
リリアナも、何を言えばいいか分からなかった。
母は、姉にも謝りすぎないようにしていた。
許しを求めすぎないように。
でも、それでも痛い。
認められたからといって、過去が消えるわけではない。
「お姉様」
「何?」
「怒っていいんだよ」
エレノアの目が、わずかに揺れた。
リリアナは続けた。
「私には言ったでしょう。お母様に怒っていいって。だから、お姉様も怒っていい」
エレノアは、しばらく何も言わなかった。
そして、とても静かに言った。
「怒っているわ」
「うん」
「でも、少しほっとしてもいる」
「うん」
「その二つが一緒にあるのが、少し嫌」
「分かる」
リリアナは、心からそう言った。
「私もそう。ずるいって思った。でも、読んでよかったとも思った」
「ええ」
エレノアは、手紙をもう一度手に取った。
「返事は、今日は書かないわ」
「うん」
「まだ、何を書けばいいか分からない」
「空欄理由欄?」
リリアナが小さく言うと、エレノアは少しだけ目を瞬いた。
それから、ほんのかすかに笑った。
「そうね」
エレノアは自分の手帳を開き、短く書いた。
――母への返事。理由:怒りと安堵が同時にあり、まだ言葉を選べない。期限:未定。ただし、手紙は保管する。
リリアナは、それを横から見ていた。
「期限、未定でもいいの?」
「今はね」
「お姉様でも未定にするのね」
「すべてに期限をつけられるわけではないわ」
「それ、今日の大事な学びかも」
「記録する?」
「する」
リリアナは手帳に書いた。
――すべての返事に、すぐ期限をつけなくていいこともある。
その後、二通の返事は別々の扱いになった。
リリアナの手紙は封をし、監督官を通じて公爵家へ送る。
エレノアの返事は、まだ書かない。
母からの手紙は、二人それぞれの手元に保管する。
同じ母から届いた手紙でも、受け取り方は違う。
それでいいのだと、リリアナは思った。
午後、ヘルマン監督官にリリアナの返事を渡した。
彼は内容確認の要否を尋ねたが、エレノアが言った。
「リリアナ本人の私信です。監督対象に触れない範囲で、封のまま届けてください。外部連絡指示はありません」
ヘルマンは頷いた。
「承知しました」
リリアナは、封筒を渡す時、少しだけ手を止めた。
「お願いします」
「確かにお預かりします」
手紙が、自分の手を離れる。
それは不思議な感覚だった。
母へ、届く。
自分が書いた言葉が。
今すぐ会えないという言葉が。
それでも読んだという言葉が。
届く。
怖い。
でも、届けたい。
ヘルマンが去った後、リリアナは長く廊下に立っていた。
そこへユリウスが通りかかった。
「リリアナ?」
「あ、ユリウス殿下」
「どうした?」
「お母様に返事を書きました」
ユリウスは、表情を改めた。
「そうか」
「今すぐ会うのは怖いって書きました」
「……強い返事だ」
「怖かったです」
「それでも書いた」
「はい」
ユリウスは少しだけ目を伏せた。
「私は、母上に返事を書く機会がもうない」
その言葉に、リリアナは胸が痛んだ。
王妃はもういない。
最後の条項はある。
けれど、返事は届かない。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
ユリウスは静かに首を振った。
「ただ、君が返事を書けるなら、書いた方がいいと思った。たとえ怖い返事でも」
「はい」
「私も、母上に返事は書けないが、再教育の報告書なら書ける」
「それも、返事かもしれません」
リリアナが言うと、ユリウスは少し驚いた。
「返事?」
「王妃様が、学び直しなさいって残したなら、ユリウス殿下が書く報告書も返事なのかなって」
ユリウスは、しばらく黙った。
そして、少しだけ笑った。
「それは、少し救われる考え方だ」
「私、たまには良いことを言います」
「ああ。かなり良いことを言った」
リリアナは、少し照れた。
でも、前のように可愛く見せるためではなく、素直に照れた。
その夜、エレノアは公爵家からの手紙について記録を書いた。
公式記録ではない。
自分の手帳だった。
――公爵家から手紙。母セレスティアより、リリアナと私へ。リリアナは読み、短い返事を書いた。私は読み、返事は保留。怒りと安堵が同時に存在する。
そこまで書き、少し迷ってから一文を足した。
――手紙は、相手の感情をすべて背負うためではなく、自分の距離を確かめるためにも読む。
書き終えると、窓の外を見た。
王宮の夜は静かだった。
どこか遠くで、書類箱を運ぶ足音がする。
生活は続いている。
母は公爵家で待つ練習をしている。
リリアナは返事を書く練習をした。
自分は、まだ返事を書かない練習をしている。
どれも、再建の一部なのかもしれない。
派手な断罪ではない。
王宮の大改革でもない。
ただ、手紙を読み、泣き、返事を書くかどうかを選ぶ。
それもまた、人を役割から取り戻す作業だった。




