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第56話 リリアナ、救貧院で名前を書く

 救貧院へ行く朝、リリアナはいつもより早く起きた。


 眠れなかった、という方が正しいかもしれない。


 目が覚めた時、窓の外はまだ薄暗く、王宮の庭には朝靄が残っていた。遠くで鳥の声がして、廊下の向こうから女官たちの足音が小さく響いてくる。


 昨日までなら、その時間に起きても、リリアナは布団の中で丸まっていただろう。


 寒い。

 眠い。

 今日は嫌。

 お母様がいない。

 お姉様は忙しい。


 そうやって、自分の気持ちを言葉にする前に、誰かが布団を整え、温かい茶を持ってきてくれるのを待っていた。


 でも今日は違った。


 自分で起きて、顔を洗い、髪をまとめた。


 服は、華やかなものではない。


 薄い灰青の外出着。


 袖口は細めで、汚れても目立ちにくい布地。


 靴も、王宮の廊下を歩くための繊細な靴ではなく、外の石畳を歩けるものにした。


 鏡の前に立つと、自分が少し地味に見えた。


 以前なら、それだけで不安になったかもしれない。


 可愛く見えない。

 誰も褒めてくれない。

 王太子殿下の隣に立てる服ではない。


 だが今朝は、その不安が来ても、リリアナは鏡の中の自分に小さく言った。


「今日は、名前を書く日」


 可愛い服を見せに行くのではない。


 誰かに褒めてもらいに行くのでもない。


 救貧院で、支援を受ける人の名前を書く。


 受領記録を補助する。


 ただそれだけ。


 けれど、その「ただそれだけ」が、今のリリアナには怖かった。


 名前を聞き間違えたらどうしよう。

 字が汚かったらどうしよう。

 相手を傷つけることを言ったらどうしよう。

 貴族令嬢が来たせいで、現場の邪魔になったらどうしよう。


 怖い理由は、いくつもある。


 だからリリアナは、手帳の空欄理由欄に書いた。


 ――救貧院に行くのが怖い。理由:人の名前を間違えるのが怖い。知らない生活を見るのが怖い。自分が役に立たないかもしれない。

 ――次に確認すること:フィオナ司祭に、最初に何をすればいいか聞く。分からない時は黙って進めない。


 書き終えると、少しだけ息が楽になった。


 怖さは消えない。


 でも、怖いものの形は見えた。


 それだけで、立てる気がした。


 朝食の席に向かう途中、リリアナは北翼の廊下でエレノアと会った。


 エレノアはすでに仕事着で、手には書類を持っている。


 今日も朝から忙しそうだった。


「おはよう、リリアナ」


 名前で呼ばれることに、まだ少し慣れない。


 けれど、胸が小さく温かくなる。


「おはようございます、エレノアお姉様」


「緊張している?」


「はい」


「そのままでいいわ」


「慰めになっているような、なっていないような」


「無理に落ち着こうとすると、失敗した時に崩れるから」


「現実的……」


 リリアナが少し頬を膨らませると、エレノアは小さく笑った。


「今日はフィオナ司祭の指示に従って。記録責任者はあなたではない。あなたは補助。分からない時は止まること」


「はい」


「名前を聞く時は、急がない。聞き返していい。書けない人がいても、驚かない」


「書けない人……」


 リリアナは小さく繰り返した。


 頭では分かっていた。


 でも、実際にどう受け止めればいいのかは、まだ分からない。


 貴族の家では、名前は書けて当然だった。


 少なくとも、自分の名を書くことは。


 けれど、救貧院には、字を書けない人も来る。


 住所を持たない人もいる。


 名前を名乗りたくない人もいるかもしれない。


「エレノアお姉様」


「何?」


「もし、名前を言いたくない人がいたら?」


「フィオナ司祭の判断に従いなさい。仮名、特徴、受領印、同席確認者。方法はいくつかあるわ。でも、無理に本名を聞き出そうとしないこと」


「どうして?」


「名前を知られることが危険な人もいるから」


 リリアナは黙った。


 名前を知られることが危険。


 そんなことを、自分は今まで考えたことがなかった。


 リリアナ・ヴァレンシュタイン。


 この名は、守られるものだった。


 扉を開けるものだった。


 誰かが頭を下げる理由だった。


 でも、世の中には、名前を言うことで傷つく人もいる。


 その事実が、朝の冷たい水のように胸へ落ちた。


「分かりました。無理に聞き出さない」


「ええ」


 エレノアは、少しだけ声を柔らかくした。


「でも、怖がりすぎなくていいわ。相手も人よ。あなたも人。分からなければ、丁寧に聞く。それだけ」


「はい」


「あと、帰ってきたら休むこと」


「お姉様に言われると、不思議な気持ちになります」


「私も言いながら少し不思議よ」


 二人は短く笑った。


 その後、リリアナはマルタとともに馬車へ向かった。


 救貧院は、王都の東南にあった。


 孤児院よりもさらに人の出入りが多く、建物は大きいが古かった。


 門の前には、すでに列ができている。


 老人、子供連れの母親、片足を引きずる男、荷物を背負った若い女、顔色の悪い少年。


 服装はばらばらだった。


 きれいに繕われた古着の人もいれば、明らかに薄すぎる布を重ねている人もいる。


 リリアナは馬車の窓からその列を見て、思わず手帳を握った。


「こんなに……」


 マルタが隣で静かに言う。


「冬季支援の初回配布ですから」


「皆、麦と薪を受け取りに?」


「はい。中には、仕事の相談に来る方もいらっしゃいます」


 馬車が止まると、フィオナ司祭が迎えに出てきた。


 灰色の修道服。

 穏やかな顔。

 けれど、目は現場の忙しさを知る人のものだった。


「おはようございます、リリアナ様。来てくださってありがとうございます」


「おはようございます。今日は、よろしくお願いします」


 リリアナは深く礼をした。


 フィオナ司祭は、少しだけ目を細めた。


「まずは、深呼吸を」


「え?」


「顔が硬いです。名前を書く前に、息をしてください。息を止めた人に名前を聞かれると、相手も緊張します」


 最初の指導がそれだった。


 リリアナは慌てて息を吸った。


 冷たい空気が胸に入る。


 吐く。


 もう一度吸う。


「よろしいです」


 フィオナ司祭は微笑んだ。


「今日、あなたにお願いするのは、受領記録の補助です。責任者は私と職員のルイス。あなたは、名前を聞いて、読み上げて、記録係へ渡す。難しい場合は止まる。それだけです」


「それだけ……」


「はい。それだけを丁寧に」


 救貧院の中は、人の気配と湯気で満ちていた。


 大広間には長机が置かれ、麦袋、薪束、古着、薬草茶の小袋が分けられている。


 奥では粥が煮られている。


 入口近くには受付台があり、そこに記録用紙が並んでいた。


 名前。

 年齢またはおおよその年代。

 同伴者。

 受領品。

 本人確認方法。

 空欄理由。

 次回確認事項。


 リリアナが考えた説明文も貼られていた。


 ――名前を言うのが怖い時は、相談してください。無理に大声で言わなくても大丈夫です。

 ――分からないことがあれば、係に聞いてください。

 ――支援を受けたことで仕返しが怖い時も、相談できます。


 自分の言葉が、救貧院の壁に貼られている。


 リリアナは、少しだけ不思議な気持ちになった。


 王宮で書いた紙が、ここに届いている。


 その紙を、誰かが読む。


 読めない人には、職員が読み上げる。


 言葉は、書いて終わりではない。


 届いて初めて意味を持つ。


「リリアナ様、こちらへ」


 フィオナ司祭に案内され、リリアナは受付台の端に座った。


 隣には、救貧院職員のルイスがいる。


 若い男性で、腕まくりをしている。書き慣れた手つきで紙を揃え、リリアナへ小声で言った。


「最初は私が聞きます。リリアナ様は、復唱と品目確認をお願いします」


「はい」


 最初に来たのは、白髪の老人だった。


 背中が少し曲がり、手には古い帽子を握っている。


 ルイスが穏やかに聞く。


「お名前をお願いします」


「トマ」


「トマさん。前回も来られましたね。今日は麦と薪でよろしいですか」


「薪を少し多めにできるかね。足が痛んで、外へ拾いに行けん」


 ルイスは記録を見た。


「薪追加希望。理由、足痛により採集困難。確認者、フィオナ司祭。リリアナ様、復唱を」


 急に振られた。


 リリアナは慌てて紙を見る。


「トマ様。麦一袋、薪……通常分に追加希望。理由は、足が痛くて外へ拾いに行けないため。確認者はフィオナ司祭」


 老人は、少し驚いたようにリリアナを見た。


「様はいらんよ、お嬢さん」


「あっ」


 リリアナは顔を赤くした。


「ごめんなさい。トマさん」


 老人は、歯の抜けた口で笑った。


「それでいい」


 ルイスが小さく頷いた。


「大丈夫です。次へ」


 一人目。


 何とか終わった。


 リリアナは心の中で深呼吸した。


 二人目は、子供を抱いた若い母親だった。


 名はマリア。


 夫が商会の荷運びだったが、商会摘発の影響で仕事が止まったという。


 支援品は麦、古着、薬草茶。


 次回、臨時雇用先の相談希望。


 リリアナは復唱しながら、胸の奥が重くなった。


 裁判で商会や夫人会を止めた。


 それは必要だった。


 でも、その影響で仕事を失った人がいる。


 悪いことをした人だけが困るわけではない。


 仕組みが止まれば、端の方にいる人も揺れる。


 マリアは子供の背を軽く叩きながら言った。


「責めているわけじゃありません。ただ、仕事が急になくなると、明日のパンも困るんです」


 リリアナは、すぐに謝りそうになった。


 けれど、フィオナ司祭の言葉を思い出した。


 息をする。


 相手は、人。


 自分も、人。


「教えてくださって、ありがとうございます」


 リリアナは言った。


「臨時雇用の相談希望として記録します。次に確認する人は……」


 ルイスが小声で助ける。


「聖クララ縫製所担当」


「聖クララ縫製所担当。期限は三日以内」


 マリアは少しだけ目を丸くした。


「そんなふうに書くんですね」


「はい。後で誰が見るか分かるように」


「なら、安心します」


 安心。


 その一言で、リリアナの手が少し震えた。


 自分が復唱して書いただけで、少し安心する人がいる。


 責任は重い。


 だが、怖いだけではなかった。


 三人目、四人目、五人目。


 リリアナは少しずつ慣れていった。


 名前を聞く。

 復唱する。

 品目を確認する。

 分からない時はルイスを見る。

 空欄の理由を聞く。

 書けない人には、代筆確認を取る。


 だが、十人目で手が止まった。


 相手は、十代半ばほどの少年だった。


 髪は伸び、服は薄く、視線が落ち着かない。


 ルイスがいつものように聞いた。


「お名前をお願いします」


 少年は黙った。


「無理に大声で言わなくて大丈夫です」


 リリアナは、貼り紙の言葉を思い出しながら言った。


 少年はちらりと彼女を見た。


 それから、小さく言った。


「……名前、言いたくない」


 リリアナの背筋が緊張した。


 来た。


 名前を言いたくない人。


 朝、エレノアに聞いたばかりだった。


 無理に聞き出さない。


 フィオナ司祭の判断に従う。


 リリアナはルイスを見る。


 ルイスは頷き、フィオナ司祭を呼んだ。


 フィオナ司祭は少年の前に立ち、少し腰を落として目線を近づけた。


「今日は、何が必要ですか」


「……麦」


「一人分?」


「妹がいる」


「妹さんはここに?」


 少年は首を横に振った。


「熱がある」


 フィオナ司祭の表情が少し引き締まる。


「分かりました。仮名で記録しましょう。あなたが選べます」


「仮名?」


「本当の名を書かずに、今日の支援を記録するための名前です。次に来た時、同じ名前を言えば、続きが分かります」


 少年は少し考えた。


「……灰色」


「灰色さん?」


「変?」


「いいえ。では、灰色さん。妹さんのために薬草茶も必要ですね」


 少年は少しだけ頷いた。


 リリアナは、記録用紙を見た。


 名前欄に、本名ではなく仮名。


 灰色。


 年齢、おおよそ十代半ば。


 同伴者、なし。妹が熱。


 受領品、麦一袋、薬草茶、古着確認。


 本人確認方法、仮名。特徴、灰色の外套、左手に古い火傷痕。


 空欄理由、本名申告困難。理由、本人が名乗りを望まないため。詳細確認は次回以降、司祭担当。


 リリアナは、一字ずつ丁寧に書いた。


 手が震える。


 名前を言いたくない人のために、名前の代わりを書く。


 それは、思った以上に重かった。


 書き終えて、復唱する。


「灰色さん。麦一袋、薬草茶一包、古着は妹さん用に確認。次回、フィオナ司祭が続きの相談をします」


 少年は、少しだけ顔を上げた。


「……それで、もらえるの?」


「はい」


 リリアナは答えた。


「名前を大声で言わなくても、今日の分は受け取れます」


 少年は、ほっとしたように息を吐いた。


 その顔を見た瞬間、リリアナは胸がぎゅっと締めつけられた。


 名前を言わないと助けてもらえないと思っていたのだろう。


 あるいは、名前を言えば何かが追ってくると思っていたのかもしれない。


 事情は分からない。


 今、無理に聞いてはいけない。


 でも、支援は渡せる。


 記録はできる。


 空欄に理由を書けば、次につなげられる。


 少年が麦袋を抱えて去った後、リリアナは小さく息を吐いた。


「今ので、合っていましたか」


 フィオナ司祭は頷いた。


「とても丁寧でした」


「本名を聞かなくて、本当に大丈夫ですか」


「今日は大丈夫です。必要な支援を渡し、次につなげました。名前を無理に取ることが目的ではありません」


「記録なのに?」


「記録は、人を捕まえる網ではありません」


 フィオナ司祭は静かに言った。


「次に会うための橋です」


 リリアナは、その言葉を手帳に書きたかった。


 だが、今は受付中だ。


 書かずに、心の中で繰り返した。


 記録は、人を捕まえる網ではなく、次に会うための橋。


 その後も、受付は続いた。


 名前をはっきり言う人。

 代筆を頼む人。

 前回と違う姓を名乗る人。

 年齢を覚えていない老人。

 住所の代わりに「橋の下」と言う男。

 夫人会の針子だったと小声で打ち明ける女。

 王宮に関わる相談をしたいが、今日はまだ怖いと言う青年。


 空欄理由欄は、何度も使われた。


 住所不明。

 年齢不明。

 本人希望により仮名。

 次回確認。

 怖くて詳細を話せない。

 仕事先確認待ち。


 リリアナは、空欄がただの怠けではないことを知った。


 そこには、人の生活がある。


 言えない理由がある。


 忘れた理由がある。


 怖い理由がある。


 そして、次に確認するための小さな約束がある。


 昼過ぎ、ようやく列が短くなった。


 リリアナは手が痛くなっていた。


 指先が固まり、肩も重い。


 ルイスは慣れた様子で紙を揃えているが、リリアナはもう息切れしていた。


「疲れましたか」


 フィオナ司祭が聞く。


「はい」


 リリアナは正直に答えた。


「でも、嫌な疲れではないです」


「それはよかった」


「でも、私、何度も迷いました」


「迷わない人に受付は任せられません」


「そうなのですか?」


「迷わない人は、相手の事情を聞かずに欄を埋めてしまいます」


 リリアナは黙った。


 欄を埋める。


 以前の自分なら、白い場所を見ると不安になって、何かで埋めたくなったかもしれない。


 綺麗な字で。


 整った言葉で。


 でも、今は少しだけ分かる。


 埋めてはいけない空欄もある。


 理由を書いて、次へ渡すべき空欄もある。


 昼食は、救貧院の職員たちと同じ粥だった。


 王宮の食事とは違う。


 薄いが、温かい。


 リリアナは両手で器を持ち、ゆっくり食べた。


 隣でルイスが言った。


「初日にしては、よく持ちましたね」


「初日はもっと少ないと思っていました」


「今日は少なめですよ」


 リリアナは固まった。


「これで?」


「はい。真冬になると、もっと増えます」


 現場は、彼女が思っているよりずっと大きい。


 支援は、彼女が考えていたよりずっと地道だ。


「私、今日だけで偉そうに分かった気にならないようにします」


 リリアナが言うと、ルイスは少し驚いて、それから笑った。


「それが分かっているなら、大丈夫です」


 午後は、受領記録の整理だった。


 リリアナは書いた用紙を、ルイスと一緒に確認する。


 誤字を直す。


 読みにくい字にふりがなを付ける。


 空欄理由欄が曖昧なものに補足を入れる。


 灰色の少年の記録も、別紙に写した。


 フィオナ司祭が見て、頷く。


「これなら次に来た時、続きが分かります」


 リリアナは、その言葉にほっとした。


 続きが分かる。


 それが、今日の仕事の意味だった。


 夕方、王宮へ戻る馬車の中で、リリアナはしばらく無言だった。


 マルタも急かさない。


 やがて、リリアナは小さく言った。


「マルタ」


「はい」


「名前を書くのって、怖いですね」


「そうですね」


「間違えると、その人が次に困る。書かないと、次につながらない。でも、無理に書くと傷つける」


「よく見てこられましたね」


 リリアナは、窓の外を見た。


 夕暮れの王都は、人の影で満ちている。


 今まで、その一人一人に名前があることを、どれほど意識していただろう。


 名前を持っている人。


 書ける人。


 書けない人。


 言いたくない人。


 仮名を選ぶ人。


 その全部が、今日の紙の上にいた。


「私、自分の名前が嫌だった時があります」


 リリアナはぽつりと言った。


「ヴァレンシュタインって書くと、皆が見るから。可愛いとか、公爵令嬢とか、王太子妃候補とか。名前だけで勝手に決められる気がして」


 マルタは黙って聞いている。


「でも、名前を書けることって、守られていることでもあったのですね」


「はい」


「名前を言いたくない人もいる。名前を言えない人もいる。私、知らなかった」


「今日、知りました」


「はい」


 リリアナは、手帳を開いた。


 揺れる馬車の中で、少し字が曲がりながらも書いた。


 ――記録は、人を捕まえる網ではなく、次に会うための橋。

 ――名前は、扉にもなるし、危険にもなる。

 ――空欄には、人の事情がある。

 ――私は、名前を書く時、相手の次を考える。


 書き終えると、手が疲れていることに気づいた。


 でも、その疲れが少し誇らしかった。


 王宮へ戻ると、エレノアが北翼の廊下で待っていた。


 珍しいことだった。


 いつもなら執務室で書類を読んでいる時間だ。


「お帰り、リリアナ」


 その一言で、リリアナは急に泣きそうになった。


 救貧院では泣かなかった。


 受付でも、灰色の少年の時も、泣かなかった。


 けれど、王宮へ戻って姉に「お帰り」と言われた瞬間、胸の奥がほどけた。


「ただいま、エレノアお姉様」


「どうだった?」


「疲れました」


「ええ」


「手が痛いです」


「でしょうね」


「名前を書くのが、こんなに重いと思いませんでした」


 エレノアは、静かに頷いた。


「そう」


「私、今日、灰色さんという仮名の男の子の記録を書きました。本名は聞きませんでした。でも、次につなげました」


「よくできたわ」


 その言葉に、リリアナの目から涙が落ちた。


 ぽろりと。


 自分でも驚くほど自然に。


「泣くつもりじゃなかったのに」


「泣いていいわ」


「涙で記録を曲げなければ?」


「ええ」


 リリアナは涙を拭きながら笑った。


「お姉様、やっぱりそこなのね」


「大事だから」


「うん」


 エレノアは、少しだけ迷った後、手を伸ばした。


 リリアナの肩に、そっと触れる。


 抱きしめるほどではない。


 でも、確かにそこにいると伝えるくらいの距離。


 リリアナは、その手を受け入れた。


 しばらく、二人は廊下に立っていた。


 そこへユリウスが通りかかった。


 手には王太子府再教育の書類。


 顔には疲れ。


 リリアナの涙を見て、足を止める。


「大丈夫か」


 リリアナは慌てて涙を拭った。


「大丈夫です。名前を書いてきました」


「名前?」


「はい。たくさん。言える名前も、言えない名前も」


 ユリウスは、少しだけ表情を改めた。


「そうか」


「殿下は、空欄を見ましたか?」


「ああ。今日は印あり未確認疑いが三件増えた」


「それは……嫌ですね」


「かなり嫌だ」


「でも、見つけたのですね」


「見つけた」


 リリアナは頷いた。


「私も、仮名の記録を書きました」


 なぜか、二人とも少し誇らしそうだった。


 エレノアは、その様子を見て思う。


 王太子と公爵令嬢が、それぞれ「空欄を見つけた」「仮名の記録を書いた」と報告し合っている。


 以前なら考えられなかった。


 だが、今の王宮には必要な会話だった。


 夜、リリアナは自分の報告書を書いた。


 エレノアは隣で見守るだけにした。


 手を出しすぎない。


 直しすぎない。


 リリアナ自身の言葉を残す。


 報告書には、こう書かれていた。


 ――救貧院にて、冬季支援初回配布の受領記録補助を行った。名前を聞き、品目を復唱し、空欄理由欄を使った。名前を言いたくない人には仮名を使い、次回確認者を記録した。

 ――分かったこと。名前を書くことは、その人を次に見つけるためでもある。けれど、名前を無理に聞くことは、その人を危険にする場合がある。

 ――反省。最初に「様」を付けてしまい、相手に直された。現場に合わせた呼び方を学ぶ必要がある。

 ――次に確認すること。仮名記録の管理方法。書けない人への代筆確認の仕方。怖くて話せない人への聞き方。


 エレノアは読み終え、静かに言った。


「よい報告書です」


 リリアナは、疲れた顔で笑った。


「本当?」


「ええ。特に、反省が具体的」


「『様』って言っちゃったの、恥ずかしかった」


「でも、直せた」


「うん。トマさんって言い直した」


「それも記録に値するわ」


 リリアナは少しだけ照れた。


「今日、私、少し役に立てたかな」


「立てたわ」


 エレノアは、今度は迷わず言った。


 リリアナは、報告書の上にぽたりと涙を落としそうになり、慌てて顔を上げた。


「危ない。記録が滲むところだった」


「それは困るわね」


「うん」


 二人は小さく笑った。


 リリアナは報告書を乾かすようにそっと置き、最後に手帳へ一文を書いた。


 ――私は、名前を書く時、その人の次を考える。


 それは、今日の彼女が救貧院から持ち帰った、一番大事な記録だった。


 王宮の夜は静かだった。


 けれど、どこかで麦が配られ、薪が数えられ、仮名の少年が妹のために薬草茶を持ち帰っている。


 その続きをつなぐために、リリアナは今日、名前を書いた。


 可愛いだけの娘ではなく。


 何も知らない妹ではなく。


 リリアナ・ヴァレンシュタインとして。

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