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第52話 正式裁判、開廷

 正式裁判の朝、王宮の空は薄く曇っていた。


 雨ではない。


 晴れでもない。


 ただ、光だけが少し鈍い。


 大理石の廊下に落ちる朝の色も、いつもより冷たく見えた。


 エレノアは、北翼の控室で最後の確認をしていた。


 机の上には、今日使う証拠目録の写しが並んでいる。


 王妃療養薬の鑑定報告。

 王妃基金支出記録。

 青い祈りの糸関連帳簿。

 夫人会別口資金補助簿。

 ベルナール分家別口受領帳。

 偽王妃書簡の筆跡鑑定。

 西塔保管庫から見つかった連絡者名簿。

 リゼット、ドロテア、アルマン、ダリウス、グレゴール、セレスティア、オルガの証言記録。

 そして、王妃の最後の条項。


 これらは、ただの紙ではない。


 誰かが見なかったもの。

 誰かが隠したもの。

 誰かがようやく話したもの。

 誰かが最後に残したもの。


 そのすべてを、今日は王国の法の前に置く。


 控室の扉が小さく叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのはリリアナだった。


 淡い菫色のドレスを着ている。


 以前の彼女なら、もっと華やかな色を選んだだろう。リボンも、宝石も、髪飾りも、可愛らしさを強調するものを。


 だが今日は違った。


 装飾は控えめで、胸元には小さな白い花の刺繍だけ。髪もきちんとまとめられている。


 可愛く見せるためではなく、証言の場に立つための装いだった。


「エレノアお姉様」


 昨夜の呼び方が、まだ残っている。


「眠れた?」


「少しだけ」


「それなら十分ね」


「十分なの?」


「裁判前夜としては」


 リリアナは、少しだけ苦笑した。


 手には手帳を持っている。いつものように握りしめるのではなく、今日は胸に抱えていた。


「私、もし聞かれたら、ちゃんと答える」


「ええ」


「分からないことは、分からないって言う」


「ええ」


「でも、怖かったら?」


「怖いまま答えればいい」


 リリアナは、ゆっくり頷いた。


「うん」


 その時、マルタが入ってきた。


「お時間です」


 声はいつもと変わらない。


 けれど、目元だけが少し硬い。


 王妃に仕えた女官長にとって、今日の裁判はただの職務ではない。


 王妃の死を、正式に法の前で扱う日だ。


 エレノアは立ち上がり、証拠目録の写しを閉じた。


 胸元には、銀の百合飾り。


 王妃の形見。


 それを指先で一度だけ確かめてから、部屋を出た。


 裁判は、王宮の大法廷で行われる。


 大裁定の間よりも、さらに形式の重い場所だ。


 天井は高く、壁には歴代国王の法令板が掲げられている。中央奥には国王席。その下に王家法務官席。左右には証人席、被告席、記録官席が配置されていた。


 一般の貴族たちも一部傍聴を許されている。


 ただし、人数は制限され、厳重な確認を受けた者だけだ。


 それでも、法廷内の空気は濃かった。


 囁き声はほとんどない。


 皆、分かっているのだ。


 今日裁かれるのは、数人の罪だけではない。


 王宮の仕組み。

 夫人会の善意。

 公爵家の体面。

 王太子府の未熟。

 王妃基金の信頼。


 そのすべてに傷がついた。


 この裁判は、その傷を隠すためではなく、どこまで裂けているかを見せるためのものだった。


 エレノアが入ると、いくつもの視線が集まった。


 冷たい視線。

 探る視線。

 同情。

 恐れ。

 好奇心。


 その中に、ミリアム夫人とデリア夫人の姿もあった。


 デリア夫人は夫人会代表としてではなく、調査協力者として傍聴席の前方に座っている。表情は硬いが、逃げていない。


 ロウ夫人はいない。


 彼女は「屋根の方が大事です」と言って孤児院に残った。


 その判断を、エレノアは正しいと思った。


 法廷にいなくても、彼女の腐った梁の木片と礼状は証拠付録として提出されている。


 現場の声は、ここにある。


 被告席には、オルガ・ベルナールが座っていた。


 黒に近い深緑のドレス。


 飾りはほとんどない。


 それでも、彼女の姿勢は美しかった。


 隣にはリゼット・グラン、ドロテア・ランズ、アルマン・ロベル、ダリウス・モーン。


 少し離れた関係被告席には、グレゴール・ヴァレンシュタインとセレスティア・ヴァレンシュタインがいた。


 父グレゴールは、以前より明らかに老けて見えた。


 それでも背筋は伸ばしている。


 公爵としての最後の意地かもしれない。


 母セレスティアは、顔色が悪く、手元のハンカチを握っていた。


 泣いてはいない。


 泣かないように耐えているのが分かった。


 リリアナは、母を見た瞬間に一度立ち止まりかけた。


 けれど、すぐに歩き出した。


 エレノアは、その歩幅を待った。


 急かさなかった。


 リリアナは、証人待機席へ座る前に、父と母へ深く礼をした。


 娘としての礼ではない。


 関係者として。


 それでも、セレスティアの目に涙が浮かんだ。


 リリアナは泣かなかった。


 ただ、手帳を胸に押し当てて座った。


 ユリウス王太子は、国王席の下、王族席に座っている。


 今日の彼は、発言を求められない限り口を開かない。


 それでも、逃げないためにそこにいる。


 エレノアと目が合うと、彼は静かに頷いた。


 カインは王弟として、国王の左側に座る。


 普段よりも表情がさらに硬い。


 しかし、エレノアが証人席の近くへ進むと、ほんのわずかに視線を合わせた。


 大丈夫か、と問うような目だった。


 エレノアは小さく頷いた。


 大丈夫ではない。


 だが、立てる。


 それで十分だった。


 やがて、国王アレクシスが入廷した。


 全員が立ち上がる。


 国王は席につき、低く告げた。


「始めよ」


 王家法務官が立ち上がった。


 白髪の老法務官で、声はよく通る。


「本日、王国法廷は、故王妃エレオノーラ陛下の療養薬不正、王妃基金資金流用、王妃名義偽書簡作成および行使、王宮内部連絡網不正利用、夫人会別口資金管理、ヴァレンシュタイン公爵家およびベルナール分家を巡る資金工作について審理する」


 その言葉が、法廷の天井へ重く響いた。


「主たる被告は、オルガ・ベルナール。補助被告として、リゼット・グラン、ドロテア・ランズ、アルマン・ロベル、ダリウス・モーン。関係被告として、グレゴール・ヴァレンシュタイン、セレスティア・ヴァレンシュタイン。各人の罪責は、証拠および証言に基づき個別に判断する」


 個別に判断する。


 その一文に、エレノアは少しだけ息を整えた。


 怪物としてまとめない。


 家として丸ごと裁かない。


 誰が何をしたかを、それぞれ見る。


 それが今日の裁判の中心だった。


 法務官は続ける。


「まず、王妃陛下の療養薬に関する鑑定報告を読み上げる」


 医師団代表が呼ばれた。


 王妃の主治医ではない。


 主治医はすでに処分対象となり、証言も済ませている。


 今日立つのは、王家医療院の鑑定医だった。


 彼は紙を広げ、淡々と説明を始めた。


 王妃に処方されていた鎮静薬。

 黒眠草の混入。

 本来量を超える眠りの作用。

 体力低下時における危険性。

 即死毒ではないが、覚醒時間を奪い、食事量と水分摂取を減らし、病状回復を妨げた可能性。


 法廷は静まり返っていた。


 毒殺ではない。


 しかし、無害でもない。


 この事件の重さは、そこにあった。


 オルガは、真っ直ぐ前を見ている。


 ダリウスは顔色を悪くして俯いていた。


 リゼットは唇を噛みしめている。


 ドロテアは目を閉じていた。


 グレゴールは身じろぎひとつしない。


 セレスティアはハンカチを握る手を震わせていた。


 医師の報告が終わると、法務官が問うた。


「王妃陛下の死期が早まった可能性について、鑑定医の見解を」


 鑑定医は、深く息を吸った。


「病そのものは重く、王妃陛下の御身はすでに弱っておられました。したがって、薬のみを死因と断定することはできません。ただし、不適切な鎮静が継続したことで、回復機会を減らし、死期を早めた可能性は高いと判断します」


 その言葉に、法廷の空気が沈んだ。


 死期を早めた可能性は高い。


 確定ではない。


 だが、逃げられない言葉だった。


 マルタが証人席近くで目を伏せた。


 ユリウスは両手を膝の上で握りしめている。


 エレノアも、胸の奥で何かが鈍く痛むのを感じた。


 分かっていた。


 記録で何度も読んだ。


 それでも、法廷で正式に読み上げられると、重さが違う。


 王妃は殺された、と単純には言えない。


 だが、王妃は守られなかった。


 それだけは確かだった。


 続いて、薬草納入記録が提示された。


 サルヴィ商会の名。

 推薦状。

 確認欄の空白。

 品質検査の抜け。

 王太子府での承認。

 ダリウス・モーンの関与。


 ユリウスの名前は、被告としてではなく、承認者として記録に出た。


 法務官は淡々と読み上げる。


「王太子府承認欄には、王太子ユリウス殿下の印がある。ただし、実務確認はダリウス・モーンに委ねられ、薬草現物確認は行われていない」


 法廷内の視線がユリウスへ向いた。


 王太子は立ち上がらない。


 だが、逃げもしない。


 静かにその言葉を受け止めていた。


 ガスパルの薬草袋も、証拠として提示された。


 良品、悪品、粗悪品。


 王宮の法廷に、再び薬草の匂いが広がる。


 傍聴席の貴族たちの中には、顔をしかめる者もいた。


 しかし、誰も文句は言わなかった。


 この匂いを知らなかったことが、罪の入口だったからだ。


 午前の前半は、王妃療養薬の審理で終わった。


 休憩を挟まず、法務官は次へ進む。


「次に、王妃基金資金流用および夫人会別口資金について」


 ドロテア・ランズの補助簿が提示された。


 彼女は証人兼被告として呼ばれ、席から立ち上がる。


 以前よりずっと小さく見えた。


 黒い服に身を包み、顔色は悪い。


 だが、声は思ったよりもはっきりしていた。


「この補助簿は、あなたの筆跡ですか」


 法務官が問う。


「はい」


「青い祈りの糸の売上の一部を別口資金として管理しましたか」


「はい」


「その資金は、正式な夫人会帳簿には記載されていませんね」


「はい」


「用途を知っていましたか」


 ドロテアは、一度目を閉じた。


「最初は、運営調整費だと思っていました。後には、王宮内の協力者への謝礼、書簡運搬、布置き場の通過、王太子妃候補交代に関わる社交工作に使われると知りました」


「王妃療養薬に関わる資金だと知っていましたか」


「明確には知りませんでした。ただ、王妃陛下の起きている時間を減らす必要がある、という言葉を聞いたことはあります」


 法廷にざわめきが走りかける。


 法務官が手を上げると、静まった。


「誰の言葉ですか」


 ドロテアの視線が、オルガへ向く。


「オルガ・ベルナール夫人です」


 オルガは動かない。


 まるで、自分の名が出ることを最初から知っていたように。


 次に、リゼット・グランが呼ばれた。


 青い指輪。


 南回廊の布置き場。


 洗濯室裏口。


 ベアタへの脅し。


 ネル・ファランが持ち込んだ青い硝子石の欠片。


 それらが順に読み上げられる。


 リゼットは最初こそ言葉を濁したが、証拠袋の中の欠けた指輪を出されると、顔色を変えた。


「これは、あなたの指輪ですね」


「……はい」


「この欠片は、王宮洗濯室の排水口から発見されたものです。ネル・ファランの相談記録により保全されました」


 ネルの名が出た瞬間、リゼットの表情が歪んだ。


「あの子が……」


「あなたは保護証言室について、『最初に行った子を潰せば終わり』と発言しましたか」


 リゼットは、しばらく黙った。


 そして、低く答えた。


「言いました」


 その一言は重かった。


 保護証言室がなぜ必要かを、法廷全体に示す言葉だった。


 エレノアは、記録席の横で静かに聞いていた。


 ネルは今日、法廷には来ていない。


 保護のためだ。


 けれど彼女の相談記録と青い硝子石は、ここにある。


 最初の声は、法廷まで届いた。


 それだけで、保護証言室を作った意味があった。


 次は、アルマン・ロベルだった。


 彼は拘束時と同じように、背筋を伸ばしていた。


 家令としての誇りを、まだ捨てていない。


「ロベール・アルマン名義で、夫人会別口資金を受領しましたか」


「はい」


「それは、あなたの名を入れ替えた偽名ですね」


「はい」


「用途は?」


「ベルナール分家の家政維持、分家相続準備、王宮布経路の維持、王妃布箱関連の連絡に使いました」


 はっきりとした声だった。


 その明瞭さが、かえって冷たく聞こえる。


「当主ベルナール卿は知っていましたか」


「詳細は知らせておりません」


「なぜ?」


「当主を守るためです」


 また、その言葉だった。


 守るため。


 法務官は淡々と問う。


「知らせないことが守ることだと?」


「病弱な当主に、すべてを背負わせるべきではないと判断しました」


「あなたとオルガ夫人が代わりに判断した」


「はい」


 そこに反省があるのか、今も正当化しているのかは分かりにくい。


 だが、記録としては十分だった。


 次に、ダリウス・モーン。


 彼は、最初から震えていた。


 かつて王太子府で言葉を操った男とは思えないほど、小さく見える。


 ベアトリス夫人は傍聴席にはいない。


 証人保護のため、別室で待機している。


 ダリウスの証言は、ユリウスにとって特に重いものだった。


「王太子府にて、サルヴィ商会推薦状を処理しましたか」


「はい」


「王太子殿下の確認を得たと記録されていますが、実際には?」


 ダリウスは、唇を震わせた。


「殿下には概要のみをお伝えしました。詳細な薬草品質や納入経路については、私が問題ないと申し上げました」


「問題ない根拠は?」


「オルガ夫人と夫人会側から、王妃陛下の療養に必要な穏やかな処方だと……」


「確認しましたか」


「しておりません」


 その言葉が、法廷に落ちる。


 ユリウスは、目を閉じた。


 昨日まで何度も聞いた「確認していない」。


 今日、それが正式な証言になっている。


 ダリウスは続けた。


「私は、殿下に耳障りのよい説明をしました。王妃陛下の負担を減らすため、療養を静かに保つため、王太子府として母君を支えるため。そういう言葉を選びました」


 法務官が問う。


「なぜですか」


「殿下は、王妃陛下から叱責されることを恐れておられました。厳しい確認より、母君を思いやる息子でいたいというお気持ちがあった。私は、そこにつけ込みました」


 ユリウスの顔が、わずかに歪んだ。


 だが、彼は逃げない。


 ダリウスは深く頭を下げた。


「王太子殿下をお支えするどころか、弱さを利用しました」


 その言葉に、ユリウスは小さく息を吐いた。


 怒りではない。


 痛みだった。


 午前の審理が終わる頃には、法廷の空気はすっかり重くなっていた。


 しかし、まだ中心には届いていない。


 オルガ・ベルナール本人の証言。


 そして、グレゴールとセレスティア。


 家族の罪。


 そこは午後に回された。


 国王が休憩を命じると、法廷の緊張がわずかに緩んだ。


 だが、誰も大きな声では話さない。


 エレノアは控室へ戻る途中、リリアナと並んで歩いた。


 リリアナの顔は青い。


「大丈夫?」


 エレノアが聞くと、リリアナは小さく頷いた。


「大丈夫じゃないけど、歩ける」


「なら、今はそれでいいわ」


「ネルさんの名前、出たね」


「ええ」


「来ていなくても、ちゃんと届くのね」


「記録があれば」


 リリアナは、手帳を胸に抱えた。


「私の証言も、誰かに届くかな」


「届かせるために話すのよ」


 リリアナは、しばらく黙ってから頷いた。


 控室には、ユリウスも来た。


 彼は少し迷ったように扉の前で立ち止まり、エレノアに許可を求める視線を向けた。


「どうぞ」


 入ってきた彼は、椅子に座る前に言った。


「午前の証言は、想像していたより重かった」


「午後はもっと重いです」


 エレノアが答えると、ユリウスは苦く笑った。


「君は本当に、段階的に慰めることをしない」


「必要ならします」


「今は?」


「座って、水を飲んでください」


 それは慰めなのか、とユリウスは少しだけ笑った。


 けれど素直に水を飲んだ。


 リリアナが小さく言った。


「ダリウス卿の言葉、つらかったですね」


 ユリウスは、うなずいた。


「ああ。だが、聞くべき言葉だった」


「私も、午後にお父様とお母様のことを聞くのが怖いです」


「私も、母上の名が出るたびに怖い」


「怖くても、聞く」


「そうだな」


 二人は、それ以上甘い言葉を交わさなかった。


 ただ、同じ怖さを少しだけ分け合っていた。


 エレノアは、その様子を見ながら、自分の中の空欄を意識した。


 ユリウスへの感情。


 かつて婚約者だった相手。


 自分を遠ざけ、リリアナへ心を移した相手。


 けれど今、学び直そうとしている相手。


 それをどう呼べばいいのか、まだ分からない。


 空欄のままでいい。


 今は裁判が先だ。


 午後、再び法廷が開かれた。


 空気は午前よりさらに硬い。


 次は、グレゴール・ヴァレンシュタイン。


 父が証言台へ向かう。


 エレノアの胸が、わずかに痛んだ。


 昨夜、自分の手帳に書いた空欄。


 ――父と母を見て自分がどう感じるか。


 その答えはまだ出ていない。


 グレゴールは証言台に立った。


 かつて公爵家の広間で人を従わせた男が、今は法廷で問われる側に立っている。


 法務官が問うた。


「グレゴール・ヴァレンシュタイン。あなたは、王太子妃候補教育支援寄付として、銀貨八百枚を夫人会へ支出しましたか」


「はい」


「その資金の一部が、夫人会別口資金へ流れたことを知っていましたか」


「詳細は知りませんでした」


「夫人会を通じ、王太子妃候補交代を円滑にするための社交工作費が必要であると認識していましたか」


 グレゴールは、少し沈黙した。


 そして答えた。


「認識していました」


 法廷が静かに揺れる。


「リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢を王太子妃候補へ押し上げるためですか」


「家を守るためです」


「質問に答えてください」


 法務官の声は冷たい。


 グレゴールの顎がわずかに動く。


「……リリアナを王太子妃候補とするためです」


 リリアナが、後方で小さく息を呑んだ。


 分かっていた。


 それでも、父の口から正式に出るのは違う。


 グレゴールは続けて問われた。


 エレノアを慈善院へ送る案。

 王妃基金担保品である月涙石の首飾り。

 オルガとの接触。

 ダリウスへの謝礼。

 分家計画を知らなかったこと。


 その中で、彼は何度も「家を守るため」と言った。


 しかし法務官は、そのたびに具体的な行為へ戻した。


 家ではなく、金。

 思いではなく、署名。

 父としてではなく、当主としての決定。


 グレゴールの言葉は、少しずつ削られていった。


 やがて、法務官が最後に問う。


「あなたは、娘たちを家門維持のために利用したという認識がありますか」


 法廷が静まった。


 グレゴールは、すぐには答えなかった。


 視線がエレノアへ向く。


 次に、リリアナへ。


 長い沈黙。


 そして、彼は低く言った。


「今は、あります」


 リリアナの目に涙が浮かぶ。


 エレノアは、胸の痛みをそのまま受け止めた。


 父が認めた。


 それは救いではない。


 許しでもない。


 だが、記録として必要な一歩だった。


 次に、セレスティアが呼ばれた。


 母は証言台まで歩く途中で、一度足を止めかけた。


 それでも、マルタに支えられることなく、自分で立った。


 法務官は容赦しなかった。


 月涙石代替首飾り。

 模造品の宝物庫持ち込み。

 リリアナの社交界デビュー支出。

 夫人会への過剰な謝礼。

 リリアナを何も知らないまま守ろうとしたこと。

 エレノアへの劣等感。


 母は何度も涙を浮かべた。


 けれど、泣いて答えを避けることはしなかった。


「私は、リリアナを守っているつもりでした」


 セレスティアは震える声で言った。


「けれど、あの子を何も知らない娘にしていました。エレノアには、強いから大丈夫だと甘えていました。母として、どちらの娘も正しく見ていませんでした」


 リリアナは泣いていた。


 声を上げず、ただ涙を落としていた。


 エレノアも、目を伏せた。


 母の言葉は、遅い。


 遅すぎる。


 だが、言葉にされた。


 そのことは、記録に残る。


 そして最後に、オルガ・ベルナールが証言台に立った。


 法廷の空気が変わった。


 彼女は、変わらず美しい姿勢で立つ。


 だが、今日の彼女にはもう最後の微笑みすらほとんどなかった。


 法務官が問う。


「オルガ・ベルナール。あなたは、王妃陛下の死期が早まる可能性を認識していましたか」


 最初から核心だった。


 オルガは、法廷全体をゆっくり見渡した。


 国王。

 ユリウス。

 カイン。

 マルタ。

 エレノア。

 傍聴席。

 被告席。


 そして答えた。


「はい」


 短い一言。


 法廷が凍った。


「私は、王妃陛下が起きておられると困ると思いました。明確に殺す命令を出したわけではありません。けれど、眠っていていただきたかった。死期が早まるかもしれないとは思いました」


 マルタが目を閉じた。


 ユリウスは顔を歪めた。


 国王アレクシスは、表情を変えない。


 だが、その手は王座の肘掛けを強く握っていた。


 オルガは続けた。


「青い祈りの糸は、私が考えました。善意の名を借りた連絡網として使いました。偽書簡の原案にも関わりました。ベルナール分家を本家崩壊後に立てる計画もありました」


 法務官が問う。


「なぜ、そこまでしたのですか」


 オルガは、少しだけ目を伏せた。


「家を残すためです。私の夫の家を。私自身の居場所を。そして……王妃陛下が恐ろしかったからです」


「恐ろしかった?」


「はい。あの方は、人を人として見ようとなさった。私には、それが最も恐ろしかった」


 その言葉は、法廷に奇妙な沈黙をもたらした。


 王妃を憎んでいた。


 妬んでいた。


 そう言われる方が、まだ分かりやすい。


 だが、オルガは恐れていたと言った。


 人を人として見る王妃を。


 エレノアは、その言葉を聞きながら、王妃の最後の条項を思い出した。


 記録は、人を人として残すためにある。


 オルガは、まさにその力を恐れたのだ。


 午後の審理は、そこで一度区切られた。


 正式な判決は翌日に持ち越される。


 証言と証拠の量が多く、王家法務官たちが最終整理を行う必要があった。


 国王は、重い声で告げた。


「本日の審理を終える。明日、罪責と処分を言い渡す」


 全員が立ち上がる。


 被告たちが退廷していく。


 グレゴールは一度だけエレノアを見た。


 何かを言いたそうだった。


 だが、言わなかった。


 セレスティアはリリアナを見た。


 リリアナも見返した。


 泣いていたが、逃げなかった。


 オルガは、最後に王妃の私的紋章が掲げられた壁を見上げた。


 微笑みはなかった。


 ただ、ひどく疲れた人間の顔がそこにあった。


 法廷を出た後、エレノアはしばらく廊下で立ち止まった。


 足が重い。


 胸の中も、重い。


 裁判は始まった。


 多くのことが正式に語られた。


 父も、母も、オルガも、逃げ切れなかった。


 それでも、すっきりなどしない。


 真実が言葉になっても、痛みは消えない。


 リリアナが隣に来た。


「エレノアお姉様」


「何?」


「私、泣いたけど、聞いた」


「ええ」


「お父様のことも、お母様のことも、オルガ様のことも」


「ええ」


「明日も聞く」


 エレノアは頷いた。


「私も」


 ユリウスも近づいてきた。


 顔色は悪い。


 だが、目は逸らしていなかった。


「私も聞く。判決まで」


 カインは少し離れたところで三人を見ていた。


 やがて、短く言う。


「今日は休め」


 その言葉に、三人が同時に彼を見た。


 カインは表情を変えずに続ける。


「明日も重い。倒れた者から退場だ」


 リリアナが小さく頷く。


「休みます」


 ユリウスも苦笑する。


「従います」


 エレノアも、少しだけ息を吐いた。


「分かりました」


 裁判初日は終わった。


 まだ判決は出ていない。


 けれど、逃げていた言葉たちは、確かに法の前へ引き出された。


 毒ではなく、薬。

 善意ではなく、連絡網。

 守るためではなく、知らせなかったこと。

 家のためではなく、娘を駒にしたこと。

 怪物ではなく、人間の罪。


 それらが、記録された。


 明日は、裁きの日になる。

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