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第51話 裁判前夜、名前を呼ぶ練習

 正式裁判の前夜、王宮はいつもより静かだった。


 静かすぎる、と言ってもいい。


 大きな裁定の前には、たいてい人が動く。


 法務官が文書を運び、近衛が配置を確認し、書記官が筆と紙を整え、侍女たちが控室の茶を用意する。廊下の角には噂が溜まり、扉の向こうでは誰かが声を潜める。


 それなのに今夜の王宮は、まるで息をひそめているようだった。


 嵐の前というより、雪の前に似ている。


 音が吸われる。


 足音が遠くなる。


 明日になれば、すべてが言葉にされる。


 王妃エレオノーラの死期を早めた薬の問題。

 王妃基金の不正。

 夫人会の別口資金。

 青い祈りの糸。

 ヴァレンシュタイン公爵家の資金工作。

 ベルナール分家の相続計画。

 オルガ・ベルナールの証言。

 グレゴール、セレスティア、ダリウス、ドロテア、リゼット、アルマン。


 名前が並ぶ。


 罪が並ぶ。


 記録が並ぶ。


 そして、その中にエレノア自身も立たなければならない。


 証言者として。

 王妃基金臨時長として。

 ヴァレンシュタイン公爵家の長女として。

 王妃の最後の条項を受け取った者として。


 役割はいくつもある。


 だが、王妃は最後に言った。


 人を役割へ閉じ込めるな、と。


 その言葉が、裁判前夜のエレノアの胸を、静かに重くしていた。


 北翼の執務室で、エレノアは明日の証言順を確認していた。


 法務官作成の予定表。


 最初に王家法務官の事件概要。


 次に王妃療養薬の鑑定報告。


 王妃基金資金流用の記録。


 夫人会別口資金の証拠。


 ベルナール分家帳簿。


 被告側証言。


 関係者証言。


 そして、王妃基金臨時長エレノア・ヴァレンシュタインによる再建と被害確認報告。


 明日、彼女は泣いてもいけない。


 怒りすぎてもいけない。


 冷たすぎてもいけない。


 ただ、正確でなければならない。


 正確に話すことは、冷たいことではない。


 最近ようやく、そう思えるようになってきた。


 扉が控えめに叩かれた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、リリアナだった。


 淡い水色の室内着に、肩掛けを羽織っている。髪は簡単に下ろしていて、いつもの飾りはない。手には、例の手帳を抱えていた。


「お姉様、まだ起きてた」


「あなたもね」


「眠れなくて」


「明日のこと?」


「うん」


 リリアナは、少し迷ってから部屋に入った。


 以前なら、遠慮なくソファへ座っていたかもしれない。


 今は一度、エレノアを見る。


「座ってもいい?」


「ええ」


 リリアナは向かいの椅子に座った。


 机の上の証言予定表を見て、表情を曇らせる。


「明日、たくさんの人が証言するのね」


「ええ」


「私も、呼ばれたら話すのよね」


「あなたの正式証言は既に記録済みだけれど、確認質問が出る可能性はあるわ」


 リリアナは、手帳をぎゅっと握った。


「怖い」


「そうでしょうね」


「お姉様、そこは少し慰めて」


「怖くないと言っても、嘘になるわ」


「それはそうだけど」


 リリアナは小さく息を吐いた。


 それから、手帳を開いた。


「今日、書いてみたの。明日、もし聞かれたら、何を話すか」


「見ても?」


「うん」


 エレノアは手帳を受け取った。


 そこには、リリアナの字でいくつかの項目が並んでいた。


 ――私は、偽署名をしそうになりました。

 ――意味を分からないまま、名前を書こうとしました。

 ――王太子妃候補の責任を知らず、可愛いと言われることを喜んでいました。

 ――でも、知らなかったことを理由に、全部なかったことにはできません。

 ――私は、これから学びます。


 エレノアは、しばらく黙って読んだ。


 リリアナが不安そうに言う。


「変?」


「いいえ」


「短すぎる?」


「十分よ」


「裁判で、こんなこと言っていいのかな。私、自分のことばかり」


「あなたに聞かれるのは、あなたが何を知り、何を知らず、何をしようとしたかよ。自分のことを正確に話すのが大事」


 リリアナは、小さく頷いた。


「お母様のことを聞かれたら?」


「知っていることだけ答えればいい」


「お父様のことは?」


「同じ」


「オルガ様のことは?」


「同じ」


 リリアナは、少しだけ唇を噛んだ。


「全部、同じなのね」


「ええ。誰について聞かれても、知っていること、知らないこと、後から分かったことを分ける。それだけ」


「お姉様は、簡単そうに言う」


「簡単ではないわ」


 エレノアは手帳を返した。


「でも、難しいからこそ、分けるの」


 リリアナは手帳を胸に抱えた。


「明日、お父様もお母様もいるのよね」


「被告席または関係者席に」


「私、見たら泣くかもしれない」


「泣いてもいいわ」


 リリアナは、驚いたように顔を上げた。


「いいの?」


「涙で証言を曲げなければ」


「……難しい」


「難しいわね」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「お姉様も、明日怖い?」


 その問いは静かだった。


 以前のリリアナなら、姉は怖くないものだと思っていただろう。


 でも今は、聞ける。


 エレノアは少し迷い、それから答えた。


「怖いわ」


「何が?」


「父上と母上を見ること。王妃様の死を、改めて言葉にすること。自分が冷たく聞こえないか。逆に、感情が入りすぎないか。王妃基金を本当に再建できるのか」


「いっぱいある」


「ええ」


「お姉様でも、怖いことがいっぱいあるのね」


「あるわ」


 リリアナは、少しだけ安心したような、悲しいような顔をした。


「ねえ、お姉様」


「何?」


「明日だけ、私たち、名前で呼ぶ練習をしない?」


 意外な提案だった。


「名前?」


「うん。裁判では、みんな役割で呼ばれるでしょう。王太子殿下、公爵、公爵夫人、王妃基金臨時長、被告、証人って。でも、王妃様は、人を役割に閉じ込めるなって書いていたから」


 リリアナは少し照れたように言った。


「だから、せめて今夜だけでも、名前で呼ぶ練習。変かな」


 変ではなかった。


 ただ、少し照れくさい。


 エレノアは、妹の顔を見た。


 リリアナ。


 そう呼ぶことはあっても、最近はどうしても「あなた」と言うことが多かった。


 距離を取るために。


 冷静でいるために。


 だが、裁判前夜くらいは、その距離を少しだけ縮めてもいいのかもしれない。


「いいわ」


 リリアナの顔が少し明るくなった。


「じゃあ……エレノアお姉様?」


「急に長いわね」


「だって、エレノアだけだと緊張する」


「好きに呼んで」


「うん。エレノアお姉様」


 リリアナは、少し照れながら言った。


 ただの呼び名なのに、部屋の空気が少し変わった気がした。


 エレノアも、ゆっくり口にする。


「リリアナ」


 妹の肩が小さく震えた。


「はい」


「明日、怖くても、あなたはあなたの知っていることを話せばいい」


 リリアナの目に涙が浮かぶ。


「うん」


「可愛い娘としてではなく、愚かな妹としてでもなく、リリアナ・ヴァレンシュタインとして」


 リリアナは、唇を引き結んで頷いた。


「エレノアお姉様も」


「私?」


「明日、王妃様の代わりじゃなくて、王妃基金臨時長だけでもなくて、エレノアお姉様として立って」


 その言葉は、不器用だった。


 けれど、まっすぐ届いた。


 エレノアは、少しだけ目を伏せた。


「そうするわ」


 扉が再び叩かれたのは、その時だった。


 リリアナが少し慌てて涙を拭く。


 エレノアが返事をすると、ユリウスが入ってきた。


 彼は扉のところで足を止めた。


「すまない。邪魔をしたか」


「いいえ」


 エレノアが答えると、リリアナも立ち上がった。


「王太子殿下」


 そう呼んでから、彼女は少しだけ首を傾げた。


 そして、言い直した。


「ユリウス殿下」


 ユリウスの目が、わずかに見開かれた。


「珍しい呼び方だね」


「名前を呼ぶ練習中です」


「練習?」


 ユリウスは不思議そうな顔をした。


 リリアナが説明する。


「明日はみんな役割で呼ばれるので、今夜だけでも名前を思い出そうと思って」


 ユリウスは、その言葉を受け止めるようにしばらく黙った。


「……私も、参加していいだろうか」


 リリアナがエレノアを見る。


 エレノアは頷いた。


 ユリウスは椅子に座らず、少し離れたところに立ったまま言った。


「明日の裁判で、私は王太子として座る。母上の息子としても、過ちを犯した者としても。だが、役割ばかり考えると、また何かを見失いそうで怖い」


 彼は、少しだけ息を吐いた。


「エレノア」


 名前で呼ばれた。


 元婚約者として甘く呼ばれた時とは違う。


 今の呼び方には、慎重さがあった。


 相手を所有しないための距離があった。


「はい」


「明日、私は君の証言を聞く。苦いことも多いと思う。逃げずに聞くつもりだ」


「お願いします」


「リリアナ」


 ユリウスは、妹へ向き直る。


 リリアナは背筋を伸ばした。


「はい」


「私は、君を可愛い人としてしか見ていなかった。君の未熟さも、自分に都合よく見ていた。明日、もし君が何かを話すなら、私はそれも聞く。王太子としてではなく、ユリウスとして」


 リリアナの目が揺れた。


 けれど、泣かなかった。


「私も、ユリウス殿下を理想の王子様みたいに見ていました。殿下の弱いところも、見ないふりをしていました」


 ユリウスは、静かに頷いた。


「そうだね」


「明日、私もちゃんと聞きます。ユリウス殿下が何を知らなかったのか、何を見なかったのか」


「ああ」


 奇妙な会話だった。


 かつて婚約破棄と恋心の中心にいた二人が、今は互いの未熟さを確認し合っている。


 甘くはない。


 だが、誠実だった。


 エレノアは、ふと王妃の言葉を思い出した。


 記録は、人を人として残すためにある。


 名前を呼ぶことも、きっと同じなのだろう。


 役割の下にいる人間を、見失わないために。


「ユリウス殿下」


 エレノアが呼ぶと、ユリウスは彼女を見た。


「明日、王太子としての発言は重く扱われます。けれど、分からないことは分からないと仰ってください」


「分かっている」


「分かっているつもり、も危険です」


 ユリウスは苦笑した。


「そこまで刺すか」


「必要ですので」


「そうだな」


 彼は少しだけ笑った。


 そして、穏やかな顔で言った。


「ありがとう、エレノア」


 感謝の言葉に、余計な意味はなかった。


 だから、エレノアも素直に受け取れた。


「どういたしまして」


 その後、三人はしばらく明日の流れを確認した。


 誰がどこに座るか。


 誰の証言で何が出るか。


 質問を受けた時、答えられない場合はどう言うか。


 リリアナは何度も「分かりません。確認が必要です」と声に出して練習した。


 ユリウスも「当時の私は確認していませんでした」と繰り返した。


 エレノアは「記録上、確認できる範囲では」と何度も言った。


 途中で、リリアナが少し笑った。


「なんだか変。裁判の前夜なのに、言葉の練習会みたい」


「言葉は大事よ」


 エレノアが言うと、ユリウスも頷いた。


「甘い言葉も、苦い言葉もあるからな」


「薬草園の話ですか?」


「そう」


 リリアナは、手帳に何かを書こうとしてやめた。


「今は書かなくても覚えておきます」


「珍しいわね」


「全部記録していたら、明日寝不足になるので」


「よい判断よ」


 エレノアが言うと、リリアナは少し得意そうにした。


「今のは記録したい」


「寝不足になるわよ」


「我慢します」


 小さな笑いが三人の間に落ちた。


 裁判前夜にしては、穏やかな時間だった。


 だが、長くは続かない。


 やがて、ユリウスが立ち上がった。


「そろそろ戻る。明日は早い」


「はい」


 リリアナも立ち上がる。


「私も戻ります。マルタに、夜更かししないようにって言われているので」


「私も同じことを言われています」


 エレノアが言うと、リリアナは目を細めた。


「エレノアお姉様は、本当に寝てください」


「分かっているわ」


「寝る理由欄に『裁判前で怖い』って書いてもいいから、寝て」


「それは理由欄の使い方として正しいのかしら」


「たぶん正しいです」


 ユリウスが少し笑った。


「リリアナは、理由欄の専門家になりつつあるな」


「まだ学習者です」


 リリアナは少し胸を張った。


 その姿は、以前よりずっと自然だった。


 扉の前で、ユリウスが一度振り返った。


「エレノア、リリアナ」


 二人の名を並べて呼んだ。


「明日、逃げずに聞く」


 エレノアは頷いた。


「私も、逃げずに話します」


 リリアナも、小さく頷く。


「私も、逃げずに聞いて、必要なら話します」


 三人は、それ以上何も言わなかった。


 ユリウスが出ていき、リリアナも少し遅れて部屋を出た。


 最後に扉を閉める前、リリアナが顔を出す。


「エレノアお姉様」


「何?」


「おやすみなさい」


 ただ、それだけだった。


 けれど、エレノアは一瞬言葉に詰まった。


 昔は、そんな挨拶も当たり前だったかもしれない。


 いつから失われていたのか、覚えていない。


「おやすみ、リリアナ」


 そう返すと、リリアナは少しだけ笑って扉を閉めた。


 部屋に一人になると、静けさが戻ってきた。


 机の上には、明日の証言予定表。


 王妃の最後の条項の写し。


 空欄理由欄の試作紙。


 ニナの礼状。


 薬草園の視察記録。


 それらが一つの線でつながっている。


 裁くこと。

 再建すること。

 名前を呼ぶこと。

 空欄を見ること。

 怖くても話すこと。


 すべて、明日の裁判へ向かっていた。


 エレノアは、自分の手帳を開いた。


 そこに、新しい欄を作る。


 ――裁判前夜の空欄。


 少し考えて、書いた。


 分からないこと。

 明日、父と母を見て自分がどう感じるか。

 理由。

 娘としての痛みと臨時長としての責任が、まだ完全には分けられない。

 次に確認する時。

 裁判後。


 書き終えると、胸の中が少しだけ整った。


 解決はしていない。


 でも、空欄の場所は分かった。


 それだけでいい。


 今夜は。


 エレノアは、予定表を閉じた。


 灯りを落とす前に、窓の外を見た。


 王宮の庭は暗く、遠くに灯る番兵の火だけが見える。


 明日、裁判が始まる。


 多くの役割が並び、多くの罪が語られる。


 それでも、忘れてはいけない。


 そこにいるのは、役割だけではない。


 グレゴール。

 セレスティア。

 オルガ。

 ユリウス。

 リリアナ。

 カイン。

 エレノア。


 名前がある。


 人がいる。


 その人が何をしたかを、正確に記録する。


 怪物にも、聖人にもせず。


 人として。


 エレノアは、静かに灯りを消した。


 裁判前夜の王宮は、まだ静かだった。


 けれどその静けさの中で、名前を呼ぶ練習は終わった。


 明日は、記録の前に立つ日だった。

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