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第50話 空欄を見る練習

 空欄は、ただの空白ではない。


 書き忘れかもしれない。

 確認漏れかもしれない。

 急いでいたのかもしれない。

 誰かが意図的に残した穴かもしれない。

 あるいは、誰もそこに何かを書くべきだと思っていなかったのかもしれない。


 王妃基金の帳簿を開くたび、エレノアはそのことを思い知るようになっていた。


 数字がある場所は、まだ追える。


 日付があるなら、その日の出来事と照合できる。

 名前があるなら、その人物を呼べる。

 印があるなら、責任者を問える。

 品目があるなら、現物を探せる。


 だが、空欄は違う。


 何も書かれていない。


 だから、何も起きなかったように見える。


 けれど本当に何も起きなかったのか、誰かが書かなかっただけなのかは、そこから調べなければ分からない。


 王太子ユリウスが薬草園で言った言葉。


 ――空欄を見る練習が必要だ。


 その言葉は、次の評議会の中心になった。


 王妃基金評議会、第二回。


 中会議室の机には、薬草園から持ち帰った三つの小袋が置かれている。


 良品。

 悪品。

 粗悪品。


 そして、その横には古い薬草納入記録の写しが並んでいた。


 日付の抜けた欄。

 乾燥日のない欄。

 品質確認者の印がない欄。

 納入業者名だけが書かれ、現物確認欄が空白のままになっている欄。


 会議の最初に発言したのは、薬草園管理人ガスパルだった。


 第一回評議会の決定通り、現場代表の発言から始める。


 ガスパルは立ち上がることもなく、机の上の袋を指で叩いた。


「まず、これを嗅いでください」


 財務監査官ロウエルは一瞬だけ眉を上げた。


「全員ですか」


「全員です」


 ガスパルは即答した。


「薬草の話をするなら、鼻を使ってください。鼻を使わずに薬草の帳簿を見るから、空欄が空欄のまま通るのです」


 会議室に微妙な沈黙が落ちた。


 だが、もう誰も「王宮の会議で薬草を嗅ぐなど」とは言わない。


 少なくとも、この評議会では。


 エレノアは最初に良品を手に取った。


 青く、乾いて、少し甘い匂い。


 次に悪品。


 湿り気と黴のような鈍い匂い。


 最後に粗悪品。


 香りが薄く、茎っぽい、力の抜けた匂い。


 前回すでに嗅いでいたが、評議会の場で改めて確認することに意味があった。


 カインも無言で嗅いだ。


 マルタも、表情を変えずに確認した。


 デリア夫人は悪品の袋でわずかに顔をしかめたが、目を背けなかった。


 ミリアム夫人は「これは確かに違いますわね」と率直に言った。


 後方席のリリアナも、今日は正式出席者ではないが、学習者として同じ三袋を嗅いだ。


 悪品で顔をしかめる。


 そして手帳に書いた。


 ――湿り気と黴臭あり。正式記録では「臭い」だけでは駄目。


 その隣でユリウスは、昨日より落ち着いて三つの袋を扱った。


 そして最後に、古い納入記録の写しを手に取って立ち上がる。


 今日、彼は発言を求められていた。


 王太子としてではなく、薬草園学習報告者として。


「昨日、薬草園で学んだことを報告します」


 その声は、会議室に静かに響いた。


「私はこれまで、帳簿に良品と書かれていれば、それを信じてよいものだと思っていました。納入業者名があり、数量があり、金額があり、王宮側の受領印があれば、手続きは済んでいると」


 ユリウスは、良品の袋を持ち上げた。


「ですが、良品と書かれたものが本当に良品かどうかは、帳簿の文字だけでは分かりません。乾燥の状態、香り、茎の混入、保管状態、収穫日、乾燥日。そうしたものを見なければならない」


 次に、古い記録を示す。


「ここに、乾燥日の空欄があります。以前の私は、ここを見ても何も思わなかったでしょう。書き忘れか、不要な欄か、その程度にしか考えなかった」


 彼は一度、言葉を切った。


 それから、少しだけ苦い顔で続けた。


「しかし、この空欄は危険です。乾燥日が分からなければ、古い草か新しい草か分からない。保管期間も分からない。品質が落ちた理由も追えない。空欄は、責任の逃げ道になります」


 財務監査官ロウエルが頷いた。


 ガスパルは黙って聞いている。


「私は王太子府で、何度も空欄を見落としました。ダリウスの報告書にも、王妃基金関連の書類にも、確認者名のないものがありました。私は、それを『後で埋まるもの』として流した。後で埋まらない空欄があると、考えなかった」


 リリアナが後方で手を止めた。


 彼女にも刺さる話だったのだろう。


 偽署名の時、自分も意味の分からない欄へ名前を書きそうになった。


 空欄を、誰かが都合よく埋める。


 その怖さを、彼女も知っている。


「今後、薬草納入に関しては、乾燥日、収穫区画、品質確認者三名、保管場所、再検査日を必須項目とすべきです」


 ユリウスは、用意していた紙を広げた。


 そこには、彼自身の字で書かれた提案があった。


 一、乾燥日未記入の薬草は仮受領とし、正式支払いを保留する。

 二、品質確認者は三名、うち一名は薬草園または薬師の推薦者とする。

 三、確認者は固定せず交代制にする。

 四、選別作業の手間を支出項目として認め、過度な値下げを禁じる。

 五、空欄がある場合、その理由欄を設ける。


 エレノアは、その五番目に目を留めた。


 空欄の理由欄。


 それは少し奇妙な項目だった。


 だが、重要だった。


「五番について説明を」


 エレノアが促すと、ユリウスは頷いた。


「空欄を完全になくすことは難しいと思います。天候、急な納入、記録者の病欠、現場の混乱。書けない時もある。だから、空欄そのものを禁止するだけでは、現場が嘘を書く恐れがある」


 ガスパルが、初めて少しだけ満足そうに目を細めた。


「そこで、空欄がある場合は理由を書く。未確認、確認者不在、後日追記予定、現物不足、天候により乾燥日不明。理由があれば、後で追える。理由もない空欄は、危険として扱う」


 ロウエル財務監査官が腕を組んだ。


「現場負担は増えますが、現実的ですね。空欄を罰しすぎると、虚偽記入が増える。理由欄は有効でしょう」


 ガスパルが頷いた。


「書けない時に、分からないと書ける欄があるのは良い」


 リリアナが、後ろで大きく頷いていた。


 分からないと書ける欄。


 それは彼女にとっても大事な概念だった。


 デリア夫人が静かに口を開く。


「夫人会の帳簿にも、この理由欄は使えるかもしれません」


 全員の視線が彼女へ向く。


 デリア夫人は、怯まず続けた。


「過去の夫人会では、分からない支出を後から整えようとしました。整えるという名で、実際には隠した。もし、その場で『未確認』『後日確認』『紛失』と書く欄があれば、少なくとも後から追うことはできたかもしれません」


 ミリアム夫人が頷いた。


「茶会支出にも必要ですわね。誰が受け取ったか分からない品、代理人が受け取った寄付、後援者名の確認待ち。曖昧なまま美しく整えるより、未確認と書く方がよい」


 王宮の会議で、貴婦人が「未確認と書く方がよい」と言う。


 それだけでも、夫人会は少し変わり始めている。


 エレノアは、議事録へ加えた。


 ――薬草納入記録に空欄理由欄を設置。夫人会帳簿簡易様式にも同様の欄を検討。


 その時、後方席でリリアナが控えめに手を上げた。


 学習者席からの発言には、許可が必要だ。


 エレノアが視線で促すと、リリアナは立ち上がった。


「発言してもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「空欄理由欄は、私の勉強用の紙にも欲しいです」


 会議室が少しだけ和らいだ。


 だが、リリアナは真剣だった。


「私は、分からないところを空欄にすると、後で見返した時に、なぜ空欄なのか分からなくなります。難しくて分からなかったのか、説明を聞き逃したのか、確認が必要なのか、自分が嫌で見なかったのか。全部同じ空欄になります」


 エレノアは、思わず妹を見た。


 リリアナは手帳を握りながら続ける。


「だから、理由を書ける欄があると助かります。『今は分からない』『あとで聞く』『怖くて読めなかった』とか。帳簿とは違うかもしれませんが……」


「違いません」


 エレノアは言った。


 リリアナの表情が少し驚く。


「学習記録にも、理由欄は有効です。分からないことを分からないままにしないために」


 フィオナ司祭が穏やかに頷いた。


「救貧院の受領記録にも使えます。名前を書けない方、住所が曖昧な方、何度も来ているが事情が変わった方。空欄に理由があれば、次に支援する時に迷いません」


 ロウ夫人も言った。


「孤児院の修繕記録にも。『まだ確認していない』『子供が近づくため保留』『雨の日に再確認』。そう書ければ、忘れにくい」


 ガスパルがぼそりと付け加えた。


「畑でも使える。『雨で見られず』『虫害の疑い』『匂いが弱いが保留』」


 最初は薬草納入の話だった。


 それが、夫人会、救貧院、孤児院、学習記録、畑の記録へ広がっていく。


 空欄を見る練習。


 それは、王妃基金全体の新しい習慣になりそうだった。


 カインが静かに言った。


「共通様式を作れ」


 エレノアは頷いた。


「はい。支出記録、現物確認、学習記録、現場点検に応用できる形で」


「項目は簡潔に」


「はい」


 ロウ夫人がすかさず言った。


「簡潔でお願いします。長すぎる欄は誰も書きません」


「承知しています」


「本当に?」


 ロウ夫人の目は鋭い。


 エレノアは少しだけ苦笑した。


「リリアナに確認してもらいます」


 リリアナが目を丸くした。


「私?」


「分かりやすさを見る係でしょう」


「そうでした」


 リリアナは少し緊張しながらも、手帳へ大きく書き込んだ。


 ――空欄理由欄の共通様式を見る係。


 その文字は、前より少しだけ力強かった。


 評議会は、その後も薬草納入制度について詰めていった。


 品質確認者の登録方法。

 選別作業の適正賃金。

 粗悪品発見時の支払い保留。

 業者への再教育期間。

 悪質な混入の場合の契約停止。

 現場確認者の報告書様式。


 地味だった。


 ひどく地味だった。


 しかし、王妃の死へつながった不正は、こうした地味なところに穴があったから起きた。


 ならば、再建も地味でなければならない。


 会議が終わる頃、ユリウスは疲れた顔をしていた。


 だが、逃げるような疲れではない。


 使った頭が重い、という顔だった。


 会議後、彼はエレノアへ近づいた。


「今日の発言は、十分だっただろうか」


「十分かどうかは、次の運用で分かります」


「相変わらず厳しい」


「ただ、よい提案でした。空欄理由欄は採用されます」


 ユリウスは、少しだけほっとした顔をした。


「薬草園へ行かなければ、思いつかなかった」


「現場を見る意味がありましたね」


「ああ」


 彼は手元の薬草袋を見た。


「母上のことで、私はいつも大きな罪ばかり見ていた。ダリウス、オルガ、偽書簡、黒眠草。もちろん、それは重大だ。だが、今日分かった。小さな空欄も、母上を遠ざけたのだな」


 エレノアは、静かに頷いた。


「はい」


「私は、これから自分が見落とした空欄を探す」


「王太子府の再審査にも必要でしょう」


「そうだな」


 ユリウスは、少しだけ自嘲するように笑った。


「見つけたくない空欄も、多いだろうが」


「理由欄をつけましょう」


「私にも?」


「ええ」


 ユリウスは苦笑した。


「リリアナに笑われそうだ」


 そのリリアナが、すぐ近くで聞いていた。


「笑いません」


 ユリウスが振り返る。


 リリアナは、少しだけ胸を張って言った。


「私も空欄だらけなので。むしろ、殿下も一緒に理由欄をつけましょう」


「一緒に?」


「はい。『怖くて見なかった』『分からないふりをした』『可愛いと言われて嬉しくて忘れた』とか」


 ユリウスは一瞬、言葉を失った。


 それから、少しだけ笑った。


「君の理由欄は正直だな」


「お姉様に、正直に書かないと意味がないと言われました」


 エレノアは言った覚えがあった。


 だが、そこまで素直に実践されると少し照れる。


 ユリウスは、リリアナへ向き直った。


「では、私も正直に書こう。『耳に痛いことを聞きたくなかった』」


 リリアナは頷いた。


「よいと思います」


「君に採点される日が来るとは」


「私もびっくりしています」


 二人は、少しだけ笑った。


 かつて婚約破棄騒動の中心にいた二人とは思えない、奇妙に穏やかな笑いだった。


 甘い恋ではない。


 まだ信頼とも言いきれない。


 だが、同じ失敗を見つめる者同士の、細い会話がそこにはあった。


 その日の午後、エレノアはリリアナと共に共通様式案を作った。


 表題は「確認記録・空欄理由付き」。


 項目は、できるだけ簡潔にした。


 確認日。

 確認者。

 対象。

 分かったこと。

 分からないこと。

 空欄の理由。

 次に確認する人。

 期限。


 リリアナは「分からないこと」の欄を見て、少しだけ笑った。


「堂々と分からないことを書く欄があるの、なんだか不思議」


「必要な欄よ」


「うん。安心する」


「安心しすぎて空欄だらけにしないように」


「お姉様、すぐ釘を刺す」


「必要だから」


 リリアナは、むっとしながらも紙を読み直した。


「でも、この欄、少し狭いです。私なら書ききれない」


「あなた基準だと広くなりすぎるわ」


「分からないことが多い人にも優しくしてください」


「……確かに」


 エレノアは欄を少し広げた。


 リリアナは満足そうに頷く。


「あと、『怖くて見られない』という理由も選べるようにしてほしい」


「正式様式に?」


「駄目ですか?」


 エレノアは考えた。


 最初は少し感情的すぎると思った。


 だが、今回の事件では、怖くて見なかった空欄がいくつもあった。


 ベアトリス。

 セレスティア。

 ドロテア。

 リリアナ。

 ユリウス。


 恐怖は、記録を空欄にする。


 ならば、その理由も書けるべきかもしれない。


「正式には『心理的抵抗により未確認』としましょう」


 リリアナが顔をしかめた。


「難しいです」


「では、説明書には『怖くてまだ見られない時』と書きます」


「それなら分かります」


 リリアナは、説明書用の紙に書いた。


 ――怖くてまだ見られない時も、空欄の理由になります。ただし、誰かに相談して、いつ確認するか決めましょう。


 エレノアはその文を見て、少しだけ目を細めた。


 よい。


 とてもよい。


 だが、素直に言うとリリアナが調子に乗るかもしれない。


「分かりやすいわ」


 結局、言った。


 リリアナの顔が明るくなる。


「本当?」


「ええ」


「今日、二回目くらいに褒められた気がする」


「回数を数えなくていいわ」


「記録します」


「しなくていい」


 リリアナは、手帳の端に小さく何かを書いた。


 おそらく記録した。


 エレノアは見なかったことにした。


 夕方、空欄理由付きの共通様式案は、カインへ提出された。


 彼は一通り読み、最後の説明書部分で少しだけ目を止めた。


「怖くてまだ見られない時、か」


「リリアナの案です」


「分かりやすい」


 リリアナが背筋を伸ばした。


「ありがとうございます」


「ただし、悪用される余地もある」


 カインは続けた。


「怖いと言えば確認を先延ばしにできる」


 リリアナの顔が少し曇る。


 エレノアは頷いた。


「そのため、期限と次に確認する人を必須項目にします。怖くて見られない場合も、相談先と期限を記入する」


「それならよい」


 リリアナは、少しほっとした。


「怖いって書くだけじゃ駄目なのですね」


「怖いと書くのは始まりだ」


 カインが言う。


「その後、どう確認するか決める必要がある」


 リリアナは、真剣に頷いた。


「分かりました」


 その姿を見て、エレノアは少し不思議な気持ちになった。


 リリアナは、今、王弟カインの指摘を怖がりながらも受け止めている。


 以前なら、泣くか、萎縮するか、誰かに助けを求めていただろう。


 今は、書き直す気でいる。


 変化は本物だった。


 夜、エレノアは自室で自分の手帳を開いた。


 共通様式案の写しを挟み、その横に小さく書く。


 ――空欄は、責任の逃げ道にも、学びの入口にもなる。


 書いてから、少し考えた。


 自分自身にも空欄はある。


 父をどう思っているのか。

 母をいつ許せるのか。

 ユリウスへの感情は何だったのか。

 カインに向けて時折生まれる安心は何なのか。

 王妃基金臨時長の先に、自分は何を望むのか。


 どれも、まだ書けない。


 だが、書けない理由はある。


 エレノアは、手帳の端に小さく欄を作った。


 自分用の空欄理由欄。


 そこに、最初の一つを書く。


 ――将来について。理由:まだ役目と自分の意思の境目が分からない。期限:三か月後の初回評価前に再確認。


 書き終えた時、少しだけ息が楽になった。


 空欄を埋めなくてもいい。


 まず、空欄であることを認める。


 その理由を書く。


 次に確認する時を決める。


 それだけで、空欄は闇ではなくなる。


 王妃基金の帳簿も。

 王太子府の記録も。

 夫人会の支出も。

 リリアナの学習も。

 そして、エレノア自身の心も。


 空欄を見る練習は、始まったばかりだった。

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