第49話 王太子、薬草園へ行く
王太子が薬草園へ行く。
その話が王宮内に広まった時、最初に困ったのは儀典係だった。
王太子の外出である。
それも、王妃基金再建後の初めての現場学習。
普通なら、馬車の列を整え、護衛の配置を決め、薬草園側へ事前通知を出し、歓迎の場を用意させる。
入り口には清掃を。
道には敷布を。
作業員は礼服に近い服を。
管理人には挨拶文を。
王太子殿下が視察なさるのだから、粗相があってはならない。
儀典係は、そう考えた。
そして、エレノアに止められた。
「敷布は不要です」
北翼の小会議室で、エレノアは儀典係の提出した視察案に赤を入れた。
儀典係の青年は、目に見えて困惑した。
「しかし、薬草園は土の道でございます。王太子殿下のお靴が汚れます」
「汚れて構いません」
「構うのでは……」
「薬草園は土の上にあります。土を踏まずに薬草を学ぶ視察は意味がありません」
儀典係は助けを求めるようにカインを見た。
カインは資料から目を上げもせずに言った。
「敷布なし」
「……承知しました」
「歓迎挨拶文も不要です」
エレノアが次の項目に線を引くと、儀典係はさらに顔を強張らせた。
「それはさすがに」
「今回、王太子殿下は視察者ではなく学習者として行きます。薬草園側に歓迎準備をさせれば、作業時間を奪います」
「ですが、無礼にあたるのでは」
「王太子殿下ご本人が、それを望んでいます」
部屋の端で聞いていたユリウスが、静かに頷いた。
「私は、歓迎を受けに行くのではない。薬草がどのように育ち、どこで確認が抜け、なぜ粗悪品が王妃の薬へ混ざったのかを学びに行く」
以前の彼なら、こんな言葉は出なかっただろう。
少なくとも、土で靴が汚れる視察を自分から受け入れることはなかった。
儀典係はまだ心配そうだったが、王太子本人に言われてしまえば従うしかない。
「では、最低限の護衛と、記録係のみで……」
「記録係は必要です」
エレノアは頷いた。
「ただし、現場の作業を止めないこと。薬草園側へは『通常作業のまま迎えること』と伝えてください」
「通常作業のまま……」
儀典係は、その言葉をまるで異国語のように繰り返した。
王太子を通常作業のまま迎える。
王宮の常識では、なかなか飲み込みづらいのだろう。
リリアナが後方席で小さく手を上げた。
「私も行くのですか?」
「今回は行きません」
エレノアが答えると、リリアナは少しだけ残念そうな顔をした。
「薬草、見たかったです」
「あなたは今日は救貧院の受領記録補助の準備があります」
「はい……」
「それに、薬草園は匂いが強いわ」
「孤児院でも少し薬草茶の匂いはしました」
リリアナがそう言うと、カインが資料から顔を上げた。
「ガスパルの薬草園は、その程度ではない」
「そんなに?」
ユリウスが少し不安そうな顔をした。
カインは淡々と言った。
「悪い薬草も嗅がされるだろう」
リリアナは、王太子を見た。
「殿下、頑張ってください」
ユリウスは、苦笑した。
「ありがとう。励ましとして受け取る」
「臭かったら、臭いと言うのが大事だそうです」
「覚えている」
そのやり取りは、以前の二人なら考えられないほど素朴だった。
甘い言葉も、きらめく視線もない。
だが、今の二人にはその方がずっと健全に見えた。
薬草園へ向かう日、空は晴れていた。
前日の雨で土は柔らかく、道の端には水たまりが残っている。
王太子の馬車は通常より小さく、護衛も少ない。
同行者は、ユリウス、エレノア、カイン、オスカー、医師見習い一名、護衛数名。
ユリウスは、王宮の儀礼用外套ではなく、動きやすい濃茶の上着を着ていた。靴も、光沢のある宮廷靴ではなく、泥道を歩ける革靴だ。
それでも、王太子は王太子だった。
背筋の伸ばし方、手袋の選び方、馬車から降りる動作。
どれも育ちのよさを隠せない。
薬草園の入り口に立っていたガスパルは、そんなユリウスを頭から足元まで見て、第一声で言った。
「靴は合格です」
ユリウスは一瞬、返答に迷った。
「……ありがとうございます」
「ただ、歩き方がまだ土に慣れていませんな。泥で滑ります」
王太子に向かって、いきなり歩き方の指摘である。
護衛の一人がわずかに眉を動かしたが、カインが視線だけで止めた。
ユリウスは真面目に頷いた。
「気をつけます」
「気をつけるより、足を置く場所を見ることです。気持ちで泥は避けられません」
「はい」
エレノアは、思わず筆記用紙にその言葉を書き留めた。
気持ちで泥は避けられない。
薬草園の話でありながら、王宮全体にも通じる言葉だった。
薬草園は、王宮から馬車で少し離れた郊外にあった。
広すぎるわけではない。
だが、区画ごとに草が分けられ、低い柵と木札が立っている。乾燥小屋、選別小屋、井戸、小さな倉庫。働く者たちは簡素な服を着て、土のついた手で作業していた。
王太子が来ても、作業は止まっていない。
最初にエレノアがそう伝えていたからだ。
それでも、作業員たちはちらちらとこちらを見る。
王太子が本当に泥の上を歩いている。
それだけで珍しい光景なのだろう。
ガスパルは、木の杖で足元を指しながら案内した。
「ここが鎮静草の畑です。乾燥させて、熱を鎮める薬や眠りを助ける薬に使います」
ユリウスの顔が少し強張る。
眠りを助ける薬。
王妃の件を思い出さずにはいられない。
ガスパルは容赦しない。
「王妃陛下に使われた薬にも、近い系統の草が含まれておりました。ただし、問題になった黒眠草とは別です」
ユリウスは頷いた。
「違いを教えてください」
「よろしい」
ガスパルは、畑の端から一株を示した。
「これは鎮静草。葉の裏に細かい白毛があります。香りは弱く、乾燥すると少し甘くなる。過剰に使えば眠りが深くなりますが、通常量なら熱や痛みを和らげる」
次に、乾燥小屋へ向かう。
中には、束ねた薬草が吊るされていた。
風通しのよい木造の小屋で、天井近くに細い隙間がある。
乾いた草の匂いが強い。
青さと苦みと、少し土のような匂いが混ざっている。
ユリウスは一瞬、目を細めた。
だが、顔を背けなかった。
ガスパルは棚から二つの束を取り出す。
「良い乾燥」
ひとつを差し出す。
ユリウスは受け取り、慎重に匂いを嗅いだ。
「青い……しかし、軽い甘さがあります」
「そうです」
ガスパルは次に、別の束を出した。
「悪い乾燥」
ユリウスは同じように嗅ぎ、今度は明らかに顔をしかめた。
「湿った匂いがする。少し黴のような」
「それを臭いと言ってよろしい」
「……臭いです」
「よろしい」
また、謎の合格が出た。
エレノアは記録しながら、少しだけ口元が緩みそうになった。
ユリウスは真剣だった。
王太子が薬草を嗅ぎ、「臭いです」と答える。
その姿は滑稽にも見える。
だが、誰も笑わなかった。
この匂いを知らずに、紙の上だけで良品と判断したことが、王妃の薬を危うくしたのだ。
笑い事ではない。
ガスパルは、さらに三つ目の袋を出した。
「帳簿上は良品扱いされていた粗悪品です」
その草は、見た目から違った。
茎が多く、葉が砕け、色も悪い。
ユリウスは匂いを嗅ぎ、眉を寄せた。
「香りが薄い」
「そうです。効き目が弱い。弱いから量を増やす。量を増やすと副作用が出る。他の草と混ぜると、何が効いて何が悪さをしたのか分かりにくくなる」
ガスパルの声は低かった。
「帳簿で良品と書かれた草が、現物ではこれだった。王宮の者は、紙を見て印を押した。畑の者は見なかった。薬師も見なかった。医師は処方だけ見た。皆、自分のところだけ見た」
ユリウスは、草の袋を見つめた。
「その結果、母上の薬に悪い草が混ざった」
「はい」
ガスパルは、容赦なく答えた。
「黒眠草の問題はさらに別ですが、確認の抜け方は同じです」
ユリウスは、しばらく黙っていた。
それから、草の袋を両手で持ったまま、深く頭を下げた。
「申し訳なかった」
乾燥小屋が静まり返る。
作業員たちも手を止めて見ていた。
ガスパルは、王太子の謝罪にすぐには答えなかった。
長い沈黙の後、彼は言った。
「謝罪は草には効きません」
護衛の一人が息を呑む。
だが、ユリウスは顔を上げなかった。
「はい」
「次から見ることです」
「はい」
「見ても分からない時は、分かる者を呼ぶことです」
「はい」
「分からないのに分かったふりをしないことです」
「はい」
ユリウスの声は、ひとつずつ低くなっていった。
それは責められているからではなく、刻み込んでいるように聞こえた。
ガスパルは、そこでようやく袋を受け取った。
「なら、次へ行きます」
外へ出ると、風が少し冷たかった。
ユリウスは深く息を吸った。
顔色は良くない。
だが、逃げようとはしていない。
エレノアは、その横顔を見た。
以前の彼なら、謝罪の言葉で場を整えようとしたかもしれない。
今は、謝罪が十分ではないことを知り始めている。
それは小さくない変化だった。
次に案内されたのは、選別小屋だった。
作業台の上に、乾燥した薬草が広げられている。
作業員たちは葉、茎、混入物を分けていた。
ガスパルはユリウスの前に椅子を置いた。
「座ってください」
「ここで?」
「はい。選別します」
ユリウスは一瞬、エレノアを見た。
エレノアは何も言わない。
カインも黙っている。
逃げ道はない。
ユリウスは椅子に座り、手袋を外した。
作業員の一人が驚いた顔をする。
王太子の素手。
白く、細く、剣や書類には慣れていても、草を選る手ではない。
ガスパルは、そんなことは気にしなかった。
「良い葉はこちら。太い茎はこちら。変色したものはこちら。土や小石があれば別皿へ」
「分かった」
「最初は分からないと言いなさい」
ユリウスは、少しだけ苦笑した。
「分かりません。教えてください」
「よろしい」
今日何度目かの「よろしい」だった。
ユリウスは、ぎこちない手つきで薬草を選び始めた。
最初は遅い。
葉と茎の境目で迷い、変色か乾燥色か分からず、何度も作業員に尋ねる。
作業員の若い女性は、最初こそ緊張していたが、何度も聞かれるうちに普通の調子で答え始めた。
「それは茎です」
「これは?」
「葉ですが、割れすぎています。こちらへ」
「これは変色か?」
「端だけなら大丈夫です。でも黒い点があればこちら」
「なるほど」
リリアナが見たら、きっと手帳いっぱいに書いただろう。
王太子が「これは茎か?」と真剣に尋ねている。
滑稽で、地味で、けれど必要な学びだった。
エレノアは、選別作業の様子を記録した。
王太子、薬草選別作業を体験。
葉、茎、変色、混入物の分類を学ぶ。
作業員から直接説明を受ける。
作業速度、熟練者の約五分の一。
そこまで書いたところで、ユリウスがこちらを見た。
「今、速度まで記録したのか」
「はい」
「五分の一くらいか」
「おそらく」
作業員の女性が控えめに言った。
「慣れればもう少し速くなります」
慰めだった。
ユリウスは苦笑した。
「努力する」
ガスパルは厳しく言った。
「王太子殿下が速くなる必要はありません。速い者に任せ、その価値を理解する必要があります」
ユリウスは、また表情を引き締めた。
「そうだな」
「選別の手間を知らない者は、納入費を簡単に削ります。削れば、粗い仕事になります。粗い仕事になれば、悪い草が混ざる」
財務の問題が、ここで出てきた。
エレノアは筆を止めない。
「安ければよいわけではないのですね」
ユリウスが言うと、ガスパルは頷いた。
「高ければよいわけでもない。適正が必要です」
「適正を知るには?」
「現場を見ることです。あと、働く者に聞くことです」
ユリウスは、薬草を選びながら静かに頷いた。
「覚えておく」
「覚えるだけではなく、次の会議で言ってください」
「私が?」
「王太子が言えば、財務官も少しは聞くでしょう」
ガスパルは、まったく遠慮しない。
ユリウスは少し驚き、それから真面目に答えた。
「分かった。次の評議会で、薬草選別の手間について発言する」
「では、今のうちに手を動かしてください。言葉だけでは軽い」
「はい」
王太子は再び薬草を選び始めた。
昼前、薬草園の簡素な食堂で休憩となった。
王太子用の特別な食事は用意されていない。
全員に同じ粥と硬いパン、薬草茶が出された。
儀典係がいれば卒倒したかもしれない。
ユリウスは最初、少し戸惑ったが、何も言わずに食べ始めた。
薬草茶は苦かった。
かなり苦かった。
ユリウスの顔が一瞬だけ固まる。
ガスパルが見逃さない。
「苦いですか」
「苦い」
「よろしい。これは胃を整える茶です。甘くすると飲みやすいですが、効き目が分かりにくくなる」
「薬は美味である必要はない、ということか」
「美味い薬もあります。ただ、苦いものを無理に甘く見せると、何を飲んでいるか分からなくなります」
その言葉は、また別の意味を持って聞こえた。
エレノアは茶を一口飲んだ。
苦い。
確かに苦い。
けれど、目が覚める苦さだった。
ユリウスは、茶碗を見つめながら言った。
「私は、苦い話を避けてきたのだと思う」
誰もすぐには答えなかった。
ユリウスは続ける。
「ダリウスは、私に甘い言葉をくれた。リリアナも、最初は私を心地よくしてくれた。エレノアの言葉は苦かった。母上の注意も苦かった。ローレンの諫言も苦かった。私は、それを飲まなかった」
ガスパルは、薬草茶をすすった。
「苦い茶も、冷めるとさらに飲みにくくなります」
カインが少しだけ眉を動かした。
エレノアは思わずガスパルを見た。
狙って言っているのか、ただ茶の話をしているのか分からない。
ユリウスは、茶碗を両手で持った。
「冷める前に飲むべきだったな」
「今も温かいなら、飲めます」
ガスパルはそう言って、パンをかじった。
ユリウスは、苦い茶をもう一口飲んだ。
今度は顔をしかめなかった。
食後、薬草園の記録小屋を確認した。
そこには、乾燥日、収穫日、担当者、保管場所を書いた札が並んでいた。
ただし、古い記録には抜けが多い。
ガスパルは、その抜けを隠さなかった。
「昔はここまで細かく書いていませんでした。王妃陛下の件があってから、書き方を変えています」
「以前の記録は?」
エレノアが尋ねる。
「残っています。恥ずかしいが、残しています」
「なぜ?」
「消すと、何が足りなかったか分からなくなる」
ガスパルの言葉は、今日一番まっすぐだった。
エレノアは深く頷いた。
「その通りです」
ユリウスも、古い記録を見た。
空欄。
曖昧な日付。
担当者名の抜け。
商会名だけで品質確認者がない欄。
紙の上の小さな空白。
その空白の先に、母の病床があった。
ユリウスは、しばらくその空白を見ていた。
「空欄は、怖いな」
低く言った。
エレノアは答えた。
「はい」
「空欄を、誰かが都合よく埋めることもある」
「はい」
「あるいは、埋めないまま進んでしまう」
「それが一番多いかもしれません」
ユリウスは、記録札の一枚をそっと撫でた。
「私は、これから空欄を見る練習をしなければならない」
その言葉を、オスカーが記録した。
王太子自身が、自分の課題を言語化した瞬間だった。
午後、薬草園視察の最後に、ガスパルはユリウスを畑の端へ連れていった。
そこには、小さな白い花が咲いていた。
「これは?」
ユリウスが尋ねる。
「白眠花です。黒眠草と名前は似ていますが、作用は穏やかです。正しく使えば、子供や老人の寝つきを助ける。間違えれば、効かない。似た名前、似た見た目の草は多い」
ガスパルは、白い花を摘まなかった。
ただ、指で示す。
「薬草は、使い方で毒にも薬にもなります。人の言葉も同じでしょう」
ユリウスは、静かに花を見た。
「甘い言葉は毒にもなる」
「苦い言葉も薬になることがある」
「今日の私は、薬をたくさん飲まされた気分だ」
「効くかどうかは、これからです」
ガスパルは、最後まで手厳しかった。
だが、ユリウスは不快そうではなかった。
むしろ、少しだけ晴れたような顔をしていた。
薬草園を出る時、作業員たちは作業の手を完全には止めず、それでも軽く頭を下げた。
ユリウスは、その一人一人に同じように頭を下げた。
王太子としての礼ではなく、学ばせてもらった者としての礼だった。
馬車に乗る前、ガスパルが言った。
「次に来る時は、事前の知らせは短くていいです。長い準備は迷惑です」
儀典係が聞いたらまた青ざめるだろう。
ユリウスは少し笑った。
「分かった。短くする」
「それと、靴は今日のものでよろしい」
「合格を維持できるようにする」
「歩き方はまだです」
「練習する」
ガスパルは、そこで初めて少しだけ満足げに頷いた。
王宮へ戻る馬車の中で、ユリウスはしばらく黙っていた。
手には、ガスパルから渡された小さな薬草見本がある。
良品、悪品、粗悪品。
三つの小袋。
次の評議会で使え、と渡されたものだった。
「母上は、これを見ていたのだろうか」
ユリウスがぽつりと言った。
エレノアは答えた。
「王妃様は、見ようとしていたのだと思います」
「私は、見なかった」
「今は見ました」
「それで足りるだろうか」
「足りません」
エレノアは、いつものように答えた。
ユリウスは苦笑した。
「君は、本当に慰めないな」
「必要なら慰めます」
「今は?」
「次に何を見るか決める方が先です」
「そうだな」
ユリウスは、小袋を見つめた。
「次の評議会で、薬草選別の手間について話す。あと、乾燥日記録の義務化。確認者三名の交代制。それから、品質確認人の報酬も削りすぎてはいけない」
「よく見ていましたね」
エレノアが言うと、ユリウスは少しだけ驚いた顔をした。
「今のは、評価か?」
「はい」
「そうか」
ユリウスは、目を伏せた。
少しだけ嬉しそうだった。
けれど以前のように、その嬉しさを婚約者からの好意に変えようとはしなかった。
ただ、学びが認められたこととして受け取っている。
その距離が、今は大切だった。
王宮へ戻ると、リリアナが待っていた。
彼女はユリウスを見るなり、真剣な顔で尋ねた。
「臭かったですか?」
第一声がそれだった。
ユリウスは一瞬きょとんとし、それから笑った。
「臭かった」
「ちゃんと臭いって言えました?」
「言えた」
「よかった」
リリアナは、心底安心したように頷いた。
王太子に向ける言葉としては奇妙すぎる。
だが、ユリウスは穏やかに受け取った。
「君は救貧院の準備は?」
「名前を書く練習をしました。あと、玉結びも」
「玉結び?」
「大きすぎる善意は布を引っかけるので」
ユリウスは意味が分からない顔をした。
エレノアは横から言った。
「そのうち説明します」
「ぜひ頼む」
リリアナは、ユリウスの持つ薬草袋を見た。
「それ、評議会に持っていくのですか?」
「ああ。良い薬草、悪い薬草、粗悪品だそうだ」
「私も嗅いでもいいですか?」
エレノアは少し驚いた。
「本気?」
「はい。臭いものを臭いと言えるようになりたいので」
ユリウスは、少しだけ迷ってから袋を差し出した。
「まず良いものから」
リリアナは慎重に嗅いだ。
「これは……草の匂い。少し甘い?」
「そう」
「次は?」
悪い乾燥草を嗅いだ瞬間、リリアナの顔が見事に歪んだ。
「臭いです」
ユリウスは真面目に頷いた。
「私もそう言った」
「殿下、これを嗅いだのですね」
「ああ」
「偉いです」
王太子は、妹分のような公爵令嬢に「偉い」と言われ、返答に困っていた。
カインが横を通りながら低く言う。
「良い傾向だ」
何が良い傾向なのか、誰も突っ込まなかった。
その夜、エレノアは薬草園視察記録を書いた。
――王太子ユリウス、薬草園にて良品・悪品・粗悪品の匂いと形状を確認。選別作業を体験。現場作業員より直接指導を受ける。薬草品質確認人制度、乾燥日記録、確認者交代制、適正報酬の必要性を次回評議会で発言予定。
その下に、付記として書く。
――王太子、空欄の危険性を自覚。「空欄を見る練習が必要」と発言。
筆を止める。
空欄を見る練習。
それはユリウスだけの課題ではない。
エレノアにも必要なことだった。
帳簿の空欄。
記憶の空欄。
人の気持ちの空欄。
家族の間にあった空欄。
見えている文字だけで判断するのではなく、なぜそこが空いているのかを見る。
王妃基金の再建は、そういう作業でもある。
机の上には、ガスパルが分けてくれた薬草見本の写し用記録があった。
良い草。
悪い草。
粗悪品。
リリアナは、悪い草の袋に大きく「臭い」と書こうとして、エレノアに止められた。
正式記録には「湿り気と黴臭あり」と書く。
個人手帳には「臭い」と書いてよい。
そう教えると、リリアナは真剣に頷いた。
記録にも種類がある。
彼女はまた一つ学んだ。
エレノアは、窓の外を見た。
薬草園の土の匂いが、まだ少し服に残っている気がした。
王太子の靴は汚れた。
手も薬草の匂いになった。
それでいい。
王宮の中だけで清らかに反省していても、制度は変わらない。
土を踏み、臭い草を嗅ぎ、作業の遅さを知り、現場の言葉に頭を下げる。
そうして初めて、王太子は印の重さを少し知った。
次の評議会で、彼が何を語るか。
それが、王太子再審査の大きな一歩になるだろう。




