表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
49/145

第49話 王太子、薬草園へ行く

 王太子が薬草園へ行く。


 その話が王宮内に広まった時、最初に困ったのは儀典係だった。


 王太子の外出である。


 それも、王妃基金再建後の初めての現場学習。


 普通なら、馬車の列を整え、護衛の配置を決め、薬草園側へ事前通知を出し、歓迎の場を用意させる。


 入り口には清掃を。

 道には敷布を。

 作業員は礼服に近い服を。

 管理人には挨拶文を。

 王太子殿下が視察なさるのだから、粗相があってはならない。


 儀典係は、そう考えた。


 そして、エレノアに止められた。


「敷布は不要です」


 北翼の小会議室で、エレノアは儀典係の提出した視察案に赤を入れた。


 儀典係の青年は、目に見えて困惑した。


「しかし、薬草園は土の道でございます。王太子殿下のお靴が汚れます」


「汚れて構いません」


「構うのでは……」


「薬草園は土の上にあります。土を踏まずに薬草を学ぶ視察は意味がありません」


 儀典係は助けを求めるようにカインを見た。


 カインは資料から目を上げもせずに言った。


「敷布なし」


「……承知しました」


「歓迎挨拶文も不要です」


 エレノアが次の項目に線を引くと、儀典係はさらに顔を強張らせた。


「それはさすがに」


「今回、王太子殿下は視察者ではなく学習者として行きます。薬草園側に歓迎準備をさせれば、作業時間を奪います」


「ですが、無礼にあたるのでは」


「王太子殿下ご本人が、それを望んでいます」


 部屋の端で聞いていたユリウスが、静かに頷いた。


「私は、歓迎を受けに行くのではない。薬草がどのように育ち、どこで確認が抜け、なぜ粗悪品が王妃の薬へ混ざったのかを学びに行く」


 以前の彼なら、こんな言葉は出なかっただろう。


 少なくとも、土で靴が汚れる視察を自分から受け入れることはなかった。


 儀典係はまだ心配そうだったが、王太子本人に言われてしまえば従うしかない。


「では、最低限の護衛と、記録係のみで……」


「記録係は必要です」


 エレノアは頷いた。


「ただし、現場の作業を止めないこと。薬草園側へは『通常作業のまま迎えること』と伝えてください」


「通常作業のまま……」


 儀典係は、その言葉をまるで異国語のように繰り返した。


 王太子を通常作業のまま迎える。


 王宮の常識では、なかなか飲み込みづらいのだろう。


 リリアナが後方席で小さく手を上げた。


「私も行くのですか?」


「今回は行きません」


 エレノアが答えると、リリアナは少しだけ残念そうな顔をした。


「薬草、見たかったです」


「あなたは今日は救貧院の受領記録補助の準備があります」


「はい……」


「それに、薬草園は匂いが強いわ」


「孤児院でも少し薬草茶の匂いはしました」


 リリアナがそう言うと、カインが資料から顔を上げた。


「ガスパルの薬草園は、その程度ではない」


「そんなに?」


 ユリウスが少し不安そうな顔をした。


 カインは淡々と言った。


「悪い薬草も嗅がされるだろう」


 リリアナは、王太子を見た。


「殿下、頑張ってください」


 ユリウスは、苦笑した。


「ありがとう。励ましとして受け取る」


「臭かったら、臭いと言うのが大事だそうです」


「覚えている」


 そのやり取りは、以前の二人なら考えられないほど素朴だった。


 甘い言葉も、きらめく視線もない。


 だが、今の二人にはその方がずっと健全に見えた。


 薬草園へ向かう日、空は晴れていた。


 前日の雨で土は柔らかく、道の端には水たまりが残っている。


 王太子の馬車は通常より小さく、護衛も少ない。


 同行者は、ユリウス、エレノア、カイン、オスカー、医師見習い一名、護衛数名。


 ユリウスは、王宮の儀礼用外套ではなく、動きやすい濃茶の上着を着ていた。靴も、光沢のある宮廷靴ではなく、泥道を歩ける革靴だ。


 それでも、王太子は王太子だった。


 背筋の伸ばし方、手袋の選び方、馬車から降りる動作。


 どれも育ちのよさを隠せない。


 薬草園の入り口に立っていたガスパルは、そんなユリウスを頭から足元まで見て、第一声で言った。


「靴は合格です」


 ユリウスは一瞬、返答に迷った。


「……ありがとうございます」


「ただ、歩き方がまだ土に慣れていませんな。泥で滑ります」


 王太子に向かって、いきなり歩き方の指摘である。


 護衛の一人がわずかに眉を動かしたが、カインが視線だけで止めた。


 ユリウスは真面目に頷いた。


「気をつけます」


「気をつけるより、足を置く場所を見ることです。気持ちで泥は避けられません」


「はい」


 エレノアは、思わず筆記用紙にその言葉を書き留めた。


 気持ちで泥は避けられない。


 薬草園の話でありながら、王宮全体にも通じる言葉だった。


 薬草園は、王宮から馬車で少し離れた郊外にあった。


 広すぎるわけではない。


 だが、区画ごとに草が分けられ、低い柵と木札が立っている。乾燥小屋、選別小屋、井戸、小さな倉庫。働く者たちは簡素な服を着て、土のついた手で作業していた。


 王太子が来ても、作業は止まっていない。


 最初にエレノアがそう伝えていたからだ。


 それでも、作業員たちはちらちらとこちらを見る。


 王太子が本当に泥の上を歩いている。


 それだけで珍しい光景なのだろう。


 ガスパルは、木の杖で足元を指しながら案内した。


「ここが鎮静草の畑です。乾燥させて、熱を鎮める薬や眠りを助ける薬に使います」


 ユリウスの顔が少し強張る。


 眠りを助ける薬。


 王妃の件を思い出さずにはいられない。


 ガスパルは容赦しない。


「王妃陛下に使われた薬にも、近い系統の草が含まれておりました。ただし、問題になった黒眠草とは別です」


 ユリウスは頷いた。


「違いを教えてください」


「よろしい」


 ガスパルは、畑の端から一株を示した。


「これは鎮静草。葉の裏に細かい白毛があります。香りは弱く、乾燥すると少し甘くなる。過剰に使えば眠りが深くなりますが、通常量なら熱や痛みを和らげる」


 次に、乾燥小屋へ向かう。


 中には、束ねた薬草が吊るされていた。


 風通しのよい木造の小屋で、天井近くに細い隙間がある。


 乾いた草の匂いが強い。


 青さと苦みと、少し土のような匂いが混ざっている。


 ユリウスは一瞬、目を細めた。


 だが、顔を背けなかった。


 ガスパルは棚から二つの束を取り出す。


「良い乾燥」


 ひとつを差し出す。


 ユリウスは受け取り、慎重に匂いを嗅いだ。


「青い……しかし、軽い甘さがあります」


「そうです」


 ガスパルは次に、別の束を出した。


「悪い乾燥」


 ユリウスは同じように嗅ぎ、今度は明らかに顔をしかめた。


「湿った匂いがする。少し黴のような」


「それを臭いと言ってよろしい」


「……臭いです」


「よろしい」


 また、謎の合格が出た。


 エレノアは記録しながら、少しだけ口元が緩みそうになった。


 ユリウスは真剣だった。


 王太子が薬草を嗅ぎ、「臭いです」と答える。


 その姿は滑稽にも見える。


 だが、誰も笑わなかった。


 この匂いを知らずに、紙の上だけで良品と判断したことが、王妃の薬を危うくしたのだ。


 笑い事ではない。


 ガスパルは、さらに三つ目の袋を出した。


「帳簿上は良品扱いされていた粗悪品です」


 その草は、見た目から違った。


 茎が多く、葉が砕け、色も悪い。


 ユリウスは匂いを嗅ぎ、眉を寄せた。


「香りが薄い」


「そうです。効き目が弱い。弱いから量を増やす。量を増やすと副作用が出る。他の草と混ぜると、何が効いて何が悪さをしたのか分かりにくくなる」


 ガスパルの声は低かった。


「帳簿で良品と書かれた草が、現物ではこれだった。王宮の者は、紙を見て印を押した。畑の者は見なかった。薬師も見なかった。医師は処方だけ見た。皆、自分のところだけ見た」


 ユリウスは、草の袋を見つめた。


「その結果、母上の薬に悪い草が混ざった」


「はい」


 ガスパルは、容赦なく答えた。


「黒眠草の問題はさらに別ですが、確認の抜け方は同じです」


 ユリウスは、しばらく黙っていた。


 それから、草の袋を両手で持ったまま、深く頭を下げた。


「申し訳なかった」


 乾燥小屋が静まり返る。


 作業員たちも手を止めて見ていた。


 ガスパルは、王太子の謝罪にすぐには答えなかった。


 長い沈黙の後、彼は言った。


「謝罪は草には効きません」


 護衛の一人が息を呑む。


 だが、ユリウスは顔を上げなかった。


「はい」


「次から見ることです」


「はい」


「見ても分からない時は、分かる者を呼ぶことです」


「はい」


「分からないのに分かったふりをしないことです」


「はい」


 ユリウスの声は、ひとつずつ低くなっていった。


 それは責められているからではなく、刻み込んでいるように聞こえた。


 ガスパルは、そこでようやく袋を受け取った。


「なら、次へ行きます」


 外へ出ると、風が少し冷たかった。


 ユリウスは深く息を吸った。


 顔色は良くない。


 だが、逃げようとはしていない。


 エレノアは、その横顔を見た。


 以前の彼なら、謝罪の言葉で場を整えようとしたかもしれない。


 今は、謝罪が十分ではないことを知り始めている。


 それは小さくない変化だった。


 次に案内されたのは、選別小屋だった。


 作業台の上に、乾燥した薬草が広げられている。


 作業員たちは葉、茎、混入物を分けていた。


 ガスパルはユリウスの前に椅子を置いた。


「座ってください」


「ここで?」


「はい。選別します」


 ユリウスは一瞬、エレノアを見た。


 エレノアは何も言わない。


 カインも黙っている。


 逃げ道はない。


 ユリウスは椅子に座り、手袋を外した。


 作業員の一人が驚いた顔をする。


 王太子の素手。


 白く、細く、剣や書類には慣れていても、草を選る手ではない。


 ガスパルは、そんなことは気にしなかった。


「良い葉はこちら。太い茎はこちら。変色したものはこちら。土や小石があれば別皿へ」


「分かった」


「最初は分からないと言いなさい」


 ユリウスは、少しだけ苦笑した。


「分かりません。教えてください」


「よろしい」


 今日何度目かの「よろしい」だった。


 ユリウスは、ぎこちない手つきで薬草を選び始めた。


 最初は遅い。


 葉と茎の境目で迷い、変色か乾燥色か分からず、何度も作業員に尋ねる。


 作業員の若い女性は、最初こそ緊張していたが、何度も聞かれるうちに普通の調子で答え始めた。


「それは茎です」


「これは?」


「葉ですが、割れすぎています。こちらへ」


「これは変色か?」


「端だけなら大丈夫です。でも黒い点があればこちら」


「なるほど」


 リリアナが見たら、きっと手帳いっぱいに書いただろう。


 王太子が「これは茎か?」と真剣に尋ねている。


 滑稽で、地味で、けれど必要な学びだった。


 エレノアは、選別作業の様子を記録した。


 王太子、薬草選別作業を体験。

 葉、茎、変色、混入物の分類を学ぶ。

 作業員から直接説明を受ける。

 作業速度、熟練者の約五分の一。


 そこまで書いたところで、ユリウスがこちらを見た。


「今、速度まで記録したのか」


「はい」


「五分の一くらいか」


「おそらく」


 作業員の女性が控えめに言った。


「慣れればもう少し速くなります」


 慰めだった。


 ユリウスは苦笑した。


「努力する」


 ガスパルは厳しく言った。


「王太子殿下が速くなる必要はありません。速い者に任せ、その価値を理解する必要があります」


 ユリウスは、また表情を引き締めた。


「そうだな」


「選別の手間を知らない者は、納入費を簡単に削ります。削れば、粗い仕事になります。粗い仕事になれば、悪い草が混ざる」


 財務の問題が、ここで出てきた。


 エレノアは筆を止めない。


「安ければよいわけではないのですね」


 ユリウスが言うと、ガスパルは頷いた。


「高ければよいわけでもない。適正が必要です」


「適正を知るには?」


「現場を見ることです。あと、働く者に聞くことです」


 ユリウスは、薬草を選びながら静かに頷いた。


「覚えておく」


「覚えるだけではなく、次の会議で言ってください」


「私が?」


「王太子が言えば、財務官も少しは聞くでしょう」


 ガスパルは、まったく遠慮しない。


 ユリウスは少し驚き、それから真面目に答えた。


「分かった。次の評議会で、薬草選別の手間について発言する」


「では、今のうちに手を動かしてください。言葉だけでは軽い」


「はい」


 王太子は再び薬草を選び始めた。


 昼前、薬草園の簡素な食堂で休憩となった。


 王太子用の特別な食事は用意されていない。


 全員に同じ粥と硬いパン、薬草茶が出された。


 儀典係がいれば卒倒したかもしれない。


 ユリウスは最初、少し戸惑ったが、何も言わずに食べ始めた。


 薬草茶は苦かった。


 かなり苦かった。


 ユリウスの顔が一瞬だけ固まる。


 ガスパルが見逃さない。


「苦いですか」


「苦い」


「よろしい。これは胃を整える茶です。甘くすると飲みやすいですが、効き目が分かりにくくなる」


「薬は美味である必要はない、ということか」


「美味い薬もあります。ただ、苦いものを無理に甘く見せると、何を飲んでいるか分からなくなります」


 その言葉は、また別の意味を持って聞こえた。


 エレノアは茶を一口飲んだ。


 苦い。


 確かに苦い。


 けれど、目が覚める苦さだった。


 ユリウスは、茶碗を見つめながら言った。


「私は、苦い話を避けてきたのだと思う」


 誰もすぐには答えなかった。


 ユリウスは続ける。


「ダリウスは、私に甘い言葉をくれた。リリアナも、最初は私を心地よくしてくれた。エレノアの言葉は苦かった。母上の注意も苦かった。ローレンの諫言も苦かった。私は、それを飲まなかった」


 ガスパルは、薬草茶をすすった。


「苦い茶も、冷めるとさらに飲みにくくなります」


 カインが少しだけ眉を動かした。


 エレノアは思わずガスパルを見た。


 狙って言っているのか、ただ茶の話をしているのか分からない。


 ユリウスは、茶碗を両手で持った。


「冷める前に飲むべきだったな」


「今も温かいなら、飲めます」


 ガスパルはそう言って、パンをかじった。


 ユリウスは、苦い茶をもう一口飲んだ。


 今度は顔をしかめなかった。


 食後、薬草園の記録小屋を確認した。


 そこには、乾燥日、収穫日、担当者、保管場所を書いた札が並んでいた。


 ただし、古い記録には抜けが多い。


 ガスパルは、その抜けを隠さなかった。


「昔はここまで細かく書いていませんでした。王妃陛下の件があってから、書き方を変えています」


「以前の記録は?」


 エレノアが尋ねる。


「残っています。恥ずかしいが、残しています」


「なぜ?」


「消すと、何が足りなかったか分からなくなる」


 ガスパルの言葉は、今日一番まっすぐだった。


 エレノアは深く頷いた。


「その通りです」


 ユリウスも、古い記録を見た。


 空欄。

 曖昧な日付。

 担当者名の抜け。

 商会名だけで品質確認者がない欄。


 紙の上の小さな空白。


 その空白の先に、母の病床があった。


 ユリウスは、しばらくその空白を見ていた。


「空欄は、怖いな」


 低く言った。


 エレノアは答えた。


「はい」


「空欄を、誰かが都合よく埋めることもある」


「はい」


「あるいは、埋めないまま進んでしまう」


「それが一番多いかもしれません」


 ユリウスは、記録札の一枚をそっと撫でた。


「私は、これから空欄を見る練習をしなければならない」


 その言葉を、オスカーが記録した。


 王太子自身が、自分の課題を言語化した瞬間だった。


 午後、薬草園視察の最後に、ガスパルはユリウスを畑の端へ連れていった。


 そこには、小さな白い花が咲いていた。


「これは?」


 ユリウスが尋ねる。


「白眠花です。黒眠草と名前は似ていますが、作用は穏やかです。正しく使えば、子供や老人の寝つきを助ける。間違えれば、効かない。似た名前、似た見た目の草は多い」


 ガスパルは、白い花を摘まなかった。


 ただ、指で示す。


「薬草は、使い方で毒にも薬にもなります。人の言葉も同じでしょう」


 ユリウスは、静かに花を見た。


「甘い言葉は毒にもなる」


「苦い言葉も薬になることがある」


「今日の私は、薬をたくさん飲まされた気分だ」


「効くかどうかは、これからです」


 ガスパルは、最後まで手厳しかった。


 だが、ユリウスは不快そうではなかった。


 むしろ、少しだけ晴れたような顔をしていた。


 薬草園を出る時、作業員たちは作業の手を完全には止めず、それでも軽く頭を下げた。


 ユリウスは、その一人一人に同じように頭を下げた。


 王太子としての礼ではなく、学ばせてもらった者としての礼だった。


 馬車に乗る前、ガスパルが言った。


「次に来る時は、事前の知らせは短くていいです。長い準備は迷惑です」


 儀典係が聞いたらまた青ざめるだろう。


 ユリウスは少し笑った。


「分かった。短くする」


「それと、靴は今日のものでよろしい」


「合格を維持できるようにする」


「歩き方はまだです」


「練習する」


 ガスパルは、そこで初めて少しだけ満足げに頷いた。


 王宮へ戻る馬車の中で、ユリウスはしばらく黙っていた。


 手には、ガスパルから渡された小さな薬草見本がある。


 良品、悪品、粗悪品。


 三つの小袋。


 次の評議会で使え、と渡されたものだった。


「母上は、これを見ていたのだろうか」


 ユリウスがぽつりと言った。


 エレノアは答えた。


「王妃様は、見ようとしていたのだと思います」


「私は、見なかった」


「今は見ました」


「それで足りるだろうか」


「足りません」


 エレノアは、いつものように答えた。


 ユリウスは苦笑した。


「君は、本当に慰めないな」


「必要なら慰めます」


「今は?」


「次に何を見るか決める方が先です」


「そうだな」


 ユリウスは、小袋を見つめた。


「次の評議会で、薬草選別の手間について話す。あと、乾燥日記録の義務化。確認者三名の交代制。それから、品質確認人の報酬も削りすぎてはいけない」


「よく見ていましたね」


 エレノアが言うと、ユリウスは少しだけ驚いた顔をした。


「今のは、評価か?」


「はい」


「そうか」


 ユリウスは、目を伏せた。


 少しだけ嬉しそうだった。


 けれど以前のように、その嬉しさを婚約者からの好意に変えようとはしなかった。


 ただ、学びが認められたこととして受け取っている。


 その距離が、今は大切だった。


 王宮へ戻ると、リリアナが待っていた。


 彼女はユリウスを見るなり、真剣な顔で尋ねた。


「臭かったですか?」


 第一声がそれだった。


 ユリウスは一瞬きょとんとし、それから笑った。


「臭かった」


「ちゃんと臭いって言えました?」


「言えた」


「よかった」


 リリアナは、心底安心したように頷いた。


 王太子に向ける言葉としては奇妙すぎる。


 だが、ユリウスは穏やかに受け取った。


「君は救貧院の準備は?」


「名前を書く練習をしました。あと、玉結びも」


「玉結び?」


「大きすぎる善意は布を引っかけるので」


 ユリウスは意味が分からない顔をした。


 エレノアは横から言った。


「そのうち説明します」


「ぜひ頼む」


 リリアナは、ユリウスの持つ薬草袋を見た。


「それ、評議会に持っていくのですか?」


「ああ。良い薬草、悪い薬草、粗悪品だそうだ」


「私も嗅いでもいいですか?」


 エレノアは少し驚いた。


「本気?」


「はい。臭いものを臭いと言えるようになりたいので」


 ユリウスは、少しだけ迷ってから袋を差し出した。


「まず良いものから」


 リリアナは慎重に嗅いだ。


「これは……草の匂い。少し甘い?」


「そう」


「次は?」


 悪い乾燥草を嗅いだ瞬間、リリアナの顔が見事に歪んだ。


「臭いです」


 ユリウスは真面目に頷いた。


「私もそう言った」


「殿下、これを嗅いだのですね」


「ああ」


「偉いです」


 王太子は、妹分のような公爵令嬢に「偉い」と言われ、返答に困っていた。


 カインが横を通りながら低く言う。


「良い傾向だ」


 何が良い傾向なのか、誰も突っ込まなかった。


 その夜、エレノアは薬草園視察記録を書いた。


 ――王太子ユリウス、薬草園にて良品・悪品・粗悪品の匂いと形状を確認。選別作業を体験。現場作業員より直接指導を受ける。薬草品質確認人制度、乾燥日記録、確認者交代制、適正報酬の必要性を次回評議会で発言予定。


 その下に、付記として書く。


 ――王太子、空欄の危険性を自覚。「空欄を見る練習が必要」と発言。


 筆を止める。


 空欄を見る練習。


 それはユリウスだけの課題ではない。


 エレノアにも必要なことだった。


 帳簿の空欄。

 記憶の空欄。

 人の気持ちの空欄。

 家族の間にあった空欄。


 見えている文字だけで判断するのではなく、なぜそこが空いているのかを見る。


 王妃基金の再建は、そういう作業でもある。


 机の上には、ガスパルが分けてくれた薬草見本の写し用記録があった。


 良い草。

 悪い草。

 粗悪品。


 リリアナは、悪い草の袋に大きく「臭い」と書こうとして、エレノアに止められた。


 正式記録には「湿り気と黴臭あり」と書く。


 個人手帳には「臭い」と書いてよい。


 そう教えると、リリアナは真剣に頷いた。


 記録にも種類がある。


 彼女はまた一つ学んだ。


 エレノアは、窓の外を見た。


 薬草園の土の匂いが、まだ少し服に残っている気がした。


 王太子の靴は汚れた。


 手も薬草の匂いになった。


 それでいい。


 王宮の中だけで清らかに反省していても、制度は変わらない。


 土を踏み、臭い草を嗅ぎ、作業の遅さを知り、現場の言葉に頭を下げる。


 そうして初めて、王太子は印の重さを少し知った。


 次の評議会で、彼が何を語るか。


 それが、王太子再審査の大きな一歩になるだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ