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第48話 屋根の下の礼状

 雨の匂いがしていた。


 まだ降ってはいない。


 けれど、朝の空は低く、王都の石畳には湿った風が這っていた。


 南区孤児院へ向かう馬車の窓から、リリアナは何度も空を見上げた。


「今日、降るかしら」


「午後には降るでしょうね」


 エレノアが答えると、リリアナは少しだけ肩を縮めた。


「屋根、大丈夫かな」


「だから確認に行くのよ」


「うん」


 リリアナは膝の上の布包みを押さえた。


 中には、孤児院へ届けるための窓布用の留め紐、針、簡易記録用紙、そして子供たちへの小さな焼き菓子が入っている。


 焼き菓子については、持っていくべきか少し揉めた。


 リリアナは「子供たちに喜んでもらいたい」と言った。


 エレノアは「支援視察に個人的な贈り物を混ぜると記録が乱れる」と言った。


 結局、マルタが間に入り、焼き菓子はリリアナ個人からではなく、王宮厨房の余剰材料を使った慰問品として簡易記録に載せる形になった。


 リリアナは最初、少し不満そうだった。


 けれど記録用紙に「焼き菓子、小袋二十」と書いた後で、ぽつりと言った。


 ――誰からもらったか分かる方が、子供たちも安心するのね。


 少しずつ、分かってきている。


 善意は、記録されても消えない。


 むしろ、記録されて初めて、誰かのところへ正しく届いたと言える。


 今日、孤児院へ向かうのは、エレノア、リリアナ、マルタ、夫人会からミリアム・ローゼン侯爵夫人、そして作業補助の女官二名だった。


 デリア夫人は来ない。


 代表として行くべきか最後まで迷っていたが、エレノアが止めた。


 今、夫人会代表が華やかに現場へ行けば、孤児院側が気を遣う。


 それに、今回必要なのは「夫人会が来た」という絵ではなく、窓布を掛け、屋根修繕の追加分を確認する作業だった。


 ミリアム夫人は、自分から言った。


 ――私は、梯子には登りません。でも針と紐なら扱えます。


 その言葉通り、彼女はいつもの侯爵夫人らしい華やかなドレスではなく、動きやすい濃紺の服を着ていた。袖は絞られ、手袋も飾りではなく作業用に近い。


 リリアナは、その姿を見て少し驚いたらしい。


「侯爵夫人でも、そういう服を着るのね」


 馬車の中で小声で言う。


 ミリアム夫人は笑った。


「侯爵夫人も、袖の長いドレスでは針仕事がしにくいのです」


「そうですよね」


「貴族の服は、だいたい実用から遠いところで美しくなりますから」


 あまりにも正直な言い方に、リリアナは目を丸くした。


 エレノアも少しだけ眉を動かした。


 ミリアム夫人は、涼しい顔で続ける。


「美しさが必要な場もあります。でも今日は、布を掛ける日でしょう?」


「はい」


 リリアナは、自分の袖口を見た。


 今日の彼女も、いつもの淡いリボンや広がった袖を避けていた。


 薄桃色の地味な外出着。


 動きやすい靴。


 髪も簡単にまとめてある。


 それでも、十分に可愛らしい。


 ただ、以前のように「可愛らしく見えるため」だけの装いではなかった。


「私、梯子には登らない約束です」


 リリアナが言うと、ミリアム夫人は頷いた。


「それが賢明です。最初から全部やろうとすると、たいてい誰かに迷惑をかけます」


「……はい」


 リリアナは素直に頷いた。


 以前なら「私もできます」と言い張ったかもしれない。


 今は、自分にできることとできないことを分けようとしている。


 それもまた、学びだった。


 南区孤児院は、王都の南端に近い小さな建物だった。


 白い壁はところどころ剥がれ、門扉の鉄は錆びている。


 だが、庭はよく掃かれていた。


 古い木の下には、小さな木箱が並び、そこに冬用の薪が積まれている。雨除けの覆いも、つぎはぎながら丁寧に掛けられていた。


 貧しいが、荒れてはいない。


 そういう場所だった。


 馬車が止まると、ロウ夫人が玄関から出てきた。


 今日も飾り気のない黒い服を着ている。髪は後ろでひとつにまとめ、袖口には作業の汚れがついていた。


「ようこそお越しくださいました。雨が降る前で助かりました」


 挨拶もそこそこに、彼女は空を見上げた。


 社交辞令より天気。


 エレノアは、その感覚に少し安心した。


「修繕箇所を確認します」


「こちらです。上へどうぞ。足元にお気をつけて」


 孤児院の中へ入ると、木と石鹸と煮込みの匂いがした。


 玄関脇では、数人の子供たちがこちらを見ている。


 小さな子は、マルタの後ろに隠れるように立つ女官を見て目を丸くしていた。少し年長の子は、リリアナの服装を見てひそひそ話をしている。


 リリアナは、少し緊張した顔で小さく会釈した。


 子供たちは、慌てて頭を下げる。


 その動きがあまりに不揃いで、リリアナはどうしていいか分からない顔になった。


 ロウ夫人が言う。


「今日はお客様ではなく、窓布の確認に来てくださった方々です。廊下を走らないように」


「はーい」


 数人が声をそろえたが、一人だけ遅れた。


 リリアナが思わず笑いそうになり、慌てて口元を押さえる。


 エレノアはそれを見たが、何も言わなかった。


 二階へ上がると、空気が少し冷たくなった。


 北側の寝室。


 そこが、雨漏りのひどかった場所だ。


 部屋には小さな寝台が並んでいる。天井の一部には新しい木材が入り、古い屋根板が外された跡がある。梁の交換はすでに始まっていた。


 職人が二人、作業の手を止めて礼をする。


 ロウ夫人が説明した。


「北側の梁は昨日取り替えました。屋根板は今日中に終わる予定です。ただ、窓布がまだです。見ての通り、窓枠が少し歪んでおります」


 窓は確かに古かった。


 隙間から冷たい風が入ってくる。


 雨が降れば吹き込みもあるだろう。


 リリアナは窓際へ近づき、手をかざした。


「風が入る……」


「ええ。雨漏りが止まっても、風で子供が冷えます」


 ロウ夫人は淡々と言った。


 リリアナは、寝台を見た。


 薄い毛布。


 きれいに畳まれているが、決して厚くはない。


 ここで眠る子供がいる。


 礼状を書いた子も、ここで眠っていたのかもしれない。


 ――あめのひに、ねるばしょがぬれないようになるときいて、うれしいです。


 その文字を思い出したのだろう。


 リリアナの顔が少し引き締まった。


「私、何をすればいいですか」


 ロウ夫人は、すぐに答えた。


「まず、この窓布に番号を振ってください。どの窓にどの布を掛けたか、後で分かるように」


「番号?」


「はい。上から順に一、二、三。布の端にも同じ番号を縫い付けます。次に外す時、混ざると面倒です」


 リリアナは驚いた顔をした。


「そんなことも記録するの?」


「します」


 ロウ夫人はきっぱり言った。


「布はすぐ迷子になります。特に子供の多い場所では」


 リリアナは、何かを深く納得したように頷いた。


「分かりました。番号、振ります」


 エレノアは、横で聞いていて少しだけ感心した。


 窓布の番号。


 細かい。


 けれど必要だ。


 王宮の帳簿では見えない、現場の記録。


 リリアナはマルタに教わりながら、布の端に小さな紙札を縫いつけ始めた。


 針仕事は得意ではないらしい。


 何度か糸が絡まり、そのたびに「あっ」「待って」「どうしてこうなるの」と小声で格闘している。


 孤児院の子供たちが興味津々で見ていた。


 そのうち、年長の女の子が言った。


「お嬢様、玉結びが大きすぎます」


 リリアナが固まる。


 マルタが静かに目を伏せた。


 ミリアム夫人は口元を押さえている。


 エレノアは窓枠の確認記録を書いていたが、思わず筆を止めた。


「そ、そうなの?」


 リリアナが聞くと、女の子はこくりと頷いた。


「それだと布が引っかかります」


「あなた、できるの?」


「ここでは皆やります。服を直さないと、すぐ着られなくなるので」


 その言葉に、リリアナは少しだけ顔を赤くした。


「教えてくれる?」


 女の子は、ロウ夫人を見る。


 ロウ夫人が頷いた。


「邪魔にならない範囲で」


 すると女の子は、リリアナの隣に座り、小さな手で糸を取った。


「こうです。指に巻いて、ここで」


「待って、早い」


「ゆっくりします」


 リリアナは真剣に覗き込む。


 貴族令嬢が孤児院の少女に玉結びを教わっている。


 奇妙な光景だった。


 だが、悪くない。


 ミリアム夫人が小声で言った。


「今日の夫人会に必要なのは、これかもしれませんね」


「玉結びですか」


 エレノアが聞くと、ミリアム夫人は笑った。


「ええ。大きすぎる善意は、布を引っかけるのです」


 その比喩は少し洒落ていた。


 だが、言っていることは確かだった。


 大きすぎる善意。


 見せるための善意。


 相手の生活に合わない善意。


 それは、時に布を引っかける。


 支援にも、玉結びの大きさがあるのかもしれない。


 エレノアは、その言葉を記録したい衝動に駆られたが、さすがに議事録ではないのでやめた。


 屋根の確認は順調に進んだ。


 職人は、追加支出の見積もりを出した。


 銀貨十九枚と銅貨数枚。


 予想よりわずかに低い。


 ロウ夫人は「銅貨の端数まで書いてください」と言った。


 職人は苦笑しながら書いた。


 エレノアは、その見積もりを確認し、現物確認欄に署名する。


 王妃基金臨時長として、初めて現場で出す確認署名だった。


 ペン先が紙に触れた瞬間、少しだけ緊張した。


 署名は、名前を書くことではない。


 責任を引き受ける印。


 リリアナが言っていた言葉を、今度は自分が思い出す。


 エレノア・ヴァレンシュタイン。


 その名前を書いたことで、屋根の追加修繕費が正式に動く。


 子供たちの寝室が濡れないように。


 ただそれだけのために。


 だが、その「ただそれだけ」が、制度の中心だった。


 昼近くになると、空が暗くなった。


 急いで窓布を掛ける作業が進められる。


 リリアナは梯子に登らない約束を守り、下で布を手渡す係になった。


 だが、手渡すたびに番号を確認するので、少し時間がかかる。


「二番の布、二番の窓です」


「はい」


「待って、それ三番です」


「え、同じように見えますが」


「札が違います」


 職人にまで指摘するようになっていた。


 ロウ夫人が横で満足げに頷く。


「覚えが早いですね」


 リリアナの顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか?」


「はい。確認する癖は大事です」


 リリアナは、その言葉を大事そうに受け取った。


 褒められ方が、以前とは違う。


 可愛いでも、綺麗でもない。


 確認する癖が大事。


 それが嬉しいと思えるようになったこと自体が、変化だった。


 最初の雨粒が窓を叩いたのは、最後の布が掛けられた直後だった。


 ぽつり。


 次に、ぱらぱらと音が増える。


 子供たちが一斉に窓の方を見る。


 以前なら、ここで寝台を動かしたのだろう。


 桶を置き、毛布を抱えて、食堂へ移動したのだろう。


 けれど今日、窓布は風を受けて揺れながらも、雨をしのいでいる。


 天井からも、水は落ちてこない。


 子供たちの間に、小さな歓声が上がった。


「落ちてこない!」


「寝台、動かさなくていい?」


「今日はここで寝られる?」


 ロウ夫人は、少しだけ目元を押さえた。


 だが、すぐにいつもの顔に戻る。


「騒ぎすぎない。職人さんにお礼を」


 子供たちは口々に礼を言った。


 職人たちは照れたように笑った。


 リリアナは、その光景を立ち尽くして見ていた。


 雨の音。


 濡れない寝台。


 揺れる窓布。


 そして、ほっとした子供たちの顔。


「お姉様」


 リリアナが小さく言った。


「何?」


「私、今まで雨の日に寝る場所が濡れるって、考えたことなかった」


「私も、実際に見るまでは分かっていなかったと思う」


「王宮では、雨が降っても窓を閉めるだけだった」


「ええ」


「ここでは、雨が降る前に寝台を動かすのね」


「そうね」


 リリアナは、しばらく黙った。


 そして言った。


「基金って、こういうことなのね」


 エレノアは、彼女を見る。


「どういうこと?」


「雨が降った時、寝台を動かさなくていいようにすること」


 その言葉は、あまりに素朴だった。


 だが、王妃基金の説明として、これ以上正確なものもないかもしれない。


 エレノアは静かに頷いた。


「そうね」


 午後、食堂で簡単な茶が出された。


 上等な茶ではない。


 湯気の立つ薄い薬草茶と、硬めのパン。


 王宮から持ってきた焼き菓子は、一人一つずつ配られた。


 配る時にも、リリアナは記録した。


 子供二十名。

 ロウ夫人。

 職員三名。

 職人二名。


 途中で一人、まだ小さな男の子が「もう一つ」と言った。


 リリアナは困った顔をした。


 以前なら、きっとこっそりもう一つ渡しただろう。


 可哀想だから。


 喜んでほしいから。


 けれど、今日はロウ夫人を見る。


 ロウ夫人は言った。


「余りがあるなら、夕食後に皆で分けます。今は一つです」


 男の子は唇を尖らせた。


「でも」


「皆、一つです」


 ロウ夫人の声は厳しい。


 けれど冷たくはない。


 リリアナは、男の子の目線に合わせて少しかがんだ。


「私も一つにするわ」


「お姫様なのに?」


「お姫様ではないけど、一つ」


「じゃあ、いい」


 男の子は納得したのか、菓子を大事そうに持っていった。


 リリアナは、少しほっとしたように息を吐いた。


「こういう時、もう一つあげたくなっちゃう」


 小声で言う。


 ロウ夫人が答えた。


「お気持ちはありがたいです。でも、一人だけ増やすと、後で喧嘩になります」


「はい」


「優しさは、順番を壊すことがあります」


 またひとつ、リリアナの手帳に書かれそうな言葉だった。


 実際、彼女はすぐに書いた。


 ――優しさは、順番を壊すことがある。


 エレノアは、それを横目で見ていた。


 リリアナの手帳は、もうただの反省帳ではなくなっている。


 彼女が世界を知るための、小さな記録簿になり始めていた。


 食堂の端で、エレノアはロウ夫人から追加の礼状を受け取った。


「屋根が直ったら渡すと言っていた分です」


「ありがとうございます」


「その中に、あなたへ直接渡したいと言っていた子がいます」


「私に?」


「はい。今呼びます」


 ロウ夫人が手招きすると、先ほどリリアナに玉結びを教えた女の子がやってきた。


 年は十歳ほど。


 栗色の髪を一つに結び、少し緊張した顔をしている。


「名前は?」


 エレノアが聞くと、女の子は背筋を伸ばした。


「ニナです」


「ニナ。玉結びを教えてくれてありがとう」


 ニナは、驚いたように目を丸くした。


「私、お嬢様に失礼なこと言いましたか」


 リリアナが慌てて首を横に振る。


「言ってないわ。助かったの。本当に」


 ニナは、少しだけ安心したように小さな紙を差し出した。


「これ、臨時長様に」


 臨時長様。


 子供の口からその呼び名が出ると、少し不思議だった。


 エレノアは紙を受け取る。


 そこには、丁寧に、しかしまだ拙い文字でこう書かれていた。


 ――あめの日に、てんじょうを見ないでねむれるのがうれしいです。

 わたしは、しょうらい、ここのなおすところを先に見つける人になりたいです。

 なおす前に分かったら、みんなこまらないと思うからです。


 エレノアは、その文字を黙って読んだ。


 胸の奥が、静かに熱くなる。


 てんじょうを見ないで眠れる。


 その一文だけで、どれほどの夜がそこにあったのか分かる。


 雨が降るたび、天井を見上げていた子供。


 どこから水が落ちてくるのか、不安で眠れなかった子供。


 その子が、将来「なおすところを先に見つける人」になりたいと書いている。


 それは、王妃基金の未来そのもののようだった。


「ニナ」


 エレノアは静かに言った。


「とても大事な礼状です。ありがとう」


 ニナは、少しだけ頬を赤くした。


「字、変じゃないですか」


「読めます」


「よかった」


「将来、直すところを先に見つける人になりたいのね」


「はい。ロウ先生は、壊れてから直すと大変だって言います。だから、先に見つけた方がいいって」


 エレノアは、ロウ夫人を見た。


 ロウ夫人は肩をすくめるだけだった。


「正しいです」


 エレノアはニナに向き直る。


「そのためには、見ること、書くこと、伝えることを覚える必要があります」


「書くこと……」


「ええ。見つけても、伝わらなければ直せないから」


 ニナは真剣に頷いた。


「字、練習します」


「私も練習中よ」


 横からリリアナが言った。


 ニナは目を丸くする。


「お嬢様も?」


「ええ。帳簿とか、記録とか、すごく難しいの」


「お嬢様でも難しいんですか」


「難しいわ。玉結びも難しかったし」


 ニナは、そこで初めて少し笑った。


 リリアナも笑った。


 その笑いは、身分の差を消すものではない。


 けれど、同じものを難しいと思うところから、少しだけ近づくことはできる。


 エレノアは、ニナの礼状を丁寧に封筒へ入れた。


 それは、王妃基金評議会の正式記録に添えるつもりだった。


 ただの感謝状としてではない。


 現場の声として。


 雨の日に天井を見ないで眠れること。


 直すところを先に見つけたい子がいること。


 それは、数字にはならないが、基金が何のためにあるのかを示す証拠だった。


 帰り際、雨は本降りになっていた。


 だが、孤児院の二階から水は落ちていない。


 窓布は少し頼りなく揺れているが、風をやわらげている。


 子供たちは食堂で、残った焼き菓子を夕食後に分ける相談をしていた。


 リリアナは馬車に乗る直前、もう一度二階の窓を見上げた。


「お姉様」


「何?」


「私、今日、少しだけ分かった」


「何を?」


「支援って、してあげることじゃないのね」


 エレノアは黙って続きを待った。


「一緒に困らない形を探すこと、なのかなって」


 雨音が、馬車の屋根を叩いている。


 エレノアは、少しだけ微笑んだ。


「良い理解だと思うわ」


 リリアナは、驚いたように姉を見た。


「お姉様、今ちゃんと褒めた?」


「ええ」


「記録していい?」


「それはしなくていいわ」


「します」


「リリアナ」


 リリアナは、手帳に小さく書き込んだ。


 ――支援は、してあげることではなく、一緒に困らない形を探すこと。

 ――お姉様に良い理解と言われた。


 最後の一文は、少し字が弾んでいた。


 エレノアは見なかったことにした。


 王宮へ戻る馬車の中で、エレノアはニナの礼状をもう一度読んだ。


 雨の日に、天井を見ないで眠れる。


 それは、王宮でどれだけ会議をしても出てこない言葉だった。


 この言葉を、評議会の机に置かなければならない。


 ロウ夫人の木片と同じように。


 ガスパルの薬草袋と同じように。


 フィオナ司祭の麦の数量表と同じように。


 現場の言葉は、きれいに整っていない。


 けれど、そこにこそ基金の意味がある。


 夜、北翼の執務室で、エレノアは孤児院訪問記録を書いた。


 ――南区孤児院、北側寝室屋根修繕追加分確認。梁交換済み。窓布取り付け完了。雨天時の漏水なし。窓布番号管理開始。焼き菓子配布記録あり。現場礼状を受領。


 その下に、付記として書いた。


 ――ニナという児童より礼状。雨天時に天井を見ず眠れることの重要性、早期修繕確認への関心を記す。次回評議会にて共有予定。


 筆を置く。


 王妃基金は、数字で動く。


 だが、数字だけでは続かない。


 礼状の拙い文字。


 雨をしのぐ窓布。


 玉結びの大きさ。


 焼き菓子の順番。


 そういうものを忘れた時、基金はまた誰かの体面や善意の飾りに変わるだろう。


 エレノアは、ニナの礼状を再建案の付録用封筒へ入れた。


 その時、リリアナが扉を叩いた。


「お姉様。明日、帳簿の勉強の前に、玉結びの練習をしてもいい?」


 エレノアは少しだけ目を瞬いた。


「なぜ?」


「大きすぎる善意は、布を引っかけるから」


 どうやらミリアム夫人の言葉を聞いていたらしい。


 エレノアは、今度こそ小さく笑った。


「いいわ。帳簿の前に十五分だけ」


「十五分……」


「それ以上は帳簿」


「はい、臨時長」


 リリアナは笑って礼をした。


 まだぎこちないが、少しだけ楽しそうだった。


 雨は夜になっても降り続いていた。


 だが今夜、南区孤児院の二階寝室では、子供たちが天井を見上げずに眠っているかもしれない。


 その事実が、エレノアの胸に静かに残った。


 王妃基金再建の最初の成果は、大きな演説でも、華やかな式典でもない。


 一枚の窓布と、濡れない寝床と、拙い礼状だった。


 それでいい。


 むしろ、それがいい。


 エレノアは灯りを落とす前に、手帳へ一文だけ書いた。


 ――支援は、天井を見ずに眠れる夜を作ること。


 その言葉は、王妃の遺言ほど立派ではない。


 けれど、今のエレノアには、とても大事な記録だった。

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