第47話 最初の評議会
最初の発言権は、現場代表に与えること。
王妃エレオノーラの最後の条項に、そう書かれていた。
それは一見、小さな一文だった。
けれど王宮で会議を開く者ほど、その一文の重さが分かる。
王宮の会議では、たいてい上から話が始まる。
国王。
王族。
大臣。
法務官。
財務官。
貴族代表。
そして最後に、現場の者。
支援を受ける側、実際に薬草を育てる者、孤児院の寝台を動かす者、救貧院で粥を配る者たちは、いつも結論が固まりかけた頃に呼ばれる。
意見を聞くためではない。
決定を伝えるために。
礼を言わせるために。
感謝の言葉で会議をきれいに終わらせるために。
王妃は、それを嫌っていたのだろう。
だから、最初の発言権を現場代表に与えよ、と書いた。
支援は上から垂らす施しではなく、届くべき場所へ届いて初めて支援となる。
その言葉を胸に、エレノアは第一回王妃基金評議会の議場へ入った。
会場は、昨日の大きな会議室ではない。
王宮北翼の中会議室。
大裁定の間ほど威圧的ではなく、かといって茶会のように柔らかすぎもしない。中央に長机が置かれ、席は身分順ではなく役割ごとに配置された。
上座は作らない。
それがエレノアの最初の決定だった。
もちろん、国王が出席する時は別である。
だが、基金評議会は日々の運用を決める場所だ。毎回、王の威光を借りていては、制度は動かない。
今日の出席者は、以下の通りだった。
王家代表として、王弟カイン。
王妃基金臨時長として、エレノア。
財務監査官ロウエル。
王家法務官補佐。
女官長代表として、マルタ。
夫人会代表として、デリア・ラングフォード侯爵夫人。
夫人会改革協力者として、ミリアム・ローゼン侯爵夫人。
現場代表として、南区孤児院のロウ夫人、薬草園管理人の老爺ガスパル、救貧院のフィオナ司祭。
後方席には、学習者としてユリウス王太子とリリアナがいる。
リリアナは、今日も手帳を持っていた。
本人は「書記ではありません。まだ字が遅いから」と言っていたが、机の上にはすでに三本のペンと予備の紙が置かれている。
やる気だけは十分だった。
ユリウスは、王太子としての発言権を持たない。
求められた場合のみ意見を述べる。
それを自分から受け入れた。
その姿に、以前の彼を知る者は少なからず驚いただろう。
だが、会議室に入ってきたロウ夫人は、王太子にはほとんど目を向けなかった。
彼女は自分の前の席札を見て、眉を上げた。
「私が最初に座るのですか」
席札には、現場代表一、と書かれている。
そして、机の中央に近い位置だった。
エレノアは頷いた。
「はい。王妃様の最後の条項に従い、最初の発言は現場代表からです」
ロウ夫人は、しばらく席札を見ていた。
それから、少しだけ困ったように言った。
「困りましたね」
「何か問題が?」
「王宮へ呼ばれる時は、最後の方で少し話せばいいと思っていましたので、最初に言うほど整えた言葉を持ってきておりません」
薬草園管理人のガスパルが、隣でふんと鼻を鳴らした。
「整った言葉なら、王宮の者がいくらでも言うでしょう。私らは困っていることを言えばよろしい」
フィオナ司祭が穏やかに微笑む。
「そうですね。整えすぎた言葉は、時々、誰も救わないことがあります」
出だしから強い。
リリアナが後方席で目を丸くしている。
ユリウスも、少し背筋を伸ばした。
カインは無表情だったが、どこか満足そうにも見えた。
全員が席につくと、エレノアは立ち上がった。
「第一回王妃基金評議会を始めます。本評議会は、王妃エレオノーラ陛下の最後の条項に従い、現場代表の発言から開始します。本日の議題は三つです。南区孤児院修繕費の執行確認、薬草納入制度の再構築、救貧院冬季支援の緊急枠設定」
そこで彼女は、ロウ夫人へ視線を向けた。
「ロウ夫人。お願いします」
ロウ夫人は立ち上がらなかった。
少し迷ったように周囲を見てから、座ったまま口を開いた。
「立った方がよろしいのですか」
「どちらでも構いません」
「では座ったままで。昨日、屋根の修繕業者が入りました」
その一言で、会議は始まった。
美しい挨拶も、王妃への賛辞もない。
屋根。
雨漏り。
それが最初の議題だった。
「二階寝室の北側、梁が思ったより傷んでいました。昨年の秋に応急処置をしていた箇所ですが、冬の雨で腐りが進んでおります。最初の見積もりより銀貨二十枚ほど増える見込みです」
財務監査官ロウエルがすぐに資料を開いた。
「提出済みの見積書では、二階北側の梁交換は含まれていませんね」
「はい。屋根板を外して初めて分かりました」
「追加支出には現地確認が必要です」
「それで、今日ここへ来ました」
ロウ夫人は、持参した包みから小さな木片を出した。
黒く湿り、端がぼろぼろになっている。
「これが、その梁の一部です。業者が切ったものを持ってきました。匂いも見てください。腐っています」
会議室に一瞬、沈黙が落ちた。
貴族夫人たちの前に、腐った梁の木片。
普通なら、場違いだと顔をしかめる者がいるだろう。
だが、エレノアはそれを見て頷いた。
「ありがとうございます。証拠として確認します」
ガスパルが隣でぼそりと言った。
「紙より分かりやすい」
デリア夫人は少しだけ顔色を変えたが、目を背けなかった。
ミリアム夫人はむしろ身を乗り出して木片を見ている。
「確かに、これはひどいですね」
ロウエル財務監査官は、木片を直接触らず、近くで確認した。
「追加支出銀貨二十枚。小口上限内ですが、既存修繕費に付随する追加のため、中口支援の変更扱いですね」
「では、また待つのですか」
ロウ夫人の声が少し強くなった。
「雨が降れば、子供の寝台をまた食堂へ移します。確認は必要でしょうが、屋根は待ってくれません」
最初の衝突だった。
制度は必要。
だが、制度は現場を待たせる。
エレノアは、ここで自分が試されていると感じた。
「緊急追加承認の対象とします」
エレノアが言うと、ロウエルが顔を上げた。
「臨時長、緊急枠の使用ですか」
「はい。梁の腐食は修繕中に判明したもので、放置すれば寝室使用に支障が出ます。現物証拠あり。業者の追加見積もりは本日中に提出。王家代表、財務監査官、臨時長の三者のうち二名承認で即時執行可能です」
カインが短く言った。
「承認する」
ロウエルも少し考え、頷いた。
「財務監査官として、仮承認します。ただし、七日以内に現地確認報告を」
「当然です」
ロウ夫人は、ほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます」
だが、すぐに顔を引き締めた。
「ついでに申し上げます。屋根を直すなら、寝室の窓布も替えなければ意味がありません。雨は止まっても、風が入ります」
リリアナが後方で慌てて書き始めた。
窓布。
寝室。
風。
彼女の字が少し斜めになる。
エレノアは、少しだけ口元が動きそうになるのを抑えた。
王宮の会議に、窓布の話が入る。
これが、現場を最初に話させるということなのだ。
「窓布は別支援項目ですね」
エレノアが言うと、ロウ夫人は首を横に振った。
「いいえ。布は寄付で足ります。問題は、取り付ける人手です。子供たちでやると危ない。業者に頼むほどのことでもない。夫人会の手伝いをお願いできれば助かります」
デリア夫人が、そこで口を開いた。
「夫人会から手配いたしましょう。もちろん、記録を残した上で」
ロウ夫人は、少し驚いたように彼女を見た。
「よろしいのですか」
「ええ。今の夫人会に必要なのは、花を持って慰問することより、窓布を掛けることかもしれません」
その言葉に、ミリアム夫人が小さく頷いた。
「私も参ります。梯子に登るのは若い方に任せますけれど」
ガスパルがぼそっと言った。
「貴婦人が梯子に登ったら、別の騒ぎになる」
リリアナが、後ろで吹き出しかけて必死に咳払いした。
ユリウスも口元を押さえている。
緊張していた会議室に、少しだけ空気のゆるみが生まれた。
だが、それは悪いものではなかった。
支援とは、こういう具体的な会話から始まるのだ。
次に発言したのは、薬草園管理人ガスパルだった。
彼は、持参した袋を机の上に三つ並べた。
「これが良い乾燥薬草。これが悪い乾燥薬草。これが帳簿上は良品扱いされていた粗悪品です」
容赦がない。
会議室の中に、薬草の匂いが広がる。
良品は爽やかで、青みのある香り。
悪いものは湿っていて、少し黴臭い。
粗悪品は茎が多く、香りが弱い。
リリアナが後方で鼻を押さえかけ、慌てて手を下ろした。
ガスパルはそれを見て言った。
「鼻を押さえていいですよ、お嬢さん。悪い草は臭い。臭いものを臭いと言えない場所では、良い薬は作れません」
リリアナは、真っ赤になりながら小さく頷いた。
「はい……臭いです」
「よろしい」
なぜか褒められた。
ユリウスが横で真剣に匂いを嗅ぎ、少し顔をしかめた。
「確かに、違うな」
ガスパルは王太子をじろりと見た。
「違いが分かるなら、次は帳簿だけで印を押さぬことです」
会議室が一瞬、凍った。
王太子に向かって、その言い方。
だが、ユリウスは怒らなかった。
むしろ、深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
ガスパルは、少しだけ目を丸くした。
「……ならよろしい」
エレノアは、議事録に目を落とした。
これも重要な瞬間だった。
王太子が現場の言葉に頭を下げる。
以前ならあり得なかった。
いや、王宮全体でも珍しい。
「薬草納入制度について、ガスパル殿の提案をお願いします」
エレノアが促すと、ガスパルは不器用に紙を広げた。
紙には、かなり大きな字で項目が書かれている。
一、納入した袋をその場で開ける。
二、香りを見る者を入れる。
三、乾燥日を書く。
四、悪い草は混ぜない。
五、薬師と畑の者を同じ席に呼ぶ。
「以上です」
短い。
だが、核心を突いていた。
ロウエル財務監査官は、少しだけ困った顔をした。
「乾燥日まで記録すると、業者の負担は増えますね」
「増えます」
ガスパルは即答した。
「だが、それを書けない業者から買うべきではない」
ミリアム夫人が静かに言った。
「香りを見る者、というのは正式な役職ではありませんわね」
「正式でなくても、分かる者はいます」
「その者をどう選ぶかが必要です」
エレノアは頷いた。
「薬草品質確認人として登録制にします。薬師、薬草園管理者、医師の推薦により、三名以上で確認。商会関係者は除外します」
「三名も必要ですか」
ロウエルが尋ねる。
「一人だと買収されます」
ガスパルが言った。
あまりに真っすぐな言葉だった。
会議室が静かになる。
エレノアは、静かに頷いた。
「その通りです。三名確認とします」
カインが短く付け加える。
「確認者も交代制だ。同じ三名を固定しない」
「はい」
エレノアは記録へ加える。
ガスパルは、少し満足したように袋をしまった。
「これで、少しはましになる」
ロウ夫人が隣で小さく笑った。
「ガスパルさんの『少しはまし』は、かなり信用できそうですね」
「まし以上は、実際に動いてから言う」
「厳しい」
「屋根も薬草も、褒め言葉では直らん」
フィオナ司祭が、穏やかに頷いた。
「救貧院も同じです」
次の議題に入った。
フィオナ司祭は、灰色の修道服を着た老女だった。
声は柔らかいが、言葉は簡潔だった。
「今年の冬は、救貧院へ来る者が増えています。失業した下働き、夫人会の不正調査で雇い止めになった臨時針子、商会摘発で職を失った荷運び。事件の影響は、王宮の外へも出ています」
エレノアは、表情を引き締めた。
分かっていたつもりだった。
だが、こうして言われると、別の重みがある。
不正を暴くことは必要だった。
しかし、不正に関わった組織が止まれば、そこにぶら下がっていた無関係な労働も止まる。
裁きの影にも、生活がある。
「現在、救貧院で不足しているものは?」
エレノアが尋ねる。
「麦、薪、古着、そして仕事の斡旋先です」
「仕事?」
「はい。ただ食べ物を配るだけでは、冬を越した後に同じ場所へ戻ります。針子、洗濯、荷ほどき、修繕、薬草選別。短期でもよいので仕事が必要です」
デリア夫人が、少し身を乗り出した。
「夫人会の縫製所で受け入れられる者はいるかもしれません。ただ、今は監査中で」
「監査中だからこそ、正しい仕事として受け入れていただきたいのです」
フィオナ司祭は柔らかく返した。
「不正の隠れ蓑ではなく、実際に賃金の出る仕事として」
デリア夫人は、その言葉を受け止めた。
「……分かりました。聖クララ縫製所を、王家監督下の臨時雇用先として登録できるか確認します」
エレノアはすぐに記録へ加える。
「救貧院冬季支援は緊急枠とします。麦と薪は小口支援では足りません。中口支援として、初回銀貨三百枚。内訳は麦、薪、古着輸送、臨時雇用準備費」
ロウエルが眉を寄せる。
「銀貨三百枚は大きいですね」
「冬は待ちません」
フィオナ司祭が静かに言った。
ロウエルは黙った。
この会議では、その言葉に勝てる者は少ない。
ただ、エレノアは別の問題も見ていた。
「資金は出します。ただし、救貧院側の受け取り記録を簡易化する必要があります。読み書きが難しい方もいると聞いています」
フィオナ司祭は頷いた。
「名前を書けない者もいます」
「印だけでは、後から照合が難しい。本人が名乗った名、身体的特徴、受け取った品目、日付を記録し、二名確認にしましょう」
「手間は増えますね」
「はい」
「ですが、不正に使われるよりはよい」
フィオナ司祭は、少しだけ微笑んだ。
「書く手が足りなければ、リリアナ様にお手伝いいただきましょうか」
リリアナが後方で固まった。
「わ、私ですか」
会議室の視線が集まる。
リリアナは真っ赤になった。
エレノアは驚いたが、すぐには止めなかった。
フィオナ司祭は、穏やかに続けた。
「字の練習にもなります。人の名前を聞き取る練習にも」
リリアナは、困ったようにエレノアを見た。
助けを求める目。
だが、以前のような「私には無理」という逃げではない。
どう判断すればいいか分からない顔だった。
エレノアは言った。
「本人が望むなら、学習の一環として短時間の見学と補助を認めます。ただし、保護者としてマルタまたは王宮教育係が同席。記録責任は持たせません」
リリアナは、少しだけ口を開けた。
「やるの?」
「あなたが望むなら」
リリアナは、手帳を握りしめた。
「……やります。たぶん、すごく緊張するけど」
フィオナ司祭は微笑んだ。
「緊張する方のほうが、丁寧に名前を聞いてくれることがあります」
リリアナは、少しだけ安心したように頷いた。
ユリウスが隣で言った。
「私も行くべきだろうか」
会議室がまた静まった。
ユリウスは、すぐに言い直した。
「行きたい、ではなく、学ぶ必要があると思った。ただ、王太子が行くことで現場の邪魔になるなら控える」
以前なら、ただ善意で「私も行こう」と言っただろう。
今は、自分の立場が現場に与える影響を考えている。
エレノアは少し考えた。
「王太子殿下の視察は、別日程で調整しましょう。救貧院側が準備に追われない形で。最初は少人数、短時間、発言より見学を重視してください」
ユリウスは頷いた。
「分かった」
ガスパルが小声でロウ夫人へ言った。
「王太子も薬草を嗅ぎに来るか?」
「そのうち来るかもしれませんね」
「悪い草を嗅がせれば覚える」
リリアナがまた吹き出しそうになった。
ユリウスは、今度は少しだけ笑った。
「必要なら、嗅ぎます」
ガスパルは真面目な顔で頷いた。
「なら見込みがあります」
王太子が薬草園管理人に見込みを認められる。
これも、今までの王宮ではあまりなかった光景だろう。
第一回評議会は、予定より長引いた。
だが、誰も途中で打ち切ろうとはしなかった。
議題は三つだったはずが、派生していくつもの具体策が生まれた。
孤児院修繕の追加承認。
窓布取り付けの夫人会協力。
薬草品質確認人の登録制度。
納入薬草の乾燥日記録義務。
救貧院冬季支援の中口支援承認。
聖クララ縫製所の臨時雇用先登録検討。
支援受領者の簡易記録様式。
リリアナの救貧院補助見学。
王太子の現場学習日程調整。
ひとつひとつは地味だった。
だが、その地味さこそが再建だった。
最後に、エレノアは議事録を確認し、全員へ向けて言った。
「本日の決定事項は、三日以内に写しを各関係者へ配布します。現場代表の方々には、分かりにくい点があれば訂正を求める権利があります」
ロウ夫人が手を上げた。
「写しは、難しい言葉が多すぎると困ります」
「要約版を作ります」
エレノアが答えると、リリアナが後方で小さく手を上げた。
「私、要約版の分かりやすさを見る係、できます」
会議室の視線が彼女へ向く。
リリアナは一瞬ひるんだが、続けた。
「難しい言葉が多いと、私はすぐ分からなくなるので。私が分かれば、少しは読みやすいかもしれません」
自虐ではない。
役割として、自分の未熟さを使おうとしている。
エレノアは、少しだけ胸が温かくなった。
「お願いします」
リリアナの顔が明るくなる。
ロウ夫人も頷いた。
「それは助かります」
ガスパルが言った。
「難しい言葉を減らしてください。薬草の名前だけで十分難しい」
会議室に小さな笑いが起きた。
第一回評議会は、そうして終わった。
王宮の会議らしくない終わり方だった。
誰かが美しい締めの言葉を言ったわけではない。
ただ、腐った梁の木片と、乾燥薬草の袋と、救貧院の麦の必要量が机に残った。
けれどエレノアには、それが何より王妃基金らしい光景に見えた。
会議後、ロウ夫人はエレノアへ小さな封筒を渡した。
「子供たちからです」
「礼状ですか」
「はい。まだ屋根は直りきっていませんが、雨漏りの場所に桶を置かなくて済むようになると聞いて、先に書きたいと言いまして」
封筒は不揃いだった。
紙も上等ではない。
エレノアは両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「あとで読んでください。今読むと、会議室で泣くかもしれません」
「私は泣きません」
ロウ夫人は、少しだけ笑った。
「そう言う方ほど、分かりませんよ」
そう言って去っていった。
エレノアは封筒を見下ろした。
胸の奥が、少しだけ熱い。
その時、リリアナが横から覗き込んだ。
「礼状?」
「ええ」
「読みたい」
「あとで」
「私も?」
「一緒に読みましょう」
リリアナは、ぱっと顔を輝かせた。
「うん」
以前なら、礼状など可愛い紙かどうかしか見なかったかもしれない。
今は、そこに何が書かれているのかを知りたがっている。
小さな変化。
けれど、大事な変化だった。
カインが近づいてきた。
「初回としては悪くない」
「殿下にしては、かなり褒めていますね」
「褒めている」
「珍しい」
「記録するか」
「いえ、個人的に覚えておきます」
カインは、少しだけ目を細めた。
「それは記録より厄介かもしれないな」
エレノアは、小さく笑った。
本当に小さな笑いだった。
だが、リリアナはそれを見逃さなかった。
「お姉様、今笑った」
「気のせいよ」
「最近その誤魔化し、雑になってきた」
「リリアナ」
「はい、要約版を見ます」
リリアナは慌てて手帳を閉じた。
そのやり取りを見て、カインが微かに息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
けれど、エレノアは見なかったことにした。
夜、エレノアは第一回評議会の議事録を確認した。
最初の発言者、ロウ夫人。
議題、孤児院屋根修繕追加支出。
現物証拠、腐食した梁の木片。
決定、緊急追加承認。
その一行を見て、王妃の言葉を思い出す。
支援は上から垂らす施しではなく、届くべき場所へ届いて初めて支援となる。
今日、少しだけ届き始めた。
完璧ではない。
抜け道もあるだろう。
反発も出るだろう。
それでも、現場の声が最初に置かれた。
それは確かな始まりだった。
エレノアは、ロウ夫人から受け取った封筒を開いた。
中には、子供たちの礼状が何枚も入っていた。
字はばらばら。
曲がっているものもある。
絵が描かれているものもある。
その一枚に、こう書かれていた。
――あめのひに、ねるばしょがぬれないようになるときいて、うれしいです。ありがとうございます。
エレノアは、その文字をしばらく見つめていた。
リリアナが隣で、黙って同じ紙を読んでいる。
「お姉様」
「何?」
「私、窓布を掛ける手伝い、行ってもいい?」
「梯子には登らないこと」
「登らない。たぶん」
「たぶんでは駄目」
「分かった。登らない」
リリアナは、礼状を見つめたまま言った。
「この子の寝る場所、濡れないようにしたい」
その声は、とても小さかった。
けれど、王妃基金の再建に必要なものは、もしかするとこういう声なのかもしれない。
立派な理念ではなく。
帳簿だけでもなく。
誰かの寝る場所を濡らさないようにしたい、という具体的な願い。
エレノアは、礼状を丁寧に畳んだ。
「では、まず要約版を仕上げましょう」
「やっぱり仕事に戻るのね」
「窓布を掛けるにも、手配が必要よ」
「はい、臨時長」
リリアナは少しふざけたように言ったが、その声には敬意が混ざっていた。
エレノアは、あえて何も言わなかった。
第一回評議会は終わった。
王妃基金は、動き始めた。
その最初の記録には、王族でも貴族でもなく、孤児院の屋根の話が残る。
それこそが、王妃エレオノーラの望んだ始まりなのだと、エレノアは思った。




