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第46話 王妃の遺言、最後の条項

 王妃エレオノーラの遺言状には、まだ開かれていない条項があった。


 それは、王妃基金の不正が確認され、再建案が国王へ提出された後にのみ開封されること、と封書の表に記されていた。


 つまり、王妃は予想していたのだ。


 自分の死後、基金が調べられること。

 不正が明るみに出ること。

 エレノアがそこまで辿り着くこと。

 そして、単なる断罪ではなく、再建案を出すところまで行くことを。


 どこまで見えていたのか。


 エレノアには、もう分からなかった。


 病床で弱っていたはずの王妃は、誰よりも先を見ていた。


 その事実は、敬意と同時に、少しだけ恐ろしさも伴っていた。


 北翼の小会議室に、開封のための関係者が集められていた。


 国王アレクシス。

 王弟カイン。

 王太子ユリウス。

 王家法務官。

 女官長マルタ。

 記録係オスカー。

 そして、エレノア。


 リリアナは、別室で待機となった。


 彼女も同席を望んだが、今回の条項は内容が分からない。王位継承、婚約、家門、王妃基金、あるいはエレノア個人の身分に関わる可能性もある。


 まずは開封し、必要な範囲を整理したうえで伝える。


 それが国王の判断だった。


 エレノア自身も、それに異議はなかった。


 ただ、胸は落ち着かなかった。


 王妃の遺言は、これまで何度も彼女の人生を動かしてきた。


 最初は、王妃基金監査のきっかけとして。


 次に、王妃の死の真相へ向かう灯として。


 そして今、最後の条項が開かれようとしている。


 机の中央には、小さな封書が置かれていた。


 白い封蝋。


 百合の紋章。


 王妃の私的な印。


 偽書簡で汚された印と、同じ形でありながら、まったく違う重みを持つ本物だった。


 マルタが、その封書を前に深く頭を下げた。


「王妃陛下より、私が預かっておりました」


 声は静かだった。


 しかし、その奥に震えがあった。


「王妃陛下は、この封書について、『エレノアが裁くだけでなく、立て直すところまで行ったなら開けなさい』と仰せでした」


 エレノアは、息を呑んだ。


 裁くだけでなく、立て直す。


 まさに昨日、王妃基金再建案を提出したばかりだった。


 王妃は、その順序まで指定していた。


 国王アレクシスは、しばらく封書を見つめていた。


 夫として、開けることにためらいがあったのかもしれない。


 だが、やがて静かに言った。


「開封を」


 王家法務官が封蝋を確認する。


「封印に破損なし。王妃陛下の私的印と一致」


 オスカーが記録する。


 マルタが、震えないように慎重に封を開いた。


 中には、数枚の紙が折り畳まれていた。


 最初の一枚には、王妃の筆跡でこう書かれている。


 ――最後の条項。


 その文字を見た瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。


 マルタは一度目を閉じ、息を整えてから読み上げた。


「私、エレオノーラ・ヴァレンティアは、王妃基金および王宮慈善制度に関する不正が明らかとなり、かつ、その再建案が王家へ提出された場合、以下の条項を発効することを望みます」


 声が、静かに響く。


「第一。王妃基金は、王妃個人の名誉事業ではなく、王国の弱き者を支える制度である。ゆえに、王妃不在時にも継続する常設基金とし、その運営は評議会に委ねること」


 エレノアは、目を伏せた。


 昨日提出した再建案と同じ方向だった。


 王妃は最初から、それを望んでいたのだ。


「第二。王妃基金に携わる者は、身分、性別、家門、血縁ではなく、記録と実務能力に基づき選ばれること。貴婦人の善意を否定してはならないが、善意のみを根拠に資金を委ねてはならない」


 デリア夫人がこの場にいれば、きっと深く頭を下げただろう。


 ミリアム夫人なら、静かに頷いただろう。


 ロウ夫人なら「当然です」と言うかもしれない。


 マルタは、少しだけ声を詰まらせた。


 それでも読み続ける。


「第三。王妃基金の名において、いかなる女性も、いかなる子供も、家門や政略の道具として扱われてはならない。支援とは、人を役割へ閉じ込めることではなく、その人が自ら立つための場所を整えることである」


 その一文に、エレノアは胸を突かれた。


 人を役割へ閉じ込めることではなく。


 それは、まるで今のリリアナへ向けた言葉のようだった。


 いや、リリアナだけではない。


 母セレスティア。

 ベアトリス。

 ドロテア。

 ネル。

 ミラ。

 そしてエレノア自身。


 皆、何かの役割に閉じ込められていた。


 娘。

 妻。

 未亡人。

 下働き。

 王太子妃候補。

 優秀な長女。


 王妃は、それを見ていた。


 見ていたから、この条項を書いた。


 マルタは、次の一文に目を落とした。


 その瞬間、彼女の手が止まった。


「マルタ?」


 国王が声をかける。


 マルタは、唇を震わせた。


「失礼いたしました」


 彼女は一度深く息を吸い、読み上げた。


「第四。エレノア・ヴァレンシュタインについて」


 エレノアの心臓が、一度強く鳴った。


 自分の名。


 王妃の最後の条項に、自分の名がある。


 カインの視線が、わずかに彼女へ向いた。


 ユリウスも顔を上げる。


 国王は、目を閉じたまま聞いていた。


 マルタは続けた。


「エレノア・ヴァレンシュタインは、王太子妃候補であった以前に、一人の人間である。彼女の実務能力、忠誠、記録を扱う才は王家にとって有益であるが、それゆえに彼女を王家または公爵家の道具として扱ってはならない」


 部屋の空気が止まった。


 エレノアは、手を膝の上で握りしめる。


「彼女を、本人の同意なく婚約、修道院、慈善院、公爵家内処分、王家内役職へ拘束してはならない。王太子妃候補解消後の彼女の身分、居所、職務、婚姻については、本人の意思を最優先とすること」


 エレノアは、息ができなくなった。


 本人の意思を最優先。


 そんな言葉を、王妃は遺言に残していた。


 父は、家を守るためにエレノアを慈善院へ送ろうとした。


 母は、リリアナを守るためにエレノアを冷たい姉のままにした。


 王太子は、彼女の助言を重く感じ、遠ざけた。


 オルガは、彼女を危険な駒として盤外へ出そうとした。


 けれど王妃だけは。


 王妃だけは、エレノアを役割ではなく、人として見ようとしていた。


 マルタの声が震える。


「ただし、彼女が王妃基金再建に関わることを望むなら、王家は相応の権限と保護を与えること。彼女が辞退を望むなら、その意思も尊重すること」


 エレノアは、無意識に胸元の銀の百合飾りに触れた。


 望むなら。


 辞退を望むなら。


 王妃は、どちらの道も用意していた。


 役目を与えるのではなく、選ばせようとしていた。


 そのことが、あまりにも重かった。


「第五」


 マルタは、最後の紙へ進んだ。


「王太子ユリウスについて。王太子は、王家の慈善と財務に関わる制度を学び直すこと。王太子妃となる者に実務を預けるだけでなく、自らも記録を読み、印の重みを知ること。王太子がそれを学ばぬ限り、誰が隣に立とうと同じ過ちを繰り返す」


 ユリウスの顔が、はっきりと歪んだ。


 母の言葉。


 死後に届いた叱責。


 だが、それは彼を切り捨てる言葉ではない。


 学び直せという言葉だった。


 ユリウスは唇を噛み、深く頭を下げた。


「……承ります」


 声は低かった。


「第六。リリアナ・ヴァレンシュタインについて」


 エレノアは顔を上げた。


 リリアナの名まである。


 王妃は、どこまで見ていたのか。


「リリアナ・ヴァレンシュタインを、無知のまま責任ある地位へ置いてはならない。彼女が未熟であることは罪ではないが、未熟なまま利用する者には罪がある。彼女が学ぶ意思を持つなら、王家は基礎教育と保護を与えること」


 エレノアは、目を閉じた。


 リリアナが聞いたら、きっと泣くだろう。


 だが、これは彼女を甘やかす言葉ではない。


 未熟であることは罪ではない。


 しかし、学ばなくてよいという意味でもない。


 彼女が今、まさに歩き始めた道そのものだった。


「第七。王妃基金の再建が始まった後、最初の評議会では、必ず現場代表に最初の発言権を与えること。支援は上から垂らす施しではなく、届くべき場所へ届いて初めて支援となる」


 ロウ夫人が聞けば、きっと眉を上げて「王妃様は分かっていらしたのですね」と言うだろう。


「最後に」


 マルタの声が、さらに小さくなる。


「私の死を、誰かの権力争いの道具にしてはならない。私の名で誰かを縛ってはならない。私の遺志を語る者は、まず目の前の人を見なさい。記録は人を裁くためだけでなく、人を人として残すためにある」


 そこで、マルタは読み終えた。


 部屋に、長い沈黙が落ちた。


 誰もすぐに言葉を発しなかった。


 国王アレクシスは、両手を組み、深く目を閉じていた。


 ユリウスは俯いている。


 カインは無表情に見えたが、机の上に置かれた指先だけが少し強く握られていた。


 エレノアは、王妃の言葉が胸の奥へ沈んでいくのを感じていた。


 記録は人を裁くためだけでなく、人を人として残すためにある。


 その言葉は、今まで自分がしてきたことへの答えであり、問いでもあった。


 自分は本当に、人を人として記録できていただろうか。


 父を罪人としてだけでなく、恐れた人間として。

 母を泣く人としてだけでなく、役目に縛られた人間として。

 リリアナを愚かな妹としてだけでなく、学び始めた人間として。

 オルガを怪物としてではなく、人間として。


 そう記録できていただろうか。


 国王が、ゆっくりと目を開けた。


「エレオノーラらしい」


 その声は、王ではなく夫のものだった。


「最後まで、私に課題を残す」


 誰も笑わなかった。


 だが、その言葉には深い愛しさがあった。


 国王は、エレノアを見た。


「エレノア・ヴァレンシュタイン」


「はい」


 エレノアは立ち上がった。


「王妃の最後の条項に従い、そなたの意思を確認する。王妃基金臨時長として職務を続けるか。それとも辞退し、別の道を選ぶか」


 部屋の視線が集まる。


 突然、選択が目の前に置かれた。


 昨日までは、役目として受けた。


 必要だから。


 自分がやるべきだから。


 他に適任がいないから。


 だが今、王妃の遺言によって、初めて「選ぶ」ことを求められた。


 続けるのか。


 辞めるのか。


 王家に残るのか。


 公爵家へ戻るのか。


 別の場所へ行くのか。


 婚姻も、役職も、居所も、本人の意思。


 あまりにも自由で、だからこそ怖かった。


 エレノアは、すぐに答えられなかった。


 沈黙が続く。


 カインは何も言わない。


 ユリウスも、国王も、急かさない。


 マルタだけが、祈るように手を組んでいる。


 エレノアは、自分の胸元の銀の百合に触れた。


 王妃の遺志。


 けれど、それに縛られてはいけない。


 王妃自身がそう書いた。


 私の名で誰かを縛ってはならない。


 なら、答えは王妃のためだけで決めてはいけない。


 孤児院の屋根。

 ネルの震える手。

 薬草園管理人の怒り。

 リリアナの手帳。

 ユリウスの「分からない」という言葉。

 デリア夫人の沈黙。

 母の涙。

 父の崩れた背中。

 オルガの最後の微笑み。


 それらが、頭の中を過ぎていく。


 エレノアは、ようやく口を開いた。


「続けます」


 声は、思っていたより静かだった。


「ただし、王妃様の代わりとしてではありません。王妃様の影としてでもありません。私、エレノア・ヴァレンシュタインの意思として、王妃基金臨時長の職務を続けます」


 国王は、ゆっくり頷いた。


「よい」


 エレノアは続けた。


「ただ、条件があります」


 会議室の空気が少し動いた。


 カインの目が、わずかに細くなる。


 国王は促した。


「申せ」


「職務範囲と任期を明文化してください。臨時長は恒久的な拘束ではなく、三か月後の初回評価、半年後の再任確認、一年後の正式改組時に本人の意思を再確認すること」


 カインの口元が、ほんのわずかに動いた。


 それは、笑みに近かったかもしれない。


 エレノアは続ける。


「また、王妃基金臨時長であることを理由に、私の婚姻、居所、公爵家相続に関する判断を王家または公爵家が一方的に決めることを禁じてください」


 ユリウスが、静かに目を伏せた。


 彼もまた、かつて婚約によって彼女を縛っていた側だった。


「そして、リリアナの教育についても、本人の意思を確認しながら進めてください。彼女を罰として学ばせるのではなく、自分で責任を持つための教育として」


 国王は、長く黙っていた。


 やがて言った。


「王妃の条項に沿うものだ。認めよう。法務官、文書化せよ」


「承知いたしました」


 王家法務官が頭を下げる。


 エレノアは、そこでようやく座った。


 足が少し重かった。


 自分で選ぶというのは、こんなにも体力を使うものなのかと思った。


 マルタが、静かに言った。


「王妃陛下も、お喜びになるでしょう」


 エレノアは首を横に振った。


「きっと、赤字を入れられます」


 マルタは一瞬驚き、それから涙ぐみながら笑った。


「ええ。そうかもしれません」


 ユリウスが、低く言った。


「私にも、最後まで課題を残された」


 国王が息子を見る。


「学ぶか」


「はい」


 ユリウスは、深く頭を下げた。


「今度こそ、分からないまま印を押さない王太子になります」


 その言葉に、国王は何も言わなかった。


 ただ、静かに頷いた。


 開封の会議が終わった後、エレノアはリリアナの待つ部屋へ向かった。


 廊下を歩きながら、胸の中に王妃の言葉が残り続けていた。


 彼女を、本人の同意なく拘束してはならない。


 リリアナを、無知のまま責任ある地位へ置いてはならない。


 記録は、人を人として残すためにある。


 どれも重い。


 けれど、不思議と足取りは先ほどより軽かった。


 リリアナは、小会議室で立ち上がったまま待っていた。


 手帳を握っている。


「お姉様」


「待たせたわね」


「ううん。何が書いてあったの?」


 エレノアは、椅子に座るよう促した。


 リリアナは緊張した顔で座る。


 マルタも同席した。


「王妃様の最後の条項には、あなたのことも書かれていたわ」


 リリアナの目が大きくなる。


「私?」


「ええ」


 エレノアは、紙の写しではなく、まず自分の言葉で伝えることにした。


「王妃様は、あなたを無知のまま責任ある地位へ置いてはならない、と書いていた。未熟であることは罪ではない。でも、未熟なまま利用する者には罪がある、と」


 リリアナは、言葉を失った。


 唇が震える。


「王妃様が……私のことを?」


「ええ」


「私、王妃様にそんなに見てもらえていたの?」


「見ていらしたのだと思う」


 リリアナは、手帳を握りしめた。


「私、王妃様にちゃんと謝ったこともない」


「今すぐ謝罪の言葉を急がなくていいわ」


「でも」


「学ぶことが、今のあなたにできる返事だと思う」


 リリアナは、涙を浮かべながら頷いた。


「うん」


「それから、私のことも書かれていた」


「お姉様の?」


「ええ。私を王家や公爵家の道具として扱ってはならない。婚約、修道院、慈善院、役職、婚姻については本人の意思を最優先にするように、と」


 リリアナは、ぽかんとした。


 それから、ゆっくり目に涙をためた。


「よかった……」


 その一言が、あまりにも素直で、エレノアは少し驚いた。


「よかった?」


「うん。だって、お姉様、ずっと誰かのために使われていたみたいだったから」


 リリアナは、涙を拭きながら言った。


「王妃様が、ちゃんとお姉様を自由にしてくれていたんだね」


 その言葉に、エレノアは胸が詰まった。


 自由。


 今まで、その言葉を自分に当てはめることを避けてきた。


 自由になれば、何を選ぶのか自分で決めなければならない。


 それは怖い。


 だが、王妃は最後にその怖さを置いていった。


「私は、臨時長を続けることにしたわ」


 エレノアが言うと、リリアナは頷いた。


「お姉様ならそうすると思った」


「ただし、自分の意思として」


「うん」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「それ、大事だね」


「ええ」


「私も、自分の意思で勉強する」


 その言葉は、少し震えていた。


 でも、確かだった。


「王太子妃候補になるためじゃなくて。誰かに可愛いって言われるためでもなくて。自分が、何に名前を書いて、何を受け取って、何を知らなかったのか、分かるようになるために」


 エレノアは、静かに頷いた。


「それなら、明日から帳簿の続きね」


「今日くらい感動で終わらせてくれない?」


「王妃様なら、明日の課題を出すわ」


「王妃様、厳しい……」


 リリアナは涙の跡を残したまま笑った。


 その笑顔は、以前のように作られた可愛さではなかった。


 泣いて、考えて、それでも少し前を向いた人間の笑顔だった。


 その夜、エレノアは王妃の最後の条項の写しを、自分の机に置いた。


 正式な写しは王家法務官の保管庫へ入る。


 これは、臨時長として与えられた控えだった。


 彼女は、その中の一文を何度も読み返した。


 ――記録は人を裁くためだけでなく、人を人として残すためにある。


 これから先、この言葉を何度も思い出すだろう。


 誰かを裁く時。

 誰かを許せない時。

 誰かの弱さに苛立つ時。

 自分自身を役割で縛りそうになる時。


 そのたびに、この言葉が必要になる。


 エレノアは、手帳を開き、自分の字で一文を書いた。


 ――私は、王妃の道具ではなく、私の意思で王妃基金を再建する。


 書いてから、少しだけ手が震えた。


 だが、消さなかった。


 これは記録ではない。


 誓いでも、命令でもない。


 自分で選んだことを、忘れないための言葉だった。


 窓の外では、王宮の灯りが静かに揺れている。


 王妃の遺言は、これで全て開かれた。


 だが、それは終わりではなかった。


 むしろ、ここからが本当の始まりだった。


 王妃の名に縛られるのではなく。

 王妃の遺志を口実にするのでもなく。

 自分の意思で、再建の道を歩く。


 エレノアは、静かに灯りを落とした。


 明日からまた、帳簿と会議と現場確認の日々が始まる。


 けれど今夜だけは、王妃が残した最後の自由を、胸の奥でそっと確かめていた。

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