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第45話 王妃基金、再建案提出

 王妃基金再建案。


 その題字を書いた時、エレノアはしばらく筆を置けなかった。


 不正調査の記録は、過去を追うものだった。


 何が起きたのか。

 誰が関わったのか。

 どこで確認が抜けたのか。

 どの金が、どの手を経て、どこへ流れたのか。


 それは苦しい作業だったが、道はあった。


 残された紙を読む。

 証言を照合する。

 矛盾を拾う。

 隠されたものを表へ出す。


 だが、再建案は違う。


 これからどうするのかを、まだ白い紙の上に作らなければならない。


 王妃エレオノーラが守ろうとした基金。


 孤児院、救貧院、戦没騎士遺児、薬草園、療養施設、寡婦支援、緊急衣料配布。


 そのすべてを、もう一度動かす。


 ただし、以前と同じようには動かせない。


 善意だけに頼らない。

 身分だけを信用しない。

 涙だけで判断しない。

 華やかな報告画だけで満足しない。

 支援先の声を、帳簿と同じ重さで扱う。


 それを制度にする。


 言葉にすれば簡単だ。


 けれど、制度にすると、必ず誰かが息苦しさを感じる。


 善意を疑われたと怒る者がいる。

 現場が重くなると嘆く者がいる。

 手続きが増えれば助けが遅れると訴える者がいる。

 これまで曖昧さの中で動いていた者たちは、記録の光を嫌がる。


 それでも、提出しなければならなかった。


 北翼の執務室で、エレノアは完成した再建案を前に座っていた。


 厚い綴じ紙が三冊。


 一冊目は、王妃基金の理念と権限整理。

 二冊目は、支出手続きと監査制度。

 三冊目は、保護証言室および慈善団体登録制度。


 その横には、付録として現場代表からの意見書がまとめられている。


 ロウ夫人の孤児院修繕報告。

 薬草園管理人の品質検査案。

 ネル・ファランの保護証言室利用後の感想。

 リリアナが書き直した相談者向け説明書。

 ミリアム・ローゼン侯爵夫人による夫人会改革意見。

 デリア・ラングフォード侯爵夫人の代表責任に関する誓約書。


 紙の束は重い。


 物理的にも、意味としても。


 扉が叩かれた。


「入って」


 エレノアが答えると、リリアナが顔を出した。


 手には、小さな布袋を持っている。


「お姉様。まだ朝食、ちゃんと食べていないでしょう」


「食べました」


「何を?」


「茶を」


「それは朝食じゃないわ」


 リリアナは、すっかりこのやり取りに慣れた顔で部屋へ入ってきた。


 布袋の中には、小さなパンと果物が入っている。


 マルタか厨房に頼んだのだろう。


 最近のリリアナは、姉を休ませることに妙な使命感を持ち始めている。


 それは少し困るが、完全には拒めない。


「今日は大事な日でしょう?」


 リリアナは机の端に布袋を置いた。


「倒れたら、再建案どころじゃなくなるわ」


「あなたまで同じことを言うのね」


「殿下とマルタから学びました」


「学ぶところを選んで」


「ちゃんと学んでいます。帳簿も昨日、三頁読んだわ」


「三頁」


「私にしては大進歩よ」


 胸を張るリリアナに、エレノアは小さく息を吐いた。


「確かに」


「そこで即答しないで」


「大進歩よ」


「今の、後から足した感じがすごい」


 リリアナは不満そうに頬を膨らませたが、すぐに再建案へ目を向けた。


「これ、今日提出するの?」


「ええ。国王陛下、王弟殿下、王太子殿下、王家法務官、財務監査官、夫人会代表、現場代表の前で説明するわ」


「私も同席するのよね」


「あなたが望むなら」


「望む」


 リリアナは、少しだけ緊張した顔で言った。


「怖いけど、聞きたい。私、王妃基金のことで何も知らなかったから」


「今日は聞くだけでいいわ。発言を求められたら、自分の分かることだけ答えなさい」


「分からないことは分からないと言う」


「そう」


「もう覚えたわ」


 リリアナは、そう言ってから少しだけ笑った。


「でも、分からないって言うの、まだ怖い」


「怖くても言えれば十分よ」


「うん」


 リリアナは、机の上の三冊を見つめた。


「王妃様が見たら、何て言うかな」


 不意の言葉だった。


 エレノアは答えに詰まった。


 王妃なら、どう言うだろう。


 よくやりました、と褒めるだろうか。


 まだ甘いですね、と赤字を入れるだろうか。


 エレノアには後者の気がした。


「おそらく、訂正箇所を七つほど指摘されるわ」


「七つで済む?」


「十かもしれない」


 リリアナは、少し困ったように笑った。


「王妃様って、怖い方だったの?」


「怖いというより、逃がさない方だった」


「お姉様みたい」


「……私もそう思い始めているわ」


 その言葉に、リリアナはくすっと笑った。


 けれどすぐ、表情を引き締めた。


「でも、王妃様が残してくれたから、ここまで来たのね」


「ええ」


「じゃあ、今日は私もちゃんと座っている。可愛いだけの席じゃなくて、知るための席に」


 エレノアは、リリアナを見た。


 その言葉が出るようになっただけで、ずいぶん遠くまで来たのだと思う。


「そうね」


 短く答えると、リリアナは少しだけ嬉しそうに頷いた。


 大裁定の間ではなく、今日は王宮中会議室が使われた。


 裁く場ではない。


 決める場。


 けれど、空気は決して軽くなかった。


 上座には国王アレクシス。


 その左手に王弟カイン。


 右手には王太子ユリウス。


 ユリウスは、以前より少し痩せたように見えた。だが、目は逃げていない。手元には再建案の要約が置かれており、ところどころに自分の筆で印を入れている。


 王家法務官、財務監査官、女官長マルタ、オスカー。


 夫人会からはデリア・ラングフォード侯爵夫人とミリアム・ローゼン侯爵夫人。


 現場代表として、南区孤児院のロウ夫人、薬草園管理人、救貧院の老司祭も来ている。


 リリアナは後方席に座った。


 以前なら、王太子の近くに座りたがっただろう。


 今日は、自分に与えられた学習者の席に座っている。


 ユリウスは一度だけ彼女を見た。


 リリアナも気づいたが、軽く会釈するだけだった。


 甘い笑顔ではない。


 媚びる視線でもない。


 その変化に、ユリウスは少しだけ目を伏せた。


 会議は、国王の短い言葉から始まった。


「王妃エレオノーラの名において設けられた基金は、不正と怠慢により傷ついた。本日は、その再建案を聞く。エレノア・ヴァレンシュタイン、説明せよ」


 エレノアは立ち上がった。


 胸元には、銀の百合飾り。


 王妃から贈られたもの。


 それをつけるかどうか、最後まで迷った。


 だが、今日はつけるべきだと思った。


 これは王妃の代弁ではない。


 王妃の影として立つわけでもない。


 ただ、王妃が残した務めの続きを、自分の名で引き受けるために。


「王妃基金再建案を提出いたします」


 声は静かに響いた。


「本案の目的は三つです。第一に、支援を止めないこと。第二に、不正を繰り返さないこと。第三に、声を上げた者を守ることです」


 会議室が静まる。


 エレノアは一冊目を開いた。


「王妃基金は、王妃個人の善意だけで動くものではありません。王家の名において、弱い立場にある者を支える制度です。したがって今後は、王妃または王妃代理一名の判断に依存せず、基金評議会を設置します」


 財務監査官が顔を上げた。


「基金評議会の構成は?」


「王家代表、王妃基金改革官または後任の基金長、財務監査官、法務官、女官長代表、現場代表二名、夫人会代表一名です。ただし夫人会代表には議決権を制限し、利害関係がある案件では退席とします」


 デリア夫人が小さく息を吐いた。


 予想していたのだろう。


 だが、やはり痛い処置だ。


「夫人会は完全に外されるわけではないのですね」


 ミリアム夫人が問う。


「はい。夫人会には現場とのつながりがあります。それを失うべきではありません。ただし、資金承認と現物確認を同じ団体が行うことは禁じます」


 ロウ夫人が頷いた。


「それがよろしいと思います。支援してくださる方と、確認する方が同じですと、こちらも言いにくいことがありますので」


 デリア夫人の表情がわずかに変わる。


 貴婦人同士の会議では出ない言葉だった。


 支援される側にも、言いにくさがある。


 その現実を、夫人会代表が直接聞く意味は大きい。


 エレノアは続けた。


「第二に、支出は三段階に分けます。小口支援、中口支援、大口支援。小口支援は速度を優先し、簡易記録で実施可能とします。中口以上は、見積書、現地確認、支出承認、配布後確認を必須とします」


 財務監査官がすぐに質問した。


「小口支援の上限は?」


「銀貨五十枚までです。ただし同一支援先への連続支出は、三回を超えた時点で中口扱いとします」


「分割して小口扱いにする抜け道を塞ぐためですね」


「はい」


 ユリウスが手元の紙に何かを書き込んだ。


 そして、おずおずと手を上げた。


「質問してもよいか」


 国王が頷く。


「申せ」


 ユリウスは、エレノアを見た。


「緊急支援の場合、現地確認を待っていては遅れることがある。火災、寒波、疫病などだ。その場合はどうする」


 以前の彼なら、制度の面倒さを責めるような言い方になったかもしれない。


 今は違う。


 本当に、制度が現場を遅らせないか気にしている。


 エレノアは答えた。


「緊急支援枠を設けます。基金長、王家代表、財務監査官のうち二名の暫定承認で即時支出可能。ただし七日以内に事後確認、三十日以内に正式報告が必要です」


「虚偽の緊急支援が出た場合は?」


「次回以降、その団体の緊急枠使用を停止します。悪意があれば処罰対象です」


 ユリウスは頷いた。


「分かった。現場を止めないためにも、後日の確認が重要になるのだな」


「その通りです」


 ユリウスは、その言葉を聞いて少しだけ背筋を伸ばした。


 王太子として褒められたわけではない。


 だが、正しい理解をした。


 それを認められただけで、彼には意味があったのだろう。


 次に、薬草園管理人が口を開いた。


「薬草の検査については、紙の上だけでなく、実物を見られる者を入れていただきたい」


 老人は、王宮の会議室に慣れていないのか、少し声が荒い。


 だが、誰も咎めなかった。


「医師殿の処方も大事でしょうが、乾燥が悪い草は、見れば分かります。香りが死んでいる草もある。そういうものを帳簿だけで良品にされては困ります」


 エレノアは頷いた。


「薬草検査には、医師一名、薬師一名、薬草園管理者一名を入れます。納入業者と検査者は分離し、同一商会による自己申告は禁止します」


「それなら少しはましです」


 老人は、ぶっきらぼうに言った。


 国王の前で「少しはまし」と言う者は珍しい。


 ユリウスが一瞬驚いた顔をし、すぐに口元を引き締めた。


 たぶん、笑いそうになったのだろう。


 カインは表情を変えない。


 エレノアは、少しだけ肩の力が抜けた。


 こういう声が入る制度でなければ、意味がない。


 次は、三冊目。


 保護証言室の説明だった。


「今回の不正では、気づいていた者、疑問を持っていた者、巻き込まれかけた者が多くいました。けれど、声を上げる場所がなかった。あるいは、声を上げた後の報復を恐れて沈黙しました。今後、王妃基金と関連団体に関する相談、仮申告、正式証言を受け付ける保護証言室を設置します」


 デリア夫人が、静かに手を上げた。


「夫人会として質問いたします。証言制度は必要だと理解しています。ただ、虚偽の訴えによって夫人や団体の名誉が傷つく恐れもございます。その点は?」


「相談、仮申告、正式証言の三段階に分けます。相談段階で即座に相手を罪人扱いすることはありません。仮申告で証拠や周辺記録を確認し、正式証言で初めて裁定や監査に使える記録とします。悪意ある虚偽申告は処罰対象ですが、誤認は処罰しません」


「誤認と悪意の区別は難しいですわ」


「はい。だからこそ、記録と照合を重視します」


 デリア夫人は、一度目を伏せた。


「そうでしたわね」


 それは、自嘲に近い言葉だった。


 かつて彼女が見逃した小さな帳尻合わせが、どれほど大きな不正へつながったか。


 彼女自身がよく知っている。


 ロウ夫人が次に言った。


「声を上げる者を守るというなら、貴族だけではなく、使用人や下働きも同じ扱いにしていただきたい」


「そのための制度です」


「本当に?」


 ロウ夫人の声は鋭かった。


 会議室の何人かが、少し驚いたように彼女を見る。


 彼女は怯まなかった。


「下働きの娘が貴族夫人の不正を見たとして、本当に守られますか? あとで職を失ったり、別の家に雇われなくなったりしませんか? 証言した後、今日だけ守られて、明日から放り出されるのでは困ります」


 その問いは重かった。


 ネル・ファランの顔が、エレノアの脳裏に浮かぶ。


 最初の保護証言者。


 青い硝子石を持って震えていた少女。


「保護証言室には、一時保護、給金保証、配置替え、再雇用支援を含めます」


 エレノアは答えた。


「証言したことで職を失う場合、基金関連案件に限り、一定期間の生活支援を行います。また、報復的な解雇や悪評流布は処罰対象とします」


 ロウ夫人は、じっとエレノアを見た。


「紙に書いてありますか」


「はい」


「なら、読みます」


「ぜひお願いします」


 ロウ夫人は頷いた。


 遠慮がない。


 けれど、それでいい。


 支援される側が、王宮の案を疑う。


 その疑いこそ、制度を強くする。


 会議は昼近くまで続いた。


 修正案も多く出た。


 財務監査官からは、支出承認者の交代制を入れるべきだと指摘された。

 王家法務官からは、証言記録の保管年限を定める必要があると言われた。

 ミリアム夫人からは、夫人会の善意ある活動が萎縮しないよう、小口私財支援の簡易書式を作ってほしいと要望が出た。

 薬草園管理人からは、品質検査の責任者が王都に偏ると現場が困ると指摘された。

 ロウ夫人からは、支援先にも報告義務があるなら、読み書きが苦手な院長向けの補助が必要だと言われた。


 リリアナは後方席で必死に書いていた。


 途中で何度か眉間に皺を寄せ、隣のマルタに小声で質問している。


 マルタは穏やかに答えていた。


 その光景を横目に見て、エレノアは少しだけ胸が温かくなった。


 同じ机に座った昨日の続きが、ここにもある。


 リリアナはもう、ただ飾られる席に座っていない。


 理解しようとしている。


 最後に、国王アレクシスが口を開いた。


「王太子ユリウス」


 ユリウスは立ち上がった。


「はい」


「そなたは、この再建案をどう見る」


 会議室が静まる。


 ユリウスは、一度手元の要約に目を落とした。


 以前なら、ここで立派な言葉を飾っただろう。


 王家の慈悲。

 民への責任。

 王妃の遺志。


 そういう言葉を、滑らかに並べたかもしれない。


 だが今日の彼は、少し違った。


「私は、この案のすべてを理解できているわけではありません」


 最初にそう言った。


 国王の眉がわずかに動く。


 ユリウスは続けた。


「特に、基金の会計と現場支援の速度のバランスについては、まだ学ぶ必要があります。ですが、今回の不正で私が最も誤ったのは、心地よい言葉を確認の代わりにしたことです」


 その声は、少し震えていた。


 だが、はっきりしている。


「この再建案は、心地よさを減らす案です。面倒で、時間がかかり、誰かの体面を傷つけることもあるでしょう。けれど、それが必要なのだと、今は思います」


 エレノアは、静かに彼を見た。


 ユリウスは、国王ではなく、会議室全体へ向けて言った。


「王太子府は、当面この基金の承認権を持つべきではありません。私も、持つ資格がありません。ただ、学ぶ席はいただきたい。将来、再び王家の支援制度に関わるなら、今度は印を押す前に、何を見るべきか知っていたいのです」


 会議室に沈黙が落ちた。


 その沈黙は、悪くなかった。


 国王アレクシスは、長く息を吐いた。


「記録せよ」


 オスカーが筆を走らせる。


「王太子ユリウス、基金承認権を当面辞退し、学習者として関与を望む」


 ユリウスは、深く頭を下げた。


 その姿を、リリアナが後方で見つめていた。


 甘い憧れではない。


 痛みを知った者を見る目だった。


 国王は次に、エレノアへ視線を戻した。


「エレノア・ヴァレンシュタイン」


「はい」


「本案を、修正のうえ暫定施行する。三か月後に初回評価を行う。王弟カインの監督下、そなたを王妃基金臨時長に任じる」


 会議室がわずかにざわめいた。


 王妃基金臨時長。


 改革官よりさらに、運用責任が重い。


 調査のための役職ではない。


 実際に動かす役職だ。


 エレノアは、一瞬だけ息を止めた。


 重い。


 あまりにも重い。


 だが、ここで断るという選択はなかった。


「謹んで拝命いたします」


 深く礼をする。


 胸元の銀の百合が、小さく揺れた。


 会議が終わると、出席者たちはそれぞれ書類を持って部屋を出ていった。


 デリア夫人はエレノアの前で足を止めた。


「臨時長、ですか」


「まだ暫定です」


「それでも、王妃基金の顔になりますわ」


「顔ではなく、手足になりたいと思っています」


 デリア夫人は、少しだけ笑った。


「あなたらしい言い方ですこと」


 それから、真剣な顔になる。


「夫人会は協力いたします。いえ、協力しなければ生き残れません」


「厳しい監査になります」


「承知しております」


「デリア様ご自身の責任も、消えるわけではありません」


「ええ」


 彼女は静かに頷いた。


「それでも、夫人会にまだ残せるものがあるなら、残したい。今度こそ、記録に耐えられる形で」


 その言葉に、エレノアは頷いた。


「お願いします」


 ロウ夫人も近づいてきた。


「臨時長様」


「エレノアで構いません」


「いいえ。役目には名があります。呼ばれることにも慣れてください」


 厳しい。


 エレノアは、思わず少し背筋を伸ばした。


「分かりました」


「孤児院の屋根は、来週から本格修繕に入ります。子供たちが、王宮の人に礼状を書くと言っています」


「礼状は基金評議会宛てに」


「あなた個人にも書きたいそうです」


「それは……」


「受け取ってください。子供たちの字は、帳簿ほど綺麗ではありませんが」


 ロウ夫人は、少しだけ笑った。


「その方が信用できますか?」


 エレノアは、一本取られた気持ちになった。


「ええ。きっと」


 会議室から出ると、リリアナが待っていた。


 手帳を胸に抱え、少し興奮した顔をしている。


「お姉様」


「どうしたの」


「すごかった」


「何が?」


「全部。皆が、ちゃんと意見を言っていた。ロウ夫人も、薬草園のおじいさんも、デリア夫人も、殿下も、王太子殿下も。私、王宮の会議って、偉い人が決めて終わりだと思っていた」


「そういう会議もあるわ」


「でも、今日は違った」


「ええ」


 リリアナは、手帳を開いた。


 そこには、今日の会議で彼女が書いた言葉が並んでいた。


 ――支援を止めない。

 ――不正を繰り返さない。

 ――声を上げた者を守る。

 ――心地よい言葉を確認の代わりにしない。

 ――役目には名がある。


 最後の言葉は、ロウ夫人のものだろう。


「お姉様、臨時長になるのね」


「ええ」


「また仕事が増える」


「そうね」


「休む時間も制度に入れた方がいいんじゃない?」


「それは再建案に不要よ」


「必要だと思う」


 リリアナは真剣だった。


 冗談ではないらしい。


 エレノアが返答に困っていると、背後からカインの声がした。


「検討しよう」


「殿下!」


 リリアナが嬉しそうに振り向く。


「王弟府監督下で、臨時長の業務時間管理を行う」


「それは不要です」


 エレノアは即座に言った。


 カインは無表情で返す。


「倒れられる方が困る」


「倒れません」


「それを信じる制度設計は危険だと、あなた自身が言っていた」


 完全に自分の言葉が返ってきた。


 リリアナが横で頷く。


「記録に耐えられる働き方にしてください」


「あなた、最近言い回しが上手くなったわね」


「お姉様から学びました」


「余計なところまで」


 リリアナは少し得意げだった。


 エレノアは小さくため息をついた。


 だが、そのため息には、少しだけ笑いが混ざっていた。


 午後、エレノアは王妃私室へ再建案の写しを持っていった。


 会議で修正が入る前の原案。


 王妃に見せるなら、まず最初に書いたものを置きたかった。


 部屋は静かだった。


 白百合の香りは、もうほとんど残っていない。


 窓辺の椅子。


 小さな机。


 王妃が最後の日々を過ごした場所。


 エレノアは、机の上に再建案の写しを置いた。


「王妃様」


 小さく呼ぶ。


「再建案を提出しました。暫定施行になります。まだ不完全です。きっと、訂正箇所は十以上あります」


 窓の外で、風が木の枝を揺らした。


「でも、支援は止めません。記録も残します。声を上げた人を、なかったことにはしません」


 言葉にして、胸が少し詰まった。


「王妃様の基金を、もう一度動かします」


 そう言った瞬間、ようやく少しだけ実感が湧いた。


 裁くためではない。


 過去を掘るためだけでもない。


 生きている人へ、支援を届けるために。


 王妃基金は、再び動き始める。


 それは、王妃の死を取り戻すことではない。


 けれど、王妃の死を無駄にしないための、ひとつの答えだった。


 エレノアは深く礼をした。


 部屋を出ると、廊下の先にユリウスが立っていた。


 偶然ではなさそうだった。


「エレノア」


「王太子殿下」


「少しだけ、よいか」


「はい」


 ユリウスは、王妃私室の扉を見た。


「母上に報告したのか」


「はい」


「私も、後で入っていいだろうか」


「もちろんです」


 ユリウスは、少しだけ目を伏せた。


「今日、私は分からないと言った」


「はい」


「王太子としては情けない言葉かもしれない」


「以前より、良い言葉だと思います」


 ユリウスは驚いたように彼女を見た。


 エレノアは続ける。


「分かっていないことを分かっているふりで進める方が、危険です」


「君らしい評価だ」


「必要ですので」


 ユリウスは、少しだけ笑った。


 痛みを含んだ、けれど以前より穏やかな笑みだった。


「私は、まだ君に謝る資格もないな」


「謝罪は、急がなくてよいと思います」


「リリアナにも、そう言われた」


 エレノアは少し意外だった。


「リリアナが?」


「ああ。『今謝られても、私もどう受け取ればいいか分からないので、まず勉強してください』と」


 言い方が少しリリアナらしくて、エレノアは思わず目を伏せた。


「成長していますね」


「本当に」


 ユリウスは、廊下の窓から外を見た。


「私も、置いていかれないようにしなければならない」


「競争ではありません」


「分かっている。だが、少し悔しい」


「それは良いことかもしれません」


「そうか?」


「はい。悔しさを学びに変えられるなら」


 ユリウスは頷いた。


「覚えておく」


 彼は王妃私室の前で深く礼をした。


 エレノアは、その場を離れた。


 振り返らなかった。


 王太子には、王太子として母に向き合う時間が必要だ。


 その場に、元婚約者も改革官も必要ない。


 夕暮れ、北翼の執務室に戻ると、机の上に小さな封筒が置かれていた。


 リリアナの字だった。


 中には短い紙が一枚。


 ――王妃基金再建案提出、お疲れさまでした。

 今日はちゃんと夕食を食べてください。

 あと、臨時長就任おめでとうと言っていいのか分からないけど、私は少し誇らしいです。

 妹より。


 最後の「妹より」という文字が、少し大きかった。


 エレノアはしばらくその紙を見ていた。


 誇らしい。


 リリアナが、そんな言葉を姉に向ける日が来るとは思っていなかった。


 許しではない。


 和解でも、まだない。


 けれど、確かに何かが少しずつ変わっている。


 エレノアは、紙を丁寧に畳み、自分の手帳に挟んだ。


 記録ではない。


 証拠でもない。


 けれど、残しておきたいものだった。


 王妃基金再建案は提出された。


 暫定施行が決まり、エレノアは臨時長となった。


 裁きの物語は、再建の物語へ移り始めている。


 だが、まだ終わりではない。


 正式裁判。

 公爵家とベルナール分家の処遇。

 王太子の再審査。

 夫人会の再編。

 そして、王妃の遺言状に残された最後の条項。


 すべての線が、次の裁定へ向かっている。


 エレノアは、机の上の新しい白紙を見た。


 再建は、提出して終わりではない。


 明日から、実際に動かさなければならない。


 それでも今夜だけは、少しだけ息をつこうと思った。


 リリアナとの約束もある。


 エレノアは立ち上がり、夕食のために部屋を出た。


 廊下の窓には、夜へ変わる王宮の灯りが映っていた。


 白百合の香りはもうない。


 けれど、王妃の基金は再び動き出す。


 誰かの冬を、本当に温めるために。

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