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第44話 オルガ、最後の微笑み

 オルガ・ベルナールは、再び証言室に現れても、やはり微笑んでいた。


 ただ、その微笑みは以前とは少し違っていた。


 最初に拘束された時の彼女は、まだ余裕をまとっていた。


 自分だけが盤面の全体を見ている。

 誰も自分の本当の手札には届かない。

 たとえ幾つかの証拠が出ても、王宮も夫人会も分家も本家も、結局は互いに疑い合う。


 そう信じている微笑みだった。


 だが、今日の微笑みは薄い。


 口元は整っている。


 背筋も伸びている。


 髪も乱れていない。


 それでも、目の奥にあったはずの静かな優越感が、少しだけ削れていた。


 デリア・ラングフォードの告白。

 ドロテア・ランズの補助簿。

 リゼット・グランの拘束。

 青い硝子石の指輪。

 西塔保管庫の名簿。

 ベルナール分家の別口帳簿。

 家令アルマン・ロベルの証言。

 病床のベルナール卿の言葉。


 ひとつずつ積み上げられた記録が、彼女の周囲に作った壁を狭めている。


 それでも、オルガは崩れない。


 崩れないことを、最後の礼儀のようにしている女だった。


 証言室には、いつもより多くの資料が置かれていた。


 机の上には、青い祈りの糸関連帳簿。

 夫人会別口資金補助簿。

 ベルナール分家別口受領帳。

 王妃名義偽書簡の鑑定記録。

 王妃儀式用祈祷布の箱から見つかった連絡者名簿。

 グレゴール公爵の証言記録。

 セレスティア公爵夫人の証言記録。

 ダリウス・モーン、ベアトリス・モーン、リゼット・グラン、ドロテア・ランズ、アルマン・ロベルの証言要約。


 紙の山だった。


 かつてなら、オルガはそれを見て笑っただろう。


 紙で人を裁けると思っているのか、と。


 だが今日は、彼女は笑わなかった。


 エレノアは机の向こうに座る。


 隣にカイン。


 記録係のオスカー。


 王家法務官補佐。


 そして立会人としてマルタ。


 リリアナはいない。


 ユリウスもいない。


 ここは、オルガと記録が向き合う場だった。


「オルガ・ベルナール」


 カインが言った。


「本日は、夫人会別口資金、青い祈りの糸、ベルナール分家への資金流入、王妃名義偽書簡、王宮布経路、ならびに王妃陛下療養薬不正への関与について再聴取を行う」


 オルガは、ゆっくりと礼をした。


「承知いたしました」


 声は穏やかだった。


 その声だけ聞けば、貴婦人の茶会が始まるようですらある。


 エレノアは、最初の資料を出した。


「まず、青い祈りの糸について確認します。発案者は夫人ですね」


「ええ。冬の子供たちのために、ささやかな支援をと思いまして」


「その活動で仕入れられた青い硝子石の指輪が、裏連絡の合図として使われていました」


「それは、後から悪用されたのでしょう」


「誰に?」


「さあ。リゼットか、ドロテアか。現場の者が勝手に考えたのでは?」


 オルガは軽く首を傾げる。


 相変わらず、直接は受けない。


 エレノアは、リゼットの証言記録を開いた。


「リゼット・グランは、青い指輪を持つ者に南回廊の布置き場を通過させる仕組みを作ったことを認めています。その上で、『奥様は青が人をつなぐと仰った』と証言しています」


 オルガは目を伏せた。


「綺麗な言葉を、悪い使い方にされるのは悲しいことですわ」


「では、西塔保管庫の白百合祈祷布から発見された連絡者名簿については?」


 エレノアは、写しを机に置いた。


 オルガの目が、ほんの一瞬だけ紙面を滑る。


「王妃陛下の祈祷布に、不正連絡者名簿が隠されていました。そこには青い指輪関係者の名と頭文字が記録されています」


「恐ろしいことですわね」


「青い糸で王妃様の私的紋章を崩した印も見つかりました」


「王妃陛下を敬愛していた誰かが、真似たのでしょう」


「夫人ではありませんか」


 問いは短かった。


 オルガは、少しだけ微笑んだ。


「私が王妃陛下の紋章を真似るなど、畏れ多いことです」


「王妃名義の偽書簡も作られています」


「私は作っておりません」


「インクはベルナール家書斎のものと一致しました」


「家のインクは、私だけが使うものではありません」


「筆跡の一部は夫人のものと共通しています」


「よく似た筆跡の者を探せば、社交界にはいくらでも」


「封蝋の模造印は、慈善衣料会の保管庫から見つかりました」


「慈善衣料会には多くの者が出入りします」


 逃げる。


 まだ逃げる。


 エレノアは、少しも苛立ちを見せなかった。


 オルガが言葉で逃げることは分かっていた。


 だから、今日は言葉では追わない。


 記録で囲む。


「では、夫人会別口資金について」


 エレノアは、ドロテアの補助簿を開いた。


「ドロテア・ランズは、青い祈りの糸の売上の一部を別口資金として管理し、夫人の指示によりリゼット、ダリウス、ジム、ミラ、ベアタらへ支出したと証言しています」


「ドロテア様は、自分の罪を軽くするために私の名を出したのでは?」


「その可能性も考慮しています。ですが、ドロテアの帳簿、リゼットの証言、アルマン・ロベルの別口受領帳、グレゴール公爵の証言が一致しています」


 オルガの指が、膝の上でわずかに動いた。


 アルマンの名が出た時だった。


「アルマン・ロベルは、ロベール・アルマン名義で夫人会別口資金を受領し、分家相続準備、王宮布経路、王妃布箱関連に使ったと記録しています。彼は、夫人が分家を立てる計画を持っていたと証言しました」


「アルマンは、家を守ることに取り憑かれておりました」


 オルガは静かに言った。


「古い家令ですもの。分家の未来を案じるあまり、勝手なことをしたのでしょう」


「ベルナール卿も、夫人が分家の未来を案じていたことは知っていたと証言しています」


 オルガの表情が、初めて明確に変わった。


 微笑みが、少しだけ消えた。


「夫に会ったのですか」


「はい」


「病人を、尋問なさったの?」


「療養に配慮した上で証言を得ました」


 オルガの目に、冷たいものが灯った。


 怒りだった。


 ここまで、彼女は自分が責められても大きく崩れなかった。


 だが、夫の名が出ると違った。


「夫は、この件には関係ありません」


「夫人とアルマンが知らせなかったからです」


「知らせる必要がなかったのです」


「なぜ?」


 エレノアが問う。


 オルガは唇を結んだ。


 その沈黙に、今日初めて本音の気配があった。


「夫は……」


 オルガは、ゆっくりと言った。


「夫は、優しい人です。体は弱く、争いを嫌い、分家が消えると分かっていても、それを受け入れてしまうような人です」


「だから、知らせなかった」


「知らせれば止めたでしょう」


「止める権利がある当主です」


「止める力のない当主です」


 オルガの声が、わずかに強くなる。


「力のない正しさに、何の意味がありますか。正しいだけでは家は残りません。優しいだけでは、誰も守れません」


 エレノアは黙って聞いた。


 オルガは、ようやく自分の言葉で話し始めている。


「ベルナール家は、ずっと本家の影でした。何をしても、ヴァレンシュタイン本家の名の下に置かれる。夫がどれほど誠実でも、病弱だというだけで軽んじられる。私がどれほど夫人会で働いても、所詮は分家夫人。誰も本気で見ない」


 微笑みは消えていた。


「でも、本家はどうでした? グレゴール公爵は家を守ると言いながら娘を駒にし、セレスティア夫人は涙で形だけ整え、王太子殿下は聞きたい言葉だけを聞く。あれほど恵まれた者たちが、ただ生まれた場所の違いだけで上にいる」


「それを正すために、王妃様を利用したのですか」


 エレノアが静かに問う。


 オルガは、目を細めた。


「王妃陛下は、強すぎました」


 その言葉に、マルタの表情が硬くなる。


 オルガは続けた。


「病床にいても、あの方は見ておられた。帳簿、基金、夫人会、王太子殿下、あなた。すべてを。あの方が生きて目を開けている限り、誰も動けませんでした」


「だから眠らせた」


「療養を深めただけです」


「その言葉も、もう何度も聞きました」


 エレノアは、王妃薬包の分析記録を置いた。


「黒眠草の量は処方記録より多く、王妃様の回復を妨げ、死期を早めた可能性が高いと裁定されています」


「私は、王妃陛下を殺す命令など出しておりません」


「殺す命令ではなく、眠らせる指示ですね」


 オルガは答えなかった。


「ダリウスは、夫人から『王妃様が起きている時間が長いと不都合』と聞いたと証言しています。王妃様が基金と薬の不審に気づき始めていたからだと」


「ダリウスは、自分の罪を軽くするために何でも言うでしょう」


「ベアトリス夫人の手帳にも、王妃様が亡くなる前に『眠らせすぎると疑われる』という会話の記録があります。相手は夫人の使者でした」


「使者が勝手に」


「リゼットの記録にも、黒眠草支払いと王宮布経路の支出が同日にあります」


「それも」


「ドロテアの補助簿にも、同じ日付でO.B.指示と記載があります」


 言葉を重ねる。


 一つずつ。


 逃げ道を塞ぐように。


 オルガは沈黙した。


 エレノアは、さらに書類を置いた。


「ベルナール分家の別口帳簿には、王妃様の療養薬調整と同時期に『療養静穏費』とあります。受領者はD.M.。ダリウス・モーンと見られます」


 オルガの目が、ゆっくりとエレノアへ戻った。


「よく、そこまで掘りましたね」


 その声には、疲れのようなものがあった。


「必要でしたので」


「王妃陛下が、あなたを選んだ理由が分かります」


「王妃様は、私を選んだのではありません」


「あら」


「王妃様は、記録が必要だと判断されました。私がたまたま、その記録を扱える位置にいたのです」


 オルガは、初めて少しだけ本当に笑った。


 皮肉ではなく、乾いた笑いだった。


「あなたは、自分が物語の中心にならないように必死ですのね」


「事実を中心にしているだけです」


「そういうところが、王妃陛下に似ています」


 その一言に、エレノアは返事をしなかった。


 似ていると言われることは、重い。


 そして今、それに揺れる場ではない。


 カインが低く問う。


「オルガ。王妃の死期が早まる可能性を認識していたか」


 真正面からの問いだった。


 証言室の空気が凍る。


 オルガは、すぐには答えなかった。


 長い沈黙。


 外の廊下で、遠く足音が過ぎていく。


 やがて彼女は、静かに言った。


「人は、いつか死にます」


 マルタが息を呑む。


 カインの表情がさらに冷える。


 エレノアは、黙ってオルガを見た。


「王妃陛下は、ご病気でした。私が何もしなくとも、長くはなかったでしょう」


「それは答えではありません」


 エレノアが言う。


 オルガは目を伏せた。


「死期が早まるかもしれないとは、思いました」


 オスカーの筆が止まりかけ、すぐに走った。


 ついに出た。


 明確な認識。


 オルガは続けた。


「でも、それが一月なのか、十日なのか、一晩なのか、私には分からなかった。私は医師ではありませんもの」


「分からなければ、してよいことにはなりません」


「分かっています」


 オルガの声は、静かだった。


「今さら、分かっていますと言うのもおかしな話ですけれど」


 エレノアは、胸の奥が重くなるのを感じた。


 彼女は認めた。


 王妃の死期が早まる可能性を、思っていたと。


 毒殺とは違う。


 だが、眠らせ、鈍らせ、見えなくさせ、その結果として命が削られることを認識していた。


 それでも進めた。


「なぜ、そこまでしたのですか」


 エレノアは問うた。


 その問いは、記録のためだけではなかった。


 どうしても聞きたかった。


 オルガは、少しだけ天井を見るように顔を上げた。


「王妃陛下は、あなたを守ろうとなさった」


「はい」


「リリアナ様を見ようともなさった。王太子殿下を立て直そうともなさった。孤児院も、薬草園も、慈善衣料会も、全部」


 オルガの声に、奇妙な敬意が混ざる。


「あの方は、弱った体で、まだ人を人として見ておられた。だから怖かった」


「怖かった?」


「ええ」


 オルガはエレノアを見た。


「人を駒にしなければ家は動かないと思っている者にとって、人を人として見る方は脅威です。王妃陛下が生きていれば、私のやり方は必ず見抜かれた」


「だから排除した」


「眠っていただいた」


「同じです」


「そうかもしれません」


 オルガは、もう言い返さなかった。


 その顔に浮かんだ微笑みは、ほとんど消えている。


 最後の薄い線だけが、口元に残っていた。


「エレノア様」


「はい」


「あなたは、私を怪物だと思いますか」


 不意の問いだった。


 エレノアは、すぐには答えなかった。


 怪物。


 そう呼べれば楽だ。


 オルガは怪物だった。

 だから王妃を眠らせ、偽書簡を作り、夫人会を使い、分家のために人を動かした。

 普通の人とは違う。


 そう言えれば、事件は分かりやすくなる。


 だが、それは違う。


「いいえ」


 エレノアは答えた。


 オルガの目が、少しだけ揺れた。


「そうですか」


「夫人は、人間です」


「それは、怪物と言われるより重いですね」


「ええ」


 エレノアは静かに続けた。


「怪物なら、他の人には関係がないと言えます。けれど夫人は人間です。恐れ、嫉妬し、家を残そうとし、夫を守ると言い、夫人会の善意を利用し、王妃様を恐れた。だから、同じことは他の誰にでも起こりえます」


 オルガは、しばらく黙っていた。


「あなたは、本当に嫌な方」


「よく言われます」


「私も言いましたね」


「はい」


「でも、今日は少し違う意味です」


 オルガは、ほんの少し微笑んだ。


 それが、最後の微笑みに見えた。


「怪物にしてくださらないのね」


「しません」


「その方が、私の罪は重くなる」


「はい」


 オルガは目を閉じた。


 長い沈黙のあと、彼女は言った。


「記録してください」


 エレノアは筆を取った。


「私は、王妃陛下の死期が早まる可能性を認識していました。明確に殺すつもりはなかった。けれど、王妃陛下が起きておられると困ると思った。眠っていただきたかった。目を閉じていていただきたかった」


 オスカーの筆が走る。


 マルタは顔を伏せていた。


 カインは表情を変えない。


 エレノアは、書き留められていく言葉を見ていた。


「青い祈りの糸は、私が考えました。最初は本当に慈善でした。いえ、そう思いたかった。けれど、途中から便利だと気づいた。下の者たちへ合図を持たせるには、善意の小物ほど都合がよかった」


 オルガの声は淡々としている。


 まるで、ようやく自分自身の帳簿を読み上げるように。


「偽書簡は、私が直接全文を書いたわけではありません。原案を作り、筆跡を似せられる者に練習させました。封蝋は私が用意しました。王妃陛下の紋章を真似ることに、最初は躊躇しました。でも、すぐに慣れました」


 マルタの肩が震えた。


 エレノアは唇を引き結ぶ。


「エレノア様を慈善院へ送る案は、グレゴール公爵の望みを形にしたものです。あの方は、あなたを恐れていました。優秀な娘を誇りながら、家の方針に従わない才を恐れていた。私は、その恐れに言葉を与えただけです」


「リリアナは?」


 エレノアが尋ねる。


 オルガは、少しだけ目を伏せた。


「リリアナ様は、扱いやすかった」


 その言葉は、ひどく冷たかった。


「可愛く、寂しがりで、褒められることに慣れていない。姉への劣等感を少し撫でれば、こちらを向く。けれど……」


「けれど?」


「あの方は、思ったより折れませんでしたね」


 エレノアは、黙って続きを待った。


「偽署名の時、最後に止まった。大裁定の間で、自分の無知を認めた。茶会で、善意が本物なら記録されても消えないと言った。私はあの方を、少し見誤りました」


「その言葉も記録します」


「どうぞ」


 オルガは、薄く笑った。


「リリアナ様には、お伝えしなくても結構ですが」


「必要なら伝えます」


「そう仰ると思いました」


 そこからさらに、オルガは語った。


 リゼットを使った経緯。

 ドロテアを会計係にした理由。

 ダリウスへ近づいた手順。

 グレゴールの焦りを煽った会話。

 セレスティアの涙を利用し、リリアナを「守るべき娘」として閉じ込めたこと。

 王太子ユリウスの自己評価の弱さをダリウス経由で突いたこと。

 王弟カインを清廉な改革者として利用し、最終的には分家を王弟派に接近させる予定だったこと。


 すべてではないかもしれない。


 まだ自分に都合よく整えている部分もあるだろう。


 それでも、これまでにない量の証言だった。


 最後に、カインが問うた。


「ベルナール分家を、最終的にどうするつもりだった」


 オルガは疲れたように息を吐いた。


「本家が崩れた後、分家が公爵家を支える形にしたかった。リリアナ様は再教育される。エレノア様は王宮側にいる。グレゴール公爵は失脚。セレスティア夫人は泣く。そこで、病弱な夫を支える健気な分家夫人が、夫人会と慈善を通じて公爵家の名誉回復に尽くす」


 彼女は、自嘲するように笑った。


「美しい物語でしょう?」


「醜い」


 カインが即答した。


 オルガは笑みを深めた。


「王弟殿下は、最後までお優しい言葉をくださいませんのね」


「必要ない」


「ええ。そうでした」


 オルガは、今度はエレノアを見た。


「エレノア様」


「はい」


「あなたは、この後どうなさいますか」


「記録を照合し、正式裁判へ送ります」


「それだけ?」


「王妃基金を改革し、夫人会を監督し、公爵家とベルナール分家の処遇を整理します」


「退屈なお仕事ですこと」


「必要な仕事です」


「ええ」


 オルガは、静かに頷いた。


「きっと、そういう退屈な仕事をする方が、最後に国を変えるのでしょうね」


 その声に、諦めのようなものがあった。


 ようやく彼女は、自分が作ろうとした劇的な物語の終わりを見たのかもしれない。


 陰謀。

 偽書簡。

 毒にも似た薬。

 青い指輪。

 家の乗っ取り。

 王宮分断。


 そのすべてが、最後には帳簿と証言と手続きに回収されていく。


 華やかではない。


 だが、確実に終わらせる。


 それがエレノアのやり方だった。


「本日の証言はここまでだ」


 カインが言った。


 オルガは立ち上がる。


 近衛が近づく前に、彼女は自ら背筋を伸ばした。


 そして、マルタへ向き直る。


「マルタ女官長」


 マルタの顔が険しくなる。


「何でしょう」


「王妃陛下に、謝罪を申し上げる資格は私にはございません」


「当然です」


 マルタの声は冷たかった。


 オルガは静かに頷いた。


「ですから、記録だけ残してください。私は、王妃陛下を恐れていました。憎んでいたのではなく、恐れていた。あの方が正しく見ておられることが、怖かったのです」


 マルタは、唇を震わせた。


 怒りをこらえているのが分かった。


「記録は残ります」


 彼女は言った。


「ですが、王妃陛下のお心には届きません」


「ええ」


 オルガは目を伏せた。


「それで十分です」


 最後に、オルガはエレノアへ向き直った。


「あなたは、王妃にはならない方がよろしいかもしれませんね」


 唐突な言葉だった。


 エレノアは眉を動かす。


「なぜですか」


「王妃になれば、人はあなたを役割に閉じ込める。正しい王妃、強い王妃、慈悲深い王妃。あなたがどれほど人であろうとしても、皆が名をつける」


 オルガは、薄く微笑む。


「あなたは、役割に閉じ込められるには、少し厄介すぎる」


 エレノアは、すぐには答えなかった。


 その言葉は、皮肉にも祝福にも聞こえなかった。


 ただ、敗れた女が最後に見た事実のようだった。


「それも記録しますか?」


 オルガが少し笑って言う。


 エレノアは静かに答えた。


「いいえ」


「あら」


「それは私への感想です。裁定記録には不要です」


 オルガは、一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから、今日一番自然に笑った。


「本当に、嫌な方」


「よく言われます」


「ええ。私も何度も言いました」


 近衛が彼女の両側に立つ。


 オルガは連れていかれる直前、もう一度だけ微笑んだ。


 それは、最初のような余裕の微笑みではなかった。


 勝者の微笑みでも、被害者の微笑みでもない。


 自分が人間として裁かれることを、ようやく受け入れた女の、薄く苦い微笑みだった。


 扉が閉まる。


 証言室に沈黙が残った。


 誰もすぐには話さなかった。


 オスカーの筆だけが、最後の行を書き終える。


 エレノアは、目の前の紙を見つめた。


 オルガ・ベルナールは認めた。


 王妃の死期が早まる可能性を認識していたこと。

 青い祈りの糸を裏連絡に転用したこと。

 偽書簡の原案と封蝋に関わったこと。

 エレノアの排除案を整えたこと。

 リリアナを扱いやすい駒として見ていたこと。

 ベルナール分家を本家崩壊後に台頭させる計画があったこと。


 完全な自白ではない。


 まだ裁判で争われる部分はある。


 だが、第一章の中心にあった霧は、ほとんど晴れた。


 カインが低く言った。


「終わりが見えてきたな」


「はい」


「だが、終わってはいない」


「はい」


 エレノアは、静かに頷いた。


「正式裁判、王妃基金改革、夫人会監督、公爵家と分家の処遇、王太子殿下の再審査、リリアナの教育。まだ多く残っています」


「あなたの休憩も残っている」


「今、それを入れますか」


「入れる」


 カインは真顔だった。


 エレノアは少しだけ息を吐いた。


「分かりました。記録を整理したら休みます」


「整理前に休め」


「殿下」


「オルガの証言はオスカーが写しを作る。あなたは倒れる前に休め」


 マルタも静かに言った。


「私も賛成です」


 エレノアは、二人を見た。


 味方が増えると、仕事が進む。


 だが、休ませようとする者も増える。


 少し困った。


 けれど、悪くない困り方だった。


「……一時間だけ」


「二時間」


 カインが即答する。


「一時間半」


「二時間」


「最近、交渉になりませんね」


「必要ない」


 エレノアは諦めた。


「分かりました。二時間休みます」


 その時、扉の外から控えめな足音がした。


 リリアナだった。


 彼女は入室許可を得てから、そっと顔を出した。


「終わったの?」


「今日の聴取は」


 エレノアが答えると、リリアナは表情を強張らせた。


「オルガ様は、何て?」


 エレノアは少し考えた。


 すべてを今話す必要はない。


 だが、隠すべきでもない。


「あなたを扱いやすいと見ていた、と証言しました」


 リリアナは、予想していたように一度目を閉じた。


「うん」


「でも、見誤ったとも言っていた」


「私を?」


「ええ」


 リリアナは、少しだけ目を開けた。


「どういう意味?」


「あなたが思ったより折れなかった、という意味だと思う」


 リリアナは、泣きそうな顔になった。


 でも、泣かなかった。


「それ、少しだけ嬉しいって思ってもいいのかな」


「いいと思うわ」


「オルガ様に褒められたいわけじゃないの。でも……私、少しは変われてるのかなって」


「変わっているわ」


 エレノアは、今度は迷わず言った。


 リリアナは、驚いたように姉を見た。


「本当に?」


「ええ」


「お姉様が、そんなにはっきり言うなんて」


「記録に基づく判断よ」


「やっぱり記録」


 リリアナは少し笑い、すぐに真剣な顔になった。


「お姉様、休む約束」


 カインが横で頷く。


「ちょうど今、説得していたところだ」


「殿下、ありがとうございます」


「礼には及ばない」


「二時間は休ませてください」


「決定済みだ」


「二人で勝手に決めないでください」


 エレノアはそう言ったが、結局立ち上がった。


 疲れている。


 それを認めることも、少しずつ必要になっている。


 証言室を出る時、エレノアは机の上の記録を一度振り返った。


 オルガの最後の微笑み。


 それは勝利ではない。


 敗北でも、完全な悔悟でもない。


 人が自分の罪をようやく名前で呼び始めた時の、苦い微笑みだった。


 王妃エレオノーラの死から始まった真実の追及は、ようやく大きな節目を迎えた。


 だが、これで終わりではない。


 罪を裁くことと、壊れたものを作り直すことは違う。


 次に待つのは、裁定ではなく再建。


 王宮も、公爵家も、夫人会も、そして姉妹も。


 記録に耐えられる形へ、少しずつ作り直さなければならない。

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