第43話 ベルナール分家の帳簿
ベルナール分家の帳簿は、最初から王宮に提出されていたわけではなかった。
提出されていたのは、表の帳簿だけだ。
領地収入。
屋敷維持費。
病弱な当主ベルナール卿の療養費。
最低限の社交費。
数件の慈善寄付。
それらは、貴族家の帳簿としては小さく、慎ましく、そして退屈なほど整っていた。
だが、ドロテア・ランズの補助簿に残されていた別名義――ロベール・アルマン。
その名が、退屈な帳簿の下に隠れていたもう一枚の顔を引きずり出した。
北翼の監査室には、夜にもかかわらず灯りがともっていた。
机の上には、ドロテアの補助簿、夫人会別口資金の写し、ヴァレンシュタイン公爵家から夫人会へ流れた寄付記録、そしてベルナール分家の表帳簿が並んでいる。
エレノアは、ロベール・アルマンの名が出る箇所を一つずつ追っていた。
銀貨四十枚。
銀貨七十五枚。
銀貨二十枚。
銀貨百二十枚。
銀貨十五枚。
金額はばらばらだ。
だが、支出日は奇妙に意味を持っていた。
王妃の病状が悪化した時期。
リリアナが王太子の茶会へ招かれる直前。
サルヴィ商会推薦状が王太子府で処理された翌月。
青い祈りの糸の販売後。
そして、偽王妃書簡が仕込まれたと見られる時期。
偶然にしては、整いすぎている。
「ロベール・アルマンという人物は実在しません」
オスカーが、別紙を持ってきた。
「王都住民記録、商会登録、夫人会協力者名簿、いずれにも該当なし。ただし、ベルナール分家の家令アルマン・ロベルという人物がいます」
「名を入れ替えたのですね」
エレノアは言った。
ロベール・アルマン。
アルマン・ロベル。
あまりに雑だ。
けれど、正式帳簿に載せない裏金の受取名なら、この程度でも通ったのだろう。
誰も本気で調べないという前提があったから。
カインは椅子に座らず、机の横で資料を読んでいた。
「アルマン・ロベルは、ベルナール家に何年仕えている」
「二十七年です」
オスカーが答える。
「当主ベルナール卿の父の代からの家令。家政、領地収入、療養費、使用人管理を一手に見ていたようです」
「オルガ夫人の指示だけで動く男か」
「分かりません。ただ、分家の家政を実質的に支えていたのは彼です」
エレノアは、表帳簿へ視線を移した。
ベルナール分家は、確かに困窮していた。
領地は小さい。
当主は病弱。
社交費を抑えても、療養費と借金返済で常に余裕がない。
それなのに、近年だけ不自然に支出が増えている。
書簡料。
外部協力者謝礼。
臨時馬車代。
社交代理費。
祈祷費。
表向きは病弱な当主の療養と信仰関連支出。
だが、ドロテアの補助簿と重ねると、別の意味が見えてくる。
「ベルナール分家は、ただオルガ夫人個人の野心に利用されたのではなく、家として動いていた可能性があります」
エレノアが言うと、カインは短く頷いた。
「だろうな」
「ただし、当主ベルナール卿がどこまで知っていたかは別です」
「病弱な夫を支える献身的な妻、か」
カインの声に皮肉が混ざる。
「その物語を、オルガは随分うまく使っていた」
エレノアは黙って頷いた。
オルガ・ベルナール。
表向きは、病弱な夫を支える慎ましい分家夫人。
だが実際には、夫人会、慈善衣料会、王太子府、公爵家、分家家令をつなぎ、王宮を揺るがす網を張っていた。
「ベルナール家へ監督官を入れますか」
エレノアが問うと、カインは答えた。
「入れる。ただし、ヴァレンシュタイン公爵家とは扱いが違う。分家は規模が小さい。逃げられるものも少ないが、燃やされれば終わる書類も多い」
「奇襲に近い形で?」
「ああ。夜明け前に動く」
「私も同行します」
カインは資料から目を上げた。
「あなたは休むと言ったのでは?」
エレノアは、一瞬だけ言葉に詰まった。
リリアナと約束したばかりだった。
休憩は取る、と。
「……夜明け前まで少し休みます」
「それは休憩ではなく仮眠だ」
「仮眠も休憩の一種です」
「リリアナ嬢が聞いたら怒るぞ」
その言い方に、エレノアは思わず黙った。
少し前なら、カインがリリアナの反応を持ち出すことなどなかった。
周囲が変わっている。
自分も、少しずつ変わらざるを得ない。
「では、三時間休みます」
「四時間」
「三時間半」
「四時間」
「……分かりました」
カインは、ようやく資料へ目を戻した。
「あなたが倒れると記録が遅れる」
「心配ではなく、記録ですか」
「心配と言えば休むのか」
「……少しは」
言ってしまってから、エレノアは自分で驚いた。
カインも、一瞬だけ目を上げた。
けれど、余計なことは言わなかった。
「では、心配もしている」
淡々とした声だった。
あまりに淡々としていたので、エレノアは返答に困った。
「……休みます」
「そうしろ」
それだけで会話は終わった。
だが、胸の奥に妙な熱が残った。
夜明け前、ベルナール分家の屋敷は霧に包まれていた。
ヴァレンシュタイン公爵邸のような威容はない。
王都貴族街の端にある、古い石造りの屋敷。
門は小さく、庭も広くはない。手入れはされているが、どこか疲れた印象がある。
病人がいる家特有の静けさ。
そして、金の流れが細い家特有の緊張。
王弟府の馬車は、夜明けの鐘が鳴る少し前に屋敷前へ止まった。
今回は大人数ではない。
カイン。
エレノア。
レナード率いる近衛数名。
王家法務官補佐。
オスカー。
財務監査官二名。
目的は、家政帳簿と裏書類の保全。
派手に踏み込めば、病床の当主を盾にされる可能性がある。
だから、静かに、しかし逃げ道は塞ぐ。
門番は寝ぼけた顔で出てきたが、王弟カインの命令書を見るなり青ざめた。
「家令アルマン・ロベルを呼べ」
カインが言うと、門番は声を震わせた。
「旦那様はご病気で、奥様も王宮に」
「家令を呼べ」
繰り返されると、門番は慌てて奥へ走った。
しばらくして現れたのは、六十前後の痩せた男だった。
白髪を後ろへ撫でつけ、古びた黒服をきっちり着ている。背は高くないが、目つきは鋭い。
アルマン・ロベル。
ベルナール分家の家令。
彼はカインを見ると、深く礼をした。
「王弟殿下。このような朝早くに、何事でございましょう」
「王家監査だ」
カインは命令書を示した。
「ベルナール分家の家政帳簿、療養費記録、夫人会関連支出、別名義ロベール・アルマンに関する記録を保全する」
アルマンの眉が、ほんのわずかに動いた。
ロベール・アルマン。
その名に反応した。
やはり、知っている。
「そのような者は、当家にはおりませんが」
「お前の名を入れ替えたものだ」
カインは容赦しなかった。
アルマンは、薄く微笑んだ。
「王弟殿下はご冗談も厳しい」
「冗談で夜明け前に来るほど暇ではない」
エレノアは、そのやり取りを聞きながら、アルマンの手元を見ていた。
右手の親指にインクの染みがある。
古い帳簿係の手だ。
しかし左手の袖口には、うっすら焦げたような跡があった。
何かを燃やしたのか。
あるいは暖炉の近くで急いで書類を扱ったのか。
「昨夜、書類を燃やしましたか」
エレノアが尋ねると、アルマンの視線が彼女へ移った。
「エレノア様」
彼は、礼儀正しく頭を下げた。
「お久しゅうございます。幼い頃、一度だけ当家へお越しになったことがございましたな」
「その話は後で結構です」
エレノアは静かに言った。
「昨夜、書類を燃やしましたか」
「病人の家では、暖炉の火を絶やしません」
「書類を燃やしましたか」
同じ問いを重ねる。
アルマンは、少しだけ目を細めた。
「古い領収書を整理いたしました」
「灰を確認します」
レナードが即座に部下へ合図する。
アルマンの顔に、初めてはっきりと緊張が走った。
「お待ちください。旦那様は病床でございます。騒ぎ立てれば」
「騒ぎ立てなければよい」
カインが言った。
「案内しろ」
ベルナール邸の中は、静かだった。
廊下には薬草の匂いが漂い、窓には厚い布が掛けられている。使用人の数は少なく、皆が不安そうに壁際へ控えていた。
アルマンは応接室へ案内しようとしたが、カインは止まらなかった。
「家政室へ」
アルマンは一瞬、黙った。
「家政室は散らかっております」
「構わない」
「帳簿は後ほど整えて」
「整える前に見る」
それで逃げ道はなくなった。
家政室は、屋敷の奥にあった。
扉を開けると、紙とインクと古い木の匂いがする。
机の上には帳簿が数冊。
棚には箱。
暖炉には、まだ灰が温かかった。
レナードが暖炉へ近づく。
灰の中には、半分焼け残った紙片があった。
オスカーが慎重に拾い上げる。
そこには、かろうじて文字が残っていた。
――R.A.受領
――青糸
――王妃布箱
――O.B.指示
十分だった。
アルマンは、顔色を変えなかった。
だが、指先だけがわずかに動いた。
「古い紙です」
「昨夜燃やしたと言いましたね」
エレノアが言う。
「古い紙を昨夜整理したのです」
「では、その古い紙にO.B.指示とある理由は?」
アルマンは黙った。
エレノアは机の帳簿へ目を移す。
表帳簿は整っている。
療養費、薬代、使用人給金、修繕費。
だが、机の横の小引き出しに鍵がかかっていた。
「この引き出しを」
アルマンは答えない。
レナードが鍵束を求める。
アルマンは渋々差し出した。
引き出しの中には、小さな帳簿が一冊入っていた。
灰色の表紙。
ドロテアの補助簿と同じ大きさ。
エレノアはそれを開いた。
ベルナール家 別口受領。
表紙裏にそう書かれていた。
受領名は、ロベール・アルマン。
だが筆跡は、明らかにアルマン・ロベル本人のものだ。
内容は簡潔だった。
夫人会別口より受領。
用途、王都連絡費。
用途、分家相続準備。
用途、療養費補填。
用途、王宮布経路。
用途、証書保管。
エレノアはページをめくりながら、息を整えた。
分家相続準備。
ついにその言葉が出た。
「アルマン・ロベル」
カインが低く言った。
「説明しろ」
アルマンは、しばらく黙っていた。
そして、静かに背筋を伸ばした。
「当家は、長く本家に軽んじられてまいりました」
その声は、先ほどより少し低い。
「ベルナール家はヴァレンシュタイン公爵家の分家でありながら、領地は痩せ、当主は病、社交ではいつも本家の影に隠れる。援助を求めれば、哀れみの言葉だけをもらう。公爵家は我々を家族とは見ておりませんでした」
「それで本家を奪おうとしたのか」
カインが問う。
アルマンは答えた。
「奪う、ではございません。正すのです」
「言葉を飾るな」
「では申し上げましょう」
アルマンの目が鋭くなる。
「本家当主グレゴール様は、家を守る器ではなかった。長女エレノア様を使い、次女リリアナ様を飾り、王太子府へしがみついた。王妃基金の担保品にまで手を伸ばした。そのような本家が崩れるなら、分家が支えるべきだと、奥様――オルガ様はお考えでした」
オルガの思想。
それを家令の口から聞くと、また違う重みがあった。
「ベルナール卿も同じ考えですか」
エレノアが尋ねると、アルマンの顔がわずかに曇った。
「旦那様はご病弱です」
「質問に答えてください」
「旦那様に、このような細かなことをお知らせする必要はございませんでした」
「つまり、知らない」
「当主をお守りするのも家令の務めです」
また、守る。
エレノアは、胸の奥でその言葉を受け止めた。
この事件では、本当に多くの人が何かを守ると言う。
だが、守るという言葉の下で、どれほどのものが歪められてきたのか。
「ベルナール卿に知らせず、家令と夫人が分家相続準備を進めたのですね」
エレノアが言うと、アルマンは沈黙した。
その沈黙が答えだった。
小さな帳簿の後ろには、さらに紙束が挟まっていた。
分家相続案。
グレゴール失脚後、ヴァレンシュタイン公爵家の本家機能を一時的にベルナール分家が補佐する。
リリアナの王太子妃候補保留を利用し、本家の名を残しつつ実務を分家が握る。
エレノアは王宮側へ取り込まれた場合、王弟派の人間として距離を置かせる。
グレゴールとセレスティアは監督下に置かれ、本家家政は分家家令団が引き継ぐ。
そこまで書かれていた。
エレノアは、思わず指を止めた。
自分が王弟派の人間として距離を置かされる。
父だけでなく、自分もまた、別の形で盤上に置かれていた。
「ずいぶん具体的ですね」
エレノアは言った。
「グレゴール公爵が失脚することを、早い段階から想定していた」
アルマンは、微かに笑った。
「本家が自ら崩れるのは、時間の問題でした」
「その崩壊を早めるために、夫人会別口資金を使った」
「我々は機会を待っただけです」
「待っただけではありません。王宮の布経路、青い指輪、偽女官、偽書簡。すべて、崩壊を早めるための行為です」
アルマンは、口を閉ざした。
カインが帳簿を見て言った。
「オルガに指示を出したのは誰だ。お前か」
アルマンは、初めてはっきりと首を振った。
「いいえ。奥様は、誰かに指示される方ではございません」
「では、お前は実務か」
「家を支える者として、必要な手配をいたしました」
「それを罪と言う」
カインの声は冷たかった。
アルマンは、静かに目を伏せた。
「王家は、強い家だけを正義と呼ぶ」
「違う」
エレノアが言った。
アルマンが彼女を見る。
「強い家だから正義なのではありません。記録に耐えられる家だけが、残る資格を持つのです」
アルマンの表情が、わずかに変わった。
その言葉は、彼にとって予想外だったのだろう。
「あなたは本家を軽蔑していた。父を器ではないと見ていた。その見方の一部は、正しいのでしょう」
エレノアは続けた。
「けれど、あなた方分家も同じです。病弱な当主を知らせないままにし、夫人と家令で家の未来を決め、慈善資金を動かし、王妃様の名を利用した。記録に耐えられません」
アルマンは、初めて少しだけ苦い顔をした。
「本家の娘が、それを言われますか」
「はい。本家の娘だから言います」
エレノアは、帳簿を閉じた。
「ヴァレンシュタイン本家も、ベルナール分家も、同じ病を抱えています。家を守るという名で、人を道具にする病です」
部屋の中が静まり返った。
カインが短く命じる。
「アルマン・ロベルを拘束。帳簿、書簡、暖炉の灰、すべて押収。ベルナール卿への聴取準備を」
レナードが動く。
アルマンは抵抗しなかった。
ただ、連れていかれる前にエレノアへ言った。
「エレノア様。あなたは本家を救うつもりですか。それとも潰すつもりですか」
エレノアは、すぐには答えなかった。
救う。
潰す。
どちらでもない気がした。
「記録に耐えられる形へ作り直すつもりです」
アルマンは、ほんのわずかに笑った。
「それは、潰すより残酷かもしれませんな」
「そうかもしれません」
エレノアは否定しなかった。
その返答に、アルマンは目を伏せ、近衛に連れられていった。
ベルナール卿の部屋へ向かう前に、エレノアは一度だけ廊下で立ち止まった。
屋敷の奥から、弱い咳が聞こえる。
病人の咳。
この家の当主は、本当に病んでいるのだろう。
そして、その病を理由に多くのことが隠されてきた。
カインが横に立つ。
「大丈夫か」
「はい」
「顔色が悪い」
「少し、嫌なものを見すぎました」
「まだ続く」
「分かっています」
ベルナール卿の寝室は、薄暗かった。
窓は半分閉じられ、薬草の匂いが濃い。
寝台には、痩せた男性が横たわっていた。
ベルナール卿。
オルガの夫。
彼は四十代半ばのはずだが、病のためずっと老けて見えた。頬はこけ、手は骨ばっている。だが、目だけはまだ澄んでいた。
彼はカインを見ると、弱々しく体を起こそうとした。
「そのままでいい」
カインが言う。
ベルナール卿は、浅く息をした。
「王弟殿下……妻が、何かしたのでしょうか」
その問いに、エレノアは胸が重くなった。
彼は、本当に知らないのか。
それとも、知らないふりをしているのか。
カインは容赦なく言った。
「あなたの妻オルガ・ベルナールは、王妃基金不正、偽女官、偽書簡、夫人会別口資金、王宮分断工作の主導者として拘束中だ」
ベルナール卿は、しばらく目を閉じた。
驚きというより、遠くから聞いていた不安が形になったような顔だった。
「そうですか」
それだけだった。
「知っていたか」
カインが問う。
ベルナール卿は、ゆっくり首を横に振った。
「詳しくは、何も。ただ……妻が焦っていたことは知っていました」
「焦っていた?」
「この家を残すことに」
彼は、苦しそうに息をした。
「私は、長くはありません。子もいない。ベルナール家は、このままでは本家に吸収され、名だけになる。妻は、それを恐れていました」
「分家相続準備については?」
「聞かされていません」
「家令アルマンが動いていた」
ベルナール卿は、薄く笑った。
「アルマンは、父の代からこの家を守ってきました。私より、この家の将来に執着していたかもしれません」
その声に、諦めがあった。
怒りは少ない。
自分の家で起きたことなのに、どこか遠い。
「あなたは、妻と家令に家を任せきりだったのですか」
エレノアが尋ねると、ベルナール卿は彼女を見た。
「エレノア様ですね」
「はい」
「あなたのことは、妻からよく聞いていました」
「どのように?」
「恐ろしいほど正しい令嬢だと」
ベルナール卿は、かすかに笑った。
「妻は、あなたを嫌っていたわけではないと思います。恐れていたのです。あなたのような人が本家にいれば、分家は永遠に出る幕がないと」
「私は分家を潰すつもりなどありませんでした」
「ええ。ですが、優秀な人の存在は、それだけで誰かの場所を奪うことがあります」
その言葉は、父や母とは違う角度から刺さった。
エレノアは答えなかった。
ベルナール卿は、続ける。
「私は病に逃げました。妻が何かしていると分かっていても、止める力がないと言い訳した。アルマンが家を動かしていると分かっていても、任せた。私もまた、知らないままにしてもらうことを選んだのです」
その告白は、静かだった。
だが、これもまた同じ構図だった。
知らないままにしてもらう。
リリアナがそうだった。
ベルナール卿もそうだった。
守られる側に置かれる者が、その位置に甘えることもある。
「正式証言をお願いすることになります」
エレノアは言った。
ベルナール卿は頷いた。
「できる限りお話しします。ただ、私の知ることは少ないでしょう」
「少なくても、必要です」
「そうでしょうね」
彼は、少しだけ窓の方を見た。
「妻に伝えていただけますか」
「内容によります」
エレノアが答えると、ベルナール卿はかすかに笑った。
「あなたらしい」
「夫人と親しいのですか」
「いいえ。妻がそう言っていました」
彼は小さく咳き込み、マルタが医師を呼ぶよう合図した。
その前に、ベルナール卿は言った。
「妻に、私は知るべきだったと伝えてください。知らないまま守られることは、守られることではなかったと」
エレノアは、静かに頷いた。
「記録します」
ベルナール卿は、目を閉じた。
「ええ。それで十分です」
ベルナール邸から王宮へ戻る頃には、朝が完全に明けていた。
押収された帳簿と書簡は、馬車一台分になった。
アルマン・ロベルは拘束。
ベルナール卿は療養下で証言準備。
屋敷は王家監督下に置かれ、使用人たちには保護証言室の案内が配られた。
エレノアは、馬車の中でベルナール家の別口帳簿を開いたまま、しばらく黙っていた。
カインが言う。
「今度こそ休め」
「王宮に戻ったら記録を」
「オスカーが写しを作る」
「確認だけ」
「食事をしてからだ」
エレノアは反論しかけたが、リリアナとの約束を思い出した。
休憩は取る。
無理しすぎない。
自分が倒れれば、また誰かが心配し、仕事も遅れる。
「分かりました。食事をしてから確認します」
カインは、少しだけ満足そうに見えた。
「よろしい」
「殿下は最近、母上やリリアナのようなことを仰いますね」
「それは不本意だ」
「私も少し不思議です」
短い会話の後、エレノアは窓の外を見た。
朝の王都は動き始めている。
市場へ向かう荷車。
店先を掃く者。
パンを運ぶ少年。
何も知らない人々の生活。
王宮の奥でどれほど帳簿が動いても、街は朝を迎える。
その普通さが、少しだけ眩しかった。
王宮に戻ると、リリアナが廊下で待っていた。
手には、小さな紙袋。
「お姉様」
「どうしたの」
「朝食を食べていないと思って」
紙袋の中には、温かいパンが入っていた。
焼きたてではないが、まだ柔らかい。
「マルタに頼んだの」
リリアナは少し照れたように言った。
「食べながら書類は読まないでね。パンにインクがつくから」
エレノアは、思わず少しだけ笑った。
「気をつけるわ」
「約束」
「約束」
カインが横で低く言った。
「監視役が増えたな」
リリアナは背筋を伸ばした。
「はい。お姉様は放っておくと休まないので」
「その通りだ」
「殿下もそう思いますよね」
「ああ」
「二人で同意しないでください」
エレノアはそう言ったが、リリアナの表情は少し誇らしげだった。
自分が姉を少しだけ支えられたことが、嬉しいのだろう。
その小さな変化を、エレノアは黙って受け取った。
監査室へ戻ると、オスカーが押収帳簿の整理を始めていた。
エレノアはパンを一口だけ食べ、リリアナに睨まれたので、もう一口食べた。
それから、ようやく記録に向かった。
――ベルナール分家家令アルマン・ロベル、ロベール・アルマン名義で夫人会別口資金を受領していたことを確認。分家相続準備、王宮布経路、王妃布箱、青糸関連の記録を押収。ベルナール卿は詳細不知を主張しつつ、妻オルガと家令アルマンに家政を任せた責任を認める方向。
筆を置く。
これで、夫人会別口資金は分家へ直接つながった。
次に必要なのは、オルガ本人への再聴取。
夫人会、分家、本家、王太子府、王妃基金。
すべての線が彼女の周囲に集まっている。
エレノアは、静かに息を吐いた。
いよいよ、オルガ・ベルナールの最後の逃げ道を塞ぐ時が近づいている。




