第42話 姉妹、初めて同じ机に座る
同じ机に座ったことは、何度もある。
幼い頃、家庭教師の授業で。
公爵家の食卓で。
母の茶会で、行儀よく並ばされた時に。
王宮へ行く前、支度部屋で並んで髪を整えられた時に。
だが、それらは「同じ机」ではあっても、同じものを見るための机ではなかった。
エレノアの前には、いつも書類があった。
教師の課題。
王妃教育の予習。
公爵家の家政記録。
王太子府へ提出する式典資料。
リリアナの前には、菓子皿や刺繍枠や、母が選んだ花の本が置かれていた。
同じ部屋にいても、見ているものが違った。
同じ家にいても、求められている役目が違った。
姉はできる子。
妹は可愛い子。
その分け方に、誰も深く疑問を持たなかった。
少なくとも、その時は。
だから、北翼の小会議室にリリアナが入ってきた時、エレノアはほんの少しだけ不思議な気持ちになった。
今日、二人は初めて、同じ机で同じ書類を見る。
王妃基金改革官の執務机ではなく、証人保護用の小会議室だった。
部屋は広すぎず、窓からは中庭の冬枯れの木が見える。机の上には、母セレスティアの証言要約、リリアナの社交界デビュー支出記録、月涙石の首飾り関連資料、そして王妃基金の基礎説明書が並んでいた。
マルタは部屋の隅に控えている。
今日は記録係としてではなく、立会人としてだ。
カインはいない。
ユリウスもいない。
父も母もいない。
姉妹と、紙と、沈黙。
それだけだった。
「座って」
エレノアが言うと、リリアナは一度だけ頷いて向かいの椅子に腰を下ろした。
以前なら、まず「怖い」と言ったかもしれない。
あるいは「お姉様、怒っている?」と聞いたかもしれない。
けれど今日のリリアナは、膝の上で手を握りながらも、机の上の書類から目を逸らさなかった。
「今日は、母の証言の全文ではなく要約を見るわ」
エレノアは言った。
「全文はまだ早いと思う。必要なら後日、段階を分けて確認できる」
「うん」
「読みながら、分からないところがあれば聞いて。途中で休みたければ言って」
「うん」
返事は短い。
だが、投げやりではなかった。
エレノアは、最初の紙をリリアナの前へ滑らせた。
「まず、月涙石の首飾りについて」
リリアナの肩が、わずかに動いた。
あの首飾り。
社交界デビューの日、彼女の胸元で輝いていた宝石。
美しくて、冷たくて、皆が見惚れた首飾り。
王太子ユリウスも、似合っていると言った。
母は涙ぐんで「本当に綺麗よ」と囁いた。
父は満足げに頷いた。
あの日、リリアナは自分が物語の主人公になったような気がしていた。
その首飾りが、孤児院修繕費の担保品だった。
雨漏りする寝室の上にあるはずだった屋根の代わりに、自分の胸元で輝いていた。
その事実は、リリアナの中でまだ処理しきれていない。
「お母様は、最初から担保品だと知っていたわけではない」
エレノアは、できるだけ淡々と説明した。
「ただ、事情のある品だとは後から知った。それでも、王宮へ報告しなかった。そして、模造品を宝物庫へ戻すことを許した」
リリアナは、ゆっくり要約を読んだ。
指が文字の上を追う。
読むのは遅い。
けれど、飛ばさない。
「『形だけ整えれば社交界は黙る』……」
リリアナが小さく読み上げた。
「アンナが言ったの?」
「ええ。お母様は、それを受け入れた」
「形だけ整える……」
リリアナは、その言葉を何度も口の中で転がすようにした。
「私、ずっと形を整えてもらっていたのね」
エレノアは黙っていた。
リリアナは続けた。
「ドレスも、髪も、笑い方も、泣き方も。殿下の前で何を言えば可愛く見えるかも。全部、形を整えてもらっていた」
「あなたが望んだ部分もあるでしょう」
「うん」
リリアナは、すぐに頷いた。
以前なら、そこで「違う、私は何も知らなかった」と言ったかもしれない。
でも、今は違った。
「私、整えてもらうのが好きだった。だって、そうすれば失敗しないし、みんなが可愛いって言ってくれるから」
その告白は、痛々しいほど素直だった。
「でも、形だけ整っていても、中身を知らなかったら……誰かに動かされるだけなのね」
「そうね」
「お母様も、形を守ろうとしたのかな」
「公爵夫人としての体面と、あなたの社交界での立場を守ろうとしたのだと思う」
「私を守るため、って言った?」
「ええ」
リリアナは目を伏せた。
「それ、ずるいね」
意外な言葉だった。
エレノアが黙っていると、リリアナは少しだけ顔を歪めた。
「守るためって言われると、怒れなくなる。お母様は私を愛してくれていたんだから、悪く言っちゃいけないって思う。でも、私、やっぱり怒ってる」
「怒っていいわ」
「いいの?」
「ええ」
「お母様に?」
「ええ」
リリアナは、唇を震わせた。
泣きそうになった。
でも、涙を落とす前に息を吸った。
「私、お母様に怒ってる。何も教えてくれなかったこと。可愛いって言って、私を何もできない子のままにしたこと。お姉様のことを冷たい子みたいに言って、私がそれを信じるようにしたこと」
言葉が途切れる。
マルタが水を差し出そうとしたが、リリアナは首を横に振った。
自分で続けた。
「でも、嫌いにはなれない」
「それもいいわ」
「いいの?」
「すぐに一つの答えにしなくていい」
「……記録みたいに?」
「ええ。今は、怒りも好きな気持ちも、両方置いておけばいい」
リリアナは、少しだけ笑った。
悲しい笑いだった。
「お姉様の考え方って、最近ちょっと便利」
「ようやく分かった?」
「ちょっとだけね」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
以前なら、この程度の軽口もなかった。
リリアナは姉を怖がり、エレノアは妹を面倒な存在として距離を置いていた。
今も、その距離は完全には消えていない。
けれど、同じ机を挟んで言葉が届くようにはなっている。
エレノアは、次の書類を出した。
「次は、あなたの社交界デビュー支出」
リリアナは、少しだけ身を固くした。
「うん」
「通常の公爵令嬢のデビュー支出と比べて、約三倍。衣装、宝飾、楽団、花装飾、招待状、夫人会への謝礼。すべてが大きく膨らんでいる」
「私、そんなにお金を使ったの?」
「あなたが直接命じたわけではない。でも、あなたを目立たせるために使われた」
リリアナは、紙の数字を見た。
銀貨の額。
項目。
支払先。
そこに並ぶ数字は、彼女の記憶の中の美しい夜とは別の顔をしていた。
「この楽団……覚えてる。すごく綺麗な曲を弾いてくれた」
「ええ」
「この花も。白と桃色で、お母様が私に似合うって」
「そうね」
「この招待状……金の縁取りだった。私、嬉しかった」
「それも記録として大事よ」
リリアナは顔を上げた。
「嬉しかったことも?」
「ええ。あなたがその支出によって何を受け取ったのかも、事実だから」
「でも、それって悪いことみたい」
「嬉しかったこと自体は悪ではないわ」
エレノアはゆっくり言った。
「問題は、その嬉しさの裏で何が動いていたかを知らなかったこと。そして、周囲が知らせなかったこと」
リリアナは、もう一度数字へ目を落とした。
「私、知らないまま喜んでいたのね」
「ええ」
「それが一番恥ずかしい」
小さな声だった。
エレノアは、その恥ずかしさを否定しなかった。
否定してしまえば、リリアナはまた自分の責任を置き場所を失う。
恥ずかしいと思うことも、必要な過程だった。
「恥ずかしいなら、次に同じことが起きた時に確認できる」
「確認……」
リリアナは苦笑した。
「本当に、全部そこに戻るのね」
「便利でしょう」
「うん。ちょっと腹立つけど、便利」
リリアナは、支出記録の端に小さく書き込んだ。
――嬉しかった。でも知らなかった。次は確認する。
その文字を見て、エレノアは胸の奥が少しだけ詰まった。
リリアナは、少しずつ自分の言葉を持ち始めている。
まだ危うい。
すぐ揺れる。
褒められれば嬉しくなり、責められれば泣きそうになる。
それでも、書いている。
自分の手で。
次の書類は、母セレスティアの証言要約だった。
リリアナは読み始めてすぐ、動きを止めた。
そこには、母の言葉があった。
――リリアナは繊細で、守らなければならない娘だった。
――難しいことを知らせれば傷つくと思った。
――エレノアは強い子だったので、任せても大丈夫だと思っていた。
――リリアナが王太子殿下に選ばれた時、自分が守ってきた可愛い娘が報われたように感じた。
リリアナの目に涙が浮かんだ。
「お母様……」
声がかすれる。
エレノアは、何も言わなかった。
リリアナは、ゆっくり続きを読んだ。
――エレノアに対し、優秀な娘として頼る一方、母として劣等感を抱いていた。
――リリアナを可愛い娘として守ることで、自身の母としての役目を保とうとした可能性を認める。
リリアナは、そこで紙から目を離した。
「お母様も、怖かったの?」
「そう話していたわ」
「公爵夫人なのに?」
「公爵夫人だから、怖かったのかもしれない」
リリアナは、涙を拭わなかった。
頬に一筋、涙が落ちる。
「みんな怖かったのね」
エレノアは静かに頷いた。
「父上も、家を失うのが怖かった。母上も、役目を失うのが怖かった。ベアトリス夫人も、家を失うのが怖かった。ドロテア夫人も、居場所を失うのが怖かった。ミラも、仕事を失うのが怖かった。ベアタも、妹を失うのが怖かった」
「お姉様も?」
リリアナが尋ねた。
エレノアは、少しだけ間を置いた。
「私も、怖かった」
「何が?」
「役に立たなくなること。正しくできなくなること。誰にも必要とされなくなること」
言ってから、エレノアは自分でも少し驚いた。
こんなことを妹に話すつもりはなかった。
マルタが、部屋の隅で静かに目を伏せている。
リリアナは、姉を見つめた。
「お姉様でも、そんなこと思うの?」
「思うわ」
「お姉様は、何でもできるから怖くないんだと思ってた」
「できるから怖くない、ということはないわ。できると思われているから、失敗できなくなる」
リリアナは、しばらく黙った。
その沈黙は、今までより深かった。
姉を初めて、ただ強い人としてではなく、一人の人間として見ようとしている沈黙だった。
「私、お姉様に甘えてた」
ぽつりと言った。
エレノアは答えない。
リリアナは続ける。
「お姉様が全部できるから、私ができなくてもいいと思ってた。お姉様が冷たいから、私は優しい方でいられると思ってた。お姉様が正しいから、私は可愛い方でいればいいと思ってた」
言葉を重ねるほど、リリアナの声は震えた。
「それ、ひどいね」
「そうね」
エレノアは、柔らかくしすぎずに答えた。
リリアナは少しだけ笑った。
「否定してくれないのね」
「否定した方がいい?」
「ううん。たぶん、しない方がいい」
リリアナは、証言要約の端にまた書き込んだ。
――お姉様に甘えていた。冷たい姉にしていた。
その文字を見て、エレノアは思わず言った。
「そこまで書かなくても」
「書く」
珍しく、リリアナがはっきり言った。
「書かないと、私また忘れるから」
その言葉は、エレノアの胸に静かに落ちた。
リリアナは、自分の弱さを自分で記録しようとしている。
それは、王妃教育のどんな課題よりも難しいことだった。
昼前になり、一度休憩を挟んだ。
マルタが茶を淹れ、軽い焼き菓子を置く。
リリアナは菓子を一つ手に取ったが、すぐに皿へ戻した。
「食べていいのか分からなくなった」
エレノアが首を傾げる。
「なぜ?」
「こういうお菓子も、誰かのお金で出てるのかなって」
その心配は少し行きすぎだった。
だが、笑えなかった。
リリアナにとっては、今まで当たり前だったものすべてが、急に足元から怪しく見え始めているのだろう。
「これは王宮の通常経費よ。マルタが用意したもので、怪しい別口資金ではないわ」
マルタが穏やかに頷く。
「ご安心ください。材料も帳簿にございます」
リリアナは、ほっとしたように菓子を取った。
「帳簿があると安心する日が来るなんて思わなかった」
「良いことです」
マルタが微笑む。
リリアナは小さくかじり、少しだけ目を細めた。
「おいしい」
「それも記録する?」
エレノアが言うと、リリアナは慌てて首を振った。
「しなくていい!」
少しだけ笑いが生まれた。
それは薄く、すぐに消えるものだったが、確かにそこにあった。
午後は、王妃基金の基礎説明書を一緒に読んだ。
リリアナは何度も質問した。
「担保って、つまり一時的に預けるもの?」
「そう。返済や支出確認の保証として扱うもの」
「じゃあ、勝手に社交界デビューで使ったら駄目に決まってるわね」
「ええ」
「署名って、名前を書くだけじゃないのね」
「責任を引き受ける印よ」
「……私、練習みたいに書こうとしてた」
「だから問題だった」
「うん。今なら分かる。怖いくらい分かる」
時々、リリアナは頭を抱えた。
時々、悔しそうに唇を噛んだ。
それでも、席を立たなかった。
夕方近くになった頃、リリアナがぽつりと言った。
「お姉様」
「何?」
「私、勉強が嫌いだったんじゃなくて、分からないって言うのが怖かったのかも」
エレノアは、筆を止めた。
「どうしてそう思ったの?」
「公爵家の娘なのに分からないの? お姉様はすぐ分かったのに? って思われるのが嫌で。だから、最初から興味ないふりをしてたのかもしれない」
それは、大きな気づきだった。
リリアナにとっても。
エレノアにとっても。
「これからは、分からないと言えばいいわ」
「お姉様、怒らない?」
「内容による」
「そこは怒らないって言ってほしかった」
「嘘はよくないわ」
「知ってた」
リリアナは苦笑した。
それから、少しだけ真剣な顔になった。
「でも、怒られても聞く。もう分からないまま、誰かに可愛いって言われるだけなのは嫌」
「それなら、明日から基礎帳簿の読み方も始めましょう」
リリアナは固まった。
「明日から?」
「ええ」
「今日、感動的な話をした流れで?」
「感動で帳簿は読めるようにならないわ」
「お姉様、そういうところ!」
声は抗議していたが、リリアナは逃げるとは言わなかった。
ただ、ため息をついて手帳に書いた。
――明日から帳簿。
その横に、小さく「怖い」と書く。
さらにその隣に、「でもやる」と書いた。
エレノアは、それを見て何も言わなかった。
言えば、リリアナは恥ずかしがって消してしまうかもしれない。
そのまま残す方がいい。
日が傾き始めた頃、二人は最後の紙に向き合った。
それは、リリアナ自身が書くための空白の記録用紙だった。
題は、エレノアが上に書いていた。
――私が知らなかったこと、これから知ること。
リリアナは、その題を見て長く黙った。
「これ、私が書くの?」
「ええ」
「何を書けばいいの?」
「今日読んだ中で、自分が知らなかったこと。これから確認したいこと。母上や父上にいつか聞きたいこと。自分で学びたいこと」
「多すぎる」
「全部書かなくていい。今日は三つだけ」
リリアナは、少し考えた。
そして、ゆっくり書き始めた。
一つ目。
――月涙石の首飾りが、孤児院の屋根のための担保だったことを知らなかった。次から宝飾品を受け取る時は、出所を確認する。
二つ目。
――署名は名前を書くことではなく、責任を持つことだと知った。分からない書類には署名しない。
三つ目。
リリアナの筆が止まる。
長い沈黙。
やがて、彼女は少し震える字で書いた。
――私は、お母様に守られていたけれど、閉じ込められてもいた。これからは、守られるだけではなく、自分で知りたい。
書き終えた瞬間、リリアナは泣いた。
声を上げずに。
ただ、ぽろぽろと涙を落とした。
エレノアは、ハンカチを差し出した。
リリアナは受け取ったが、顔を隠す前に言った。
「お姉様」
「何?」
「私、まだお姉様に謝ることが多すぎる」
「ええ」
「今、全部謝っても、たぶん軽くなるだけだよね」
「そう思う」
「じゃあ、今は一つだけ」
リリアナは、涙を拭った。
「私、お姉様を冷たい人にして、ごめんなさい」
エレノアは、すぐには答えられなかった。
その謝罪は、婚約者を奪ったことへの謝罪ではなかった。
偽署名未遂への謝罪でもない。
もっと奥にあるものだった。
姉を、自分が可愛い妹でいるための冷たい相手にしていたこと。
それに気づいた謝罪だった。
「受け取ります」
エレノアは静かに言った。
「許すかどうかは、まだ別だけれど」
リリアナは、小さく頷いた。
「うん。それでいい」
その返事に、エレノアは少しだけ胸が詰まった。
リリアナは、許しを急がなくなっている。
それは、謝罪よりも大きな変化だった。
マルタが、部屋の隅でそっと目元を押さえていた。
エレノアは見なかったことにした。
これも記録しない方がいいことだろう。
夕暮れの光が、机の上の書類を淡く染めた。
同じ机。
同じ紙。
同じ痛みではない。
姉妹が背負うものは違う。
けれど、初めて二人は同じ方向を見ていた。
父をすぐ許すことはできない。
母ともすぐ会えない。
王太子とのことも、公爵家のことも、王妃基金のことも、まだ終わっていない。
それでも、今日この机で一つだけ変わった。
姉は冷たいだけの姉ではなくなり、妹は可愛いだけの妹ではなくなった。
互いに、少しだけ人間になった。
リリアナは、最後に自分の記録用紙を丁寧に畳んだ。
「これ、持っていてもいい?」
「写しを取ってからなら」
「やっぱり記録なのね」
「大事な記録よ」
「うん」
リリアナは、少しだけ笑った。
「なら、写しを取ってください。私、原本を持っていたい」
「分かったわ」
エレノアは頷いた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
オスカーが入ってくる。
「エレノア様。王弟殿下より、緊急の報告です」
穏やかな空気が、一瞬で仕事のものに戻る。
「何ですか」
「ドロテア・ランズの帳簿から、ベルナール分家への送金記録が追加で見つかりました。名義はベルナール卿ではなく、別名義です」
「別名義?」
「はい。受取人名は、ロベール・アルマン。ですが、筆跡と印章から、ベルナール分家の家令が使っていた偽名の可能性が高いと」
リリアナが息を呑む。
エレノアは立ち上がった。
「つまり、夫人会別口資金が分家へ直接流れていた」
「その疑いがあります」
いよいよ、分家ベルナール本体へ線が伸びた。
オルガ個人ではなく、分家の家政へ。
エレノアはリリアナを見る。
「今日はここまで。あなたは休んで」
リリアナは、少し迷ってから頷いた。
「うん。私、今日はたぶん頭がいっぱい」
「それでいいわ」
「お姉様」
「何?」
「無理しすぎないで」
その言葉は、少しぎこちなかった。
だが、リリアナが初めて姉に向けて言った気遣いだった。
エレノアは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
そして、静かに答えた。
「気をつけます」
「それ、本当に気をつける人の返事?」
「努力します」
「それも怪しい」
リリアナは、少しだけ眉を寄せた。
エレノアは小さく息を吐いた。
「休憩は取るわ」
「約束?」
「約束」
リリアナは、ようやく納得したように頷いた。
エレノアは書類をまとめ、部屋を出た。
廊下を歩きながら、胸の中に不思議な温かさと重さが同時に残っていた。
姉妹の机は、まだ和解の場所ではない。
だが、逃げずに同じ紙を見た場所だった。
そしてその小さな変化を抱えたまま、エレノアは次の戦いへ向かう。
ベルナール分家。
オルガの背後にある、もう一つの家。
青い祈りの糸と夫人会資金が、そこへ流れていたなら。
この事件は、いよいよ最後の本丸へ近づいている。




