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第41話 母セレスティア、涙の証言

 セレスティア・ヴァレンシュタイン公爵夫人は、泣くことが上手な人だった。


 それは、エレノアが子供の頃から知っていた。


 激しく泣き崩れるのではない。


 声を荒げるのでもない。


 目元を赤くし、ハンカチでそっと涙を押さえ、相手に「これ以上責めてはいけない」と思わせるように泣く。


 貴婦人として、妻として、母として。


 彼女は涙を、弱さとしてではなく、言葉の代わりとして使ってきた。


 父グレゴールが怒鳴る時、母は泣いた。

 リリアナが我がままを通したい時、母は「この子はまだ幼いのです」と涙ぐんだ。

 エレノアが正論を述べすぎた時、母は悲しそうに目を伏せた。


 そのたびに、場の空気は変わった。


 理屈より、涙が優先される。


 そういう家だった。


 だからこそ、今日の証言室で母と向き合うことは、父と向き合う時とは別の難しさがあった。


 父は権威で押す。


 母は涙で包む。


 どちらも、人を黙らせる力を持っている。


 北翼の証言室には、朝から重い空気が漂っていた。


 机の向こうには、セレスティア。


 淡い藤色のドレスに、黒いレースの肩掛け。喪の色を意識しているのだろうが、完全な黒ではない。顔色は悪く、目元には昨夜泣いた跡がある。


 隣には侍女アンナの証言記録。


 机の上には、月涙石代替首飾りの模造品の絵図、宝物庫係の証言、夫人会茶会記録、リリアナの社交界デビュー支出記録、孤児院修繕費差し戻し記録が並んでいる。


 同席者は、カイン、エレノア、マルタ、オスカー、王家法務官補佐。


 リリアナは別室にいる。


 母の証言は聞かせるべきか、最後まで迷った。


 リリアナ本人は聞くと言った。


 だが、今回ばかりはエレノアが止めた。


 母の涙は、今のリリアナにはまだ強すぎる。


 直接見れば、彼女はまた「私が悪い子だからお母様を泣かせた」と思うかもしれない。


 だから今日は、まず記録を作る。


 リリアナには、あとでマルタ同席のもと説明する。


 それが、エレノアの判断だった。


「始める」


 カインが言った。


 セレスティアは、俯いたままハンカチを握っている。


「セレスティア・ヴァレンシュタイン公爵夫人。月涙石の首飾り、ならびにその代替品、リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢の社交界デビュー支出、公爵家宝物庫への模造品持ち込みについて確認する」


 セレスティアは、目を潤ませて顔を上げた。


「王弟殿下。私は、ただ娘を守りたかっただけでございます」


 最初の言葉が、それだった。


 予想通りだった。


 エレノアは、胸の中で小さく息を吐いた。


 母は、まず守るという言葉を使う。


 自分の行動を母性愛の中に包む。


 それは本心でもあるのだろう。


 だが、本心だからといって正しいとは限らない。


「その点も含めて確認します」


 エレノアは静かに言った。


 セレスティアの視線が娘へ向く。


「エレノア……あなたが私を問うのね」


「はい」


「母を?」


「関係者としてです」


「あなたは、本当に変わってしまった」


 セレスティアは震える声で言った。


「昔は、もっと優しい子だったわ。小さな頃は、私の膝に乗って、花の刺繍を見て笑っていたのに」


 古い記憶が、唐突に差し込まれる。


 母の膝。

 刺繍枠。

 淡い花糸。

 柔らかな香水。


 エレノアの胸が、かすかに痛んだ。


 母が嘘を言っているわけではない。


 そんな時間も確かにあった。


 だが、それを今ここで出す意味も分かっている。


 娘に戻れ。


 母を責めるな。


 そういう呼びかけだ。


「その記憶は、今回の確認事項には関係ありません」


 エレノアは答えた。


 セレスティアの目から涙がこぼれた。


「関係ない……母娘の思い出が、関係ないと言うの?」


「母娘の思い出はあります。ですが、証拠隠しの有無とは別です」


 マルタの視線が、静かにエレノアへ向いた。


 痛い言葉だった。


 だが、必要な線だった。


 セレスティアはハンカチで涙を押さえた。


「分かりました。あなたがそうまで言うなら、何でもお聞きなさい」


 その声には、傷ついた母の響きがあった。


 けれど、エレノアは質問を始めた。


「月涙石代替首飾りについて。宝物庫係は、お母様の侍女アンナが模造品を持ち込んだと証言しています。アンナは、お母様に『形だけ整えれば社交界は黙る』と進言したと述べました。お母様はそれを承認しましたか」


 セレスティアは、一瞬だけ沈黙した。


「……承認というほどのものではありません」


「では、何ですか」


「相談されたのです。リリアナの社交界デビューで使った首飾りについて、妙な噂が流れるかもしれないと。アンナが、似たものを宝物庫へ戻しておけば混乱を避けられると言いました」


「それを許したのですね」


「混乱を避けるためです」


「許したのですね」


 同じ問いを繰り返す。


 セレスティアは唇を震わせた。


「……はい」


 オスカーの筆が走る。


 エレノアは次の資料を出した。


「月涙石の首飾りが王妃基金担保品であることを、いつ知りましたか」


「後からです」


「後とは?」


「リリアナの社交界デビューの後です。グレゴール様が、少し事情のある品だと」


「その時、孤児院修繕費の担保であることは?」


「知りませんでした」


「確認しましたか」


「夫が問題ないと言ったのです」


「確認しましたか」


 セレスティアは、また涙を浮かべた。


「あなたは、私に何を求めるの? 夫が問題ないと言ったのよ。公爵である夫が、家の当主である夫が。妻がそれ以上疑えば、夫婦の信頼はどうなるの?」


「夫婦の信頼と、担保品の出所確認は別です」


「別ではないわ。家では、夫を信じることが妻の務めです」


 セレスティアの声に、初めて強さが混ざった。


 それは、彼女が長年自分に言い聞かせてきた言葉のようだった。


 妻の務め。


 母の愛。


 家の体面。


 その言葉の下で、どれほどの確認が省かれたのか。


 エレノアは静かに言った。


「その務めが、記録を歪めました」


 セレスティアの顔がこわばる。


「あなたは、母にそこまで言うの」


「はい」


「ひどい子」


 涙がこぼれる。


「ひどい子になってしまったのね、エレノア」


 その言葉は、柔らかい刃だった。


 幼い頃なら、きっと傷ついた。


 今も、傷つかないわけではない。


 だが、エレノアはその痛みを、紙の上へ置くようにして受け止めた。


「お母様」


 声を低くした。


「私をひどい子だと仰ることは、証言の答えではありません」


 セレスティアは息を呑んだ。


「月涙石の首飾りが担保品である可能性を知った後、お母様は王宮へ報告しませんでした。さらに、模造品を宝物庫へ戻そうとしました。これは、リリアナを守るためであっても、証拠隠しにあたります」


「リリアナを守るためなら、母は何でもするわ」


「それが問題です」


 エレノアは即答した。


 セレスティアの表情が、初めて本当に崩れた。


「何でもする母が、なぜ問題なの」


「守る相手を、何も知らないままにするからです」


 証言室が静まった。


 エレノアは続ける。


「お母様は、リリアナを守ると言いながら、リリアナに何も知らせませんでした。王太子妃候補の責任も、署名の意味も、王妃基金のことも、首飾りの出所も、父上の資金工作も」


「だって、あの子には難しすぎるわ」


「難しいから、教えるべきでした」


「リリアナは繊細なのよ!」


「繊細だから、嘘と隠し事の上に立たせてよい理由にはなりません」


 セレスティアは、両手でハンカチを握りしめた。


 涙は流れている。


 けれど、今度はただ悲しいだけの涙ではなかった。


 怒り、恐怖、混乱。


 自分が母としてしてきたことを否定される苦しみ。


「あなたは、リリアナを知らないのよ」


 セレスティアは震える声で言った。


「あの子は小さい頃から甘えん坊で、少し叱られただけで泣いて。あなたのように強くないの。だから私が守らなければ」


「リリアナは、大裁定の間で証言しました」


「それは、あなたが言わせたのでしょう」


「違います」


「違わないわ。あの子はあなたに怯えているのよ。あなたが正しすぎるから、逆らえないだけ」


 母は、まだ見ていない。


 リリアナが自分の言葉で立ったことを。


 父に問いを投げたことを。


 ネルの説明書を書き直したことを。


 怖がりながら、少しずつ自分の責任を見ようとしていることを。


 母は、まだリリアナを「守られる娘」のままにしている。


 エレノアは、そのことに強い痛みを覚えた。


「では、お母様」


 エレノアは一枚の紙を出した。


「これは、リリアナ本人の記録です」


 セレスティアの動きが止まる。


「リリアナが、青い祈りの糸の茶会について整理したものです。覚えていること、感じたこと、今考えると疑わしいこと、確認が必要なこと。欄を分けて書いています」


 紙を机の上に置く。


 セレスティアは、おそるおそる目を落とした。


 そこには、リリアナの少し拙い文字が並んでいる。


 ――オルガ様は指輪を「祈りを手元に残すもの」と言った。

 ――その時は素敵だと思った。

 ――今は合図だったかもしれないと思う。

 ――お母様は指輪より、オルガ様とお父様の話を気にしていた。

 ――私は自分が可愛いと言われて嬉しくて、周りをあまり見ていなかった。

 ――でも、侍女たちが別室へ呼ばれていた気がする。確認が必要。


 セレスティアの目が、大きく開いた。


「これを……リリアナが?」


「はい」


「そんな……あの子が、こんなふうに」


「書けます」


 エレノアは言った。


「完璧ではありません。まだ混乱もあります。でも、リリアナはもう、何も知らない娘ではいようとしていません」


 セレスティアの涙が、また落ちた。


 だが、その涙は先ほどまでと少し違った。


 自分の知らないところで娘が変わっていたことへの衝撃。


 あるいは、娘を小さなまま見ていた自分への動揺。


「私は……あの子を守っていたのに」


「はい」


 エレノアは否定しなかった。


 セレスティアが顔を上げる。


「否定しないの?」


「お母様がリリアナを愛していたことは、否定しません」


 その言葉に、セレスティアの目が揺れた。


「ですが、愛していたことと、正しく守れていたことは別です」


 静かな言葉だった。


 セレスティアは、何も言えなくなった。


 エレノアは、さらに資料を出した。


「リリアナの社交界デビュー支出について確認します」


 セレスティアは力なく頷いた。


 もう、先ほどのように涙で遮る勢いはない。


「デビュー支出は通常の三倍近い額になっています。衣装、宝飾、招待状、楽団、花装飾、夫人会への謝礼。支出の一部が夫人会別口資金へ流れています」


「私は、詳しい金額までは」


「デビューの規模を決めたのは、お母様ですね」


「はい」


「リリアナを目立たせるため?」


「そうです」


 セレスティアは、かすれた声で答えた。


「エレノアが王太子妃候補から外れた後、社交界は見ていました。公爵家の娘が交代する。リリアナは姉の代わりなのか、姉より劣るのか。そう見られるのが怖かった。だから、華やかにしたかったのです」


「リリアナのために?」


「ええ。あの子が笑われないように」


「公爵家のためでもありますね」


 セレスティアは、沈黙した。


「はい」


 小さな答えだった。


「私は、公爵夫人です。公爵家の体面を守ることも、私の役目でした」


「その体面のために、孤児院の屋根の担保品を使いました」


「知らなかったのです」


「知らないまま、使いました」


 セレスティアは目を閉じた。


「……はい」


 オスカーの筆が走る。


 その音が、部屋にやけに大きく響いた。


 セレスティアは、しばらくその音を聞いていた。


 そして、ぽつりと言った。


「記録されるのは、怖いわね」


 エレノアは答えた。


「はい」


「あなたは、ずっと怖くなかったの?」


「怖かったです」


 その返答に、セレスティアは驚いたように顔を上げた。


「あなたが?」


「はい」


「そうは見えなかった」


「見せませんでした」


「どうして」


「見せれば、務めができないと思っていたからです」


 セレスティアは、娘を見つめた。


 母として、初めてエレノアの怖さに気づいたような顔だった。


 エレノアは淡々と続けた。


「王太子妃教育も、王妃基金の補佐も、家の実務も。怖くても、疲れても、できないと言えば迷惑がかかると思っていました」


「あなたは、できる子だったから」


「できる子でいなければならなかったのです」


 セレスティアの顔が、さらに歪んだ。


 それは責められた痛みだけではなかった。


 思い当たるものがあったのだろう。


 エレノアが失敗しないことに、母は甘えていた。


 リリアナが泣くことには敏感だったが、エレノアが黙ることには鈍かった。


「私は……あなたを、強い子だと思っていたの」


「そうでしょうね」


「違ったの?」


「強く見えるようにしていただけです」


 セレスティアは、ハンカチを握ったまま俯いた。


 長い沈黙。


 その沈黙の中に、ようやく母の涙ではなく、母自身の理解が少し混ざった気がした。


「エレノア」


「はい」


「私は、あなたにも悪い母だったのね」


 その言葉に、エレノアはすぐには答えなかった。


 ここで「そんなことありません」と言えば、すべてが元に戻る。


 母は泣き、娘は慰める。


 そして記録は曖昧になる。


 だから、エレノアは言った。


「良い母だった時間もあります」


 セレスティアの肩が震える。


「ですが、悪い母だった時間もあります」


 涙が、また母の頬を伝った。


 けれど今度は、エレノアを黙らせる涙ではなかった。


 ただ、自分の痛みを受け止めきれずに流れる涙だった。


「そう」


 セレスティアは、かすかに頷いた。


「そうなのね」


 証言は、その後も続いた。


 セレスティアは、月涙石代替首飾りの件について、アンナの進言を受け入れたことを認めた。


 リリアナの社交界デビュー支出を過剰にしたことも認めた。


 夫人会への謝礼金については、詳細を知らなかったが、支出規模が通常より大きいことは知っていた。


 オルガ・ベルナール夫人から、リリアナは「柔らかな王妃向き」と褒められ、エレノアは「強すぎる」と言われていたことも認めた。


 その言葉を聞いて安心したことも。


 エレノアよりリリアナが選ばれる理由を得たように感じたことも。


 涙混じりに、しかし少しずつ、母は話した。


「私は、エレノアに負けたくなかったのかもしれません」


 途中で、セレスティアはそう言った。


 エレノアは目を上げた。


「私に?」


「ええ。あなたは、私よりずっと実務ができた。王妃陛下にも信頼されて、公爵家の帳簿も読めて、グレゴール様もあなたの能力を頼っていた。私は、公爵夫人なのに、あなたの方が家の役に立っているように見えた」


 セレスティアは、弱々しく笑った。


「だから、リリアナが王太子殿下に選ばれた時、少しだけ救われたの。私が守ってきた可愛い娘が、あなたとは違う形で認められた気がして」


 それは、醜い告白だった。


 母が娘に嫉妬していた。


 優秀な長女に対して、自分の居場所を奪われるような感覚を持っていた。


 そして、可愛い次女が選ばれることで、自分まで報われる気がした。


 エレノアは、その言葉を静かに聞いた。


 怒りはあった。


 だが、不思議と驚きは少なかった。


 どこかで、知っていたのかもしれない。


「それも記録します」


 エレノアが言うと、セレスティアは頷いた。


「ええ」


 その返事は、諦めではなく、受け入れに近かった。


 やがて、証言は終わった。


 セレスティアは正式裁判までは公爵邸内で監督下に置かれることになった。


 外出、書簡、面会は制限される。


 侍女アンナも別途審査対象となる。


 部屋を出る前、セレスティアはエレノアを呼び止めた。


「エレノア」


「はい」


「リリアナに……」


 そこで言葉が止まる。


 何を言うのか。


 謝りたいのか。

 会わせてほしいのか。

 泣いていると伝えてほしいのか。


 セレスティアは、しばらく迷った末に言った。


「すぐに会いたいとは言わないわ」


 エレノアは、少しだけ目を見開いた。


 母にしては珍しい言葉だった。


「でも、いつか話す機会があるなら、私はあの子を何も知らないままでいさせたことを謝りたい」


「記録しておきます」


 セレスティアは、わずかに笑った。


 涙に濡れた顔で。


「あなたらしいわ」


「はい」


「エレノア」


「何でしょう」


「あなたにも、いつか謝りたい」


 エレノアは、すぐには答えられなかった。


 今、謝られたくはなかった。


 謝罪は、時に早すぎると、相手の心を軽くするためだけのものになる。


 母もそれを少し理解したのだろう。


 だから「いつか」と言った。


「その時が来たら、聞きます」


 エレノアは答えた。


 セレスティアは、静かに頷いた。


「ええ」


 母は近衛に付き添われ、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 エレノアは、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。


 カインも、マルタも、誰もすぐには声をかけなかった。


 やがて、マルタが静かに言った。


「お疲れさまでした」


 その一言で、エレノアはようやく息を吐いた。


「疲れました」


 カインが、少しだけ眉を動かした。


「正直でよろしい」


「殿下は、そう言えばいいと思っていませんか」


「少し思っている」


 その返事に、エレノアは小さく笑いそうになったが、笑えなかった。


 胸の中が重すぎた。


 別室で待っていたリリアナには、夕方、マルタ同席のもとで証言の要点だけが伝えられた。


 母が模造首飾りの件を認めたこと。

 リリアナを守るためと言ったこと。

 しかし、何も知らせずに守ろうとしたことが問題だったと記録されたこと。

 リリアナの記録を見て、母が驚いたこと。

 そして、いつか謝りたいと言っていたこと。


 リリアナは、最後まで黙って聞いた。


 泣かなかった。


 ただ、手元のハンカチを強く握っていた。


「お母様は、私を愛していたの?」


 また、その問いだった。


 父の時にも出た問い。


 エレノアは、同じように丁寧に答えた。


「愛していたと思う」


「でも、私を何も知らない子にしていた」


「ええ」


「お母様にとって、私は可愛いままの方がよかったのね」


「そうかもしれない」


 リリアナは、少しだけ俯いた。


「それって、ひどいね」


「ええ」


「でも、少し分かる気もする。私も、可愛いままでいた方が楽だったから」


 その言葉に、エレノアは黙った。


 リリアナは、自分の弱さも見始めている。


 母に閉じ込められただけではない。


 自分もその箱の中にいたがっていた。


 それを認めるのは、きっと苦しい。


「お母様に、すぐ会わなくてもいい?」


 リリアナが尋ねた。


「いいわ」


「ひどい娘かな」


「いいえ」


「会ったら、たぶん泣いちゃう。お母様も泣く。そうしたら、また何が悪かったのか分からなくなりそう」


「それが分かっているなら、今は会わない方がいい」


 リリアナは、静かに頷いた。


「うん」


 少し沈黙した後、彼女は言った。


「でも、いつかは会う。私、もう何も知らない娘ではいたくないから」


「その時は、記録係をつける?」


 エレノアが少しだけ冗談めかして言うと、リリアナは目を丸くした。


「家族の話にも?」


「必要なら」


「……お姉様、半分本気でしょう」


「半分以上かも」


 リリアナは、泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。


 その笑いは、悲しみの中にある小さな息継ぎだった。


 夜、エレノアは母の証言記録をまとめた。


 ――セレスティア・ヴァレンシュタイン、公爵夫人としての体面維持とリリアナ保護を理由に、月涙石代替首飾りの宝物庫持ち込みを許可したことを認める。担保品の出所確認を怠り、リリアナの社交界デビュー支出過大化を主導。リリアナを「知らない娘」として守ろうとしたことが、結果として不正と無責任を助長した可能性を記録。


 最後の一文を書く時、少し手が止まった。


 知らない娘として守ろうとした。


 それは、母の罪であり、母の愛でもあった。


 記録にするには、あまりに人間臭い。


 だが、これを書かなければ、同じことがまた起きる。


 母親の涙の下で、娘の無知が守られてしまう。


 エレノアは、筆を置いた。


 その時、ふと王妃の言葉を思い出した。


 ――彼女を道具として扱うな。


 道具には、二種類あるのかもしれない。


 使い倒される道具。


 そして、大切に箱にしまわれる道具。


 どちらも、人ではない。


 父は娘を家の駒にした。


 母は娘を可愛い箱の中にしまった。


 どちらも、リリアナを一人の人間として見ていなかった。


 そしてエレノア自身も、優秀な道具として扱われてきた。


 ならば、ここから変えなければならない。


 家族であっても。

 貴族であっても。

 王宮であっても。


 人を役割に閉じ込めない。


 それは、王妃基金改革よりもずっと難しいことかもしれなかった。


 窓の外には、静かな夜が広がっている。


 エレノアは、母の証言記録に封をした。


 涙は記録を消さない。


 けれど、記録は涙の意味を変えることができる。


 母セレスティアは、涙の中で初めて証言した。


 そしてその涙は、もう誰かを黙らせるためだけのものではなくなり始めていた。

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