第40話 公爵家、王家監督下へ
ヴァレンシュタイン公爵家に王家の監督官が入る。
その決定が下された時、王宮の空気は、目に見えない音を立てて割れた。
公爵家とは、ただの大貴族ではない。
王国建国以来、王家を支えてきた名門。
王妃候補を何人も輩出し、財務、外交、軍務に人を出し、社交界でも常に中心にいた家。
その家の家政、資金、相続、使用人管理に、王家が直接手を入れる。
それは事実上、「この家は自力で自分を律する資格を失った」と宣言するに等しかった。
北翼の会議室に、王家監督命令書が置かれている。
厚い羊皮紙。
国王アレクシスの署名。
王弟カインの副署。
王家法務官の認証。
そして、王妃基金改革官エレノア・ヴァレンシュタインの確認欄。
エレノアは、その最後の欄をしばらく見つめていた。
自分の家を、王家監督下に置く書類。
そこに自分が確認署名をする。
これほど皮肉なこともない。
カインが向かいから言った。
「署名を外すこともできる」
エレノアは顔を上げた。
「私情への配慮ですか」
「手続き上、あなたが必ず署名しなければならない文書ではない。王家監督命令としては、国王と私と法務官の署名で足りる」
「では、なぜ確認欄が?」
「あなたが求めたからだ」
そうだった。
王妃基金に関わる資金流出が含まれる以上、改革官として確認する必要がある。
そう言ったのはエレノア自身だった。
カインは、それを止めなかった。
だが、最後の瞬間に逃げ道だけは示した。
エレノアは、少しだけ息を吐いた。
「署名します」
「いいのか」
「はい。ここで外れれば、私は自分の家だけ例外にしたことになります」
「誰もそうは言わない」
「私が思います」
カインは数秒、彼女を見た。
「あなたは、時々自分にだけ一番厳しい」
「時々でしょうか」
「かなり頻繁に」
「殿下に言われると、少し納得しかねます」
「私は他人にも厳しい」
「ご自覚があるなら結構です」
短いやり取りの後、エレノアは筆を取った。
手が震えないように、ゆっくり息を吸う。
エレノア・ヴァレンシュタイン。
自分の名を書いた瞬間、羊皮紙の上で何かが決まった。
父グレゴールは拘束中。
母セレスティアは公爵邸内で事情聴取待ち。
リリアナは王宮の証人保護下。
エレノアは王妃基金改革官として王宮にいる。
そして、ヴァレンシュタイン公爵家は、王家監督下に置かれる。
家族の形は、もう以前には戻らない。
だが、以前の形が正しかったわけでもない。
エレノアは筆を置いた。
「完了しました」
カインは命令書を確認し、オスカーへ渡す。
「監督官を派遣する。今日中に公爵邸へ入る」
「同行します」
エレノアが言うと、カインは眉を動かした。
「あなたが?」
「はい」
「公爵家の使用人たちは動揺している。あなたが行けば、さらに騒ぎになる可能性がある」
「だから行きます」
「理由は」
「公爵家の使用人たちは、私が王宮へ家を売ったと思っているでしょう。あるいは、父に捨てられた長女が復讐に来たと思う者もいるかもしれません。王家監督が何をするのか、直接説明する必要があります」
「あなたが矢面に立つ必要はない」
「あります」
エレノアは、まっすぐカインを見た。
「この家の娘としてではなく、王妃基金改革官として。そして、あの家で長く働いてきた使用人たちを、父の罪と一緒に切り捨てないために」
カインは、そこで少し黙った。
「分かった。ただし、護衛はつける」
「お願いします」
「リリアナは?」
「連れていきません」
即答だった。
カインは頷く。
「賢明だ」
「今の公爵邸は、彼女には重すぎます」
それに、母セレスティアがいる。
リリアナが母と会えば、おそらく話は崩れる。
母は泣くだろう。
リリアナは揺れる。
今、それをさせるべきではない。
「ただし、後で説明します」
「それは必要だな」
その日の午後、王家監督団はヴァレンシュタイン公爵邸へ向かった。
王弟府の馬車三台。
法務官補佐。
会計監査官。
財産目録係。
使用人管理担当。
近衛騎士。
そしてエレノア。
カインも同行した。
公爵家への王家監督命令は、それだけ重いものだった。
馬車が王都西側の貴族街へ入ると、通りの空気が変わった。
窓の隙間から覗く者。
門前で立ち止まる下男。
わざとらしく通り過ぎる貴族家の馬車。
噂はすでに走っている。
ヴァレンシュタイン公爵家に王家の監督官が入る。
エレノアが父を売った。
リリアナは王宮に保護されたまま。
公爵夫人は泣き暮らしている。
分家が動く。
王弟が公爵家を潰す。
きっと、そんな話が飛び交っているのだろう。
エレノアは窓の外を見なかった。
見ても、記録できるものは少ない。
今は、これから見るべきものに集中する。
公爵邸の門が見えた。
幼い頃から見慣れた門。
石柱にはヴァレンシュタイン家の紋章が刻まれている。
鷲と百合。
誇り高く、冷たく、美しい紋章。
その門の前に、家令ブレックが立っていた。
白髪交じりの老家令。
エレノアが幼い頃から、公爵家の家政を支えてきた男だ。
彼は馬車が止まると、深く礼をした。
「王弟殿下。エレノア様。お待ちしておりました」
声はいつも通りだった。
だが、顔には疲労が深く刻まれている。
「ブレック」
エレノアは馬車を降りた。
この家では、昔から彼をそう呼んでいた。
だが今、その呼び方でいいのか一瞬迷う。
ブレックは、その迷いを見抜いたように、静かに言った。
「本日は、王家監督官ご一行をお迎えする立場でございます。どうぞ、職務としてお進みください」
その一言に、エレノアは胸の奥を押された気がした。
彼もまた、線を引いたのだ。
昔の令嬢と家令ではなく。
監督に来た者と、受け入れる家政責任者として。
「分かりました」
エレノアは頷いた。
玄関広間には、使用人たちが並んでいた。
侍女。
下男。
料理人。
庭師。
馬丁。
洗濯係。
書庫係。
家政補助。
誰もが不安そうだった。
中には、エレノアを見る目に明らかな敵意を浮かべる者もいる。
父を告発した娘。
家へ王家を入れた長女。
そう見えているのだろう。
エレノアは、広間の中央に立った。
カインは一歩後ろに控える。
あえて、エレノアに話させるつもりらしい。
逃げ道はない。
だが、望んだことでもある。
「皆さん」
エレノアは声を出した。
広間に静寂が落ちる。
「本日より、ヴァレンシュタイン公爵家は王家監督下に置かれます。目的は、公爵家の財産、家政、王妃基金および夫人会に関わる資金の流れ、相続に関する記録を確認することです」
ざわめきが小さく起きた。
エレノアは続けた。
「この監督は、公爵家に仕える全員を罪人として扱うものではありません」
何人かが顔を上げる。
「ただし、帳簿、宝飾品、書簡、保管庫、使用人記録などは確認対象です。隠したり、燃やしたり、勝手に移動させたりした場合、その行為は処罰対象になります」
その言葉に、背筋を伸ばす者がいる。
視線を伏せる者もいる。
「不安がある者、何かを見た者、命じられて困っている者は、監督官または王宮の保護証言室に申し出てください。話したことだけで罰されることはありません」
そこで、広間の端にいた若い侍女が小さく泣きそうな顔をした。
エレノアは、それを見た。
だが、名を呼ばない。
人前で目立たせれば、彼女は話せなくなる。
「公爵家の仕事は、すべて止めるわけではありません。厨房、馬小屋、庭、洗濯、必要な生活業務は続けます。給金も、王家監督下で確認のうえ支払われます」
使用人たちの間に、少しだけ安堵が広がった。
彼らにとって最も恐ろしいのは、罪よりも明日の給金だ。
仕える家が倒れれば、使用人は簡単に路頭に迷う。
エレノアは、それを忘れてはいけないと思っていた。
「最後に」
彼女は、一度だけ息を吸った。
「私は、この家の娘です。だからこそ、皆さんにとっては複雑だと思います。私自身も複雑です」
広間の空気が変わる。
エレノアは、言葉を選びすぎないように続けた。
「ですが、今日ここにいる私は、公爵家の長女として父の代わりに命じに来たのではありません。王妃基金改革官として、記録を確認し、必要なものを守るために来ました」
ブレックが静かに頭を下げた。
それに続いて、何人かの使用人も頭を下げる。
全員ではない。
それでいい。
無理に忠誠を演じられるより、今は正直な沈黙の方がましだった。
説明が終わると、監督団はすぐに作業を始めた。
まず財務室。
公爵家の家政帳簿、寄付記録、宝飾品台帳、客人接待費、社交費、夫人会関係費。
次に書庫。
グレゴールの私的書簡、分家とのやり取り、王太子府関連文書。
宝物庫。
王妃基金担保品の混入がないか、目録と照合。
侍女長室。
公爵夫人セレスティアの茶会記録、招待客名簿、贈答品受領記録。
使用人棟。
最近解雇された者、突然休暇を取った者、行方不明者の確認。
どこから手をつけても、何かが出る気がした。
そして実際、出た。
財務室では、夫人会への寄付金が三つの名目に分けて処理されていた。
王太子妃候補教育支援。
公爵家慈善名誉寄付。
王妃追悼祈祷布修繕費。
名目は違うが、流れは似ている。
受け取り先は夫人会。
処理担当はドロテア・ランズ。
補助連絡にオルガ・ベルナール。
書庫では、分家ベルナールとの相続に関する古い書簡が見つかった。
グレゴールが分家を警戒していたこと。
ベルナール家の資金状況が悪かったこと。
オルガが夫ベルナール卿の名で何度か援助を申し入れていたこと。
つまり、オルガは最初から本家に協力するふりをしながら、分家の台頭を狙っていた。
エレノアは書簡を読みながら、父の「家を守ろうとして、家を売ったのか」という言葉を思い出した。
皮肉なことに、その通りだった。
宝物庫では、月涙石の首飾りが戻されていた。
王宮で押収され、公爵家の宝物庫へは戻されないはずのものとは別に、台帳上「月涙石代替首飾り」と記された箱が見つかったのだ。
中には、似た形の模造品が入っている。
おそらく、本物を戻したように見せかけるための準備だった。
ブレックはそれを見た瞬間、顔色を変えた。
「これは……私は存じません」
「いつからここに?」
エレノアが尋ねると、宝物庫係は震えながら答えた。
「公爵夫人の侍女が、一度お持ちになりました。仮置きだと」
「母の侍女?」
「はい。アンナです」
セレスティアの侍女アンナ。
また一つ、母の周辺へ線が伸びた。
エレノアは、胸の奥が重くなるのを感じた。
父の次は、母。
避けて通れないとは分かっていた。
だが、実際に証拠が出ると、やはり痛む。
カインが横から言った。
「すぐにアンナを確保しろ。公爵夫人への聴取も必要になる」
「はい」
エレノアは頷いた。
声は揺れていない。
揺らさない。
だが、手の内側には爪の跡がついていた。
セレスティア・ヴァレンシュタイン公爵夫人は、私室にいた。
薄い藤色の室内着をまとい、長椅子に座っている。
顔色は悪く、目元は赤い。
泣いていたのだろう。
だが、部屋は美しく整っていた。
花瓶には新しい花。
香炉には穏やかな香。
机には刺繍途中の布。
まるで、屋敷の外で何も起きていないように。
エレノアが入ると、セレスティアは顔を上げた。
「エレノア……」
その声は、母のものだった。
弱く、すがるような声。
エレノアの胸が一瞬だけ痛む。
だが、ここで娘に戻るわけにはいかなかった。
「お母様。王家監督により、いくつか確認があります」
セレスティアの顔がこわばる。
「あなたまで、そんな言い方をするの」
「職務です」
「職務、職務、職務……あなたはいつから、母にまでそんな冷たい言葉を使う子になったの」
セレスティアの目に涙が浮かぶ。
リリアナなら、この涙に弱かっただろう。
エレノアも弱くないわけではない。
幼い頃、熱を出した夜に母が手を握ってくれた記憶はある。
新しいドレスを選んでもらった日もある。
王太子妃教育で疲れ切った時、甘い菓子を差し入れてくれたこともある。
母は、冷たいだけの人ではなかった。
だが、だからこそ難しい。
「月涙石代替首飾りについて伺います」
エレノアは、机に証拠の写しを置いた。
セレスティアの表情が変わった。
ほんの一瞬。
だが、確かに知っている顔だった。
「何のことかしら」
「宝物庫に、月涙石の首飾りと似た模造品が置かれていました。宝物庫係は、お母様の侍女アンナが持ち込んだと証言しています」
「アンナが勝手にしたのでは」
「では、お母様はご存じなかったのですね」
セレスティアは口を開きかけ、閉じた。
エレノアは待つ。
泣いても、沈黙しても、待つ。
やがて、母はかすれた声で言った。
「……本物を戻せないなら、形だけでも整えなければと思ったの」
「形だけ」
「社交界では、形が大事なのよ。王妃基金の担保品が公爵家にあったなどと知られれば、リリアナがどれだけ傷つくか」
「リリアナを守るためですか」
「そうよ」
「では、孤児院の屋根は?」
セレスティアは目を見開いた。
「何を」
「月涙石の首飾りは、孤児院修繕費の担保でした。それが公爵家に入り、リリアナの社交界デビューに使われた。その間、孤児院の屋根の修繕は遅れました」
「私は、そこまでは知らなかったわ」
「確認しなかったのですね」
「また確認!」
セレスティアが声を上げた。
「あなたは何でも確認、記録、責任。人の気持ちはどうなるの? リリアナはただ、幸せになりたかっただけなのよ。私は母として、あの子に美しいデビューをさせたかった。それがそんなに罪なの?」
「美しいデビューのために、担保品の出所を確認しなかったことは罪です」
エレノアは答えた。
「そして、それを隠すために模造品を置こうとしたなら、証拠隠しです」
セレスティアは、唇を震わせた。
「あなたは、本当に私を裁くのね」
「裁くのは裁判です。私は記録します」
「同じことよ」
「違います」
「私たちは家族でしょう!」
その声が、部屋に響いた。
エレノアは、少しだけ目を伏せた。
家族。
この言葉もまた、何度も使われる。
守るためにも。
隠すためにも。
縛るためにも。
「家族だから、なかったことにはできません」
エレノアは言った。
セレスティアは泣き崩れるように顔を覆った。
「私は、ただ……リリアナを守りたかっただけなのに」
「お母様」
エレノアは、できるだけ静かに言った。
「リリアナは、自分が何も知らなかったことを悔いています。知らないままでいた自分にも責任があると、言いました」
母の肩が震えた。
「あなたが本当にリリアナを守りたいなら、もう何も知らない娘として扱うのはやめてください」
セレスティアは、涙に濡れた顔を上げた。
「……あの子が、そんなことを?」
「はい」
「リリアナが……」
セレスティアは呆然としていた。
その顔には、初めて戸惑いがあった。
可愛い娘。
守るべき娘。
何も知らないからこそ愛しい娘。
その像が、崩れていく音がした。
エレノアは、最後に告げた。
「侍女アンナには聴取を行います。お母様にも、後日正式に証言していただきます」
「私も?」
「はい」
「公爵夫人である私が?」
「公爵夫人としてではなく、関係者としてです」
その言葉に、セレスティアは目を閉じた。
父にも同じだった。
公爵としてではなく、罪を問われる者として。
母にも同じだ。
公爵夫人としてではなく、関係者として。
家の肩書きが、少しずつ剥がれていく。
その後、侍女アンナはすぐに確保された。
彼女は最初、夫人に命じられただけだと主張した。
しかし、聴取を進めるうちに、模造首飾りを用意したのはアンナ自身であり、セレスティアに「形だけ整えれば社交界は黙ります」と進言していたことが判明した。
アンナは、公爵夫人を守るつもりだったと言った。
だが、その守り方は、また記録を歪めるものだった。
エレノアは、その証言を聞きながら疲労を覚えた。
皆、守ると言う。
家を守る。
夫を守る。
娘を守る。
夫人会を守る。
職場を守る。
善意を守る。
だが、その「守る」の下で、どれだけのものが隠されてきたのだろう。
夕暮れ、公爵邸の監督初日は終わりを迎えた。
終わりと言っても、作業が止まっただけだ。
帳簿は王宮へ運ばれ、宝物庫には封印が施され、書庫の一角は立入禁止となった。使用人たちには、明日から順次聞き取りが行われる。
エレノアは玄関広間に立ち、もう一度この家を見た。
高い天井。
鷲と百合の紋章。
磨かれた床。
幼い頃、リリアナと走って叱られた階段。
王太子妃教育の資料を抱えて歩いた廊下。
父に褒められようとして、夜遅くまで帳簿を読んだ書斎。
思い出はある。
傷もある。
誇りも、恥もある。
そのすべてが混ざって、この家は立っていた。
ブレックが近づいてきた。
「エレノア様」
「今は改革官です」
「失礼いたしました。改革官殿」
そう言ってから、老家令は少しだけ目を細めた。
「ですが、一つだけ、昔の家令として申し上げてもよろしいでしょうか」
エレノアは迷い、頷いた。
「どうぞ」
「お戻りになってくださって、安心した者もおります」
意外な言葉だった。
「私が?」
「はい。恐れている者も、怒っている者もおります。ですが、この家が何もかも焼き払われるのではなく、何が悪かったのかを見てもらえるのだと、そう感じた者もおります」
エレノアは、言葉を失った。
ブレックは深く礼をした。
「どうか、厳しくお願いいたします。甘くされれば、この家はまた同じことを繰り返します」
その言葉は、家令としての忠誠だった。
公爵個人ではなく、家そのものを生き残らせようとする忠誠。
エレノアは、静かに答えた。
「分かりました」
ブレックは頷き、下がった。
帰りの馬車の中で、エレノアは長く黙っていた。
カインも急かさない。
王都の夕暮れが窓の外を流れていく。
やがて、エレノアは口を開いた。
「家を監督下に置くというのは、想像以上に重いですね」
「軽ければ困る」
「はい」
「後悔しているか」
「いいえ」
少し間を置いて、エレノアは言った。
「痛いだけです」
カインは、すぐには答えなかった。
それから短く言う。
「痛いなら、まだ大丈夫だ」
「どういう意味ですか」
「痛みを感じなくなったら、あなたは自分の家をただの対象物として見るようになる。それは危うい」
「感情を入れすぎても危ういのでは?」
「だから記録するのだろう」
エレノアは、思わずカインを見た。
彼はいつも通りの顔をしている。
だが、その言葉は不思議と胸に落ちた。
「殿下も、記録という言葉を使われるようになりましたね」
「あなたの口癖が移った」
「それはお気の毒に」
「まったくだ」
短いやり取りの後、馬車の中に静けさが戻った。
王宮へ戻ると、リリアナが待っていた。
彼女はエレノアを見るなり、立ち上がった。
「お姉様」
「ただいま」
自然に出た言葉だった。
リリアナの目が大きくなる。
エレノア自身も、少し驚いた。
ただいま。
この言葉を妹に向けて言ったのは、いつ以来だろう。
リリアナは一瞬、泣きそうな顔になった。
けれど、泣かずに言った。
「おかえりなさい」
それだけだった。
抱き合いもしない。
許し合いもしない。
ただ、言葉だけが静かに交わされた。
エレノアは、今日の報告書をリリアナへ渡した。
「明日、説明します。今日は読むだけでいいわ」
「はい」
「つらければ途中でやめてもいい」
リリアナは報告書を抱え、首を横に振った。
「読みます。私の家のことだから」
その言い方は、少しだけ変わっていた。
お父様の家でも、お姉様の家でもなく。
私の家。
責任を少しだけ引き受ける言葉だった。
夜、エレノアは公爵家監督初日の記録を書いた。
――ヴァレンシュタイン公爵家、王家監督下に入る。財務室、書庫、宝物庫、侍女長室、使用人棟を確認。夫人会資金流出、分家関連書簡、月涙石代替首飾り、母セレスティアおよび侍女アンナの関与疑いを確認。使用人保護の必要あり。
筆を置く。
家が監督下に入った。
父は罪人として語り、母は関係者として問われる。
リリアナは逃げずに報告書を読む。
そしてエレノアは、自分の名で家の監督記録を書いている。
何もかもが変わってしまった。
けれど、変わらなければならなかった。
エレノアは窓の外を見た。
王宮の夜は深い。
その奥で、公爵家の紋章が遠く沈んでいくような気がした。
だが、沈むだけでは終わらせない。
腐った部分を切り、隠された記録を出し、残せるものを残す。
それが、この家の娘であり、王妃基金改革官である自分の役目だった。




