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第39話 父、公爵としてではなく罪人として

 グレゴール・ヴァレンシュタイン公爵は、拘束されてもなお、公爵だった。


 少なくとも、本人はそう振る舞っていた。


 北翼の尋問室に通された時も、彼は背筋を伸ばし、顎を引き、皺ひとつない上着の襟元を整えていた。拘束中とはいえ、まだ正式な爵位剥奪には至っていない。衣服も囚人服ではなく、簡素ながら公爵家の人間としての体裁を保つものを許されている。


 だが、その袖口に飾りはなかった。


 指輪もない。


 家紋入りの飾り鎖も取り上げられている。


 それだけで、彼の威厳は半分ほど削がれて見えた。


 それでもグレゴールは、部屋へ入るなり周囲を見渡し、低く言った。


「これは何の真似だ」


 声には、まだ人を従わせる響きがあった。


 長年、公爵として命じる側に立ってきた男の声。


 家臣も、使用人も、夫人も、娘たちも、その声で黙らせてきたのだろう。


 机の向こうには、王弟カインが座っている。


 その隣にエレノア。


 記録係のオスカー。


 王家法務官補佐。


 少し離れて、マルタが立会人として控えている。


 そして、部屋の右手側。


 衝立の近くに、リリアナが座っていた。


 彼女はこの場に同席することを望んだ。


 正確には、エレノアが「あなたに関わる金の流れが出ています」と告げた時、長く沈黙した後で、自分で言ったのだ。


 ――見ます。私の名前で動いたものなら、見ます。


 震えていた。


 それでも、逃げなかった。


 エレノアは、その決意を尊重した。


 ただし、発言は求められた時だけ。途中で耐えられなくなった場合は退室してよい。マルタが隣に控える。


 その条件での同席だった。


 グレゴールは、娘二人の姿を見て一瞬だけ眉を動かした。


 エレノアではなく、まずリリアナを見た。


「リリアナ。なぜお前がここにいる」


 その声は、父親のものに近かった。


 叱るというより、心配するような響き。


 以前のリリアナなら、それだけで泣きそうになったかもしれない。


 だが、彼女は膝の上で両手を握りしめたまま、答えた。


「私の名前で動いたお金があると聞きました」


「お前には関係ない」


 即答だった。


 リリアナの肩が震える。


 だが、彼女は俯かなかった。


「私の名前があるなら、関係あります」


 グレゴールの表情がわずかに険しくなった。


「誰にそう言わされた」


 その言葉に、部屋の空気が冷えた。


 リリアナの顔も固まる。


 まただ。


 自分の言葉を、自分のものとして認めてもらえない。


 オルガにも同じことを言われた。


 誰かにそう言うように言われたのでは、と。


 エレノアは静かに言った。


「父上」


 グレゴールの目が、ようやくエレノアへ向いた。


 その瞬間、彼の表情から父親らしさが消えた。


 代わりに、公爵の顔が出る。


「エレノア。お前は今、自分が何をしているか分かっているのか」


「はい」


「父を裁く席に座っているのだぞ」


「王妃基金改革官として、王家監査に同席しています」


「言葉を飾るな」


 グレゴールは低く言った。


「お前はヴァレンシュタイン公爵家の娘だ」


「はい」


「その娘が、公爵家の内情を王宮へ差し出し、父を罪人のように扱う。家名を何だと思っている」


 いつもの手だった。


 家名。


 血筋。


 父娘。


 責任。


 そういう言葉で、エレノアの立場を揺らす。


 かつてなら、それで胸が痛んだ。


 今も痛まないわけではない。


 だが、痛むことと、従うことは別だった。


 カインが口を開く。


「グレゴール・ヴァレンシュタイン」


 声は冷たかった。


「ここで問われるのは、公爵家の内情ではない。王妃基金、夫人会資金、王太子妃候補交代工作に関する不正資金の流れだ」


 グレゴールはカインへ視線を向けた。


「王弟殿下。私は公爵です。王家に忠誠を尽くしてきた家の当主です。いかに疑いがあるとはいえ、この扱いは」


「今は被疑者だ」


 短い一言だった。


 グレゴールの顔が強張る。


「被疑者」


「そうだ。公爵としてではなく、罪を問われる者として座れ」


 グレゴールは、しばらくカインを睨んだ。


 しかし、その視線は通じなかった。


 王弟カインは、公爵家の威光を恐れない。


 むしろ、そういうものを一枚ずつ剥がすためにここにいる。


 グレゴールは、ゆっくり椅子に腰を下ろした。


 それでも座り方は尊大だった。


 背もたれに沈み込まず、胸を張り、顎を上げる。


 罪人ではなく、裁く側に何かを許してやっているような態度だった。


 エレノアは、机の上に一枚の書類を置いた。


「本日は、ヴァレンシュタイン公爵家から夫人会へ流れた資金について確認します」


「夫人会への寄付など、貴族家なら珍しくもない」


「名目は、王太子妃候補教育支援寄付。金額は銀貨八百枚」


 リリアナの指が、膝の上で強く握られる。


 グレゴールは、少しだけ目を細めた。


「それが何だ」


「支出元は公爵家家政費。承認者は父上。受領窓口は王都貴族夫人慈善連絡会。実務処理はドロテア・ランズ。補助連絡はオルガ・ベルナール」


 エレノアは、次の紙を置いた。


「そのうち、王太子妃候補教育支援として実際に使われたのは銀貨三百六十枚ほど。残りの一部は、青い祈りの糸の別口資金へ移されています」


 グレゴールは黙った。


 沈黙。


 短いが、明らかな沈黙だった。


「ご存じでしたか」


 エレノアが問う。


「寄付金の使途までは、夫人会に任せていた」


「つまり、確認していない」


「夫人会は王妃陛下とも関わりの深い団体だ。信頼して何が悪い」


「確認しなかったことが悪いのです」


 エレノアの声は、静かだった。


「父上は、公爵家の金を、リリアナの王太子妃候補教育という名目で夫人会へ出しました。にもかかわらず、その金が実際に何へ使われたのか確認していない。これは管理責任です」


 グレゴールの目に怒りが浮かんだ。


「お前は父に説教するのか」


「記録の確認です」


「父を父とも思わぬ物言いだな」


「父上は今、公爵としてではなく罪を問われる者として座っておられます」


 カインの言葉を、そのまま返した。


 グレゴールの顔がわずかに歪む。


 リリアナが、小さく息を呑んだ。


 エレノアは、次の書類を開く。


「青い祈りの糸別口資金からは、リゼット・グラン、布置き場係ジム、ミラ・ハーディ、ダリウス・モーン、オルガ・ベルナールらへ支出がありました。偽女官の準備、布置き場通過、型紙入手、書簡運搬、リリアナへの偽署名誘導に関わる資金です」


「私は知らん」


 グレゴールは即答した。


「そこまで細かなことを公爵が知るはずもない」


「では、どこまで知っていましたか」


「王太子妃候補交代には社交費が必要だと聞いた。リリアナを王太子殿下の隣に立たせるには、夫人会の協力がいる。だから金を出した。それだけだ」


「誰に聞いたのですか」


「オルガ夫人だ」


 グレゴールは、吐き捨てるように言った。


「あの女は、王太子府と夫人会の空気をよく読んでいた。エレノアでは硬すぎる。リリアナの方が王太子殿下には合う。そう言った」


 リリアナの顔が青ざめる。


 自分を選んだのは、王太子の恋心だけではなかった。


 父の金。


 オルガの誘導。


 夫人会の空気作り。


 ダリウスの言葉。


 その全部が、自分を王太子の隣へ押し出していた。


 グレゴールは、娘の動揺に気づいていたのかいないのか、続けた。


「父親として、娘に良い縁を用意するのは当然だ」


 エレノアは、静かに顔を上げた。


「父親として?」


「そうだ」


「リリアナに確認しましたか」


 グレゴールが眉を寄せる。


「何を」


「王太子妃候補になることの責任を。王妃基金に関わる権限を。王太子殿下の隣に立つ意味を。自分の名で金が動くことを」


「女の子に最初からすべて分かるはずがない。後で学べばよい」


「学ばせる前に、名前を使ったのですね」


「お前は言葉尻を」


「言葉尻ではありません」


 エレノアは、リリアナを見ないまま言った。


 今ここで妹を見ると、彼女を守る言葉になってしまう気がした。


 これは記録の場だ。


「リリアナは、王太子妃候補に必要な教育を受ける前に、社交界へ立たされました。その名目で銀貨八百枚が動きました。その一部は不正資金へ流れました。父上は、娘に良い縁を用意したのではありません。娘の名前を使って、家の影響力を残そうとしたのです」


「家を守るためだ」


 グレゴールの声が強くなった。


「ヴァレンシュタイン家は、王家に仕える公爵家だ。王太子妃候補が我が家から出る意味を、お前は分かっているはずだ」


「分かっています」


「ならば、なぜ私を責める」


「家を守るためなら、娘を駒にしてよい理由にはならないからです」


 グレゴールの顔色が変わった。


 その言葉は、彼が一番嫌うものだったのかもしれない。


 駒。


 自分がしたことを、一言で言い当てる言葉。


「私は娘を駒にした覚えはない」


 低い声だった。


「リリアナを王太子妃にすることは、あの子のためでもあった。可愛がってきた娘だ。良い暮らしをさせ、王太子殿下の寵愛を受け、国母となる道を」


「そして私は慈善院へ整理される予定でしたね」


 エレノアは、別の書類を置いた。


 父の書庫から見つかった相続案。


 ――エレノアについては、王太子妃候補解消後、修道院付属慈善院への寄進名目で整理。


 グレゴールの表情が、一瞬だけ凍った。


 リリアナも、その一文を知ってはいた。


 だが、父の前で改めて出されると、やはり息を詰めた。


「この案について、改めて確認します。これは父上の指示で作成されたものですね」


 グレゴールは黙った。


「父上」


「……あくまで案だ」


「作成指示は?」


「家政管理上の整理案だ」


「作成指示は?」


 同じ問いを繰り返す。


 グレゴールは、苦々しく答えた。


「私だ」


 オスカーの筆が走る。


「私を慈善院へ送る名目は、誰が整えましたか」


「……オルガ夫人だ」


「父上は同意しましたか」


「状況によっては必要だと判断した」


 リリアナが、小さく震えた。


 エレノアは、声を変えなかった。


「なぜ必要だったのですか」


「お前が王宮に残れば、リリアナの立場が不安定になる」


「私が何かをすると?」


「お前は優秀だ。だから危険だった」


 部屋が静まり返った。


 それは、父の口から出た本音だった。


 お前は優秀だ。


 だから危険だった。


 褒め言葉ではない。


 娘として誇る言葉でもない。


 排除する理由としての優秀さ。


「私は、父上にとって危険だったのですね」


 エレノアは静かに言った。


 グレゴールは、初めて少しだけ視線を逸らした。


「家の方針に従わぬ才は、災いになる」


「家の方針とは、父上の都合ですね」


「エレノア」


 グレゴールの声が父親のものに戻ろうとする。


 だが、エレノアは遮った。


「父上。私を娘として叱るのはおやめください。ここでは証言者です」


「お前は……」


「私を慈善院へ送ることで、何を消そうとしたのですか」


 グレゴールは、唇を引き結んだ。


「何も消すつもりなど」


「王妃基金の不審に気づいていた私。王妃様の遺言に近い私。王太子妃候補としての実務記録を持つ私。父上と夫人会の資金の流れに気づく可能性があった私」


 エレノアは一つずつ並べた。


「どれを消したかったのですか」


「黙れ」


 グレゴールの声が低く響いた。


 リリアナがびくりと肩を震わせる。


 エレノアは黙らなかった。


「記録のためにお答えください」


「黙れと言った!」


 グレゴールが立ち上がりかけた。


 その瞬間、近衛が一歩前へ出る。


 カインは座ったまま、冷たく言った。


「座れ」


 たった一言。


 だが、グレゴールは動けなくなった。


 公爵として命じることに慣れた男が、今は王弟の一言で椅子へ戻される。


 その事実が、彼の顔に屈辱として浮かんだ。


「私は、王家に尽くしてきた」


 グレゴールは、椅子に腰を下ろしながら言った。


「ヴァレンシュタイン家は代々、王家を支えてきた。王太子妃候補を出す資格も、王宮に意見する資格もある。少しの金の流れや社交上の調整で、罪人扱いされる謂れは」


「少しの金の流れではありません」


 エレノアは、もう一枚の書類を出した。


「父上の寄付金の一部は、青い祈りの糸別口資金へ移されました。その資金が、偽女官の準備、型紙入手、布置き場通過に使われました。リリアナへの偽署名誘導に繋がっています」


 さらに一枚。


「また、父上はサルヴィ商会推薦状にも関与しています。王妃様の薬に使われた黒眠草納入業者です」


 もう一枚。


「月涙石の首飾りは、王妃基金担保品でありながら、公爵家へ入り、リリアナの社交界デビューに使われました」


 もう一枚。


「私を慈善院へ整理する案も、父上の指示です」


 書類が机に並ぶ。


 まるで、父が築いた公爵としての壁を一枚ずつ崩すように。


「これらは、少しの調整ではありません。王妃基金、王太子妃候補交代、公爵家相続、夫人会不正、王妃様の死期を早めた薬の問題へ繋がる行為です」


 グレゴールは、しばらく何も言わなかった。


 沈黙。


 長い沈黙。


 やがて彼は、低く言った。


「私は、王妃陛下を殺すつもりなどなかった」


「それは、すでに多くの方が仰いました」


 エレノアは答えた。


「私は、父上が王妃様を毒殺しようとしたと決めつけているのではありません。父上が自分の目的のために金を動かし、確認すべきものを確認せず、娘たちを配置し、都合の悪い者を遠ざけようとした。その結果として、王妃様を弱らせる網に資金と権威を与えた、と言っています」


 グレゴールの顔に、疲れが浮かんだ。


 初めて、公爵の仮面が少し剥がれたようだった。


「……私は、家を守りたかった」


 声が少し低くなった。


「ヴァレンシュタイン家は強くなければならない。王太子妃を失えば、分家が動く。王宮での影響力も落ちる。お前との婚約が揺らいだ時点で、次の手を打つ必要があった」


「私との婚約が揺らいだ原因を、父上はどう見ていましたか」


「王太子殿下のお心がリリアナへ移った」


「それだけですか」


 グレゴールは黙る。


「父上は、王太子殿下の未熟、ダリウス卿の誘導、オルガ夫人の工作、リリアナの無知、私の排除案。そのすべてを、王太子殿下のお心という言葉にまとめたのではありませんか」


 グレゴールは、苦々しく言った。


「女の恋心など、政治ではそう扱うものだ」


 リリアナの顔が強張った。


 恋心。


 彼女にとっては本物だったかもしれない。


 王太子に選ばれたいという思い。

 姉に勝ちたいという思い。

 誰かに愛されたいという思い。


 そのすべてが、父にとっては政治上の材料だった。


「お父様」


 リリアナが小さく声を出した。


 全員の視線が彼女へ向く。


 グレゴールの顔に、少しだけ焦りが浮かんだ。


「リリアナ。お前は黙っていなさい」


 以前なら、それで黙った。


 だが、リリアナは椅子の端を握りしめながら言った。


「私、お父様に聞きたいことがあります」


「今はその場ではない」


「私の名前で出した銀貨八百枚は、本当に私のためだったのですか」


 声は震えていた。


 けれど、問いははっきりしていた。


 グレゴールは答えなかった。


 リリアナは続ける。


「私、王太子殿下に選ばれたと思っていました。お父様とお母様に愛されているから、私の幸せのために応援してくれているのだと思っていました。でも、私の名前でお金が動いて、そのお金が誰かを動かすために使われたなら……私は、何だったのですか」


「お前は私の可愛い娘だ」


 グレゴールはすぐに答えた。


 その言葉は、甘かった。


 リリアナの目に涙が浮かぶ。


 だが、彼女は泣いて終わらせなかった。


「可愛い娘なら、なぜ何も教えてくれなかったのですか」


 グレゴールの表情が固まる。


「王太子妃になるのがどれだけ重いことか。署名する意味も、王妃基金のことも、お姉様が何をしていたかも。何も教えずに、可愛い可愛いと言って、ドレスを着せて、殿下の隣に立たせたのは、私のためですか」


「リリアナ」


「私、馬鹿でした」


 リリアナの涙が頬を伝った。


 けれど、声は止まらない。


「でも、馬鹿なままでいさせたのは、お父様です」


 その言葉は、グレゴールを真正面から打った。


 彼はしばらく、娘を見つめていた。


 可愛い娘。


 従順な娘。


 涙で動く娘。


 そのはずだったリリアナが、自分の言葉で責めている。


 グレゴールの顔に、怒りではなく困惑が浮かんだ。


「お前まで、エレノアのようなことを言うのか」


 リリアナは、涙を拭った。


「お姉様のようには、まだ言えません。でも、これは私の言葉です」


 エレノアは、胸の奥に小さな痛みを覚えた。


 それは、少し前に大裁定の間でリリアナが言った言葉と同じだった。


 これは、私の言葉です。


 父にも、それを言えた。


 そのことだけは、記録に残す価値があった。


 オスカーの筆が走る音がした。


 グレゴールは、その音に気づいたのか、ふっと力の抜けた笑いを漏らした。


「記録、記録、記録……この家は、いつから紙切れに支配されるようになった」


「紙切れではありません」


 エレノアは言った。


「父上が口で整えてきたことを、後から確認するためのものです」


「私は家を守るために動いた」


「その言葉も記録します」


「何でも記録すればよいと思うな」


「何でもではありません。必要なことを記録します」


 グレゴールは、しばらくエレノアを睨んだ。


 だが、その目にはもう以前の力がなかった。


 公爵としての威圧。


 父としての支配。


 そのどちらも、この部屋では通じない。


 ここにいるのは、王妃基金改革官エレノア。


 証人として立つリリアナ。


 王弟カイン。


 記録係オスカー。


 そして、罪を問われるグレゴール・ヴァレンシュタイン。


 公爵ではなく。


 父ではなく。


 罪人として。


 カインが最後の問いを投げた。


「グレゴール。オルガ・ベルナールが分家を立てる計画を持っていたことを、いつ知った」


 グレゴールの顔が変わった。


 この問いは、予想していなかったのだろう。


「……知らなかった」


「本当に?」


「知らなかった。あの女は、私に協力するふりをしていた。リリアナを王太子妃にし、家を守るためだと」


「実際には、あなたを失脚させ、分家を立てる計画も同時に進めていた」


 グレゴールの手が震えた。


 怒りか、屈辱か。


「私を……あの女が」


「父上も、駒にされていたのです」


 エレノアは静かに言った。


 グレゴールが彼女を見る。


「娘たちを駒にした父上自身も、オルガ夫人の盤上では駒だった」


 その言葉は、残酷だった。


 しかし、事実だった。


 グレゴールの顔から、血の気が引いていく。


 彼はしばらく何も言わなかった。


 やがて、かすれた声で言った。


「……私は、家を守ろうとして、家を売ったのか」


 誰も答えなかった。


 答えは、記録の中にある。


 グレゴールは、自分でそれを見つけてしまったのだ。


 長い沈黙の後、彼は低く言った。


「私が知る限りのことは話す」


 エレノアは、筆を取った。


「何についてですか」


「オルガ夫人との初回接触。夫人会への資金経路。リリアナを王太子殿下へ近づけるための茶会。ダリウスへの謝礼。慈善院案の作成経緯」


 彼は一つずつ挙げた。


 その声には、まだ屈辱があった。


 反省かどうかは分からない。


 自己保身もあるだろう。


 オルガに利用された怒りもあるだろう。


 だが、それでも話すと言った。


 それは重要だった。


「記録します」


 エレノアは言った。


 グレゴールは、皮肉な笑みを浮かべる。


「お前は本当に、それしか言わないな」


「必要ですので」


「……ああ。今は、少し分かる」


 その言葉に、エレノアはほんのわずかに手を止めた。


 父が、初めて記録を完全には否定しなかった。


 それでも、胸は温まらなかった。


 遅すぎる。


 あまりにも遅すぎる。


 だが、遅すぎる証言でも、必要なものはある。


 尋問は、その後も長く続いた。


 グレゴールは、断片的ながら多くを話した。


 最初にオルガと接触したのは、王妃の病が深まる少し前。

 オルガは、リリアナの社交的な柔らかさを高く評価し、王太子殿下に合うと語った。

 ダリウスを通じて、王太子府内の雰囲気を探らせた。

 夫人会へ銀貨八百枚を出したのは、リリアナの教育支援と社交工作のため。

 ダリウスへの謝礼は直接ではなく、夫人会経由にした。

 エレノアの慈善院案は、グレゴールが「穏便に退かせる方法」を求め、オルガが名目を整えた。

 分家ベルナールを立てる計画は知らなかった。


 どこまでが真実か。


 これから照合が必要だ。


 だが、線はさらに濃くなった。


 尋問が終わる頃には、夕刻になっていた。


 グレゴールは近衛に促されて立ち上がった。


 部屋を出る前、彼は一度だけリリアナを見た。


「リリアナ」


 リリアナは顔を上げる。


 グレゴールは、何かを言おうとした。


 可愛い娘だ。

 許せ。

 仕方なかった。

 父を信じろ。


 どれかを言おうとして、結局何も言えなかった。


 リリアナも、何も言わなかった。


 ただ、静かに頭を下げた。


 父への礼ではない。


 証言を終えた者へ向ける、最低限の礼だった。


 グレゴールの顔がわずかに歪む。


 それから彼は、今度はエレノアを見た。


「エレノア」


「はい」


「お前は……私に似たのだな」


 その言葉に、エレノアは目を細めた。


 以前なら、それを嫌悪したかもしれない。


 今も、嬉しくはない。


 だが、完全に否定することもできなかった。


 自分の中にも、公爵家の血はある。


 冷静に見る目。

 数字を追う力。

 家や制度を動かす感覚。


 それらは、父から受け継いだものかもしれない。


 けれど、どう使うかは違う。


「似ている部分はあるのでしょう」


 エレノアは答えた。


「ですが、同じにはなりません」


 グレゴールは、しばらく彼女を見ていた。


 そして、何も言わずに部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 その音が、思ったより重かった。


 リリアナは、椅子に座ったまま動けずにいた。


 マルタがそっと水を渡す。


 リリアナは受け取り、両手で包むように持った。


「お姉様」


「何?」


「お父様は、私を愛していなかったのかな」


 その問いは、幼いものではなかった。


 もう、答えを急いでほしがる声ではない。


 エレノアは、少し考えた。


「愛していた部分もあったと思う」


 リリアナの目が揺れる。


「でも、利用もした」


「……うん」


「その二つは、同時に存在することがあるわ」


「それが一番つらい」


「ええ」


 エレノアは、静かに頷いた。


「私もそう思う」


 リリアナは、カップの中の水を見つめた。


「私、まだお父様を嫌いになりきれない」


「無理に嫌う必要はないわ」


「でも、許せない」


「無理に許す必要もない」


 リリアナは顔を上げた。


 エレノアは続ける。


「今は、見たことを見たまま置いておけばいいの。父上がしたこと。父上が言ったこと。あなたが感じたこと。すぐに一つの答えにしなくていい」


「記録みたいに?」


「そうね」


 リリアナは、少しだけ泣き笑いのような顔になった。


「お姉様、やっぱり最後は記録になる」


「便利だから」


「少し分かってきた」


 その声は疲れていたが、どこか落ち着いてもいた。


 その夜、エレノアは父の証言記録を整理した。


 王太子妃候補教育支援寄付。

 夫人会別口資金。

 ダリウスへの謝礼。

 オルガとの接触。

 慈善院案。

 分家計画の否認。

 家を守るという名の資金工作。


 記録の最後に、エレノアは一文を追加した。


 ――グレゴール・ヴァレンシュタインは、公爵家保全を目的とした行為を認める。ただし、その行為が夫人会不正および王妃基金関連工作に利用されたことについては、認識の一部を否認。さらなる照合を要する。


 筆を置いた。


 手が少し震えていた。


 父を裁くことは、やはり簡単ではない。


 どれだけ記録を積み上げても、胸のどこかには娘としての痛みが残る。


 だが、その痛みを理由に記録を曲げるわけにはいかない。


 エレノアは、窓の外を見た。


 夜の王宮は静かだった。


 けれど、その静けさの底で、まだ多くのものが動いている。


 父は罪人として語った。


 次に必要なのは、その証言をもとに、ヴァレンシュタイン公爵家そのものをどう扱うかを決めること。


 家名。

 相続。

 リリアナの立場。

 エレノア自身の身分。

 分家ベルナールの処遇。

 王家監督下での再編。


 父を裁けば、家も揺れる。


 そして、その揺れは娘たちにも必ず届く。


 エレノアは、深く息を吸った。


 公爵としてではなく、罪人として座った父。


 その姿を見た夜、彼女は初めて、自分が公爵家の娘であることの重さを、逃げずに見つめた。

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