第38話 帳簿を握る未亡人
帳簿を読む時、エレノアはまず数字を見ない。
最初に見るのは、紙の汚れだった。
よく開かれたページは、端が少し柔らかくなる。
急いで書かれた数字は、インクの濃淡が乱れる。
後から書き足された行は、文字の角度がわずかに違う。
消そうとした跡は、紙の繊維が荒れる。
数字そのものは、嘘をつく。
だが、紙は嘘をつくのが下手だ。
夫人会から提出された帳簿は、北翼の会議室に積み上げられていた。
五年分。
慈善販売。
寄付茶会。
衣料会支援。
孤児院修繕。
薬草園慰問。
戦没騎士遺児教育基金。
祈祷布修繕。
青い祈りの糸。
帳簿は美しかった。
表紙は丁寧に磨かれた革。
題字は整っている。
月ごとの仕切りもあり、支出と収入は一見、きちんと並んでいる。
けれど、きちんとしすぎていた。
エレノアは、最初の一冊をめくりながらそう感じた。
夫人会の慈善活動は、現場に近い。
急な寄付もある。
茶会で予定より多く品が売れることもある。
孤児院から突然、靴が足りないと連絡が来ることもある。
冬前には毛布の数が増え、春には修繕費が動く。
それなのに、帳簿は妙に滑らかだった。
行が乱れていない。
差し戻しが少なすぎる。
訂正印がほとんどない。
人間が動かす慈善活動の帳簿にしては、生活のざらつきが足りなかった。
「綺麗すぎますね」
エレノアが呟くと、向かいで帳簿を覗き込んでいたリリアナが顔を上げた。
「綺麗なのは、良いことではないの?」
「良い場合もあるわ。でも、現場の帳簿はもう少し汚れるものよ」
「汚れる?」
「急な支出、差し戻し、書き間違い、確認待ち。そういう跡があるはずなの」
リリアナは、自分の前に置かれた薄い帳簿を見た。
彼女には、比較的簡単な寄付茶会の参加者名簿の確認を任せている。
金額の照合ではなく、人名と出席記録の照合だ。
それでも最初は頭を抱えていたが、少しずつ「名前が重複している」「本人出席ではなく代理出席」「寄付額だけが後から増えている」といった違和感を拾えるようになってきた。
「汚い方が信用できることもあるのね」
「汚ければ良いわけではないけれど、綺麗すぎる帳簿は、誰かが後から整えた可能性があるわ」
「……人間みたい」
リリアナがぽつりと言った。
エレノアは顔を上げる。
「人間?」
「綺麗に見える人ほど、裏で何か隠していることがあるでしょう?」
言ってから、リリアナは慌てた。
「あ、別に誰かのことを言ったわけじゃなくて」
「分かるわ」
エレノアは静かに返した。
「帳簿も同じ。綺麗さそのものではなく、何を整えるために綺麗にしたのかを見るの」
リリアナは真剣に頷き、手帳に書き込んだ。
――綺麗すぎるものは、何を隠すためか見る。
そこへ、オスカーが別の帳簿を持ってきた。
「エレノア様。青い祈りの糸の詳細台帳です。夫人会本体の帳簿とは別に、ドロテア・ランズが管理していた補助簿が見つかりました」
「補助簿?」
「はい。夫人会館の書庫ではなく、彼女個人の小机に保管されていたものです」
エレノアは受け取った。
表紙には何も書かれていない。
地味な灰色の帳面。
夫人会の立派な帳簿とは違い、薄く、目立たず、手のひらに収まるほどだった。
開くと、文字は非常に細かかった。
整っている。
だが、綺麗というより、隠れるような字だった。
青い祈りの糸 補助記録。
収入。
販売品。
協力者。
配布先。
調整金。
別口保管。
最後の項目で、エレノアの指が止まった。
「別口保管」
カインが窓際から近づいてくる。
「何だ」
「青い祈りの糸の売上の一部が、正式な夫人会帳簿ではなく、別口として管理されています」
「金額は?」
エレノアは行を追った。
「小額です。一回ごとは。銀貨五枚、七枚、十二枚。けれど回数が多い」
「合計は」
オスカーがすぐに別紙を出した。
「過去二年で銀貨三百八十六枚」
リリアナが目を丸くした。
「それは、小額なの?」
「一回ごとは小額でも、積み上がると大きいのよ」
エレノアは、別口保管の行をさらに見た。
支出先は、略号で書かれている。
R.G.
M.H.
B.
J.
D.M.
O.B.
D.L.
すでに見た頭文字がある。
R.G.はリゼット・グラン。
M.H.はミラ・ハーディ。
Bはベアタか。
Jは布置き場係ジム。
D.M.はダリウス・モーン。
O.B.はオルガ・ベルナール。
D.L.はドロテア・ランズか。
青い祈りの糸の売上は、冬服だけでなく、人を動かす金にもなっていた。
「慈善販売の小銭が、協力者への支払いに使われていた」
エレノアが言うと、リリアナの顔が青ざめた。
「じゃあ、指輪や髪飾りを買ったお金が……」
「一部は、そういう用途に流れた可能性が高いわ」
「誰かの冬を温めるためじゃなかったの?」
リリアナの声には、怒りとも悲しみともつかない感情が混ざっていた。
エレノアは、静かに答えた。
「本当に冬服に使われた分もある。全部が偽りではないでしょう」
「それが余計に嫌です」
リリアナは小さく言った。
「少し本当だから、みんな信じたのね」
その通りだった。
完全な嘘なら、もっと早く疑われたかもしれない。
だが、青い祈りの糸は本当に子供たちへ衣料を届けてもいた。
その善意の流れに、少しずつ不正の金を混ぜた。
清水に、黒い染料を一滴ずつ落とすように。
最初は分からない。
けれど、気づいた時には全体が濁っている。
「ドロテア・ランズはどこに?」
カインが問う。
オスカーが答える。
「王都西区の小邸にいます。今朝、夫人会帳簿提出の件で呼び出しを出しましたが、体調不良を理由に延期を求めてきました」
「逃げるか」
「可能性があります」
エレノアは補助簿を閉じた。
「逃げる前に、行きましょう」
カインは頷いた。
「すぐ動く」
リリアナが、また手を上げかけて止めた。
エレノアは視線を向ける。
「何?」
「私も、とは言いません。でも……ドロテア夫人の名前、どこかで聞いた気がします」
「どこで?」
リリアナは眉間に皺を寄せた。
「お母様の茶会か、オルガ様の茶会か……たしか、『未亡人なのに数字に強くて助かる方』って。あと、誰かが『あの方は夫を亡くしてから、お金に細かくなった』って言っていたような」
「誰が?」
「それが、思い出せないの」
「思い出したことと、曖昧なことを分けて書いておいて」
「はい」
リリアナは頷いた。
以前なら、曖昧な記憶でも断言していたかもしれない。
今は、曖昧なまま差し出せるようになった。
それだけでも、記録には大きな違いだった。
ドロテア・ランズの屋敷は、王都西区の静かな通りにあった。
伯爵未亡人の住まいとしては小さい。
門の鉄飾りは古く、庭の手入れも最低限だった。だが、窓は磨かれ、玄関の真鍮の取っ手だけは丁寧に光っている。
落ちぶれた家。
しかし、品格だけは捨てていない。
そんな印象を受ける屋敷だった。
出迎えた老執事は、王弟カインの姿を見るなり顔色を変えた。
「奥様は、体調がすぐれず」
「医師ではなく、監査で来た」
カインの短い言葉に、老執事は押し黙った。
エレノアが一歩前に出る。
「ドロテア夫人にお伝えください。夫人会帳簿と青い祈りの糸補助簿について、確認が必要です」
老執事の目がわずかに揺れた。
補助簿。
その言葉に反応した。
つまり、屋敷の者も存在を知っている可能性がある。
「……少々お待ちを」
老執事が奥へ下がる。
しばらくして、応接室へ案内された。
部屋は薄暗かった。
重いカーテンが半分閉じられ、暖炉には火が入っていない。壁には亡き夫らしき男性の肖像画が掛かっている。書棚には会計や法律に関する本が多く、装飾品は少ない。
そこに、ドロテア・ランズ伯爵未亡人はいた。
年は四十前後。
黒い喪服に近いドレスをまとい、髪はきっちりまとめている。顔立ちは地味だが、目だけが鋭かった。
彼女は立ち上がり、完璧な礼をした。
「王弟殿下。エレノア様。お見苦しいところをお見せして申し訳ございません」
声は細い。
しかし、弱々しさは作られたものにも聞こえた。
「体調不良と聞いた」
カインが言うと、ドロテアは薄く微笑んだ。
「ええ。未亡人の体は、天気にも帳簿にも弱いものです」
「では、短く済ませる」
「助かります」
エレノアは、補助簿を机に置いた。
「これは、夫人のものですね」
ドロテアの目が、帳簿へ落ちる。
ほんの一瞬だけ、表情が固まった。
だが、すぐに微笑みを戻す。
「筆跡は私のものに似ておりますね」
「似ている、ではなく、夫人のものです。夫人会の提出資料から照合済みです」
「それなら、そうなのでしょう」
あっさり認めた。
抵抗しない。
エレノアは、慎重に次を問う。
「青い祈りの糸の売上から、別口保管として銀貨三百八十六枚が動いています。これは何の資金ですか」
ドロテアは、少しだけ首を傾げた。
「運営調整費です」
「運営調整費」
「夫人会の活動には、正式帳簿に載せにくい小さな支出がございます。急な馬車代、針子への謝礼、孤児院へ向かう者の食費、修繕の手間賃。そうしたものを、いちいち正式帳簿へ載せていては動きが遅くなります」
いかにも筋の通った説明だった。
だが、エレノアは補助簿の一行を指で示した。
「D.M.への支出は、運営調整費ですか」
ドロテアの微笑みが、少しだけ薄くなる。
「どなたを指す略号か、記憶が曖昧です」
「ダリウス・モーン」
「そうとも読めますね」
「O.B.はオルガ・ベルナール」
「それも、そう読めます」
「R.G.はリゼット・グラン」
「エレノア様は、頭文字を読むのがお上手ですこと」
挑発だった。
エレノアは乗らない。
「夫人。これは会計記録です。読み方を曖昧にするなら、正式帳簿としての信用はありません」
「補助簿ですから」
「補助簿であっても、公金に類する慈善資金を扱っています」
「夫人会の慈善販売です。王妃基金そのものではございません」
「王妃基金後援の名を使っています」
ドロテアは黙った。
その沈黙を、カインが切った。
「王妃の名を使って集めた金だ。私的な小銭ではない」
「王弟殿下は、女性たちが回してきた細かな慈善の現場をご存じない」
ドロテアは静かに言った。
「男性の法と帳簿は、いつも遅いのです。寒い子供に毛布を届けるのに、印を三つも待っていられません」
「その言い訳で、ダリウスへ金を渡したか」
カインの声は冷たかった。
ドロテアは少しだけ笑った。
「私は、誰かの命令で帳簿を整えただけです」
「誰の命令だ」
「夫人会の空気です」
「空気は命令しない」
「いいえ、しますわ」
ドロテアは初めて、少し強い声を出した。
「夫が亡くなった後、私は伯爵家の名だけを持つ未亡人になりました。資産は減り、親族には面倒がられ、社交界では慰めの言葉だけをもらいました。でも、帳簿を整えれば必要とされた。夫人会で、私は数字を読める女として居場所を得ました」
その声には、苦さがあった。
「その居場所を守るために、帳尻を合わせたのです。最初は本当に小さなことでした。足りない馬車代を別口から出す。茶会の売上を翌月の支援へ回す。寄付者の名を整える。誰も困らない。むしろ、活動は滑らかに回る」
「その滑らかさの中で、不正資金が動いた」
エレノアが言う。
ドロテアは否定しなかった。
「オルガ様は、それをよく分かっていました。『あなたの帳簿は、人を傷つけない帳簿ね』と仰った」
「人を傷つけない?」
「ええ。厳密すぎる帳簿は、人を傷つける。少し整える帳簿は、人の体面を守る。そう言われました」
エレノアは、胸の奥で冷たい怒りを感じた。
また、綺麗な言葉だ。
人を傷つけない帳簿。
だが実際には、その帳簿が人を傷つけた。
王妃を。
孤児院の子供たちを。
ミラを。
ベアタを。
リリアナを。
そして、夫人会で真面目に働いていた者たちを。
「ドロテア夫人」
エレノアは静かに言った。
「帳簿は、人の体面を守るためにあるのではありません」
「では、何のために?」
「後から見た人が、何が起きたかを正しく知るためです」
ドロテアの表情が、初めてわずかに揺れた。
エレノアは続ける。
「時には、その記録が人を傷つけることもあります。ですが、記録を整えて事実を隠せば、傷は見えないところで広がります」
「若い方は、まっすぐで羨ましい」
「まっすぐではありません。今回、何度も迷っています」
「そうは見えません」
「見せていないだけです」
ドロテアは、少し意外そうにエレノアを見た。
エレノアは、補助簿を開いた。
「O.B.への支出。これはオルガ夫人へのものですね」
長い沈黙。
やがてドロテアは、静かに答えた。
「直接渡したわけではありません。リゼットを通じてです」
「用途は?」
「王宮内の協力者への謝礼。書簡運搬。型紙入手。布置き場の通過。そう聞いていました」
「聞いていた?」
「ええ」
「何に使われるか知っていたのですね」
ドロテアの手が、膝の上でわずかに震えた。
「最初からすべては知りませんでした」
「途中からは?」
「……はい」
その一言が出た。
エレノアは、さらに問う。
「王妃様の薬に関わる資金だと知っていましたか」
ドロテアは顔を上げた。
そこに初めて、明確な恐怖が浮かんだ。
「それは知りません」
「本当に?」
「本当です。王妃陛下を害するなど、私は」
「害するつもりはなかった」
エレノアは、その言葉を遮るように言った。
ドロテアは口を閉ざした。
「その言葉は、もう何度も聞きました」
部屋の空気が冷える。
エレノアの声は荒くない。
けれど、重かった。
「害するつもりがなくても、資金を動かし、記録を整え、不自然な支出を隠した。その先で何が起きるかを確認しなかった。それは責任です」
ドロテアは、深く目を伏せた。
「……はい」
それは、敗北の声だった。
「私は、帳簿を握っていました。だから、止めることもできたはずです」
静かな告白だった。
「でも、止めませんでした。私の居場所を失うのが怖かったから」
エレノアは、少しだけ目を細めた。
また恐怖。
沈黙の下にあるもの。
見逃しの下にあるもの。
帳尻合わせの下にあるもの。
愛でも善意でもなく、恐怖。
カインが低く言った。
「補助簿以外の記録はあるか」
ドロテアは、少し迷った。
その迷いを、カインは見逃さない。
「あるな」
「……あります」
「どこだ」
「地下の古い食品庫に。夫人会の帳簿と、オルガ様から預かった書簡の写しが」
「案内しろ」
ドロテアは、静かに立ち上がった。
地下の食品庫は、もう食品庫としては使われていなかった。
埃をかぶった棚と空の瓶が並び、奥には古い木箱が積まれている。
その一つを開けると、中には油紙に包まれた帳簿と書簡束があった。
リゼットへの支払記録。
青い指輪配布者の実名。
王宮布置き場を通した包みの回数。
オルガからドロテアへ宛てた指示書の写し。
そして、グレゴール公爵家と夫人会資金の接点。
エレノアは、その中の一枚を見て息を止めた。
そこには、ヴァレンシュタイン公爵家から夫人会へ流れた寄付金が記録されていた。
名目は、王太子妃候補教育支援寄付。
リリアナの名がある。
金額は銀貨八百枚。
そのうち、実際に教育支援へ使われたのは半分以下。
残りは、青い祈りの糸の別口へ移されている。
父グレゴールは、リリアナを王太子妃候補にするための金を、夫人会経由でオルガの網へ流していた。
自分の家の金で。
自分の娘を駒にするために。
そして、その金が王妃を弱らせる仕組みにも使われた可能性がある。
エレノアは、紙を握りしめそうになるのをこらえた。
証拠を傷つけてはいけない。
深く息を吸い、丁寧に封筒へ入れる。
「夫人」
エレノアはドロテアを見た。
「この寄付金の流れも知っていましたか」
ドロテアは、震える声で答えた。
「はい」
「グレゴール公爵の金だと?」
「はい」
「用途は?」
「王太子妃候補交代を円滑にするための、社交費だと聞いていました」
「誰から?」
「オルガ様です」
「それを信じた?」
「信じたかったのです」
ドロテアは、涙を浮かべた。
「私も、流れに乗りたかった。夫人会の中心に近づきたかった。数字を整えれば、私は必要とされる。未亡人として慰められるだけでなく、役に立つ人間でいられる。そう思いました」
エレノアは、その弱さを理解しないわけではなかった。
だが、理解と免責は違う。
「正式証言に進みます」
エレノアは言った。
「夫人が持つ記録はすべて押収します。夫人自身も、王宮へ同行していただきます」
ドロテアは静かに頷いた。
「承知いたしました」
屋敷を出る時、ドロテアは一度だけ自分の家を振り返った。
その目には、恐怖よりも空虚があった。
帳簿を握ることで保っていた居場所が、今崩れたのだ。
だが、崩れるべきものだった。
王宮へ戻る馬車の中で、エレノアは押収された帳簿の一覧を確認していた。
カインが向かいで言う。
「グレゴールへの追及材料が増えたな」
「はい」
「リリアナにも見せる必要がある」
エレノアは、少しだけ目を閉じた。
「分かっています」
リリアナは、自分が王太子妃候補になるためにどれほどの金と不正が動いていたか、また知ることになる。
簡単ではない。
だが、隠すべきではない。
彼女はもう駒ではないと言った。
なら、自分の周りで動いた金も知らなければならない。
「デリア夫人については?」
カインが問う。
「管理責任は重いです。ただ、ドロテアの証言と記録により、デリア夫人が直接不正資金を指示した可能性は今のところ低い」
「代表辞任は?」
「調査終了後、避けられないでしょう。ただ、夫人会の全面協力を引き出すため、今すぐ切るより監督下で協力させる方がよいと思います」
「同感だ」
カインは短く答えた。
王宮へ戻ると、リリアナが待っていた。
彼女はエレノアの顔を見るなり、何かあったと察したようだった。
「お姉様」
「リリアナ。明日、あなたに確認してもらう書類があります」
「私に?」
「ええ。あなたの王太子妃候補教育支援寄付に関わるものよ」
リリアナの顔から血の気が引いた。
「私の……?」
「今日は遅いわ。明日、マルタ同席で説明します」
リリアナは、少し震えた。
けれど、逃げなかった。
「分かりました」
短く答えた。
その声は怖がっていた。
だが、以前のように「無理」とは言わなかった。
エレノアは、その変化を静かに受け止めた。
夜、北翼の監査室では、ドロテアの帳簿から写しが作られていた。
青い祈りの糸は、裏連絡の合図であるだけでなく、夫人会資金の逃げ道でもあった。
そして、その逃げ道にはヴァレンシュタイン公爵家の金も流れ込んでいた。
父の罪。
夫人会の沈黙。
未亡人の恐怖。
オルガの網。
すべてが数字としてつながり始めている。
エレノアは、記録簿に新しい行を書いた。
――ドロテア・ランズ、青い祈りの糸補助簿および別口資金管理を認める。グレゴール公爵家から夫人会経由で資金流入。用途に王太子妃候補交代工作の疑い。
筆を置いた後、しばらく手を動かせなかった。
父は、どこまで知っていたのか。
オルガに利用された部分もあるだろう。
だが、彼自身が金を出し、娘たちを配置し、家を守ろうとしたことは変わらない。
次に向き合うべき相手は、再び父グレゴールだった。
王妃基金の裁定で一度裁かれた父。
けれど、まだ家族と相続と資金工作の全てを語ったわけではない。
エレノアは、深く息を吸った。
帳簿を握る未亡人は、沈黙を破った。
次は、その帳簿に金を流した公爵が、何を語るのか。




