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第33話 声を上げた者を守る制度

 声を上げることは、勇気だと人は言う。


 だが、勇気だけで声を上げられる者は少ない。


 声を上げた後に何が起きるのか。


 仕事を失うのか。

 家族に責められるのか。

 主人に捨てられるのか。

 夫に疎まれるのか。

 貴族に睨まれるのか。

 あるいは、誰にも信じてもらえず、ただ騒ぎを起こした者として記録されるのか。


 その恐怖を知っている者ほど、声は喉の奥で止まる。


 ベアトリス・モーンの手帳は、そのことをはっきり示していた。


 彼女は見ていた。


 夫ダリウスの帰宅時間。

 燃やされた書簡。

 黒眠草という言葉。

 オルガの使者。

 サルヴィ商会の箱。

 エレノアを慈善院へ送るという話。


 見ていた。


 記録もしていた。


 それでも、出せなかった。


 夫を恐れたから。

 家が壊れることを恐れたから。

 妻として夫を疑うことを悪だと思い込まされていたから。


 ならば、ただ「なぜ早く言わなかった」と責めるだけでは足りない。


 言える場所がなかったのだ。


 エレノアは、その朝、王妃基金改革案の新しい項目として、白紙の上に一行を書いた。


 ――証言者保護制度。


 筆先が、紙の上で少し止まる。


 たった七文字。


 けれど、その七文字の中には多くのものが含まれている。


 誰が受け付けるのか。

 誰を保護するのか。

 虚偽の訴えをどう防ぐのか。

 証言者の名前をどこまで秘匿するのか。

 貴族と使用人で扱いに差をつけないのか。

 夫婦、親子、主従の中で起きた沈黙を、制度はどこまで拾えるのか。


 簡単ではない。


 声を上げた者を守る制度は、同時に、誰かを訴える力を与える制度でもある。


 悪用されれば、人を陥れる刃にもなる。


 だから、ただ優しく作ればいいわけではなかった。


 北翼の会議室には、朝から関係者が集められていた。


 王弟カイン。

 エレノア。

 マルタ。

 オスカー。

 王家法務官補佐。

 臨時会計監査官。

 王太子ユリウス。

 リリアナ。

 そして、前日に証言したベアトリス・モーン夫人。


 ベアトリスは、証言者としてではなく、参考人として呼ばれていた。


 今日の彼女は昨日より少し顔色が戻っていたが、それでも緊張は隠せない。夫を告発した妻として、王宮内でどう見られるかを恐れているのだろう。


 リリアナは、そんなベアトリスを時折気にしていた。


 自分の言葉が彼女を動かしたと知ってから、リリアナの中で何かが変わり始めている。


 言葉は遠くへ届く。


 だから、軽く使ってはいけない。


 そのことを、ようやく体で感じ始めているのだ。


「証言者保護制度」


 カインが、エレノアの書いた一行を見た。


「大きく出たな」


「必要です」


 エレノアは答えた。


「王妃基金改革だけではなく、王宮全体に関わる制度になります」


「分かっているか。これは反発が大きい」


「はい」


「貴族たちは密告制度だと言う。官吏たちは職場を疑心暗鬼にすると言う。夫人会は家庭内の問題に王宮が踏み込むのかと騒ぐ。使用人たちは、逆に本当に守られるのか疑う」


「それでも、必要です」


 エレノアは同じ言葉を繰り返した。


 カインは、しばらく彼女を見た。


「理由を」


「今回の件で、沈黙していた人が多すぎました」


 エレノアは、資料を一枚ずつ並べる。


「薬草園の管理人は、納入薬草の質の悪さに気づいていました。けれど、その声は上がらなかった。ミラ・ハーディは偽女官として使われ、途中で怖くなったが逃げ場がなかった。ベアトリス夫人は夫の不審に気づき、記録までしていたが、出せなかった。王宮洗濯室のベアタも、型紙の不正持ち出しに関わった疑いがありますが、妹の病を理由に金で動かされた可能性がある」


 カインの目がわずかに鋭くなる。


 ベアタ。


 王宮洗濯室の古参。


 ミラが女官服を整えるために使った型紙は、彼女を経由して渡された疑いが強い。


 今は別室で聴取待ちだが、彼女もまた、単純な悪人とは限らない。


「悪事に関わった者を守る制度ではありません」


 エレノアは続けた。


「けれど、悪事に巻き込まれかけた段階で声を上げられる場所があれば、罪が深くなる前に止められるかもしれません」


 ユリウスが、ゆっくりと顔を上げた。


「私にも関わる話だな」


 エレノアは彼を見る。


「はい」


 ユリウスは唇を噛んだ。


「ローレンは、何度も私を止めようとしていた。だが私は聞かなかった。ダリウスの方が心地よかったからだ。もし、側近が王太子へ直接言っても聞かれない時、別の場所へ報告できる制度があれば……」


 そこで一度、言葉が止まる。


「いや、それでも私の責任は消えないが」


「消えません」


 エレノアは即答した。


 ユリウスは、苦く笑った。


「君は本当に即答するな」


「重要な点ですので」


「分かっている」


 ユリウスは、資料へ目を落とした。


「ただ、再教育を受ける身として言うなら、上に立つ者ほど、下の者が自分を通さずに声を上げられる仕組みを嫌がるだろう」


 法務官補佐が頷く。


「実際、反発は出ます。主を飛び越えて訴えた使用人をどう扱うのか。夫を告発した妻をどう扱うのか。上司を告発した官吏をどう扱うのか。身分秩序に関わる問題です」


「身分秩序より、人命と公金の保全が優先される場合があります」


 エレノアは言った。


「今回、王妃様の薬がそうでした」


 その一言で、会議室が静まった。


 王妃の死。


 それを出されれば、誰も軽く反論できない。


 カインが机を指で一度叩いた。


「制度の骨子を示せ」


「はい」


 エレノアは新しい紙を広げた。


「第一に、証言受付の窓口を王弟府監督下に置きます。名称は仮に『保護証言室』。王妃基金、王宮財務、医療、慈善団体、王宮内の職務不正に関する証言を受け付けます」


 オスカーが書き留める。


「第二に、証言は三段階に分けます。相談、仮申告、正式証言」


 リリアナが手を上げた。


「三段階にする理由は?」


「最初から正式証言にすると、怖くて来られない人が多いからよ」


 エレノアは答えた。


「相談段階では、名前と概要だけを保護記録に残す。仮申告では証拠や関係者を確認する。正式証言では法務官立会いで記録し、裁定や監査に使える形にする」


「相談だけして、やっぱりやめますっていうのは?」


「可能。ただし、人命や証拠隠滅に関わる場合は、保護証言室が独自に確認へ進める」


 リリアナは、必死に手帳へ書き込んだ。


「なるほど……いきなり大広間に立たなくていいのね」


 その言葉には、彼女自身の実感があった。


 大裁定の間で証言した時の恐怖を、まだ忘れていないのだろう。


 エレノアは頷いた。


「そう。声を上げる階段を作るの」


「階段……」


 リリアナはその言葉を手帳に書いた。


「第三に、報復禁止令です」


 エレノアは続けた。


「証言者に対して、解雇、減俸、婚家からの追放、社交界での名誉毀損、物理的な脅迫などが行われた場合、証言内容とは別に処罰対象とします」


 ベアトリスが顔を上げた。


 その目に、はっきりと反応があった。


「婚家からの追放も、ですか」


「はい」


 エレノアは彼女を見る。


「妻や娘、使用人は、声を上げた後の居場所を失うことを最も恐れます。保護先を用意しなければ、制度は絵に描いたものになります」


 マルタが静かに言った。


「王宮内に、一時保護用の部屋を確保できます。長期滞在は難しいですが、初期保護には使えるでしょう」


「ありがとうございます」


「女官長として申し上げますが、女性の証言者には女性の聞き取り役が必要です。男性法務官だけでは話せない内容もございます」


「その点も入れます」


 エレノアはすぐに書き加えた。


 ――証言者の希望により、女性聞き取り役を配置。


 リリアナが小さく頷く。


「それは必要だと思います」


 ユリウスも頷いた。


「男性でも、王太子や高位貴族の前では言えないことがある。身分差が大きい相手を置くと、証言が歪む可能性がある」


 カインがユリウスを見た。


「良い視点だ」


 ユリウスは一瞬、言葉に詰まった。


 叔父から素直に評価されると思っていなかったのだろう。


「ありがとうございます」


 そう答える声に、少しだけ戸惑いが混ざっていた。


「第四に、虚偽申告への対応です」


 エレノアは筆を止めずに続ける。


「保護制度は、人を陥れるために使われる危険があります。明確な虚偽証言、偽造証拠、悪意ある中傷については処罰対象にします。ただし、結果的に誤認だった場合まで罰してはいけません」


 法務官補佐が頷いた。


「悪意ある虚偽と、誤認の区別が問題になります」


「はい。だから相談段階と仮申告段階を分けます。最初から罪人を作るのではなく、事実確認を行う。証言者を守りつつ、告発された側の名誉も守る仕組みが必要です」


 カインが言った。


「いいだろう。難しいが、方向は正しい」


 それから、彼はベアトリスへ視線を向けた。


「ベアトリス・モーン」


「はい」


「あなたから見て、この制度は使えるか」


 ベアトリスは、突然問われて少し戸惑った。


 しかし、すぐに考え込む。


「もし、二年前にこの制度があったなら……私は、相談段階なら行けたかもしれません」


「正式証言ではなく?」


「はい。夫を告発する覚悟は、当時の私にはありませんでした。でも、『夫の書斎で不審な書簡が燃やされている』『黒眠草という言葉を聞いた』と相談できる場所があれば……」


 彼女は唇を噛んだ。


「たぶん、行くまでに何日も迷ったと思います。それでも、行ける場所があることを知っているだけで違ったはずです」


「何が一番怖かった」


 カインが問う。


「家を失うことです」


 即答だった。


「夫に知られたら、妻として裏切ったと言われる。婚家を追われる。実家にも戻れない。夫人会では、夫を告げ口した女として扱われる。そう思いました」


「保護先と名誉保護が必要ですね」


 エレノアが言うと、ベアトリスは頷いた。


「はい。それから……証言した後、自分がどうなるのかを説明してくれる人も必要です。私は何が起こるか分からなかったから、余計に怖かった」


 エレノアはそれも書き加えた。


 ――証言後の手続き説明。保護期間、面会制限、生活支援、審査対象となる責任範囲を明示。


 リリアナが小さく言った。


「私も、そういう説明があると助かります」


 全員の視線が彼女へ向く。


 リリアナは少し恥ずかしそうにしながらも続けた。


「私は証人保護に入った時、何をしたらいいのか分からなくて怖かったです。お姉様やマルタが説明してくれたけど、最初は怒られるだけだと思っていました。紙に、今後の流れが書いてあると……少し落ち着くと思います」


 それは、実務的な意見だった。


 エレノアは頷く。


「証言者向けの説明書を作りましょう」


「説明書」


 リリアナの目が少しだけ輝いた。


「それ、私も読んで分かるように作ってほしいです」


「あなたにも確認してもらいます」


「私が?」


「ええ。難しすぎないか見る係」


 リリアナは一瞬きょとんとし、それから真剣な顔で頷いた。


「分かりました。難しすぎたら、ちゃんと言います」


「それは助かるわ」


 会議室の空気が、少しだけ柔らかくなった。


 だが、すぐに法務官補佐が現実的な問題を出した。


「制度を作るにあたり、最大の問題は管轄です。王弟府が直接受け付けるとなると、王太子府、財務局、各貴族家が反発します。王弟殿下の権限拡大と見られる恐れも」


 カインは表情を変えなかった。


「見られるだろうな」


「よろしいのですか」


「よくはない。だが、他に中立性を保てる場所がない」


 ユリウスがそこで口を開いた。


「王太子府は、現時点で信頼を失っている。少なくとも私の再審査が終わるまでは、この制度を預かる資格はない」


 自分で言った。


 その事実に、会議室が一瞬静かになる。


 ユリウスは続けた。


「ただし、将来的には王弟府だけの制度にしてはいけないと思います。王弟殿下がいなくなった後、また穴になる」


 カインがわずかに目を細めた。


「続けろ」


「王家法務官の下に、独立した保護証言室を置く。初期設計と監督は王弟府。運用が安定したら、王家法務官、王妃基金改革官、財務監査官、女官長代表の四者で監督する形に移す」


 エレノアは、その案を聞いて少し驚いた。


 ユリウスは、以前より制度として考えようとしている。


 自分の権限を取り戻す話ではなく、長く残る仕組みとして。


「良い案です」


 エレノアは言った。


 ユリウスは彼女を見る。


「本当に?」


「はい。ただ、女官長代表だけではなく、使用人側の代表も必要かもしれません」


 マルタが頷く。


「洗濯室、厨房、馬車係、下働き。女官とは別の声があります」


「なら、王宮使用人監督長から一名」


 オスカーが記録する。


 カインは、ユリウスを見た。


「今の案は、再審査記録に加える」


「はい」


「良い発言としてだ」


 ユリウスは今度こそ、少しだけ顔を緩めた。


「ありがとうございます」


 その様子をリリアナが見て、小さく笑った。


「殿下、褒められて嬉しそうです」


 ユリウスが咳き込む。


「リリアナ」


「あっ、ごめんなさい。記録しないでください」


 オスカーが真顔で筆を止めた。


「今の発言は会議の本筋から外れますので、記録しません」


「よかった……」


 リリアナが胸を撫で下ろす。


 その場にいた何人かが、ほんの少しだけ笑った。


 緊張の中に、短い息継ぎが生まれる。


 だが、制度作りはそこで終わらなかった。


 午後には、実際の証言者候補として、王宮洗濯室のベアタが呼ばれた。


 ベアタは五十代の女性で、左手の薬指が曲がっていた。


 長年、王宮の下働きとして生きてきた人間らしく、部屋に入るなり深く頭を下げ、顔を上げようとしなかった。


「顔を上げてください」


 エレノアが言うと、ベアタは怯えたように首を振った。


「私のような者が、皆様のお顔を見るなど」


「ここでは証言者です。必要な時は顔を上げて話してください」


 ベアタは、恐る恐る顔を上げた。


 目には怯えがあった。


 だが、それ以上に疲れがあった。


 ミラに王宮女官服の型紙を渡した疑い。


 その件について、彼女は最初、否定した。


「私は何も知りません。ただ、古い布を渡しただけで」


 しかし、エレノアが保管庫で見つかった型紙と、ミラの証言を示すと、ベアタの顔から血の気が引いた。


 沈黙。


 長い沈黙。


 やがて、彼女は震えながら言った。


「妹が……薬代が必要でございました」


 それは、ほとんど崩れるような告白だった。


 妹は王都外れで病に伏していた。


 薬代が足りず、ベアタは借金をしていた。


 そこへ、慈善衣料会の名を出す女が近づいた。


 古い女官服の型紙を写すだけでいい。


 誰かを傷つけるものではない。


 使われなくなった型なのだから問題ない。


 謝礼を出す。


 妹の薬代にもなる。


「私は……本当に、ただ衣料会の舞台衣装か何かに使うのだと思って」


 ベアタは泣きながら言った。


「でも、後からミラが王宮へ入ったと聞いて、怖くなって。言おうと思いました。でも、言えば私も妹も終わりだと」


「誰に言われましたか」


 エレノアが尋ねる。


「オルガ様の使いの女です。名前は知りません。ですが、青い石の指輪をしていました」


 オスカーがすぐに記録する。


 青い石の指輪。


 新たな手がかりだった。


「あなたは、今まで誰かに相談しましたか」


 ベアタは首を横に振った。


「できません。洗濯室の者が王宮の方々に何を言えるというのでしょう。言えば、私が盗んだことになる。妹の家にも迷惑がかかる。だから……」


 エレノアは、ベアタを見た。


「もし、相談だけできる場所があったら、来ましたか」


 ベアタは、涙に濡れた目で彼女を見た。


「……分かりません」


 正直な答えだった。


「でも、誰かが聞いてくれると知っていたら、夜眠れないほど怖くはなかったかもしれません」


 その言葉も、記録された。


 会議室に戻ったエレノアは、制度案の端に新たな一文を加えた。


 ――相談者は、罪の有無が確定する前に相談できる。相談した事実のみを理由に処罰しない。


 カインがそれを見て言った。


「かなり踏み込むな」


「踏み込まなければ、ベアタのような人は来られません」


「罪を犯した後に相談すれば許される、と思われる危険もある」


「許すとは書きません。相談した事実を、審査時に考慮する。罪の有無と処分は別に判断する」


「線引きが難しい」


「はい」


「だが、必要か」


「必要です」


 何度目かの言葉だった。


 カインは、少しだけ息を吐いた。


「あなたは、その言葉を言う時だけ迷わないな」


「迷っています」


「そうは見えない」


「見せない練習をしていますので」


 カインの目が、ほんの少し和らいだ。


「そうだったな」


 夕方までに、証言者保護制度の骨子は形になった。


 名称。


 保護証言室。


 管轄。


 初期は王弟府監督下。将来的に王家法務官を中心とする独立機関へ移行。


 対象。


 王宮財務、王妃基金、医療、慈善団体、王宮内職務不正、権限濫用、証拠隠滅、報復行為。


 段階。


 相談、仮申告、正式証言。


 保護。


 氏名保護、面会制限、一時居所、女性聞き取り役、証言後手続き説明、報復禁止。


 制限。


 悪意ある虚偽申告は処罰。誤認は処罰しない。証拠確認を必須とする。


 そして最後に、エレノアはこう書いた。


 ――声を上げた者を、声を上げたことだけで罰してはならない。


 その一文を見た時、会議室はしばらく静かだった。


 ベアトリスは目を伏せていた。


 ベアタは別室にいる。


 ミラも、まだ保護下で療養している。


 リリアナは、手帳に同じ一文を書き写した。


 ユリウスも、黙ってその文を見ていた。


 カインは、最後に言った。


「この制度案を、国王陛下へ提出する」


「はい」


「反発は来る」


「承知しています」


「夫人会、貴族家、官吏、王太子府の古参、使用人監督側。全方位からだ」


「想定しています」


「それでも進めるか」


 エレノアは、白紙だったものが文字で埋まった紙を見た。


 声を上げた者を守る制度。


 王妃の死には間に合わなかった。


 だが、次の誰かには間に合うかもしれない。


 ベアトリスのように、手帳を隠して震える人に。

 ミラのように、逃げ場を失う人に。

 ベアタのように、家族の薬代で罪に手を伸ばす人に。

 ローレンのように、主君へ進言しても届かない者に。

 リリアナのように、知らないまま利用される人に。


 間に合うかもしれない。


「進めます」


 エレノアは答えた。


 声は静かだった。


 だが、迷いはなかった。


 その夜、王妃私室の机に、制度案の写しが置かれた。


 正式提出前に、エレノアがどうしてもそこへ持って行きたかったのだ。


 王妃の椅子の前に立ち、彼女は小さく言った。


「王妃様。声を上げた者を守る制度を作ります」


 部屋は静かだった。


 返事はない。


 けれど、窓の外で夜風が白い薄布を揺らした。


「あなたの時には、間に合いませんでした。でも、次は……次こそは、誰かが黙らずに済むように」


 エレノアは、写しの上に手を置いた。


 王妃が残した言葉。


 彼女を道具として扱うな。


 その意味は、エレノアだけに向けられたものではなかったのかもしれない。


 人を道具として扱うな。


 妻を、夫の沈黙の道具にするな。

 妹を、家の相続の道具にするな。

 使用人を、捨て駒にするな。

 善意を、金を動かす道具にするな。

 王妃の名を、権力争いの道具にするな。


 そして、声を上げた者を、都合の悪い道具として壊すな。


 エレノアは、深く礼をした。


 長い一日が終わる。


 けれど、改革はまだ始まったばかりだった。


 保護証言室。


 その制度は、王宮に新しい扉を作ることになる。


 そして扉ができれば、必ず誰かが叩く。


 翌朝、その最初の訪問者が現れることを、エレノアはまだ知らなかった。

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