第34話 最初の保護証言者
保護証言室という名前は、まだ仮のものだった。
正式な制度として国王裁可を受けたわけではない。
王家法務官との詰めも残っている。
夫人会や貴族家からの反発も予想される。
財務局、王太子府、使用人監督長との調整も必要だった。
それでも、扉だけは先に用意された。
北翼の端にある、小さな部屋。
もとは古い文書保管室だった場所だ。壁は厚く、廊下から中の声が聞こえにくい。窓は中庭側にあり、外から覗かれる心配も少ない。
机が一つ。
椅子が四脚。
記録用の棚。
湯を沸かす小さな暖炉。
そして扉の横に、まだ墨の乾ききらない札が掛けられていた。
――保護証言室・仮受付。
エレノアは、その札を見て少しだけ眉を寄せた。
「仮受付、という言葉は少し頼りなく見えますね」
隣にいたオスカーが、困ったように手元の紙を見た。
「正式裁可前ですので、法務官補佐からは“仮”を入れるようにと」
「そうですね。正式ではないものを正式のように見せるわけにはいきません」
「ただ、相談者が見た時に不安になる可能性はあります」
「ええ」
エレノアは少し考え、札の下にもう一枚、小さな紙を貼らせた。
――相談だけでも構いません。相談したことだけで罰されることはありません。
その一文は、昨日の会議で決まったばかりだった。
声を上げた者を、声を上げたことだけで罰してはならない。
制度の中心となる言葉。
けれど、いざ扉の横に貼ってみると、ずいぶんと細く見えた。
この一文で、本当に人は扉を叩けるのだろうか。
エレノアがそんなことを考えていると、背後から声がした。
「字が少し硬いですね」
振り返ると、リリアナが立っていた。
今日は薄い灰桃色のドレスを着ている。華やかさは控えめだが、顔色は昨日より少し良い。手には、例の小さな手帳を持っていた。
「硬い?」
エレノアが尋ねると、リリアナはおずおずと頷いた。
「相談したことだけで罰されることはありません、は大事だと思います。でも、怖い人が読むと……その、罰という字だけが目に入るかもしれません」
エレノアは、もう一度紙を見た。
なるほど、と思った。
自分は制度文として正確に書いたつもりだった。
だが、怖がっている者は、文章全体を冷静には読めない。目立つ言葉だけを拾ってしまうことがある。
「では、どう書けばいいと思う?」
エレノアが尋ねると、リリアナは目を丸くした。
「私が考えていいの?」
「あなたは説明書の分かりやすさを見る係でしょう」
「あ……そうでした」
リリアナは少し嬉しそうに、それでも真剣に手帳を開いた。
「ええと……『まずは話を聞きます』とか」
エレノアは瞬きした。
「かなり柔らかいですね」
「駄目?」
「いいえ。扉に貼るなら、その方が良いかもしれない」
オスカーがすぐに新しい紙へ書き写した。
――まずは話を聞きます。
短い。
制度文としては足りない。
しかし、扉を叩く前の者には、この短さの方が届くのかもしれない。
リリアナは紙を見て、小さく息を吐いた。
「これなら、少し入りやすい気がします」
「あなたなら入れる?」
「……昔の私なら、入らないと思う」
正直な返事だった。
「どうして?」
「怖いから。あと、自分が悪いって言われるかもしれないから。それに、こういう部屋へ入ったことが誰かに知られたら、もっと怖い」
「今は?」
リリアナは少し考えた。
「今なら……マルタが隣にいてくれたら入れるかも」
後方に控えていたマルタが、少しだけ目を細めた。
「では、最初の説明書には同行者についても書きましょう」
エレノアは頷いた。
「相談者が希望すれば、信頼できる者一名の同席を認める。ただし、証言を妨げない者に限る」
オスカーが記録する。
リリアナは慌てて言った。
「私、今また仕事を増やしました?」
「必要な仕事よ」
「それなら、いいです」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
その時だった。
廊下の向こうで、小さな足音が止まった。
誰かが、こちらを見ている気配がした。
エレノアが顔を向けると、曲がり角の陰から、若い下働きの少女が半分だけ姿を出していた。
年は十七、八ほどだろう。
灰色の仕事着。
髪は簡単にまとめられ、袖口には洗濯場の水仕事でできた赤みがある。
手には、小さな布包みを握っていた。
少女はエレノアと目が合った瞬間、逃げるように一歩下がった。
リリアナが思わず声をかける。
「あの……」
少女はびくりと肩を震わせた。
エレノアは、ゆっくり一歩だけ近づいた。
「ここに用があるの?」
少女は答えない。
顔色が悪い。
唇が震えている。
エレノアは、それ以上近づかなかった。
「名前を言いたくなければ、まだ言わなくていいわ」
その言葉に、少女が少しだけ顔を上げた。
「……まだ?」
「相談だけなら、今すぐ正式証言にはしません。まず話を聞きます」
扉の横に貼ったばかりの紙と同じ言葉だった。
少女の視線が、その紙へ動く。
――まずは話を聞きます。
彼女は何度もその文字を読んでいるようだった。
それから、絞り出すように言った。
「本当に……話すだけでも、いいんですか」
「ええ」
「話したら、洗濯室を追い出されませんか」
「話したことだけで追い出されることはありません」
エレノアは答え、すぐに付け加えた。
「ただし、あなた自身が何かに関わっているなら、それも確認します。隠さず話すことが大切です」
少女は、唇を噛んだ。
逃げるかもしれない。
エレノアはそう思った。
だが少女は、布包みを握りしめたまま、小さく頷いた。
「……相談、したいです」
最初の保護証言者は、華やかな貴婦人でも、役職ある官吏でもなかった。
王宮洗濯室の見習い下働き、ネル・ファラン。
彼女は保護証言室の椅子に座っても、しばらく顔を上げられなかった。
同席者として、洗濯室の年長女中を呼ぶかと尋ねると、ネルは首を横に振った。
「知られたくありません」
その声は、今にも消えそうだった。
エレノアは頷いた。
「では、女性の立会人としてマルタ女官長が同席します。記録係はオスカー。王弟殿下には、内容を整理した上で報告します。今この場で呼ぶ必要がある内容なら、あなたに説明してから呼びます」
ネルは、驚いたように顔を上げた。
「説明してから?」
「ええ。あなたの知らないところで話を進めません」
ネルの目に、少しだけ涙が浮かんだ。
それだけで泣きそうになるほど、彼女は追い詰められていたのだろう。
リリアナは、部屋の隅に控えていた。
本来なら同席する必要はない。
だが、ネルが廊下でリリアナを見て「あの方がいてもいいです」と言ったため、相談者の希望として同席が認められた。
理由を尋ねると、ネルはこう答えた。
「さっき、怖そうじゃなかったから」
リリアナは、その一言にひどく戸惑った顔をした。
少し前まで、自分は可愛いと言われることを望んでいた。
怖そうじゃない。
それは褒め言葉なのかどうかも分からない。
でも、ネルにとっては大切な判断基準だったのだろう。
エレノアは机の上に、相談段階用の記録紙を置いた。
「では、まず相談として聞きます。正式証言に進むかどうかは、内容を確認してから決めましょう」
ネルは頷いた。
しかし、なかなか話し始めない。
布包みを握った指が白くなっている。
マルタが静かに湯を差し出した。
「手を温めてください」
ネルはおずおずとカップを受け取った。
その動作は、怒られ慣れた子供のようだった。
リリアナが、小さな声で言った。
「私も、最初は何を言えばいいか分からなかったわ」
ネルがリリアナを見る。
「リリアナ様も?」
「うん。大裁定の間で、頭が真っ白になった」
「でも、リリアナ様は貴族です」
「貴族でも、怖いものは怖いわ」
その返事は、少し不器用だった。
だが、ネルの肩からほんのわずかに力が抜けた。
エレノアは妹を横目で見た。
悪くない。
そう言う代わりに、話の流れを戻した。
「ネル。あなたが持ってきたものは?」
ネルは布包みを机の上に置いた。
開くと、中から小さな青い欠片が出てきた。
石。
いや、宝石というほど上質ではない。
青い硝子石の一部だった。
丸い装飾品から欠けたような形をしている。
エレノアは息を止めた。
青い石。
ベアタが言っていた。
型紙を求めてきた女は、青い石の指輪をしていた、と。
「これは、どこで?」
エレノアが尋ねると、ネルは震える声で答えた。
「洗濯室の裏の排水口です。昨日の夜、布くずを流そうとして……見つけました」
「なぜ、これを持ってきたの?」
「ベアタさんが言っていたんです。青い石の指輪の女に会ったって。でも、みんな信じてくれるか分からないって。私は、その話を聞いていたから……見つけた時、もしかしてって」
「昨日の夜に見つけて、今日ここへ?」
ネルは首を横に振った。
「昨日は怖くて、枕の下に隠しました。今朝、洗濯室で……怖い話を聞いて」
「どんな話?」
ネルはカップを置き、両手を膝の上で握った。
「『保護証言室なんて、最初に行った子を潰せば終わりよ』って」
リリアナが息を呑んだ。
マルタの表情が険しくなる。
エレノアは、すぐには反応を見せなかった。
その言葉は、ただの噂ではない。
制度が始まる前から、潰そうとする者がいる。
「誰が言ったの?」
ネルは、俯いた。
「分かりません。声だけです。洗濯室の外、布干し場の方から。女の人でした。若くはなかったと思います」
「他に聞いた人は?」
「たぶん、二人くらい。でも、みんな聞こえないふりをしました」
「あなたは?」
「私も、聞こえないふりをしました」
ネルの声が震えた。
「でも、その後、ベアタさんが泣いていて。ミラさんも祈りの家で見つかったって聞いて。私……この石を捨てたら、また誰かが何もなかったことにされるんじゃないかって」
その言葉は、保護証言室の小さな部屋に重く落ちた。
エレノアは、青い硝子石を見た。
小さい。
これだけでは、誰かを裁く証拠にはならない。
だが、声を上げるきっかけにはなる。
最初の証言者が持ってきたものとしては、十分すぎるほどだった。
「石には触れず、このまま証拠袋へ」
エレノアが言うと、オスカーが手袋をつけて慎重に包み直した。
「ネル。あなたが見つけた時、石はどんな状態だった?」
「排水口の金網に引っかかっていました。青い糸くずも一緒に」
「青い糸?」
「はい。濃い青です。女官服の袖口みたいな」
マルタがすぐに反応した。
「その糸は?」
「捨ててしまいました……すみません」
ネルは怯えたように肩を縮めた。
エレノアは首を横に振る。
「怒っていないわ。見つけた時に証拠だと思えなくても当然です」
「でも」
「次に何か見つけたら、そのまま持ってきて」
ネルは、小さく頷いた。
「はい」
「青い石の指輪をした女を、あなた自身は見た?」
ネルは迷った。
口を開きかけて、閉じる。
エレノアは急かさなかった。
やがてネルは、かすかに言った。
「……見たかもしれません」
「いつ?」
「三日前の夕方です。洗濯室の裏口に、上等な外套の女の人が来ていました。顔は薄いヴェールで隠れていて。でも、手袋を片方だけ外していて、指輪が見えました。青い石でした」
「誰と話していた?」
「ベアタさんです。でも、ベアタさんはすごく怯えていて……私は遠くから見ただけです」
「会話は聞こえた?」
「少しだけ」
ネルは息を吸った。
「『型紙のことはもう話すな』って。あと、『妹の薬代を誰が払ったと思っているの』って」
ベアタの妹。
やはり、そこを握られていた。
エレノアは、記録される音を聞きながら、頭の中で線を引いた。
ベアタ。
型紙。
青い石の指輪の女。
洗濯室裏口。
妹の薬代。
保護証言室を潰すという脅し。
青い硝子石の欠片。
「その女の声と、今朝の声は同じだった?」
ネルは目を閉じて、思い出そうとした。
「似ていました。でも……今朝の方が、少し低かったです。わざと声を変えていたのかも」
「背格好は?」
「三日前の人は、背が高めでした。今朝は声だけなので分かりません」
エレノアは頷いた。
「分かることだけでいいわ」
ネルは、ほっとしたように息を吐いた。
「分からないことを、分からないって言っていいんですね」
「もちろん」
リリアナが小さく呟いた。
「それ、大事よね」
ネルが見ると、リリアナは少し照れたように視線を逸らした。
「私、分からないのに分かるふりをして失敗したから」
ネルは、どう返していいか分からない顔をした。
けれど、そのやり取りで少しだけ部屋の空気が柔らかくなった。
その時、廊下から足音がした。
控えていた護衛が扉越しに告げる。
「王弟殿下がお見えです」
ネルの顔が一瞬で青ざめた。
エレノアはすぐに言った。
「ネル。王弟殿下に入っていただく必要がある内容です。ただ、あなたが望むなら、隣室で待つこともできます」
「わ、私……」
ネルは目に見えて動揺した。
カインという名は、王宮の下働きにとって恐ろしい響きを持つ。
冷徹な王弟。
不正を逃さない宰相。
貴族でも容赦なく裁く人。
そんな人物が自分の前に来ると思えば、怖いに決まっている。
リリアナが、小さく身を乗り出した。
「怖いなら、私が隣にいるわ」
ネルは驚いたようにリリアナを見た。
「リリアナ様が?」
「私も殿下は少し怖いから」
扉の外で、わずかに沈黙があった。
カインに聞こえていたのだろう。
エレノアは一瞬だけ目を伏せた。
笑ってはいけない。
今は真剣な場だ。
マルタは無表情を保っているが、かなり努力しているように見えた。
「……入っていただいて、ください」
ネルは震えながら言った。
「でも、リリアナ様、隣に」
「ええ」
リリアナは椅子を少し近づけた。
カインが入室した時、最初に見たのは、リリアナがネルの隣で妙に背筋を伸ばしている姿だった。
カインは何も言わなかった。
ただ、青い硝子石の包みと記録紙に視線を向ける。
「説明を」
エレノアが、これまでの相談内容を簡潔に伝えた。
カインは途中で口を挟まない。
最後まで聞き終えると、ネルを見た。
ネルは椅子の上で小さくなっている。
「ネル・ファラン」
「は、はい」
「よく持ってきた」
それだけだった。
短い言葉。
だが、ネルは目を見開いた。
叱られると思っていたのだろう。
疑われると思っていたのだろう。
それなのに、最初に言われたのは「よく持ってきた」だった。
ネルの目から涙がこぼれた。
「すみません……」
「謝るところではない」
カインは言った。
「ただし、ここからは正式な保護が必要になる。あなたが最初の相談者だと知られれば、脅される可能性がある」
ネルは、涙を拭きながら頷いた。
「洗濯室に戻れませんか」
「すぐには戻さない」
ネルの顔が曇る。
エレノアが補足した。
「罰ではなく、保護です。まずは別の部屋で休んでもらいます。洗濯室には、別の理由で一時配置替えと伝えます」
「でも、給金は」
「止めません」
カインが答えた。
「むしろ保護期間中の給金は王弟府で保証する」
ネルは信じられないという顔をした。
「私みたいな下働きに、そこまで……?」
「制度を始めるなら、最初の一人を守れなければ意味がない」
カインの声は冷たかった。
けれど、その冷たさは頼もしく聞こえた。
ネルは何度も頷いた。
「ありがとうございます……」
カインはオスカーへ命じた。
「洗濯室裏口と排水口を封鎖。今日中に調査。ベアタの妹の薬代の出所を調べろ。薬房、慈善衣料会、夫人会関係の支出を洗う」
「はい」
「青い硝子石の指輪について、夫人会出席者と侍女の装飾品記録を確認。三日前に王宮洗濯室周辺へ出入りした外部者も」
「承知しました」
エレノアが付け加えた。
「ネルの証言は、現段階では相談記録です。正式証言へ移る前に、本人へもう一度説明を」
「分かっている」
カインはネルを見た。
「この後、女性職員から保護手続きの説明を受ける。分からないことは分からないと言え」
ネルはこくこくと頷いた。
リリアナが小声で言う。
「分からないって言っていいの、本当に大事だから」
「はい」
ネルも小さく頷く。
その姿を見て、エレノアは胸の奥に不思議な感覚を覚えた。
制度は、まだ紙の上のものだった。
けれど今、目の前で少しだけ形になっている。
怖がる少女が扉を叩き、相談だけでもいいと知り、小さな証拠を出し、保護される。
まだ完璧ではない。
穴もある。
不安も多い。
だが、これが最初の一歩だった。
ネルが別室へ案内された後、リリアナは椅子に座ったまま深く息を吐いた。
「私、何もしていないのに疲れました」
「隣にいただけでも、意味はあったわ」
エレノアが言うと、リリアナは驚いて姉を見た。
「本当?」
「ええ。ネルはあなたがいたから、王弟殿下の入室を受け入れられた」
リリアナは、少しだけ頬を赤くした。
「私、役に立った?」
「少し」
「少し……」
「大きく言うと調子に乗るでしょう」
「お姉様!」
抗議の声が上がったが、その表情はどこか嬉しそうだった。
カインが淡々と言う。
「調子に乗る余裕があるなら、ネル向けの説明書を見直せ。相談者が最初に読む文面だ」
リリアナは背筋を伸ばした。
「はい!」
そしてすぐに、少しだけ小声で付け足した。
「殿下、やっぱりちょっと怖いけど、ネルには優しかったですね」
カインは無表情で答えた。
「怖いままでも仕事はできる」
リリアナは首を傾げた。
「そういうものですか?」
エレノアは横から言った。
「そういうものよ」
「お姉様も怖いものね」
「リリアナ」
「あっ」
マルタが静かに咳払いした。
今度は本当に笑いをこらえているようだった。
保護証言室の初日は、それで終わらなかった。
ネルの証言を受け、洗濯室裏口が調べられた。
排水口からは、さらに二つの小さな青い硝子片と、濃紺の糸くずが見つかった。
糸は、王宮下級女官服の袖口に使われる糸と似ていたが、質が少し違った。
王宮支給品ではない。
外部で真似て作られたもの。
つまり、偽女官服は一着ではない可能性が出てきた。
さらに、ベアタの妹の薬代を調べると、支払いに使われた銀貨の一部が、慈善衣料会の架空配布先から流れた資金と一致することが分かった。
オルガの線はさらに濃くなる。
だが、それだけではなかった。
王宮出入り記録に、一つ不自然な名があった。
三日前の夕刻、洗濯室裏口近くの通用門から出入りした「薬草納入補助人」。
サルヴィ商会摘発後、すでに資格停止されているはずの商会関係者だった。
名は、リゼット・グラン。
年齢三十六。
元は夫人会の針仕事係。
現在、所在不明。
特徴――青い硝子石の指輪を常用。
エレノアは、その報告書を見つめた。
「つながりましたね」
オスカーが言う。
「はい。ただ、リゼットが実行役だとしても、まだ背後があります」
カインは短く言った。
「探す」
「ネルは?」
「保護下に置く。洗濯室には戻さない。しばらくは北翼の下働きとして名目を移す」
「本人への説明をお願いします」
「あなたが作るのだろう」
「リリアナが文面を見ます」
カインは、少しだけ視線をリリアナへ向けた。
リリアナは机に向かい、真剣な顔で説明書の一文を書き直していた。
――あなたが悪いと決めつけるための場所ではありません。困っていることを、順番に聞く場所です。
少し長い。
だが、悪くなかった。
「意外な役割を見つけたな」
カインが言った。
エレノアは頷いた。
「はい。本人にはまだ言いませんが」
「言うと調子に乗るか」
「おそらく」
二人が小声で話していると、リリアナが顔を上げた。
「今、私の話をしていました?」
「していないわ」
「絶対していた顔です」
「仕事を続けなさい」
「はい……」
リリアナは不満そうにしながらも、また紙へ向かった。
その姿を見て、エレノアは少しだけ口元を緩めた。
その夜、最初の保護証言者ネル・ファランは、北翼の小さな部屋で休むことになった。
彼女には女性護衛が一人つき、洗濯室には「臨時配置替え」とだけ伝えられた。
ネルは何度も「本当に戻れるんですか」と尋ねた。
マルタは、そのたびに「戻るかどうかも、あなたと相談して決めます」と答えた。
決められるのではなく、相談できる。
それだけでネルは少し落ち着いたようだった。
エレノアは、保護証言室の最初の記録簿を開いた。
第一号相談者。
ネル・ファラン。
王宮洗濯室見習い。
相談内容、青い硝子石の欠片、洗濯室裏口に現れた不審人物、保護証言室への脅迫発言。
対応、相談記録化、証拠保全、本人保護、洗濯室周辺調査開始。
記録簿の一ページ目。
そこに並ぶ文字は、王妃の死を裁いた記録に比べれば、小さなものかもしれない。
だが、エレノアには同じくらい重く見えた。
制度は紙の上から始まる。
しかし、人が扉を叩いた瞬間、紙は責任になる。
守ると書いたなら、守らなければならない。
聞くと書いたなら、聞かなければならない。
罰しないと書いたなら、安易に切り捨ててはならない。
エレノアは記録簿を閉じ、扉の横の札を見た。
――まずは話を聞きます。
その下に、明日からもう一文を加えることにした。
――あなたの声を、なかったことにはしません。
最初の保護証言者は、青い硝子石の欠片を持ってきた。
小さな欠片。
けれど、その欠片は、王宮の沈黙に開いた最初の穴だった。
そして穴の向こうには、まだ名を隠した実行役リゼット・グランと、夫人会の奥に残る影が見えている。
エレノアは、深く息を吸った。
保護証言室は、もう始まってしまった。
始まった以上、止めるわけにはいかない。




