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第32話 ダリウスの妻、沈黙を破る

ベアトリス・モーン夫人が王宮を訪れたのは、夫人会茶会の翌朝だった。


 前触れはなかった。


 王弟府の門番が受け取った訪問札には、震えた筆跡でこう記されていた。


 ――ベアトリス・モーン。夫ダリウス・モーンに関する証言を願い出ます。


 その報告を受けた時、エレノアは北翼の執務室で前日の茶会記録を整理していた。


 机の上には、夫人会で交わされた言葉が並んでいる。


 善意。

 品位。

 過度な監査。

 段階的導入。

 試験制度。

 リリアナの発言。

 ミリアム夫人の警告。

 ベアトリス・モーン夫人の欠席。


 その欠席者が、翌朝、自ら王宮へ来た。


 偶然ではない。


 エレノアは、そう判断した。


「どのような様子でしたか」


 エレノアが尋ねると、オスカーが控えめに答えた。


「かなり憔悴されています。侍女を一人連れておりますが、馬車も簡素なもので、護衛はありません。門前で一度、引き返そうとされたようです」


「引き返さなかったのですね」


「はい」


 カインは、書類から顔を上げた。


「応接室ではなく、証言室へ通せ」


「よろしいのですか」


「本人が証言を願い出た。茶と菓子で包む必要はない」


 エレノアは頷いた。


 甘い場にすれば、かえって言葉が曖昧になる。


 証言室。


 記録係。


 立会人。


 その場の硬さが、話す側を守ることもある。


「私も同席します」


「当然だ」


 カインは立ち上がった。


「ただし、急かすな。沈黙していた者が話し始める時は、最初の言葉が一番壊れやすい」


 意外な言葉だった。


 エレノアは、少しだけカインを見た。


「殿下は、そういうこともお分かりなのですね」


「私を何だと思っている」


「冷たい方だと」


「間違ってはいない」


「自覚がおありで」


「便利だからな」


 そう言って、カインは先に部屋を出た。


 エレノアは思わず少しだけ息を漏らし、すぐに資料を整えた。


 証言室へ向かう廊下は、朝の光が差していた。


 王宮の白い壁に光が反射し、足音が妙にはっきり響く。


 エレノアは歩きながら考えた。


 ベアトリス・モーン。


 ダリウス・モーンの妻。


 社交界では、ほとんど目立たない女性だった。


 夫の後ろに静かに立ち、必要な時だけ微笑む。茶会ではあまり話さず、夫人たちの輪から少し外れた席にいることが多かった。


 ダリウスが王太子府で重用されるようになってからも、彼女は華やかにならなかった。


 むしろ、以前より口数が減った印象がある。


 エレノアは何度か見かけていた。


 王宮の廊下で。


 夫人会の片隅で。


 王太子府の控え室近くで。


 いつも、何かを言いたげで、結局何も言わない顔をしていた。


 その女性が、沈黙を破る。


 そこには、何かがある。


 証言室に入ると、ベアトリスはすでに座っていた。


 年は三十前後。


 薄い灰紫のドレスを着ているが、流行の型ではない。袖口は丁寧に直されており、華やかさより慎ましさが先に立つ。


 顔色は悪い。


 目元には眠れなかった跡があり、手袋をはめた両手は膝の上で固く組まれている。


 彼女の隣には、年若い侍女が一人控えていた。


 ベアトリスはエレノアたちが入ると、慌てて立ち上がった。


「王弟殿下、エレノア様……突然の訪問をお許しください」


「座ったままでよい」


 カインが言う。


 ベアトリスは一度迷い、それから小さく頭を下げて座り直した。


 エレノアは彼女の向かいに座った。


 オスカーが記録の準備をする。


 マルタも立会人として後方に控えた。


 カインは短く告げる。


「ここでの発言は正式な証言として記録される。虚偽があれば問われる。ただし、あなたが脅迫や圧力を受けていた場合、それも記録する。よいか」


 ベアトリスは唇を震わせた。


「はい。承知しております」


「では、話せ」


 その一言で、彼女の肩が小さく揺れた。


 だが、すぐには声が出なかった。


 沈黙が落ちる。


 長い沈黙だった。


 オスカーの筆も止まったままだ。


 カインは急かさなかった。


 エレノアも、口を挟まなかった。


 やがてベアトリスは、膝の上の手をぎゅっと握りしめた。


「私は、夫が何をしていたのか、すべてを知っていたわけではありません」


 最初の言葉は、言い訳の形をしていた。


 けれど、続く声は震えていた。


「でも、何も知らなかったわけでもありません」


 エレノアは静かに頷いた。


「知っていたことを、お話しください」


 ベアトリスは目を伏せた。


「夫は、二年前から変わりました。王太子府で重く用いられるようになってから、帰宅が遅くなり、書斎に鍵をかけるようになりました。以前は……以前は、そこまで野心的な人ではなかったのです」


「以前は?」


「はい。人に合わせるのが上手で、出世したい気持ちはありました。でも、あれほど危ない橋を渡る人ではありませんでした」


「変化のきっかけは?」


 ベアトリスは少し迷い、答えた。


「グレゴール公爵閣下との接触です。その後、オルガ・ベルナール夫人が夫へ近づきました」


 オルガの名が出た。


 オスカーの筆が動く。


「オルガ夫人とは、どのように?」


「夫人会です。私は夫人会の正式な幹部ではありませんでしたが、夫が王太子府にいるため、王宮や王太子殿下に関する話を聞かれることがありました。オルガ様はいつも優しくて……私のことも、よく気にかけてくださいました」


 その「優しくて」という言葉には、痛みがあった。


 優しさを疑いたくない者の痛み。


 エレノアは、リリアナの顔を思い出した。


 可哀想。

 無理しないで。

 あなたは優しい。


 優しい言葉ほど、人を縛ることがある。


「何を聞かれましたか」


 エレノアが問う。


「王太子殿下がどの側近を重く見ているか。ローレン様と夫のどちらが近いか。エレノア様の助言を殿下がどう受け止めているか。リリアナ様が王太子殿下のお心に入り込めそうか」


 ベアトリスは声を落とした。


「最初は、ただの社交話だと思いました。夫人たちは、皆そういう話をしますから」


「その後は?」


「だんだん、具体的になりました。リリアナ様がどの茶会に出るべきか。王太子殿下の近くに誰を置けばいいか。エレノア様が同席しない場をどう作るか」


 エレノアは表情を変えなかった。


 だが、胸の奥に冷たいものが落ちる。


 エレノアが同席しない場。


 そうした場は、確かに増えていた。


 リリアナとユリウスが距離を縮めた頃。


 王太子府の茶会。


 公爵家の私的な集まり。


 夫人会主催の小さな慰問会。


 エレノアは王妃の病状と基金の書類に追われ、誘われても行けないことが多かった。


 その不在すら、誰かに作られていたのかもしれない。


「あなたは、それを夫へ伝えましたか」


「はい」


 ベアトリスは小さく答えた。


「夫に、オルガ様がこう仰っていたと。すると夫は、とても喜びました。オルガ様は流れを見る目がある、と。自分もその流れに乗れる、と」


「流れ」


「はい。夫はそう言っていました。王太子殿下は、厳しい助言よりも自分を理解してくれる者を求めている。リリアナ様は、王太子殿下の隣に置けば輝く。エレノア様は……」


 ベアトリスはそこで止まった。


 言いにくそうに、唇を噛む。


 エレノアは静かに言った。


「そのまま話してください」


「……エレノア様は、正しすぎて邪魔だと」


 部屋が少し冷えた。


 カインが黙っている。


 マルタの目が険しくなる。


 エレノアは、ゆっくり息を吸った。


「それは、夫が言ったのですか。オルガ夫人が?」


「両方です。言葉は違いましたが、意味は同じでした。王太子殿下が王になるには、エレノア様の正しさは重すぎる。リリアナ様の柔らかさの方が、殿下を支える。そういう話が、少しずつ」


 ベアトリスの声がかすれる。


「私は、それを聞いて……何も言いませんでした」


「なぜですか」


 責める声ではない。


 ただ、確認の声だった。


 ベアトリスは、両手を握りしめた。


「怖かったからです」


 その一言は、ひどく小さかった。


「夫が出世することを、私は喜ばなければいけないと思っていました。夫人会でも、夫が王太子府に近いことを羨ましがられました。オルガ様は、あなたは良い妻ね、と言ってくださいました。夫を支える妻。出世する夫の邪魔をしない妻。私は……それでいいのだと」


 彼女は顔を上げた。


 目に涙が浮かんでいる。


「本当は、おかしいと思っていました。夫が急に高価な手袋を買い、家計に合わない贈り物を持ち帰り、夜中に書簡を燃やすようになった。サルヴィ商会の名も聞きました。黒眠草という言葉も、一度だけ」


 エレノアの目が鋭くなった。


「黒眠草を?」


「はい。夫の書斎の前で、偶然。夫とオルガ様の使いの者が話していました。『眠らせすぎると疑われる』と」


 カインが口を開く。


「いつだ」


「王妃陛下が亡くなる少し前です。正確な日は……」


 ベアトリスは持ってきた小さな手帳を取り出した。


「これに、記してあります」


 手帳は古びていた。


 革表紙の角が擦れ、何度も開かれた跡がある。


 ベアトリスは震える手でページを開いた。


「私は、直接止める勇気がありませんでした。でも、怖くて、夫の様子だけでも記録していました。いつ誰と会ったか。帰宅した時間。燃やした書簡。聞こえた言葉。全部ではありませんが」


 エレノアは手帳を受け取らず、まず机に置かせた。


「記録として確認します」


 オスカーが近づき、手袋をして手帳を開く。


 そこには、細かな文字が並んでいた。


 ――夜半、夫帰宅。黒い封筒二通。暖炉で焼却。

 ――オルガ様の使い、裏口より来訪。黒眠草という語を聞く。

 ――夫、王妃様の眠りについて「これで数日は静か」と言う。

 ――サルヴィ商会の箱、書斎へ。中身不明。

 ――夫、リリアナ様は扱いやすいと発言。聞くに堪えず退室。

 ――エレノア様は慈善院へ行くことになるだろう、と夫。意味不明。


 エレノアは、最後の一文で目を止めた。


 慈善院。


 父の相続案だけでなく、ダリウスの家庭でもその話が出ていた。


 つまり、エレノアを慈善院へ送る案は、公爵家の内々の整理案ではなく、オルガやダリウスの間でも共有されていた。


「この手帳を、なぜ今まで出さなかったのですか」


 カインが問う。


 ベアトリスは肩を震わせた。


「夫が怖かったからです。夫は、優しい人でした。でも、出世してから変わりました。私が書斎のことを尋ねると、妻は夫の仕事に口を出すなと。オルガ様も……夫を疑う妻は、夫の足を引っ張るものだと仰って」


 彼女の声が震える。


「それでも、王妃陛下が亡くなった時、出そうと思いました。でも夫が、王妃様は病だった、余計なことを言えば家が終わる、と。私はまた黙りました」


「昨日の茶会に欠席した理由は?」


 エレノアが尋ねる。


 ベアトリスは唇を噛んだ。


「行けなかったのです」


「体調不良ではなく?」


「違います。招待は受けていました。ですが、オルガ様が拘束され、夫人会が揺れている中で、私が行けば何かを問われる。怖くて、行けませんでした」


「では、なぜ今日来たのですか」


 ベアトリスは、エレノアを見た。


 涙が一筋、頬を落ちる。


「リリアナ様の言葉を聞いたからです」


「リリアナの?」


「昨日の茶会の後、夫人会の方から聞きました。リリアナ様が、善意が本物なら記録されても消えないはずだ、と仰ったと」


 リリアナの言葉。


 あの不器用な、震える声での発言。


 それが、ここまで届いていた。


 エレノアは、胸の奥が少し揺れるのを感じた。


「私は、ずっと自分の沈黙を善意だと思っていました。夫を守るため。家を守るため。騒ぎを大きくしないため。でも、それは違ったのだと……リリアナ様の言葉を聞いて、思いました」


 ベアトリスは、手帳を見た。


「私の記録も、消えずに残っていました。なら、出さなければいけないと」


 カインが静かに問う。


「あなたは、自分にも責任があると理解しているか」


 ベアトリスは顔を上げた。


 その目は怯えていた。


 だが、逸れなかった。


「はい」


 小さな声だった。


「私は、知りながら黙りました。夫が何か悪いことに関わっていると分かっていたのに、妻だから、家のためだからと、黙りました。その沈黙も、王妃陛下を苦しめた一部なのだと思います」


 室内が静まり返った。


 その言葉は、重かった。


 沈黙の責任。


 今回の事件には、それが何度も出てくる。


 見なかった者。

 聞かなかった者。

 確認しなかった者。

 言わなかった者。


 すべてが、少しずつ王妃を追い詰めた。


「手帳は証拠として預かります」


 エレノアは言った。


「内容を精査し、あなたの証言と照合します」


「はい」


「あなた自身についても、証言の遅延と不告発について審査対象になります」


「承知しています」


 ベアトリスは深く頭を下げた。


「それでも、出します。もう、夫の後ろで黙っているのは嫌なのです」


 その言葉には、弱さと強さが同時にあった。


 エレノアは、彼女を見つめた。


 この人もまた、誰かの妻という役目に閉じ込められていたのだろう。


 だが、だから無罪ではない。


 沈黙を選んだ責任は残る。


 それでも、今話すことで止められるものがある。


 エレノアは静かに頷いた。


「今後、あなたには追加証言をお願いすることになります」


「はい」


「また、夫人会の中でオルガ夫人と近かった方々についても、お聞きします」


 ベアトリスの肩が少し強張る。


「……はい。お話しします」


「怖いですか」


 思わず、エレノアはそう尋ねていた。


 ベアトリスは、驚いたように顔を上げる。


 そして、苦く笑った。


「怖いです」


「そうですか」


「でも、怖いから黙っていた結果が、今ですから」


 その答えに、エレノアは何も言わなかった。


 ただ、記録係へ視線を向ける。


「今の発言も記録してください」


 ベアトリスは、少しだけ泣き笑いのような顔になった。


「エレノア様は、本当に何でも記録なさるのですね」


「必要なものは」


「私の怖さも、必要ですか」


「はい」


 エレノアは答えた。


「人がなぜ黙るのかを記録しなければ、また同じ沈黙が起きます」


 ベアトリスは、深く息を吐いた。


「王妃陛下が、あなたを信じられた理由が少し分かりました」


 その言葉に、エレノアは返答しなかった。


 まだ、その評価を受け取るのは重かった。


 証言が一段落した後、ベアトリスは医療室へ行くことを願い出た。


 夫ダリウスと会いたい、と。


 カインはすぐには許可しなかった。


「証言者同士の接触になる。内容が歪む可能性がある」


 当然の判断だった。


 ベアトリスは顔を伏せた。


「分かっています。ただ、一言だけでも……」


 エレノアは、少し考えた。


 夫婦。


 共犯ではない。


 だが、無関係でもない。


 ダリウスは罪を犯し、ベアトリスは沈黙した。


 二人を会わせることは危険だ。


 しかし、記録下で短時間なら、得られるものもあるかもしれない。


「立会人と記録係を置いた上で、短時間なら」


 エレノアが言うと、カインは彼女を見た。


「情か」


「いいえ」


「本当に?」


「少しはあります」


 正直に答えると、カインの目がほんのわずかに動いた。


「だが、それだけではありません。ベアトリス夫人が持ってきた手帳と、ダリウス卿の証言を照合するためにも、二人の反応を見る価値があります」


「……分かった。五分だ。記録付きで」


 ベアトリスは目を見開き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 医療室の空気は、薬草の匂いで満ちていた。


 ダリウスは寝台で上体を少し起こされていた。


 顔色はまだ悪い。


 だが、昨日より意識ははっきりしているようだった。


 ベアトリスが入ると、彼は目を見開いた。


「ベアトリス……」


 その声には驚きと、かすかな怯えがあった。


 彼女が何を持ってきたのか、察したのかもしれない。


 ベアトリスは寝台から少し離れた位置で止まった。


 近づきすぎない。


 エレノア、カイン、記録係、医師が立ち会っている。


 夫婦の再会としては、あまりに冷たい場だった。


 だが、それが今の二人には必要だった。


「あなたの手帳を出したのか」


 ダリウスが言った。


 ベアトリスは頷いた。


「ええ」


「なぜ」


 その問いに、ベアトリスは少しだけ笑った。


 悲しげな笑みだった。


「あなたに言われたくないわ」


 ダリウスは息を呑んだ。


 彼女は続けた。


「ずっと、私は聞かなかった。あなたが何をしているのか。何を燃やしているのか。誰からお金を受け取っているのか。聞けば、妻として夫を疑うことになると思ったから」


「それでよかったんだ」


 ダリウスは弱く言った。


「君は知らなくてよかった」


「いいえ」


 ベアトリスは首を横に振った。


「知らなくてよかったのではなく、あなたにとって都合がよかったのです」


 ダリウスの顔が歪んだ。


「私は君を守ろうと」


「違います」


 ベアトリスの声が震えた。


 けれど、止まらなかった。


「あなたは、私を黙らせていただけです。優しい妻でいろと。夫の邪魔をするなと。私はそれに従った。だから、私にも責任があります」


 医療室は静まり返っていた。


 エレノアは、ベアトリスの背中を見ていた。


 その背は細い。


 震えている。


 けれど、確かに立っている。


「ベアトリス」


 ダリウスの声がかすれた。


「君まで、私を裁くのか」


「裁くのは、私ではありません」


 ベアトリスは答えた。


「でも、黙ってあなたの後ろに隠れるのは、もうやめます」


 その言葉に、ダリウスは目を閉じた。


 しばらくして、低く言った。


「……手帳に、どこまで書いた」


「覚えている限り」


「黒眠草のことも?」


「ええ」


「オルガ夫人の使いのことも?」


「ええ」


「慈善院の話も?」


「書いたわ」


 ダリウスは、長く息を吐いた。


 諦めの息だった。


「そうか」


 彼は、天井を見た。


「私は、本当に馬鹿だったな」


 ベアトリスは泣かなかった。


 ただ、言った。


「私もです」


 その言葉に、ダリウスの目が濡れた。


 夫婦の情が、そこにはまだあった。


 だが、その情はもう罪を隠す布にはならない。


 カインが時間を告げる。


「五分だ」


 ベアトリスは頷き、ダリウスへ深く礼をした。


 妻としての礼ではない。


 証言者として、罪を負う相手へ向けた礼だった。


「さようなら、ダリウス」


 ダリウスは目を見開いた。


「ベアトリス」


「次に会う時は、裁判の場でしょう」


 彼女はそう言い、医療室を出た。


 廊下に出た途端、足元が揺れた。


 侍女が支えようとしたが、ベアトリスは何とか自分で立った。


 エレノアが近づく。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではありません」


 ベアトリスは正直に言った。


「でも、歩けます」


「そうですか」


「エレノア様」


「はい」


「記録に残してください。私は、夫を愛していました。でも、愛していたから黙ったのではありません。怖かったから黙りました」


 その言葉は、ひどく澄んでいた。


「愛のせいにすると、また逃げてしまうから」


 エレノアは、しばらく彼女を見ていた。


 それから静かに頷く。


「記録します」


 ベアトリスは、安心したように目を閉じた。


 その日の午後、ベアトリスの手帳は正式な証拠として登録された。


 内容の照合が始まり、いくつもの日付が既存の記録と一致した。


 ダリウスの帰宅時間。

 サルヴィ商会の箱が動いた日。

 オルガの使者が訪れた日。

 黒眠草の増量が始まった時期。

 エレノアを慈善院へ送る案が話された時期。


 ベアトリスは、王宮の中心にはいなかった。


 だが、夫の背後で見ていた。


 誰も記録していない家庭の中の変化を、彼女は震える文字で残していた。


 その記録が、今になって線を補う。


 夕方、リリアナが北翼の廊下でエレノアを待っていた。


 昨日の茶会の反省文を抱えている。


「お姉様」


「反省文?」


「それもあるけど……ベアトリス夫人が来たって聞いて」


「ええ」


「私の言葉を聞いて、来てくれたって本当?」


 エレノアは少しだけ迷い、頷いた。


「そう言っていたわ」


 リリアナは、目を丸くした。


「私の言葉が?」


「ええ」


「私、そんな大したこと言ってないのに」


「言葉は、言った本人が思うより遠くへ届くことがあるわ」


 リリアナは、反省文を胸に抱えた。


「怖いね」


「ええ」


「でも、少し……嬉しい」


 そう言ってから、リリアナは慌てて付け足した。


「人が苦しんで来たことが嬉しいんじゃなくて。その、私の言葉が、誰かが黙るのをやめるきっかけになったなら……」


「分かるわ」


 エレノアがそう言うと、リリアナはほっとしたように息を吐いた。


 それから、少しだけ表情を引き締める。


「じゃあ、私も変なこと言わないようにしないと」


「それは難しいわね」


「お姉様、今すごく自然にひどいこと言った」


「記録に残す?」


「残さないで!」


 その反応があまりに早くて、エレノアは思わず小さく笑った。


 本当に小さな笑いだった。


 リリアナは、それを見て固まった。


「お姉様、今笑った?」


「気のせいよ」


「笑ったわ」


「反省文を出しなさい」


「誤魔化した!」


 廊下の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


 それは事件が解決したからではない。


 王妃が戻るわけでもない。


 父の罪が消えるわけでも、リリアナの過去が消えるわけでもない。


 けれど、壊れたものの中にも、少しずつ別の形が生まれ始めていた。


 同じ頃、カインはベアトリスの手帳を読み終え、静かに閉じた。


「家庭の中の沈黙か」


 低く呟く。


 オスカーが尋ねた。


「これで、オルガ夫人への追及はさらに進みますね」


「ああ」


 カインは手帳の表紙を見た。


「だが、それだけではない。夫人会、王太子府、公爵家、商会。どれも表の記録だけでは足りない。人が黙る場所に、不正は根を張る」


「今後の改革に含めますか」


「含める」


 カインは短く答えた。


「内部通報制度を作る。匿名ではなく、保護付きの証言制度だ」


 オスカーは驚いたように顔を上げた。


「かなり踏み込みますね」


「踏み込まなければ、また同じことが起こる」


 カインの声は冷たかった。


 だが、その冷たさは怒りでもあった。


 王妃の死。


 それをもう二度と繰り返さないための。


 夜、エレノアは自室でベアトリスの証言記録に目を通していた。


 最後の欄に、自分で追記する。


 ――証言者は、沈黙の理由を「愛」ではなく「恐怖」と表現。重要。


 筆を止める。


 愛ではなく、恐怖。


 その言葉は、ユリウスの後悔にも似ていた。


 後悔は愛ではなく恐怖から始まった。


 沈黙もまた、愛ではなく恐怖から始まっていた。


 人は、自分の弱さに美しい名前をつけたがる。


 愛。

 善意。

 家族。

 品位。

 役目。


 その言葉の下に、恐怖や怠慢や欲が隠れる。


 だから、記録が必要なのだ。


 美しい言葉の下に何があるのか、確かめるために。


 エレノアは、そっと筆を置いた。


 ベアトリス・モーン夫人は沈黙を破った。


 それは大きな証拠であると同時に、改革すべき新たな穴を示すものだった。


 次に必要なのは、王妃基金だけでなく、王宮全体に「声を上げた者を守る仕組み」を作ること。


 そして、その提案はきっと、また多くの反発を呼ぶ。


 エレノアは窓の外を見た。


 夜の王宮は静かだった。


 けれど、その静けさの奥で、まだいくつもの沈黙が息を潜めている。


 それを一つずつ見つけ、記録し、守る。


 王妃基金改革は、また一段深いところへ進もうとしていた。

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