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第31話 夫人会茶会、開戦

 王都貴族街の午後は、戦場に見えない。


 磨かれた馬車道。

 季節の花で飾られた門扉。

 陽光を受けて白く光る屋敷の壁。

 香水と焼き菓子と温かな紅茶の匂い。


 そこに剣はない。


 槍もない。


 怒号も、軍靴の音もない。


 けれどエレノアは、馬車の窓から夫人会館を見た瞬間、ここもまた裁定会議の間と同じくらい厄介な場所だと分かった。


 王都貴族夫人慈善連絡会。


 貴族夫人たちが慈善活動のために使う会館は、王宮ほど大きくはない。だが、社交界における影響力は決して小さくなかった。


 孤児院への寄付。

 寡婦への衣料支援。

 療養施設への花や菓子の慰問。

 戦没騎士遺児への教育支援。


 そうした美しい名目の下に、貴婦人たちは集まり、茶を飲み、情報を交換し、時には王宮の決定より早く空気を作る。


 人は、剣で斬られれば傷を見せられる。


 だが、微笑みで切られた傷は、しばしば本人にしか分からない。


 エレノアは馬車の中で、膝に置いた資料をもう一度確認した。


 王妃基金改革案の概要。

 慈善団体登録制度。

 現地確認義務。

 支出と現物の照合手順。

 夫人会関与の範囲。

 善意ある活動を止めないための臨時支援案。


 隣にはマルタが座っている。


 向かいにはリリアナ。


 リリアナは、朝からずっと落ち着かない様子だった。淡い水色のドレスを着ているが、装飾は控えめだ。以前なら、茶会と聞けば髪飾りやリボンにもっと時間をかけただろう。


 今は、手元の小さな手帳を何度も開いている。


 そこには、彼女自身が書いた短い注意書きがあった。


 ――優しい言葉でも、すぐ信じない。

 ――分からないことは、分からないと言う。

 ――泣いて話を終わらせない。

 ――お姉様の顔色を見すぎない。

 ――でも、危ない時はマルタを見る。


 最後の一行だけ、少し子供っぽかった。


 マルタはそれを見て、何も言わずに小さく頷いたらしい。


「緊張している?」


 エレノアが尋ねると、リリアナは肩を揺らした。


「しているわ」


「正直ね」


「正直に言いなさいって、皆が言うから」


「良い傾向よ」


「でも、こういう場所は少し苦手になりました」


 リリアナは窓の外を見た。


 夫人会館の前には、すでに何台もの馬車が停まっている。上等なドレスをまとった夫人たちが、侍女に手を取られながら玄関へ入っていく。


 柔らかな笑い声。


 軽やかな挨拶。


 美しい日傘。


 それは以前のリリアナが憧れていた世界だった。


 誰かに可愛いと言われ、可哀想と言われ、守ってあげたいと言われる場所。


 けれど今は、その柔らかさの中に何が隠れているのか、少しだけ知ってしまった。


「優しい言葉が全部怖く聞こえるの」


 リリアナは小さく言った。


「それはそれで危ないわ」


 エレノアが答えると、リリアナは顔を上げた。


「危ないの?」


「ええ。全部疑うと、本当に助けようとしてくれる人の声まで聞こえなくなる」


「じゃあ、どうすればいいの?」


「言葉だけで決めない。行動と記録を見る」


 リリアナは少し黙り、手帳に書き足した。


 ――言葉だけで決めない。


 その字は少し歪んでいたが、以前より力が入っていた。


 馬車が止まった。


 扉が開く。


 外には王弟府の護衛が二名、少し離れて立っている。茶会の場に鎧姿の騎士を入れるわけにはいかないが、護衛がいることは誰の目にも明らかだった。


 それだけで、夫人会館の玄関先にいた数名の夫人が視線を向ける。


 興味。

 警戒。

 好奇心。

 そして、わずかな敵意。


 エレノアは馬車を降りた。


 続いてリリアナ。


 最後にマルタ。


 玄関前で出迎えたのは、デリア・ラングフォード侯爵夫人だった。


 夫人会の現代表であり、社交界では「絹手袋の女王」と呼ばれている女性だ。年は四十代後半。柔らかな栗色の髪を結い上げ、深緑のドレスを完璧に着こなしている。


 微笑みは温かい。


 けれど、目は冷静だった。


「エレノア様。ようこそお越しくださいました」


 デリア夫人は深く礼をした。


「本日は、王妃基金改革官としてお時間をいただき、感謝いたします」


「こちらこそ、お招きありがとうございます」


 エレノアも礼を返す。


 リリアナが少し遅れて礼をした。


「リリアナ様も。お加減はいかが?」


 その声は優しい。


 リリアナの指が少しだけ動いた。


 以前なら、この一言で安心したかもしれない。


 気遣われている。


 可哀想に思ってもらえている。


 そう受け取っただろう。


 だが彼女は、手帳の一行を思い出したのか、落ち着いて答えた。


「お気遣いありがとうございます。今日は学ぶために参りました」


 デリア夫人の目が、ほんのわずかに動いた。


「まあ。ご立派ですこと」


「まだ、立派ではありません」


 リリアナは言った。


「知らないことが多すぎるので」


 エレノアは、横でそれを聞いていた。


 及第点。


 そう思ったが、もちろん口には出さなかった。


 会場に案内される。


 夫人会館の大広間は、白と金を基調とした美しい部屋だった。


 壁には慈善活動の記録画が飾られている。


 冬服を受け取る子供。

 病床の女性へ花を届ける夫人。

 戦没騎士の遺児へ本を贈る貴婦人たち。


 どれも美しい絵だった。


 だが、エレノアはその一つ一つに、記録番号がないことに気づいた。


 どこの孤児院か。

 いつの支援か。

 支出はいくらか。

 届けた現物は何か。


 絵は語る。


 だが、証明はしない。


 部屋の中央には円形に席が用意されていた。


 上座を作らない配置。


 表向きは対等な話し合いのためだろう。


 だが実際には、全方向から視線を向けられる配置でもある。


 エレノアは、静かに席へついた。


 右隣にマルタ。


 少し後ろにリリアナ。


 記録係としてオスカーも同席しているが、目立たない位置に控えている。


 夫人たちは、すでに二十名ほど集まっていた。


 デリア・ラングフォード侯爵夫人。

 ミリアム・ローゼン侯爵夫人。

 クラリッサ・エーデル伯爵夫人。

 ジョアンナ・フェルミ子爵夫人。

 他にも、王都の慈善活動に長く関わる貴婦人たち。


 その中に、オルガの席はない。


 当然だ。


 彼女は拘束されている。


 だが、その空席のようなものが部屋の中にあった。


 オルガが築いた人脈。


 彼女に同情する者。


 彼女と金の流れを共有していた者。


 彼女が倒れたことで、自分の活動まで調べられることを恐れる者。


 それらが、見えない席に座っている。


 デリア夫人が口を開いた。


「本日は、王妃基金改革について、エレノア様から直接ご説明いただけるとのこと。夫人会としても、王妃陛下の御遺志を守るため、真摯に伺うつもりでおります」


 柔らかい拍手が起きた。


 上品で、短い。


 エレノアは立ち上がり、資料を開いた。


「ありがとうございます。本日は、改革案のうち、慈善団体登録制度と現物確認手続きについてご説明いたします」


 説明は、淡々と始まった。


 王妃基金の支出を三段階に分けること。

 中口以上の支援には現地確認を義務づけること。

 慈善団体は年一回の活動報告と会計報告を提出すること。

 配布先の実在確認を行うこと。

 王宮制服や王家紋章の使用は厳格に管理すること。

 寄付品の保管庫は登録制とし、鍵の管理記録を残すこと。


 最初のうちは、夫人たちは静かに聞いていた。


 だが、「年一回の会計報告」という言葉が出たところで、クラリッサ・エーデル伯爵夫人が扇を閉じた。


「エレノア様。ひとつよろしいかしら」


「どうぞ」


「会計報告と仰いますが、私どもの活動は善意によるものです。夫人たちが私財を投じ、手弁当で行っている支援まで、王宮へ細かく報告しなければならないのでしょうか」


 声は穏やか。


 だが、周囲の夫人たちが一斉に頷く。


 想定された反発だった。


「王妃基金から支出を受ける活動については、報告が必要です」


 エレノアは答えた。


「完全な私財による活動まで王宮が細かく管理するものではありません。ただし、王妃基金の名、王妃陛下の印、王家関連の信用を用いる場合は、記録が必要です」


「つまり、私どもの善意を疑っておられるのですね」


 今度は、ジョアンナ子爵夫人が言った。


 リリアナの肩が少し跳ねる。


 善意を疑う。


 この言葉は強い。


 相手を冷たい人間に見せる力がある。


 エレノアは表情を変えなかった。


「疑うためではなく、守るためです」


「守る?」


「はい。善意ある活動ほど、不正に利用された時に傷つきます。今回、慈善衣料会の名が偽署名誘導と架空配布先に使われました。真面目に活動していた方々まで疑われています」


 パメラの顔が浮かんだ。


 保管庫で泣きそうになっていた事務係。


 知らなかった。


 けれど管理責任はある。


 そう告げられた女性。


「記録があれば、正しく活動していた方を守れます」


 エレノアは言った。


「どこに、いつ、何を、どれだけ届けたか。それが残っていれば、根拠なく疑われることも減ります」


 夫人たちの一部が、少しだけ顔を見合わせた。


 反発だけではない。


 納得しかけた空気もある。


 その時、デリア夫人が微笑みながら言った。


「エレノア様のお考えは、よく分かります。ただ、社交界には社交界のやり方がございます。あまりに形式を重んじますと、気軽な寄付が減ってしまう恐れも」


「そのため、小口支援と完全私財の活動には簡易記録を提案しています」


「簡易記録」


「日付、支援先、品目、担当者名。まずはそれだけで構いません」


 デリア夫人は、少しだけ目を細めた。


「それでも、記録なのですね」


「はい」


「エレノア様は、本当に記録を信じておられる」


「記録だけを信じているわけではありません」


 エレノアは、部屋の壁の絵を見た。


「ですが、記憶や評判だけでは守れないものがあります」


 その言葉に、夫人たちの何人かが黙った。


 ミリアム・ローゼン侯爵夫人が、そこで初めて口を開いた。


 彼女は王妃エレオノーラと同年代で、以前から実務寄りの慈善活動で知られている人だった。派手な社交より、現場視察を好む変わり者とも言われている。


「私は、改革に賛成です」


 唐突な発言だった。


 部屋の空気が動く。


 デリア夫人の眉がわずかに上がった。


「ミリアム様」


「夫人会の名で寄付をしても、現場に届いているか分からないことがある。皆様も、本当はご存じでしょう」


 ミリアム夫人は、柔らかいが芯のある声で続けた。


「私たちは、善意という言葉に甘えてきました。もちろん、多くの方は真面目に活動しています。でも、真面目に活動しているからこそ、記録を嫌がる必要はないのでは?」


 部屋のあちこちに、小さな緊張が走る。


 エレノアは、ミリアム夫人を見た。


 味方。


 そうすぐに決めるのは危険だ。


 だが少なくとも、改革に正面から賛同する者がいる。


 それは大きかった。


 クラリッサ夫人が、少し尖った声で言った。


「ミリアム様は現場がお好きですものね。でも、すべての夫人が孤児院の屋根裏まで登れるわけではありませんわ」


「登れないなら、登れる者に確認させればよろしいのです」


「それでは夫人会の品位が」


「雨漏りする寝室に品位はありません」


 ミリアム夫人の返しは静かだったが、切れ味があった。


 リリアナが、思わず顔を上げる。


 ロウ夫人の言葉を思い出したのだろう。


 美しい謝罪より、雨の落ちない屋根が必要です。


 エレノアは、ここで話を戻した。


「夫人会の品位は、記録によって損なわれるものではありません。不正を見過ごした時に損なわれます」


 デリア夫人の笑みが、ほんの少し硬くなった。


「厳しいお言葉ですこと」


「必要な言葉です」


「ですが、エレノア様」


 デリア夫人は、声を少し柔らかくした。


「あなたご自身も、今は大変なお立場でしょう。お父上は監査中。妹君は証人保護下。元婚約者である王太子殿下も再審査中。そんな中で、さらに夫人会全体へ厳しい改革を迫れば、社交界はあなたを冷たい方だと見るかもしれません」


 来た。


 エレノアは内心でそう思った。


 改革の中身ではなく、本人の立場を刺す。


 父。

 妹。

 元婚約者。

 冷たい女。


 それは、エレノアが長く浴びてきた言葉だった。


 リリアナが、不安そうに姉を見る。


 マルタの表情がわずかに硬くなる。


 だが、エレノアは静かに答えた。


「冷たいと見られることより、支援金が消えることの方が問題です」


 部屋が静かになる。


「私の評判は、改革の目的ではありません」


「それは……ご立派ですが、女性としておつらくありません?」


 今度は別の夫人が、同情めいた声を出した。


「婚約破棄の後、すぐにこのような重責を背負われて。少し休まれた方がよろしいのでは。王弟殿下の保護下にあるとはいえ、無理をなさっているように見えますわ」


 言葉は優しい。


 だが、意味は違う。


 あなたは傷ついた令嬢でしょう。

 改革官としてではなく、可哀想な女性として扱われるべきでしょう。

 だから少し黙って休みなさい。


 そう言っている。


 エレノアが返す前に、リリアナが立ち上がった。


 予定にない動きだった。


 エレノアも、マルタも一瞬だけ彼女を見る。


 リリアナの顔は少し青い。


 けれど、目は逃げていなかった。


「リリアナ様?」


 デリア夫人が優しく呼ぶ。


「どうなさいました?」


 リリアナは、手帳を握りしめた。


「私も、以前はそう言われると安心しました」


 部屋の視線が彼女へ集まる。


 リリアナの声は震えていた。


「可哀想。無理しないで。あなたは優しいから難しいことは分からなくていい。そう言われると、守られている気がしました。でも、それで私は何も知らないまま、偽署名をしそうになりました」


 夫人たちの表情が変わる。


 リリアナ自身が、その話をするとは思っていなかったのだろう。


「私は、まだ王妃基金のことをほとんど分かっていません。だから、今日ここへ学びに来ました。でも、分からないままでいいとは、もう思いたくありません」


 リリアナは、エレノアの方を見ずに言った。


 姉の助けを求めないように。


 自分の言葉で。


「お姉様を、可哀想な令嬢として休ませるのは簡単かもしれません。でも、それをすると、また誰かが面倒な書類を見なくて済むだけではありませんか」


 その一言に、場が凍った。


 リリアナ本人も、言った後で少し驚いた顔をした。


 だが、もう止まらなかった。


「私は、そうやって楽な方へ逃げました。だから、今は記録が必要だと思います。善意が本物なら、記録されても消えないはずです」


 リリアナの言葉は、決して洗練されていなかった。


 社交界の夫人たちのような婉曲な言い方ではない。


 むしろ不器用だった。


 だが、その不器用さが、逆に逃げ道を塞いだ。


 デリア夫人は、微笑みを保っていた。


 しかし、その目に少しだけ警戒が浮かんだ。


 以前のリリアナなら、夫人会にとって扱いやすかっただろう。


 褒めれば笑う。

 同情すれば泣く。

 姉への劣等感をくすぐれば、望む方向へ動く。


 だが今のリリアナは、まだ未熟でも、自分がそのように扱われたことを知っている。


 それは、夫人会にとって厄介な変化だった。


 ミリアム夫人が静かに拍手した。


 一度。


 二度。


 それに続いて、数名の夫人が控えめに手を叩く。


 全員ではない。


 だが、空気は少し変わった。


 エレノアはリリアナへ視線を向けた。


 リリアナは、ようやく姉を見た。


 不安そうに。


 褒めてほしそうに。


 でも、子供のように甘えるのを必死にこらえる顔で。


 エレノアは、ほんのわずかに頷いた。


 それだけで、リリアナは椅子に座り込むように戻った。


 マルタが小さく水を差し出す。


 リリアナは両手で受け取り、こくりと飲んだ。


 デリア夫人は、扇を広げた。


「リリアナ様まで、そのように仰るなら、私どもも真剣に受け止めなければなりませんね」


 声は柔らかい。


 だが、少しだけ刃がある。


「では、エレノア様。夫人会として、改革案をすべて拒むつもりはございません。ただ、段階的導入を求めます」


「段階的導入」


「ええ。いきなり全団体へ会計報告や現地確認を義務づければ混乱します。まずは三団体程度で試験導入を行い、半年後に結果を見て拡大する。いかがでしょう」


 妥当な提案に聞こえる。


 だが、半年は長い。


 その間に証拠を消し、体制を整え、改革の熱を冷ますこともできる。


 エレノアは少し考えた。


「試験導入には同意します。ただし、半年ではなく二か月」


 デリア夫人の笑みがまた少し硬くなる。


「二か月では、評価が難しいのでは」


「今回の不正を受けての緊急改革です。初期評価には二か月で十分です」


「対象団体は?」


「王都慈善衣料会、南区孤児院支援会、薬草園後援会。この三つから始めます」


 部屋の空気が動く。


 どれも今回の事件と深く関わったところだ。


 避けては通れない。


 デリア夫人は、ゆっくりと頷いた。


「よろしいでしょう。ただし、夫人会からも立会人を出します」


「認めます。ただし単独ではなく、王弟府文書官、現地代表、夫人会立会人の三者確認とします」


「エレノア様は、本当に隙をくださいませんのね」


「隙があったため、今回の不正が起きました」


 デリア夫人は、一瞬だけ黙った。


 それから、笑った。


「そう言われては、返す言葉がございませんわ」


 その後、細かな条件の調整が続いた。


 夫人会は、自分たちの面目を保つため「協力」という言葉にこだわった。


 王弟府は「監督」という言葉を譲らなかった。


 結局、文書上はこうなった。


 ――王妃基金改革に伴う慈善活動透明化試験制度。

 王弟府監督のもと、王都貴族夫人慈善連絡会の協力を得て実施する。


 面倒な表現だ。


 だが、社交界を動かすには、言葉の座席も必要だった。


 茶会が終わる頃には、日が傾いていた。


 夫人たちは帰り際、エレノアへそれぞれ挨拶をした。


 賛同する者。

 警戒する者。

 表面だけ微笑む者。

 内心で反発している者。


 その全てを、オスカーが控えめに記録している。


 最後に、ミリアム・ローゼン侯爵夫人が近づいてきた。


「エレノア様」


「ミリアム様。本日はありがとうございました」


「礼を言うのはこちらです。王妃陛下は、ずっとこの改革を望んでおられました」


「王妃様が?」


「ええ。けれど、生前は反発が大きすぎて踏み込めなかった。王妃陛下は強い方でしたが、すべてを一度に敵へ回す方ではありませんでしたから」


 ミリアム夫人は、少しだけ寂しげに微笑んだ。


「あなたは、良い意味で容赦がない」


「悪い意味にも聞こえます」


「少しは」


 夫人は、いたずらっぽく目を細めた。


 それから声を低くした。


「お気をつけなさい。デリア様は表向き折れましたが、夫人会の全員が納得したわけではありません。特に、オルガ夫人と近かった方々は」


「分かっています」


「それから、今日の茶会に来なかった方にも注意を」


「どなたですか」


「ベアトリス・モーン夫人」


 エレノアは眉を動かした。


「ダリウス卿の?」


「ええ。表向きは体調不良で欠席です。ただ、彼女は夫人会と王太子府の噂をつなぐ方でした。夫が負傷し、拘束されている今、何をなさるか」


 新しい名が出た。


 ダリウス・モーンの妻、ベアトリス。


 これまで表に出てこなかった人物。


「ありがとうございます」


 エレノアは礼をした。


「記録しておきます」


 ミリアム夫人は微笑んだ。


「ええ。あなたなら、そう仰ると思いました」


 夫人が去った後、リリアナが疲れ切った顔で近づいてきた。


「お姉様」


「何?」


「社交界って、戦争だったのね」


「今さら?」


「今まで、お菓子とドレスと褒め言葉の場所だと思っていました」


「それもあるわ」


「怖い」


「ええ。怖いわね」


 エレノアが素直に認めると、リリアナは少し驚いた顔をした。


「お姉様でも怖いの?」


「怖いわ」


「そうは見えなかった」


「見せない練習をしたから」


 リリアナは、少しだけ黙った。


 それから、小さく言った。


「私も、練習します」


「まずは今日の反省文からね」


「……やっぱり?」


「当然よ。何を言われて、どこで揺れたか。自分の言葉で書きなさい」


 リリアナは、がっくりと肩を落とした。


「お姉様、茶会の後でも厳しい」


「改革官だから」


「姉としては?」


 思わず出た問いだったのだろう。


 リリアナは言ってから慌てた。


 エレノアは、少しだけ考えた。


「姉としても、たぶん厳しいわ」


 リリアナは小さく笑った。


「知ってた」


 その笑いは、ほんの少し自然だった。


 まだ遠い。


 でも、以前とは違う。


 帰りの馬車に乗る前、エレノアは夫人会館を振り返った。


 美しい建物。


 香り高い紅茶。


 柔らかな微笑み。


 その中で、今日ひとつの戦いが始まった。


 夫人会は折れたわけではない。


 改革は、これから何度も社交界の壁にぶつかるだろう。


 それでも、最初の合意は取れた。


 試験制度は始まる。


 王妃基金改革は、茶会という名の戦場で最初の足場を得た。


 馬車が動き出す。


 リリアナは疲れたのか、手帳を握ったまま目を閉じていた。


 マルタがそっと膝掛けをかける。


 エレノアは窓の外を見た。


 夕暮れの王都は美しかった。


 だが、その美しさの裏に、まだいくつもの影が残っている。


 ベアトリス・モーン夫人。


 新たに浮かんだ名前。


 夫人会の奥に残る、まだ記録されていない線。


 エレノアは静かに息を吸った。


 開戦はした。


 だが、この戦いはまだ終わらない。

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