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第29話 王妃の死、最終裁定

 王妃エレオノーラの死について、最終裁定が開かれる朝。


 王宮には、奇妙な静けさがあった。


 嵐の前の静けさではない。


 嵐が過ぎた後、折れた枝や割れた窓や、泥に沈んだ庭を前にして、誰も最初の一言を言えずにいるような静けさだった。


 王妃基金。

 月涙石の首飾り。

 サルヴィ商会。

 黒眠草。

 慈善衣料会。

 偽女官。

 ダリウス・モーン。

 オルガ・ベルナール。

 偽りの王妃書簡。


 いくつもの名と証拠が積み上がり、王宮の誰もがもう、これは単なる婚約破棄の後始末ではないと理解していた。


 王妃の死。


 その中心に、今日ようやく正式な判断が下される。


 エレノアは、北翼の自室で身支度を整えていた。


 藍色のドレス。


 喪を示す黒の飾り紐。


 胸元には、王妃から贈られた小さな銀の百合飾り。


 派手な装いではない。


 けれど、今日だけはこの百合をつけるべきだと思った。


 王妃エレオノーラが、最後に自分を信じた。


 その信頼を、飾りとしてではなく、証として身につける。


 鏡の中の自分は、少しやつれて見えた。


 連日の監査、証言、書類確認、家族との対峙。


 体力も、心も、削られている。


 それでも、目は逸れていなかった。


 扉が叩かれた。


「入ります」


 マルタだった。


 彼女は静かに部屋へ入り、エレノアの姿を見ると、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「その百合飾りを」


「はい。今日だけは」


「王妃陛下も、お喜びになるでしょう」


 その言葉に、エレノアは少しだけ目を伏せた。


「喜ばれるでしょうか」


「ええ」


「私は、間に合いませんでした」


 口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 ずっと言わずにいた言葉だった。


 証拠を見つけた。

 記録を集めた。

 不正を暴いた。

 偽書簡を退けた。


 それでも、王妃は戻らない。


 黒眠草の過剰投与が分かっても、薬包の不審が証明されても、遺言状が正式に受理されても。


 王妃の声は、もう直接は聞けない。


 マルタは、少しだけ沈黙した。


 それから、エレノアの背後に立ち、髪飾りの位置を整えながら言った。


「王妃陛下は、ご自分がもう長くないことを分かっておられました」


「……はい」


「ですが、何も諦めてはおられませんでした。ご自身の命が間に合わないなら、記録を残す。ご自身の声が届かないなら、信じる方に託す。そういう方でした」


 マルタの指が、少しだけ震えた。


「だから、エレノア様が今ここに立っておられることは、間に合わなかったことではありません。王妃陛下が間に合わせたものです」


 エレノアは、鏡越しにマルタを見た。


 マルタの目には涙が浮かんでいた。


 けれど、こぼれてはいない。


「マルタ」


「はい」


「今日、裁定が下っても、王妃様の死が軽くなるわけではありませんね」


「軽くはなりません」


 マルタははっきり言った。


「でも、歪められたままにはなりません」


 その言葉で、エレノアは静かに息を吸った。


 そうだ。


 死は軽くならない。


 悲しみも消えない。


 けれど、歪められたままにしないことはできる。


 病死という綺麗な布の下に押し込められていた不正と怠慢と悪意を、記録の上へ出すことはできる。


「参りましょう」


 エレノアは言った。


 大裁定の間には、すでに多くの者が集まっていた。


 国王アレクシスは上座に座り、深く沈んだ表情をしている。


 王太子ユリウスは、その右手側にいるが、以前のような華やかな自信はない。彼は背筋を伸ばしているものの、目の奥には緊張があった。


 王弟カインは左手側。


 静かで、冷たく、揺るがない。


 だが、今日の彼の顔には、いつもよりほんの少しだけ影があるように見えた。


 王妃の死。


 それは彼にとっても、ただの監査対象ではない。


 エレノアは、王弟の補佐席へ向かった。


 その途中で、リリアナの姿が見えた。


 彼女は後方の証人席に座っていた。


 淡い灰色のドレス。


 装飾はほとんどない。


 以前のように、誰かの視線を集めるための装いではなかった。


 リリアナはエレノアに気づくと、小さく頭を下げた。


 エレノアもわずかに頷く。


 それだけだった。


 まだ、姉妹らしい言葉はない。


 けれど、それでいい。


 無理に抱き合うより、今はこの距離の方が誠実だった。


 別の席には、拘束された関係者たちが並んでいる。


 財務官ベルトラム。


 王宮医師。


 サルヴィ商会主アルバン。


 負傷から回復しきっていないダリウス・モーン。


 そして、オルガ・ベルナール夫人。


 オルガは今日も微笑んでいた。


 ただ、その微笑みは以前より薄い。


 偽書簡が偽物と断じられ、ミラの証言が記録され、祈りの家の地下から彼女の書簡が見つかったことで、彼女の逃げ道はほとんど塞がれている。


 それでも、彼女は崩れた姿を見せない。


 まるで最後まで、自分がただの悪人ではなく、王宮の亀裂を映した鏡なのだと言いたげだった。


 国王が口を開いた。


「始めよ」


 法務官が立ち上がる。


「本日の裁定は、王妃エレオノーラ陛下の療養薬に関する不正、黒眠草過剰混入、王妃基金および療養費の流用、関連証拠隠滅、ならびに王妃陛下の死への影響について行うものです」


 大裁定の間が、静まり返る。


 最初に呼ばれたのは、ヘルマン老薬師だった。


 彼は王宮の格式など気にした様子もなく、古い鞄を脇に置いて証言台に立った。


「王妃陛下の薬包を分析した結果、処方記録より多い黒眠草の含有を確認しました」


 声は低く、はっきりしていた。


「黒眠草は、使い方によっては鎮静薬になります。しかし、衰弱した病人に継続的かつ不安定な量で投与すれば、食欲低下、意識の鈍化、体力回復の妨げを起こします。王妃陛下の病状記録と照合する限り、不適切な投与が死期を早めた可能性は高い」


 死期を早めた可能性は高い。


 その言葉が、大裁定の間へ落ちた。


 毒殺とは違う。


 だが、病死だけでもない。


 その曖昧で残酷な位置に、王妃の死は置かれていた。


 王宮医師が青ざめた顔で立ち上がった。


「私は、王妃陛下を害するつもりなどありませんでした」


 声は震えている。


 以前の彼なら、もっと堂々としていただろう。


 王宮医師という地位が彼を守っていた。


 だが今は違う。


 薬包、処方記録、ミラの証言、ダリウスの証言、サルヴィ商会の納入記録。


 すべてが彼の不備を示している。


「眠れないと聞き、鎮静を強める必要があると……ダリウス卿を通じて」


 カインが冷たく問う。


「正式な処方変更記録は?」


「ありません」


「なぜ残さなかった」


「微調整の範囲だと」


「王妃の薬を、記録なしに微調整したのか」


 王宮医師は、何も言えなくなった。


 エレノアは、その顔を見ていた。


 彼は直接王妃を殺そうとしたのではないのだろう。


 だが、地位に甘え、記録を怠り、側近経由の曖昧な言葉で薬を変えた。


 その怠慢が、王妃の命を削った。


 悪意だけが人を殺すのではない。


 無記録もまた、人を殺す。


 次に、ダリウスが証言台へ呼ばれた。


 彼はまだ歩くのがつらそうで、近衛に支えられながら立った。


 顔色は悪いが、意識ははっきりしている。


「私は、王妃陛下を眠らせる方向へ話を運びました」


 ダリウスの声はかすれていた。


「オルガ夫人から、王妃陛下が起きている時間が長いと不都合だと聞かされました。王妃陛下が基金と薬の不審に気づき始めていたからです」


「殺す意図はあったか」


 法務官が問う。


 ダリウスは目を伏せた。


「少なくとも、私には明確な毒殺命令はありませんでした。ですが、弱らせる意図はありました。眠らせ、判断力を鈍らせ、記録確認を遅らせる。その結果、死が早まるかもしれないことを……考えなかったわけではありません」


 その告白に、国王の手がわずかに震えた。


 アレクシス王は、目を閉じた。


 夫として聞くには、あまりに残酷な言葉だった。


 王妃は、ただ病に伏していたのではない。


 眠らされていた。


 記録を見る目を奪われていた。


 ゆっくりと、抵抗する力を削られていた。


 エレノアは、胸の奥が締めつけられるのを感じた。


 それでも、視線を逸らさない。


 次に呼ばれたのは、サルヴィ商会主アルバンだった。


 彼は汗を拭いながら証言した。


「黒眠草の品質が不安定であることは、承知しておりました。しかし、王宮側から指定された量で納入すればよいと……財務局の支払いも通っておりましたし、ベルナール夫人からも急ぐようにと」


「質が悪いと知っていたのですね」


 エレノアが尋ねる。


 アルバンは唇を舐めた。


「薬効にばらつきがある程度だと」


「王妃陛下の薬に使われると知っていて?」


 アルバンは答えられなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 続いて財務官ベルトラム。


 彼は、終始硬い顔をしていた。


「私は、支出の形式を整えただけです。薬の中身までは」


「王妃療養費と薬草園整備費の重複支出を承認していますね」


 エレノアが問う。


「財務上、処理可能と判断しました」


「実費確認書は?」


「提出できません」


「なぜですか」


「……存在しないためです」


 大裁定の間に、ざわめきが広がる。


 ベルトラムは、唇を引き結んだ。


「サルヴィ商会からの報告を、そのまま承認しました。グレゴール公爵の推薦もあり、王太子府側近の関与も確認していたため、問題ないと」


「つまり、確認を省いた」


 カインが言う。


 ベルトラムは、悔しげに頷いた。


「はい」


 確認を省いた。


 その言葉は、この事件のあちこちにある。


 王太子は推薦状を確認しなかった。

 財務官は実費を確認しなかった。

 王宮医師は薬の変更を記録しなかった。

 母は首飾りの出所を確認しなかった。

 リリアナは権限を確認しなかった。

 父は、確認されないと思っていた。

 王宮は、王妃の眠りを病と片づけた。


 確認しないこと。


 それは、時に積極的な悪意よりも恐ろしい。


 最後に、オルガ・ベルナール夫人が証言台に立った。


 彼女は、灰青のドレスをまとい、表情を崩さなかった。


 拘束されてなお、彼女の立ち姿には静かな品がある。


 だからこそ、恐ろしい。


「オルガ・ベルナール」


 カインが言った。


「王妃陛下の療養薬に関する不正、黒眠草過剰混入、慈善衣料会を利用した偽署名誘導、サルヴィ商会との不正取引、ダリウス・モーン監禁、王妃名義偽書簡作成。これらについて、申し開きはあるか」


 オルガは、ゆっくりと礼をした。


「私は、王妃陛下を殺そうとしたわけではございません」


 予想された言葉だった。


「それは、どの関係者も口にしています」


 エレノアが静かに言った。


 オルガは彼女を見る。


「ええ。便利な言葉ですものね。殺すつもりはなかった。害するつもりはなかった。知らなかった。確認しなかった。皆、同じですわ」


「夫人も同じ言葉を使うのですね」


「ええ。だって、真実ですもの」


 オルガは微笑んだ。


「王妃陛下には、少し眠っていただきたかっただけです。強すぎる方でしたから。病に伏せってなお、王宮の隅々まで目を届かせる。基金の帳簿、孤児院の屋根、薬草園の棚、王太子殿下の教育、エレノア様の行く末。あの方は、死にかけてもなお、すべてを見ようとなさった」


 その声には、奇妙な敬意と憎しみが混ざっていた。


「見られては困る者が多かったのでしょう」


 エレノアが言う。


 オルガは否定しなかった。


「そうですわね」


 大裁定の間がざわめく。


 オルガは続けた。


「ですが、私一人ではありません。グレゴール公爵は娘を駒にした。財務官は金を通した。医師は記録を残さなかった。商人は質の悪い薬草を売った。王太子殿下は見なかった。リリアナ様は欲しがった。王宮は、眠る王妃を見て安心した」


 彼女は、ゆっくりと周囲を見渡した。


「私は、割れ目に指を入れただけ。割れていたのは、最初からです」


 その言葉に、誰もすぐには反論できなかった。


 なぜなら、一部は事実だからだ。


 オルガ一人がすべてを作ったわけではない。


 彼女は確かに中心にいた。


 だが、彼女が利用した亀裂は、王宮自身の中にあった。


 エレノアは立ち上がった。


「だからといって、罪が薄まるわけではありません」


 静かな声だった。


 しかし、大裁定の間にまっすぐ響いた。


「王宮に亀裂があったことは事実です。多くの者が怠慢であり、無関心であり、都合よく目を逸らしました。そのすべては記録され、裁定されるべきです」


 オルガは、黙ってエレノアを見る。


「ですが、夫人。あなたはその亀裂を見つけ、広げ、そこへ人を落としました。リリアナの嫉妬を利用し、ミラの困窮を利用し、ダリウスの野心を利用し、財務官の怠慢を利用し、父の欲を利用し、王太子殿下の未熟を利用し、王妃様の病を利用した」


 エレノアの声は、少しも震えていない。


「割れていた器に指を入れただけだと仰るなら、その指で何を壊したのか、記録を見てください」


 オルガの微笑みが、初めて完全に消えた。


「王妃様は亡くなりました」


 エレノアは言った。


「孤児院の屋根は修繕が遅れました。慈善衣料会は不正経路にされました。リリアナは偽署名へ誘導され、ミラは監禁され、ダリウスは口封じされかけました。王太子殿下の継承権は凍結され、王宮は偽書簡で割られかけました」


 一つずつ。


 逃げ道を塞ぐように。


「それでも、ただ割れ目に指を入れただけだと仰いますか」


 オルガは、しばらく黙っていた。


 やがて、かすかに笑った。


 それは、今までの柔らかな微笑みではなかった。


 疲れた女の、乾いた笑いだった。


「エレノア様」


「はい」


「あなたが王妃になればよかったのに」


 大裁定の間が、息を呑んだ。


 ユリウスの顔が強張る。


 リリアナも、目を見開いた。


 カインだけが、表情を変えなかった。


 エレノアは、静かに答えた。


「その話は、今の裁定に関係ありません」


 オルガは、また笑った。


「本当に嫌な方」


「よく言われます」


「そうでしょうね」


 オルガは目を伏せた。


「私の申し開きは以上です」


 それは、ほとんど敗北を認める言葉だった。


 国王アレクシスが、ゆっくりと立ち上がった。


 大裁定の間にいる全員が、頭を下げる。


 国王は、しばらく何も言わなかった。


 沈黙が長い。


 王としてだけではなく、夫としての時間が必要だったのだろう。


 やがて、彼は口を開いた。


「王妃エレオノーラの死は、病による衰弱を基礎とする」


 その声は低く、重かった。


「しかし、黒眠草の不適切かつ過剰な投与、薬草納入の不正、処方記録の欠落、王妃基金および療養費の流用、ならびに関係者の隠蔽により、その死期が早められた可能性が極めて高いと裁定する」


 誰も動かなかった。


 国王は続ける。


「これは毒殺とは断じない」


 王宮医師が一瞬、息をついた。


 だが、次の言葉で顔が凍った。


「だが、病死のみとも記録しない」


 その一言で、王妃の死は書き換えられた。


 ただの病死ではない。


 王宮の不正と怠慢により、死期を早められた王妃。


 そう記録されることになった。


「オルガ・ベルナールは、王妃療養薬不正、証拠隠滅、偽書簡作成、王宮分断工作の主導者として拘束を継続。正式裁判へ送る」


 近衛が一歩動く。


 オルガは抵抗しなかった。


「財務官ベルトラムは、職を解き、王妃基金流用および監督不備について正式裁判へ。王宮医師は職を解き、医療記録不備と不適切投薬について医師団および王家法務官の審査へ。サルヴィ商会は王宮指定業者資格を剥奪し、資産を凍結。アルバン・サルヴィは正式裁判へ」


 次々に裁定が下る。


「ダリウス・モーンは、王太子府側近としての地位を剥奪。療養後、証言協力の上で裁判へ。ミラ・ハーディについては、偽女官としての罪は問うが、証言協力と監禁被害を考慮し、保護下で審査する」


 ミラの名が出た時、リリアナが小さく目を伏せた。


 自分を騙した女性。


 けれど、同じように利用された女性。


 そこには単純な憎しみだけではない感情があった。


「ヴァレンシュタイン公爵グレゴールについては、王妃基金担保品流用、サルヴィ商会推薦、不正支出関与、証拠隠滅の疑いで拘束を継続。公爵家の家政および相続については、王家監督下に置く」


 エレノアは、静かに聞いていた。


 父が裁かれる。


 その言葉を聞いても、もう驚きはなかった。


 ただ、胸の底に鈍い痛みが残るだけだった。


 国王の視線が、ユリウスへ向く。


「王太子ユリウス」


「はい」


 ユリウスは立ち上がった。


「そなたの王位継承権凍結は継続する。今回の裁定により、そなたの未熟、監督不備、聞くべき助言を退けた責任は明らかとなった」


「はい」


「ただし、偽書簡に動じず、自己の責任を記録に残す姿勢も確認した。再審査は継続し、再教育の結果を見る」


 ユリウスは、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 その声は苦しい。


 けれど、以前より少しだけ低く、地に足がついていた。


 国王は次にリリアナを見た。


「リリアナ・ヴァレンシュタイン」


「はい」


 リリアナは立ち上がる。


 手は震えていた。


 だが、顔を上げていた。


「そなたの王太子妃候補内定保留は継続する。偽署名未遂については責任を問う。ただし、証言協力と、自ら利用された事実を認めたことは記録する。今後は基礎教育と証言保護を受けよ」


「承知いたしました」


 リリアナは深く頭を下げた。


 泣いてはいなかった。


 目に涙はあったが、こぼしてはいなかった。


 最後に、国王はエレノアを見た。


「エレノア・ヴァレンシュタイン」


「はい」


 エレノアは立ち上がった。


「王妃エレオノーラの遺言に基づく監査補佐として、そなたは大きな務めを果たした」


 大裁定の間が静まる。


「だが、この裁定は終わりではない。王妃基金の再建、慈善団体の管理改革、王太子府再教育、公爵家監督。まだ多くの務めが残る」


「はい」


「そなたに、王妃基金臨時改革官の任を与える。王弟カインの監督下で、基金と慈善事業の再建にあたれ」


 エレノアは、息を呑んだ。


 王妃基金臨時改革官。


 それは、監査補佐よりさらに踏み込んだ役職だった。


 不正を暴くだけではなく、壊れた仕組みを作り直す役目。


 王妃が守ろうとしたものを、これから実際に立て直す役目。


 重い。


 あまりにも重い。


 だが、逃げたいとは思わなかった。


「謹んで拝命いたします」


 エレノアは深く礼をした。


 その時、ふと胸元の銀の百合飾りが小さく揺れた。


 まるで、王妃が背中を押したように。


 裁定会議が終わり、関係者たちはそれぞれの場所へ連れていかれた。


 オルガは近衛に囲まれて歩き出す前、エレノアの前で足を止めた。


「改革官ですか」


 声は静かだった。


「あなたらしい罰ですね。終わらせるだけではなく、続けさせられる」


「罰ではありません」


「そうかしら」


 オルガは薄く笑った。


「正しい人ほど、終わった後の後片づけまで背負わされるものですわ」


 エレノアは、彼女を見た。


「背負わされるのではありません」


 はっきりと言った。


「私が持ちます」


 オルガは、少しだけ目を見開いた。


 それから、今度こそ何も言わずに歩き出した。


 ユリウスは、会議室の出口でエレノアへ声をかけた。


「エレノア」


「はい」


「王妃基金の改革……私も学ばなければならないのだろうな」


「はい」


 即答だった。


 ユリウスは苦笑した。


「君ならそう言うと思った」


「王太子殿下の再教育にも関わる分野ですから」


「分かっている」


 彼は少し黙った。


「私は、王妃様の死を病だけにしていた。そう思っていた方が楽だった。今日、それが裁かれた」


「はい」


「これからは、楽な方へ逃げないようにする」


 エレノアは、彼を静かに見た。


「その言葉も記録に残しますか」


 ユリウスは、一瞬驚き、それから小さく頷いた。


「ああ。残してくれ。私が忘れないように」


 エレノアは頷いた。


 その横を、リリアナが通りかかった。


 彼女は立ち止まり、姉を見た。


「お姉様」


「何?」


「王妃基金の改革……私も、学んでもいいですか」


 エレノアは、少しだけ目を細めた。


 リリアナは慌てて続ける。


「許してほしいからではなくて。いえ、許してほしい気持ちはあるけど、それだけじゃなくて。私、自分が何を分かっていなかったのか、ちゃんと知りたいの」


 言葉は拙い。


 けれど、リリアナ自身のものだった。


「基礎からになるわよ」


「うん」


「泣いても進むわよ」


「……うん」


「厳しいわよ」


「知ってる」


 リリアナは、少しだけ苦笑した。


「お姉様、厳しいもの」


 エレノアも、ほんのわずかに口元を緩めた。


「なら、マルタに相談して。証人保護と教育日程の範囲で、できることを考えます」


「ありがとう」


 リリアナは、今度はきちんと礼をした。


 姉妹としてではなく、教えを乞う者として。


 その礼を見て、エレノアは胸の奥に小さな痛みと、ほんの少しの温かさを覚えた。


 その夜。


 エレノアは王妃私室を訪れた。


 裁定が終わったことを、どうしてもこの部屋へ伝えたかった。


 カインも同行していたが、彼は扉の近くで立ち止まった。


「一人にするか」


「いいえ」


 エレノアは首を横に振った。


「一緒にいてください。王妃様は、殿下にも聞いてほしいはずです」


 カインは少しだけ沈黙し、頷いた。


 王妃私室は静かだった。


 白百合の香りはもうない。


 薬草と古い紙の匂いだけが残っている。


 エレノアは、窓辺の椅子の前に立った。


 王妃がよく座っていた場所。


 庭を眺めながら、基金の書類を読んでいた場所。


「王妃様」


 エレノアは小さく言った。


「裁定が下りました」


 声は部屋の中に静かに落ちる。


「病死だけではないと、記録されました。毒殺とは断じられませんでした。でも、不正と怠慢が死期を早めた可能性が高いと。王妃様の死は、もうただの病として片づけられません」


 言葉にした瞬間、涙が出そうになった。


 けれど、泣かなかった。


 今は泣くより、伝えたかった。


「基金は、私が改革します。王弟殿下の監督下で。孤児院の屋根も、慈善衣料会も、薬草園も、もう一度見直します」


 窓の外には、夜の庭が広がっている。


 エレノアは、胸元の百合飾りに触れた。


「間に合わなかったものもあります。でも、これから間に合わせるものを見ます」


 その言葉を、どこかで聞いた気がした。


 カインが以前、言った言葉だった。


 間に合わなかったものを数えるな。

 これから間に合わせるものを見ろ。


 エレノアは、少しだけ振り返った。


 カインは黙って立っていた。


 その表情はいつも通り読みにくい。


 けれど、その目は静かだった。


「殿下」


「何だ」


「私は、まだ王妃様のようにはできません」


「当然だ」


「当然ですか」


「あなたは王妃ではない」


 カインは言った。


「あなたは、あなたのやり方でやればいい」


 エレノアは、しばらくその言葉を胸の中で受け止めた。


 あなたは王妃ではない。


 突き放すようで、解放する言葉だった。


 王妃の遺志を継ぐことと、王妃になることは違う。


 エレノアは、王妃の影ではない。


 王妃が信じた、別の一人の人間として歩くのだ。


「はい」


 エレノアは頷いた。


 王妃の死に関する裁定は終わった。


 だが、物語はまだ終わらない。


 王妃基金の改革。

 王太子の再審査。

 リリアナの基礎教育。

 公爵家の相続処理。

 王宮内に残る亀裂。


 やるべきことは山ほどある。


 それでも、今夜だけは少しだけ静かに立っていたかった。


 王妃が座っていた窓辺で。


 歪められた死が、ようやく正しい名前を得た夜に。


 エレノアは目を閉じ、深く息を吸った。


 白百合の香りはもうない。


 けれど、王妃の言葉は残っている。


 記録の中に。


 人の中に。


 そして、これから作り直される王宮の中に。

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