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第28話 偽りの王妃書簡

 王妃の私的書簡。


 その言葉が王宮にもたらした緊張は、毒よりも静かで、刃よりも薄かった。


 毒ならば、薬包を調べればよい。

 金ならば、帳簿を追えばよい。

 宝飾品ならば、刻印を見ればよい。


 だが、手紙は違う。


 人の心を装うことができる。


 それが亡き王妃の名で書かれたものなら、なおさらだった。


 ――王妃陛下が、王太子ではなく王弟カイン殿下を次代の摂政候補として考えていた。


 もしその書簡が出れば、王宮は二つに割れる。


 王太子派は、王弟が王妃の名を利用して権力を握ろうとしていると叫ぶだろう。

 王弟派は、王妃が最後に見抜いていたのだと主張するだろう。

 そして、どちらでもない貴族たちは、自分に有利な方へ流れる。


 たとえ偽物でも、十分だった。


 疑いを植えつけるだけで、人は勝手に争い始める。


 オルガ・ベルナールが狙っているのは、まさにそこだった。


 エレノアは、北翼監査室で王妃の筆跡資料を広げていた。


 王妃が生前に書いた私的書簡。

 王妃基金への指示書。

 女官長マルタへの短い覚え書き。

 王太子ユリウスへ宛てた教育上の助言。

 王弟カインへ渡した政務報告の感想。


 どれも、王妃の筆跡を知るための基準資料だった。


 マルタは隣で、一通ずつ封筒と紙質を確認している。


「王妃陛下は、私的な書簡でも紙をお選びになる方でした」


 マルタが静かに言った。


「紙を、ですか」


「はい。相手や用件によって、紙の厚さと香りを変えておられました。国王陛下へは白百合の香を薄く。王弟殿下へは香をつけず、実務向けの紙を。王太子殿下へは少し柔らかい紙を使われることが多かったです」


「王妃様らしいですね」


「ええ。相手に言葉以外の負担をかけぬよう、細かなところまで」


 マルタの声には、懐かしさと悲しみが混ざっていた。


 エレノアは、目の前の手紙を一枚取った。


 王妃がユリウスへ宛てた古い助言の手紙だった。


 ――あなたが民の前に立つ時、まず民を見るのではなく、自分が何を背負っているかを見なさい。背負うものを知らぬ者は、差し出す手の重さも知らないのです。


 王妃らしい文だった。


 優しいが、甘くない。


 突き放すようで、最後には必ず道を残す。


 エレノアは、その文字を指先でなぞらないように見つめた。


 王妃の筆跡は、細く美しい。


 だが、美しいだけではない。


 線の終わりに、わずかな踏み込みがある。迷っているように見えて、最後は決して逃げない筆跡だった。


 そこへ、扉が叩かれた。


 オスカーが入ってくる。


「ベルナール家祈祷室から、封書が一通発見されました」


 部屋の空気が変わった。


 カインが窓際から振り向く。


「状態は」


「小型の聖典箱の二重底に保管されていました。封蝋は王妃陛下の月桂樹と百合に似せたもの。ただし、開封済みです」


「持ってこい」


 オスカーが布包みを机の上に置いた。


 全員が一瞬、黙った。


 封筒は、古びた淡い灰色の紙だった。


 角は少し擦れているが、保存状態は悪くない。


 封蝋は黒。


 月桂樹と百合。


 一見、王妃のものに見える。


 だが、エレノアは見た瞬間に違和感を覚えた。


 百合の花弁が、わずかに丸い。


 王妃の個人紋章は、百合の先がもう少し鋭く、月桂樹の葉脈も細かい。


「似ていますが、違います」


 エレノアが言うと、マルタも頷いた。


「王妃陛下の正式な封蝋ではありません。かなり精巧ですが、花弁の形が違います」


 オスカーが記録する。


 カインは低く言った。


「中身を」


 エレノアは手袋をはめ、封書を慎重に開いた。


 中には、一枚の便箋が入っていた。


 筆跡は、王妃に似ていた。


 似せている。


 意識的に。


 エレノアは最初の一行を読んだ瞬間、眉をわずかに寄せた。


 ――我が身に万一のことあらば、王太子ユリウスではなく、王弟カインをもって次代の摂政と考えるべし。


 強い文章だった。


 強すぎる。


 王妃は、こんな書き方をしない。


 エレノアは声に出さず、最後まで目を通した。


 内容は危険なものだった。


 王太子ユリウスの未熟さを挙げ、国王の判断力低下を示唆し、王弟カインこそが国を支えるべきだと記している。


 さらに、王太子妃候補エレノア・ヴァレンシュタインを王弟側の証人として用いるべきだ、ともあった。


 まるで、今の状況を予見したような文面。


 いや、違う。


 今の状況に合わせて作られた文面だ。


「どうだ」


 カインが尋ねた。


 エレノアは便箋を机に置いた。


「偽物です」


 即答だった。


 マルタが、まだ読み終えていない顔でエレノアを見る。


「断定できますか」


「はい」


 エレノアは、王妃の本物の書簡を一通横に並べた。


「まず、呼称が違います。王妃様は、私的書簡で王太子殿下を『ユリウス』とだけ書くことはあっても、『王太子ユリウス』とはほとんど書かれません。逆に公式文書なら『王太子ユリウス・グランベルク』と正式名を使われます。この文は、その使い分けが曖昧です」


 オスカーが素早く書き留める。


「次に、王弟殿下について。王妃様は私的文書で殿下を『カイン』とは書かれても、『王弟カイン』とは書かれません。これも同じです。公式文書と私的書簡の混ざった、不自然な書き方です」


 カインが小さく頷いた。


 エレノアは続けた。


「三つ目。王妃様は『用いるべき』という表現をあまりお使いになりません。人を道具として扱う響きを避ける方でした。特に私に関して『証人として用いる』とは書かれないはずです」


 マルタの目が深く揺れた。


「その通りでございます」


 エレノアは、偽書簡の末尾を見た。


「そして最後に、日付です」


 カインが目を細める。


「日付?」


「この書簡の日付は、王妃様が亡くなる九日前になっています。ですが、この日、王妃様は午前中から高熱があり、長文を書くことはできませんでした」


 マルタがすぐに頷いた。


「記録がございます。その日はエレノア様と私が交代で付き添いました。王妃陛下は、短い言葉をお話しになるのもおつらそうで」


「はい」


 エレノアは王妃の療養記録を出した。


「この日の王妃様の筆跡は、薬の服用確認に残っています。わずか数文字ですが、手の震えが強い。この偽書簡の筆跡は、むしろ安定しすぎています」


 オスカーが、偽書簡と療養記録を並べた。


 確かに違う。


 王妃の病中の字は、線が細く震えている。


 偽書簡は、病床の筆跡を似せようとしてわずかに線を弱めているが、全体の勢いは健康な者のものだった。


「紙も違います」


 マルタが言った。


「この紙には香がありません。王弟殿下宛ての実務書簡なら香をつけないことはありますが、この内容なら国王陛下か王家法務官へ残すべきもの。王妃陛下はこの形式では書かれません」


「つまり、誰かが王妃の筆跡と封蝋を真似て、今の状況に合わせて作った」


 カインが言った。


「はい」


 エレノアは偽書簡を見つめる。


「目的は、王弟殿下と私を王妃様の名を利用して王太子殿下を排除しようとしているように見せることです」


「そして王宮を割る」


「ええ」


 部屋の中に、静かな怒りが広がった。


 王妃の死を利用するだけでなく、王妃の筆跡まで利用する。


 その悪質さに、マルタの手が震えていた。


「王妃陛下の名を……」


 彼女の声は低かった。


「死者に、こんな言葉を言わせるなど」


 エレノアも同じ思いだった。


 王妃は厳しい人だった。


 だが、人を無用に争わせるために言葉を残す人ではなかった。


 王太子の再審査を求めた。


 それは事実だ。


 けれど、それは王太子を憎んだからではない。


 国のために、彼に必要な問いを残したのだ。


 それを、オルガは権力争いの火種に変えようとした。


「殿下」


 エレノアは顔を上げた。


「この書簡は、すぐには公表しない方がよいと思います」


 カインは即答しなかった。


「理由は」


「今公表すれば、偽物だと証明しても噂の方が早く走ります。『王妃様は王弟殿下を摂政に望んでいたらしい』という部分だけが広がる可能性があります」


「隠せば、後で不利になる」


「隠すのではなく、鑑定記録を整えてから提示します。封蝋の差異、筆跡、日付の矛盾、紙質、呼称の不自然さ。すべてを一覧化し、偽造書簡として裁定会議へ出すべきです」


 カインは、少しだけ目を細めた。


「あなたが説明するか」


「はい」


「王妃の名を使った偽書簡を、あなたが偽物と断じる。相当な反発が出る」


「分かっています」


「王弟を守るために偽物扱いした、と言われるだろう」


「それも分かっています」


「それでも?」


 エレノアは、偽書簡を見た。


 そこにあるのは、王妃の姿を真似た別人の言葉だった。


 王妃なら、こんな書き方はしない。


 王妃なら、こんな形でカインを利用しない。


 王妃なら、エレノアを「用いる」とは書かない。


「王妃様の言葉ではないものを、王妃様の言葉として残すわけにはいきません」


 カインは、しばらく黙った。


 それから短く言った。


「分かった。鑑定記録を作れ」


「はい」


 その時、廊下の外が騒がしくなった。


 オスカーが扉へ向かう。


 戻ってきた彼の顔は硬かった。


「王宮内に噂が流れ始めています」


 カインの表情が冷える。


「何の噂だ」


「王妃陛下が、王弟殿下を次代の摂政に望んでいたという書簡が見つかった、と」


 室内が静まり返った。


 早すぎる。


 書簡は今、ここに届いたばかりだ。


 発見現場は封鎖され、持ち出しも制限されていた。


 それなのに、内容が流れている。


「誰が漏らした」


 カインの声は低かった。


 オスカーが答える。


「ベルナール家の使用人経由と思われます。ただ、噂の内容が妙に整っています。『王妃は王太子の未熟を憂い、王弟を摂政に望んだ』と。まるで最初から流す文章が用意されていたようです」


 エレノアは、指先に冷たいものを感じた。


 オルガは、書簡が見つかることも想定していた。


 いや、見つかるように置いたのかもしれない。


 そして見つかった瞬間、噂が走るようにしていた。


 偽物だと証明する前に、王宮の空気を変えるために。


「急ぎましょう」


 エレノアは言った。


「この噂は、今日中に止めなければなりません」


「止めるだけでは足りない」


 カインは立ち上がった。


「誰が噂を受け取るか見る。王太子派、王弟派、分家寄り、財務官寄り。反応する者を洗い出す」


「噂を餌に?」


「そうだ」


 エレノアは少しだけ驚いた。


 だが、すぐに頷いた。


 オルガが噂を使うなら、その噂に食いつく者を記録する。


 王弟カインらしいやり方だった。


「ただし、王太子殿下には先に知らせるべきです」


 エレノアが言うと、カインは彼女を見た。


「なぜ」


「この噂は、王太子殿下の再審査に直接関わります。殿下が外から聞けば、王弟殿下への不信が生まれる可能性があります」


「ユリウスが疑うと?」


「以前なら」


 エレノアは正直に言った。


「今は、分かりません。だからこそ、記録と共に先に見せるべきです」


 カインは少し考え、頷いた。


「呼べ」


 ユリウスが監査室へ来たのは、それからほどなくしてだった。


 彼は顔色を悪くしていた。


 すでに噂を耳にしていたのかもしれない。


 だが、部屋へ入ると、まずカインへ礼を取った。


「叔父上。呼び出しと伺いました」


 カインは偽書簡を示した。


「ベルナール家祈祷室から、王妃の名を騙る書簡が見つかった」


 ユリウスの喉が動いた。


「噂は……本当だったのですか」


「書簡が見つかったことは本当だ。中身が王妃の意思かどうかは別だ」


 エレノアが、鑑定途中の記録を差し出した。


「殿下。現時点で、偽造の可能性が高いと判断しています」


 ユリウスは書簡を見た。


 目が一行目で止まる。


 王太子ユリウスではなく、王弟カインをもって次代の摂政と考えるべし。


 顔から血の気が引く。


 当然だった。


 偽物だと言われても、そこに自分を否定する言葉がある。


 しかも、王妃の筆跡に似せて。


 ユリウスは、しばらく黙っていた。


 以前なら、怒っただろう。


 叔父上がこれを利用するつもりなのか、と。


 エレノアが自分を追い落とそうとしているのか、と。


 今も、その疑いが一瞬浮かんだ。


 だが、彼は書簡の横に置かれた鑑定記録を見た。


 呼称の不自然さ。

 封蝋の花弁の違い。

 日付と療養記録の矛盾。

 筆跡の線の安定。

 王妃の表現傾向との違い。


 そこには、感情ではなく確認があった。


「……偽物、なのだな」


 ユリウスは低く言った。


「現時点では、そう判断しています」


 エレノアが答える。


「完全な鑑定はこれからですが、王妃様の真正書簡として扱うことはできません」


 ユリウスは目を閉じた。


 胸の奥で、複雑なものが渦巻いていた。


 安心。


 怒り。


 恥。


 恐怖。


 そして、また自分が疑いかけたことへの嫌悪。


「私は一瞬、疑った」


 彼は言った。


 カインが何も言わずに見る。


 ユリウスは続けた。


「叔父上が、これを利用するのではないかと。エレノアが、それを支えるのではないかと。ほんの一瞬だが、そう思った」


 エレノアは黙っていた。


 ユリウスは彼女を見る。


「だが、君は先に私へ見せた。鑑定記録と一緒に」


「必要な手続きです」


「そうだな」


 ユリウスは苦く笑った。


「手続きに、また救われた」


 カインが言った。


「この噂は広がる。お前を刺激し、私への不信を煽るためのものだ」


「分かっています」


「本当に?」


 ユリウスは、少し間を置いた。


「感情は揺れる。だが、感情で動かないようにする」


 それは、以前の彼なら言わなかった言葉だった。


「私にできることはありますか」


 カインが即座に答える。


「噂を聞いた時の反応を記録しろ。誰が何を言ったか。お前を煽る者、私への疑いを口にする者、エレノアを中傷する者。すべてだ」


「承知しました」


「それから、王太子府内に通達する。真偽不明の書簡について私的な議論を禁じる。正式鑑定を待つ、と」


「はい」


 ユリウスは頷いた。


 そして、エレノアへ向き直った。


「エレノア」


「はい」


「私は、また間違えかけた」


「はい」


 容赦のない返事だった。


 だが、ユリウスは目を逸らさなかった。


「だが、今度は止まれた」


「それも記録しておきます」


 ユリウスは、少しだけ笑った。


 痛みを含んだ笑いだった。


「頼む」


 彼が去った後、カインはエレノアを見た。


「ユリウスを少し甘く見たかもしれない」


「良い意味で、ですか」


「今回はな」


 エレノアは頷いた。


「ですが、まだ一度止まれただけです」


「厳しいな」


「必要です」


「そうだな」


 偽書簡の鑑定は、その日の午後まで続いた。


 王家法務官、筆跡鑑定士、紙商人、封蝋職人、マルタの証言、エレノアの記録。


 それらを合わせると、偽造の根拠はさらに増えた。


 紙は王妃が亡くなった後に王都へ入った紙束と同じものだった。

 封蝋の型は、王妃の正式印ではなく、社交用の装飾印を模したものだった。

 筆跡は王妃の特徴をよく捉えていたが、特定の文字の癖がオルガ・ベルナール夫人の筆跡と一致する部分があった。

 特に「王」「弟」「用」の払いが似ていた。


 決定的だったのは、インクだった。


 偽書簡に使われたインクには、北方産の青鉱粉が混じっていた。


 王妃が晩年使っていたインクには、その成分はない。


 だが、ベルナール家の書斎で押収されたインク壺から、同じ成分が検出された。


 夕刻、大裁定の間で緊急の確認会議が開かれた。


 噂はすでに王宮内を駆け回っていた。


 王弟派の貴族の中には、表情を引き締めながらも内心で期待している者がいた。


 王太子派の者たちは、カインを警戒する目を向けていた。


 中立を装う者たちは、どちらに傾くかを測っていた。


 その中央で、エレノアは偽書簡を提示した。


「結論から申し上げます。この書簡は王妃エレオノーラ陛下のものではありません」


 ざわめきが起きた。


 エレノアは、声を荒げなかった。


 封蝋の違い。

 筆跡の不自然さ。

 日付の矛盾。

 紙とインクの年代不一致。

 王妃の表現傾向との違い。


 ひとつずつ示した。


 誰かが途中で口を挟もうとしたが、カインが視線だけで黙らせた。


 エレノアは最後に言った。


「この偽書簡の目的は、王妃陛下の名を使い、王太子殿下と王弟殿下の間に不信を生じさせること。そして、王宮内に派閥対立を起こすことです」


 ユリウスが立ち上がった。


 大裁定の間の視線が集まる。


 彼は、ゆっくりと口を開いた。


「私は、この書簡を正式鑑定前に確認しました」


 ざわめきが広がる。


「一瞬、心が揺れたことを認めます。ですが、王弟殿下とエレノアは、鑑定記録と共にこの書簡を私へ提示しました。私的に隠すことも、政治的に利用することもしませんでした」


 ユリウスは、カインへ向き直った。


「私は、王太子として未熟でした。その未熟さは現在、再審査を受けています。ですが、この偽書簡を使って王弟殿下を疑うことはしません」


 大裁定の間が静まり返った。


 ユリウスは続けた。


「私の未熟は、私自身の責任です。誰かが偽造した王妃陛下の言葉で、責任の所在をすり替えることは認めません」


 その言葉に、エレノアは少しだけ目を伏せた。


 ユリウスはまだ足りない。


 王になるには、まだ遠い。


 だが今、彼は自分の責任を他人へ押しつける道を選ばなかった。


 それは小さくない一歩だった。


 カインは表情を変えなかった。


 しかし、国王アレクシスは深く息を吐いた。


 失望だけではない、わずかな安堵がそこにはあった。


 会議の終わりに、オルガ・ベルナール夫人が連れてこられた。


 彼女は偽書簡を見ても、微笑んでいた。


「恐ろしいことをなさる方がいるのですね」


 エレノアは、インクの鑑定記録を置いた。


「この書簡に使われたインクは、ベルナール家書斎のインク壺と一致しました」


「我が家のインクを使った者がいるのでしょう」


「筆跡の一部も、夫人の筆跡と共通しています」


「似た癖の者など、いくらでも」


「封蝋の模造印は、慈善衣料会の保管庫で見つかった道具箱の中にありました」


「私は保管庫のすべてを把握しておりません」


 逃げる。


 まだ逃げる。


 エレノアは、オルガの顔を見つめた。


「王妃様の名を使って、王宮を割ろうとしたのですか」


 オルガは微笑んだ。


「王宮は、元から割れていたのでは?」


 その一言に、場が静まる。


 オルガは、ようやく少しだけ本音を見せた。


「王太子殿下は、見たいものしか見ない。公爵は娘を駒にする。夫人たちは慈善の名で自分の影響力を競う。財務官は金を動かし、商人は香草と毒草の違いも気にしない。王宮は美しい顔をして、最初から割れていた」


 エレノアは黙って聞いていた。


「私は、割れ目に指を入れただけですわ」


「それを、罪と言います」


「そうでしょうね」


 オルガは、初めて少し疲れたように笑った。


「でも、あなた方もお気をつけなさい。割れた器は、誰か一人を裁いても元には戻りません」


「元に戻すつもりはありません」


 エレノアは言った。


「作り直すために、割れた場所を記録します」


 オルガは、エレノアを見た。


「本当に、嫌な方」


「よく言われます」


「王妃陛下にも?」


「いいえ」


 エレノアは静かに答えた。


「王妃様は、そこを信じてくださいました」


 オルガの微笑みが、ほんの少しだけ消えた。


 その顔を見た時、エレノアは初めて思った。


 オルガは、王妃に負けたのだ。


 生きているうちではなく。


 死後に残した遺言と、信じた者によって。


 偽りの王妃書簡は、その日のうちに正式に偽造文書として記録された。


 だが、まだ終わりではない。


 オルガは大筋を認めていない。


 ダリウスの完全な証言も、まだこれからだ。


 そして、王妃の死がどこまで意図されたものだったのか、その最終判断も残っている。


 夜、監査室へ戻ったエレノアは、偽書簡の写しを封筒へ収めた。


 その表に、こう記す。


 ――王妃エレオノーラ陛下名義偽造書簡。王宮分断目的の疑い。


 筆を置いた時、カインが言った。


「疲れたか」


「少し」


「少しか」


「かなり」


「よろしい」


 エレノアは、思わず彼を見た。


「何がよろしいのですか」


「少しずつ正直になっている」


 その言葉に、返す言葉がなかった。


 窓の外には夜が広がっていた。


 王宮はまだ揺れている。


 だが、偽りの王妃の声は、記録によって退けられた。


 本物の王妃の言葉だけが、まだ残っている。


 ――彼女を道具として扱うな。


 エレノアは、その一文を胸の中で繰り返した。


 次に裁かれるのは、王妃の死そのもの。


 黒眠草と不正支出と偽書簡の先にある、最後の裁定だった。

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