第27話 王太子、裁かれる側に立つ
王太子ユリウス・グランベルクは、その日、初めて上座ではない席に座った。
大裁定の間ではない。
北翼の奥にある、王家監査用の小会議室だった。
窓は高く、椅子は硬い。装飾は少なく、壁には王家の歴代肖像画もない。あるのは長机と、記録係の机と、証言者が座るための一脚だけだった。
その一脚に、ユリウスは座っていた。
王太子の席ではない。
証言者の席。
いや、今日に限って言えば、裁かれる側の席だった。
机の向こうには国王アレクシス、王弟カイン、王家法務官、そして臨時監査補佐官としてのエレノアが座っている。
ユリウスの隣には側近ローレンが控えていたが、彼は助言者ではなく、記録提出者として呼ばれていた。いつものように王太子の言葉を補う立場ではない。
それが、ユリウスにはこたえた。
いつもなら、自分が言葉に詰まれば誰かが補った。
ローレンが文脈を整え、エレノアが数字を足し、官吏が不足資料を差し出した。
だが今日は違う。
問われるのは、自分が何を知り、何を見落とし、何を承認し、何を確認しなかったのか。
それを自分の口で答えなければならない。
「始める」
カインの声が室内に落ちた。
いつも通り、冷たい声だった。
だがユリウスは、以前のようにその冷たさへ反発できなかった。
冷たいのではない。
余計なものを挟まないのだ。
今は、その意味が少し分かる。
「王太子ユリウス・グランベルク。サルヴィ商会推薦状について確認する」
「はい」
自分の声が硬い。
ユリウスは膝の上で拳を握った。
エレノアが一枚の書類を机上に置く。
「二年前、サルヴィ商会を王宮納入業者として推薦する文書が提出されています。推薦者はグレゴール・ヴァレンシュタイン公爵。副署名はローレン・ディム。王太子府確認印が押されています」
淡々とした声。
かつて会議前に何度も聞いた声だった。
だが、今は隣からではなく、向こう側から聞こえる。
ユリウスはその距離を、痛いほど意識した。
「この文書を、殿下は確認されましたか」
エレノアが尋ねる。
殿下。
その呼び方は礼を尽くしている。
けれど、かつての婚約者としての近さはない。
ユリウスは喉を鳴らした。
「一度、見た」
「内容を覚えておられますか」
「……ほとんど覚えていない」
「なぜですか」
問いは短い。
責める響きはない。
しかし、逃げ場もない。
「重要なものだと思わなかった」
言った瞬間、室内の空気が少し重くなった気がした。
ユリウスは続けた。
「薬草商会の推薦は、財務局と公爵家が確認するものだと思っていた。グレゴール公爵の推薦で、ローレンの形式確認もあった。私が細部まで見る必要はないと……判断した」
「判断した、と記録してよろしいですか」
エレノアが確認する。
ユリウスは一瞬、言葉に詰まった。
判断した。
その言葉は重い。
知らなかった、ではない。
見なかった、でもない。
自分が見なくていいと決めた。
そう記録される。
「……ああ。記録してくれ」
オスカーの筆が走る。
その音が、ユリウスの胸を削るようだった。
カインが次の書類を示す。
「ダリウス・モーンについて」
ユリウスは顔を上げた。
ダリウス。
その名前を聞くだけで、喉の奥が苦くなる。
かつて、扱いやすい側近だと思っていた男。
今は、王妃基金不正、黒眠草納入、リリアナへの誘導、サルヴィ商会との連絡の中心にいた疑いで拘束されている。
祈りの家から救出されたダリウスは、まだ治療中だった。傷は深く、すぐに長時間の証言は取れない。だが意識は戻り、短い聴取には応じ始めているという。
「ダリウスを王太子府で重用した理由は」
カインが問う。
ユリウスは、しばらく黙った。
答えは簡単だった。
だが、簡単だからこそ情けない。
「私の意見を否定しなかったからだ」
ローレンがわずかに目を伏せた。
ユリウスは、その反応を視界の端で見た。
昔なら腹が立っただろう。
憐れまれたようで。
しかし今は、自分でもそう思う。
「ダリウスは、私が何を言ってもまず肯定した。外交の場でも、夫人たちの茶会でも、王太子府の人選でも。私が不快に思うような言い方をしなかった」
「エレノア嬢やローレンの助言は不快だったか」
カインの問いに、ユリウスは一度目を閉じた。
「ああ」
認めることは、ひどく苦い。
「不快だった。私は、足りないと言われている気がしていた。間違える前に止められることも、準備不足を指摘されることも、王太子として見くびられているように感じた」
エレノアは何も言わない。
ただ、記録のために聞いている。
その沈黙が、ユリウスにはありがたくもあり、苦しくもあった。
「だから、ダリウスの言葉は心地よかった。彼は私に、殿下のお考えはもっともです、と言った。王太子には大局を見る役目がある、と言った。細部は臣下が整えるものだ、と」
「それを信じた」
「信じたというより、信じたかった」
ユリウスは自嘲気味に言った。
「私は、自分が見たい言葉を選んで聞いていた」
室内は静かだった。
国王アレクシスは、深い皺の刻まれた顔で息子を見ている。
怒りではない。
失望でもない。
もっと重いものだった。
王として、父として、息子が自分の未熟を言葉にするのを聞く顔。
ユリウスはその視線を受け止められず、机上の書類へ目を落とした。
エレノアが次の質問をした。
「王妃陛下の療養中、薬草納入に関する私の確認要請を受けた記憶はありますか」
その問いは、来ると分かっていた。
それでも、心臓が嫌な音を立てた。
「ある」
「何度ですか」
「正確には覚えていない」
「記録によれば、少なくとも四回です」
エレノアは別紙を示した。
「一度目はサルヴィ商会の納入量と支出額の不一致。二度目は王妃様の眠気の増加。三度目は薬草園整備費と療養費の支出重複。四度目は王妃様の薬包に関する王宮医師への再確認要請です」
淡々と並べられる事実。
それが、刃のように刺さる。
ユリウスは、指先が冷えるのを感じた。
「私は……その時、どう答えた」
エレノアは少しだけ視線を落とした。
記録を見ている。
彼女はもう、記憶だけで責めない。
必ず記録を見る。
「一度目は、『薬草商会の件は財務局へ』と。二度目は、『王妃様はご病気なのだから眠る時間が増えるのも当然だろう』と。三度目は、『また数字の話か』と。四度目は……」
エレノアは、一瞬だけ言葉を止めた。
そのわずかな間が、ユリウスには怖かった。
「四度目は?」
彼が促すと、エレノアは静かに読んだ。
「『君は王妃様の病まで書類で裁くのか』と」
ユリウスは、息を止めた。
言った。
確かに言った。
思い出したくなかっただけで。
王妃の寝室へ向かう廊下で、エレノアが薬包の色の違いを報告してきた。彼は疲れていた。リリアナとの茶会に遅れそうで、王妃の病の話を聞くのが苦しくて、そして何より、エレノアの真剣な顔が面倒だった。
だから、そう言った。
君は王妃様の病まで書類で裁くのか。
エレノアは、その時、少しだけ顔を白くした。
けれど何も言い返さなかった。
礼をして、去った。
ユリウスは、その背中を見送ることすらしなかった。
「……私は」
声がかすれた。
謝りたい。
だが、謝ればこの場が済むわけではない。
エレノアが望んでいるのは、謝罪ではない。
記録だ。
ユリウスは唇を噛み、言葉を整えた。
「その発言をしたことを認める」
オスカーの筆が走る。
「その時、私は王妃様の病状を直視したくなかった。薬の不審を認めれば、王宮内に問題があることになる。それを面倒だと思った。いや……怖かった」
カインが目を細める。
「怖かった?」
「王妃様が、本当に誰かに害されているかもしれないと考えるのが怖かった。だから、病のせいにした。エレノアの考えすぎだと片づけた」
その言葉は、言っている自分自身を深く傷つけた。
王太子として、あまりに情けない。
だが、事実だった。
「結果として、王妃陛下の薬の不審確認は遅れました」
エレノアが言った。
ユリウスは頷いた。
「私の責任だ」
室内の空気が、ほんの少し揺れた。
王太子が、自分の責任だと言った。
その言葉は重い。
だが、言ったところで何かが戻るわけではない。
王妃はもういない。
薬包は残っている。
黒眠草も。
記録も。
ユリウスの失言も。
すべて、戻らないものとしてそこにある。
「王太子殿下」
エレノアは、次の書類を取った。
「セルベリア大使帰国の件についても確認します」
ユリウスは顔を上げた。
「今、それも必要なのか」
言ってすぐ、自分の声に昔の癖が混じったことに気づいた。
苛立ちではない。
だが、逃げのような言葉だった。
エレノアは静かに答えた。
「必要です。王妃基金と薬の件だけでなく、王太子府の監督能力全体が再審査対象です」
ユリウスは息を吐いた。
「分かった。続けてくれ」
その言葉を、自分から言えたことに、彼自身が少し驚いた。
セルベリア大使夫人への対応。
王妃の喪中にふさわしくない茶会席次。
リリアナが大使夫人に無邪気にかけた言葉。
その場でユリウスが庇ったこと。
エレノアの引継書を読まなかったこと。
王宮側がセルベリア文書の所在を見失っていたこと。
それらが順に確認された。
どれも単独なら、失態で済んだかもしれない。
しかし、積み重なると王太子府全体の未熟と管理不備になる。
ユリウスはひとつひとつ答えた。
分かりません。
確認していません。
任せていました。
軽く見ていました。
知らされていたのに読んでいませんでした。
その言葉を繰り返すたびに、自分の王太子としての姿が少しずつ剥がれていくようだった。
豪奢な外套。
王家の徽章。
貴族たちの賛辞。
リリアナの憧れ。
それらの下にあった自分は、思っていたよりずっと薄い。
裁かれる側に立って初めて、彼はそれを知った。
休憩が挟まれたのは、昼近くになってからだった。
ローレンが水を差し出す。
ユリウスは受け取り、礼を言った。
ローレンがわずかに目を見開く。
「何だ」
「いえ……殿下が私に礼を仰るのは、珍しいので」
ユリウスは苦く笑った。
「そうだったな」
「失礼いたしました」
「いい。事実だ」
ローレンは、何か言いかけて迷った。
ユリウスは彼を見る。
「言え」
「殿下。私も、もっと強く止めるべきでした」
「お前は止めようとしていた」
「止めきれませんでした」
「それは私が聞かなかったからだ」
ローレンは黙った。
ユリウスは水杯を置いた。
「お前が悪くないとは言わない。側近としての責任はある」
「はい」
「だが、私が聞きたい言葉だけを聞いたことも事実だ」
ローレンは深く頭を下げた。
「今後は、耳に痛いことでも申し上げます」
「頼む」
その短いやり取りを、エレノアは少し離れた場所から見ていた。
ユリウスは変わった。
そう言うには、まだ早い。
一度の反省で人は変わらない。
恐怖から始まった後悔は、時が経てば自己憐憫にも変わる。
だから、記録が必要だ。
再教育が必要だ。
監督が必要だ。
それでも、今のユリウスは、少なくとも以前のように耳を塞いではいなかった。
カインが近くへ来た。
「どう見る」
小声だった。
エレノアは少し考えた。
「王としては不足です」
「容赦ないな」
「ですが、再教育を受ける余地はあります」
「それは評価か」
「現時点での記録に基づく所感です」
カインは、ほんの少しだけ口元を動かした。
「あなたらしい」
「褒めていますか」
「半分は」
「残り半分は?」
「呆れている」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
笑いそうになったのを誤魔化すためだった。
その時、扉が叩かれた。
入ってきたのは、医療室付きの文書官だった。
「王弟殿下。ダリウス・モーンが短時間の証言に応じられる状態です。ただ、意識が長く保てません」
カインの表情が変わった。
「分かった。すぐ行く」
ユリウスも立ち上がった。
「私も行く」
カインが彼を見た。
「証言者に圧をかけることになる」
「私は何も言わない」
「それでもだ」
ユリウスは拳を握った。
以前なら、王太子である自分が同席できないことに怒っただろう。
だが、今は少し違った。
自分がいるだけで、証言が歪む可能性がある。
それを考えなければならない。
「……では、隣室で待つ。証言後、私に関わる部分は記録で確認する」
カインは数秒、彼を見た。
「それでいい」
たったそれだけの返答だった。
けれどユリウスには、初めて正しい位置に立てた気がした。
医療室は静かだった。
白い布と薬草の匂いがする。
ダリウス・モーンは、寝台に横たわっていた。
顔色は悪く、唇は乾き、右手には包帯が巻かれている。脇腹の傷も深いらしく、呼吸が浅かった。
かつて王太子府で柔らかく笑っていた男とは別人のようだった。
エレノアとカインが入ると、ダリウスは目を動かした。
「……エレノア様」
「ダリウス卿。話せますか」
「少しなら」
声はかすれていた。
カインが椅子を引いた。
エレノアは寝台のそばに座る。
記録係が控える。
「あなたは、サルヴィ商会と王太子府の連絡役でしたか」
エレノアが尋ねる。
ダリウスは、薄く笑った。
「連絡役。ええ、そうですね。立派な肩書きより、その方が正しい」
「誰の指示で動いていましたか」
「最初はグレゴール公爵です。公爵は、リリアナ様を王太子妃候補にしたがっていた。私は、王太子殿下の好みを伝え、リリアナ様が殿下の前でどう振る舞えばよいか助言した」
「その後は?」
「オルガ夫人です」
記録係の筆が走る。
「夫人は、グレゴール公爵よりずっと頭が回った。公爵は自分が娘を王太子妃にして家を守ると思っていた。でも夫人は、公爵がいずれ邪魔になることも見越していた」
「王妃様の薬は?」
ダリウスは目を閉じた。
しばらく答えなかった。
痛みのせいか、恐怖のせいか。
やがて、かすれた声で言った。
「私は、王妃様を殺す計画だとは聞かされていません」
「では、何だと」
「眠っていただく、と」
マルタが息を呑む。
エレノアは表情を変えなかった。
「王妃様が起きていられる時間が長いと、あなたのような方が出入りし、記録を確認する。王妃様ご自身も、基金の数字に気づき始めていた。だから、療養を深める必要があると……夫人は言いました」
「療養を深める」
カインの声が冷たく響く。
「便利な言い方だな」
ダリウスの顔が歪んだ。
「私も、そう思いました。でも、もう引けなかった」
「なぜ」
「金を受け取っていたからです。サルヴィ商会からも、公爵家からも。王太子府の中で、自分だけの力を持ちたかった。ローレンは堅物で、エレノア様は正しすぎた。私は、殿下に好かれる側近になれると思った」
ユリウスが隣室にいる。
そのことを、ダリウスは知らないのかもしれない。
あるいは知っていて言っているのかもしれない。
「殿下は、私の言葉をよく聞いてくださいました」
ダリウスは続けた。
「正確には、殿下が聞きたい言葉だけを、私が差し出していた」
隣室で、ユリウスはその言葉を聞いていた。
壁一枚隔てた向こうで。
彼は椅子に座り、両手を固く握っていた。
言い返したかった。
お前が裏切ったのだ、と。
だが、言えなかった。
ダリウスが差し出した言葉を、自分が選んで受け取ったことも事実だからだ。
医療室で、エレノアが尋ねる。
「オルガ夫人の目的は、分家の台頭ですか」
「それもあります。でも、それだけではない」
ダリウスは浅く息をした。
「夫人は、王太子殿下を失脚させるつもりでした」
室内の空気が変わった。
「最初から?」
「いいえ。最初は、リリアナ様を王太子妃にし、グレゴール公爵を通じて王太子府へ影響力を持つつもりだった。けれど、王妃様が疑い始め、エレノア様が動き始めた。計画が危うくなった」
「それで、王太子の継承権を揺らす方へ切り替えた」
「はい。王太子殿下が監督不備で失脚すれば、王弟殿下の影響が強まる。そこへ分家を王弟派の支援者として入り込ませる。夫人は、そういう道も見ていました」
カインの眉が、わずかに動いた。
「私を利用するつもりだったか」
「王弟殿下は、清廉な改革者として見えます。腐った本家を切り、健全な分家を立てる。そういう物語を作るつもりだったのでしょう」
エレノアは唇を引き結んだ。
オルガの言葉を思い出す。
裁く側に立つ者は、いつか必ず誰かを動かしますわ。
彼女は、カインの正しささえ利用するつもりだった。
「私を慈善院へ送る案は、誰の発案ですか」
エレノアが問う。
ダリウスは、少しだけ彼女を見た。
その目に、初めて罪悪感らしきものが浮かんだ。
「最初はグレゴール公爵です。ですが、名目を整えたのはオルガ夫人です。『傷心の長女が慈善へ身を捧げる』。社交界受けがいいと」
マルタの顔に怒りが浮かぶ。
エレノアは、静かに頷いた。
「分かりました」
「怒らないのですか」
ダリウスがかすかに言う。
エレノアは彼を見る。
「怒っています」
「そうは見えません」
「見せる必要がありません」
ダリウスは、乾いた笑いを漏らした。
「やはり、あなたを先に排除しようとした夫人は正しかった」
「褒め言葉としては受け取りません」
「でしょうね」
彼の呼吸が少し乱れた。
医師が近づこうとする。
ダリウスはそれを手で制した。
「最後に、一つ」
「何でしょう」
「オルガ夫人は、まだ切り札を持っています」
エレノアとカインの視線が鋭くなる。
「何だ」
カインが問う。
「王妃様の私的書簡です。王妃陛下が、王太子殿下ではなく王弟殿下を次代の摂政候補として考えていたという内容の……本物か偽物かは分かりません。でも、それを出せば王宮は割れると」
カインの表情が初めて明確に険しくなった。
エレノアも息を呑む。
王妃の私的書簡。
王弟カインを摂政候補に。
それが出れば、王太子派と王弟派の対立を煽る材料になる。
真偽にかかわらず、危険だった。
「所在は」
「オルガ夫人の手元ではないはずです。たぶん、ベルナール家の祈祷室か、慈善衣料会の北区保管所。私には、そこまで」
ダリウスの声が途切れた。
医師が今度こそ前へ出る。
「これ以上は危険です」
カインは頷いた。
「記録を止めろ。証言者の治療を優先する」
ダリウスは目を閉じたまま、かすかに言った。
「王太子殿下に……」
隣室でユリウスが息を止めた。
「私は、良い側近のふりをしていましたと……そう記録してください」
エレノアは、少しだけ目を伏せた。
「記録します」
医療室を出ると、隣室の扉が開いた。
ユリウスが立っていた。
顔色は悪い。
だが、逃げるような目ではなかった。
「聞いていた」
カインが言った。
「ああ」
「どうする」
短い問い。
ユリウスは、すぐには答えなかった。
彼の中で、怒りと恥と恐怖が渦巻いているのが分かった。
ダリウスは裏切った。
利用した。
だが、利用される隙を作ったのは自分だ。
自分が聞きたい言葉だけを聞いたからだ。
「記録に加えてくれ」
ユリウスは言った。
「私は、ダリウスの言葉を好んで聞いた。ローレンやエレノアの警告よりも、彼の肯定を選んだ。それが王太子府の監督不備につながった」
カインは、わずかに目を細めた。
「自分で言うか」
「言わなければ、また誰かの記録に隠れる」
ユリウスはエレノアを見た。
「私は今日、裁かれる側に立った。まだ、立っただけだ。だが……逃げない」
エレノアは、彼を見返した。
謝罪を求めているわけではない。
感動する場面でもない。
それでも、その言葉は記録する価値があった。
「オスカー」
エレノアが呼ぶ。
「はい」
「今の王太子殿下の発言を、再審査記録に」
「承知しました」
筆が走る。
ユリウスは、その音を聞いていた。
以前は、記録されることを面倒に思っていた。
今は違う。
記録されることで、初めて逃げずに済むのだと、少しだけ分かり始めていた。
その日の夕刻、王宮には新たな命令が走った。
ベルナール家祈祷室の封鎖。
慈善衣料会北区保管所の捜索。
王妃私的書簡の所在確認。
オルガ・ベルナールの再聴取。
王太子ユリウスの再審査記録への追加証言。
事件は、また一段深い場所へ進んだ。
王太子は、裁かれる側に立った。
そこで見えたのは、愛でも、華やかな後悔でもない。
自分が選んできた怠慢の形だった。
それでも、彼は初めて、自分の言葉を記録に残すことを選んだ。
エレノアはその記録を机に置き、静かに息を吐いた。
王妃の遺言から始まった裁きは、もう誰か一人を罰して終わるものではなくなっている。
父も。
妹も。
元婚約者も。
そして王宮そのものも。
皆、自分が見なかったものの前に立たされている。
次に問われるのは、王弟カインの名が記された王妃の私的書簡。
その真偽だった。




