第26話 妹は駒ではないと、初めて言う
リリアナは、その紙を見た瞬間、息の仕方を忘れた。
北翼の小さな証言室。
窓は細く、外には王宮の庭ではなく石造りの回廊が見える。部屋の中央には机があり、その上に数枚の書類が置かれていた。
王弟カイン。
エレノア。
女官長マルタ。
記録係のオスカー。
そして、リリアナ。
その場にいる者は少ない。
だが、リリアナにとっては、大裁定の間よりも息苦しかった。
目の前にあるのは、父グレゴールの書庫から見つかった相続案だった。
そこには、リリアナの名があった。
王太子妃候補としての婚資。
公爵家本家の維持。
分家との調整。
王太子府への影響力確保。
自分の名前が、まるで宝石箱や土地台帳と同じように並べられている。
そして、姉の名前もあった。
――エレノアについては、王太子妃候補解消後、修道院付属慈善院への寄進名目で整理。
リリアナは、その一文から目を離せなかった。
何度読んでも、意味が変わらない。
整理。
姉を、整理する。
父が。
父が、姉を。
「……なに、これ」
声が震えた。
誰もすぐには答えなかった。
エレノアは、リリアナの正面に座っている。顔色はいつもより少し白い。けれど姿勢はまっすぐで、机の上の書類から逃げる様子はない。
姉は、もう読んだのだ。
この文章を。
自分より先に。
そして、一人で受け止めた。
そう思った途端、リリアナの胸の奥が変なふうに痛んだ。
「お父様が……お姉様を、慈善院へ送ろうとしていたの?」
リリアナは、ようやく言葉にした。
エレノアは静かに答える。
「その案が残っていたわ」
「案って、何よ。だって、お姉様は……お姉様は公爵家の長女でしょう? 王太子殿下の婚約者だったでしょう? 王妃様に信頼されていたでしょう?」
「それでも、父にとって不要になれば、整理対象だったのでしょう」
その声は平らだった。
平らすぎて、リリアナは怖くなった。
怒鳴ってほしかった。
泣いてほしかった。
父はひどい、と言ってほしかった。
そうすれば、自分も一緒に泣けたかもしれない。
でもエレノアは泣かない。
怒鳴らない。
ただ、そこにある記録を見ている。
「私……知らなかった」
リリアナは呟いた。
「本当に、知らなかったの。お姉様がそんなふうにされるなんて。私、王太子妃候補になるって言われて……お姉様は少し休めるのだと思っていたの」
自分で言って、言葉の薄さに気づいた。
少し休める。
そんなはずがない。
婚約者を奪われ、王宮の机を奪われ、家の中で立場を失った姉が、どうして「休める」はずがあるのか。
それでもリリアナは、そう思いたかった。
そう思えば、自分が奪ったものの重さを見なくて済んだからだ。
「リリアナ」
エレノアが名前を呼んだ。
それだけで、リリアナは肩を揺らした。
「今、あなたにこれを見せているのは、私がどれだけ傷ついたかを分からせるためではないわ」
「じゃあ、どうして」
「あなたも、この案の中で駒にされているからよ」
リリアナは、書類へ視線を落とした。
王太子妃候補。
婚資。
公爵家本家維持。
王太子府への影響力。
そこには、リリアナの気持ちなど一行もない。
ユリウスを慕っていたことも。
姉に勝ちたいと思っていたことも。
王太子妃になれば皆に認めてもらえると信じていたことも。
何もない。
ただ、使い道だけが書いてある。
「私も……整理されるものだったの?」
リリアナの声は小さかった。
「整理ではなく、配置でしょうね」
エレノアは答えた。
「王太子殿下の隣に置く。公爵家の力を王宮に残す。分家との相続争いに利用する。そのための配置」
配置。
その言葉は、整理よりも少し柔らかく聞こえる。
けれど、人に向ける言葉ではないことに変わりはなかった。
リリアナは唇を噛んだ。
父は、自分を愛していたのだと思っていた。
母も、自分を可愛いから守ってくれたのだと思っていた。
もちろん、それが全部嘘だったとは思いたくない。
父の手が髪を撫でてくれたこともあった。
母が熱の夜に隣で眠ってくれたこともあった。
でも、愛していることと、利用しないことは同じではないのかもしれない。
その考えが、リリアナには苦しかった。
「私は、お父様に愛されていたの?」
思わずそう尋ねていた。
エレノアはすぐには答えなかった。
その沈黙が、むしろ誠実に感じられた。
「私には、父の心のすべては分からないわ」
「お姉様なら分かるでしょう」
「分からない」
きっぱりと言われた。
リリアナは目を上げる。
エレノアは、少しだけ疲れた顔をしていた。
「私もずっと、父が私をどう見ているのか分からなかった。優秀な娘として誇っているのか、使いやすい道具として見ているのか、家の面目のための飾りなのか。たぶん、全部が混ざっていたのだと思う」
「全部……」
「人の気持ちは、帳簿のように一つの欄には収まらないわ。愛していても、利用することはある。可愛がっていても、都合よく黙らせることはある」
その言葉は、リリアナの胸に重く落ちた。
愛しているなら、利用しない。
可愛がっているなら、守ってくれる。
そう思っていた。
けれど、現実はもっと汚い。
父はリリアナを可愛がっていたかもしれない。
それでも、王太子の隣に置く駒にした。
母はリリアナを抱きしめてくれたかもしれない。
それでも、首飾りの出所を見なかった。
「私、何も知らなかった」
リリアナは言った。
「でも、知らないことを、少し安心していたのかもしれない」
マルタが静かにリリアナを見る。
カインは何も言わない。
オスカーの筆だけが、控えめに走っている。
リリアナは、その音を聞きながら続けた。
「知らなければ、可愛い娘でいられる。知らなければ、お父様とお母様を疑わなくて済む。知らなければ、お姉様から奪ったことも、仕方なかったって思える」
声が震えた。
だが、泣き崩れなかった。
「でも、もう無理なのね」
エレノアは、少しだけ目を伏せた。
「ええ」
短い返事だった。
優しくはない。
けれど、嘘はなかった。
「リリアナ様」
カインが口を開いた。
リリアナは、はっとして背筋を伸ばす。
「あなたには、今日の裁定会議で証言してもらう」
リリアナの顔から血の気が引いた。
「裁定会議で……?」
「オルガ・ベルナール夫人の聴取が行われる。慈善衣料会、偽女官、サルヴィ商会、ダリウス・モーン、そしてあなたへの接触についてだ」
「私……人前で話すのですか」
「そうだ」
「無理です」
反射的にそう言っていた。
昔からそうだった。
怖いことがあると、まず「無理」と言う。
すると母が「無理しなくていいのよ」と言ってくれた。
父が代わりに相手を叱ってくれた。
姉が静かに処理してくれた。
でも、今は誰もすぐには助けてくれなかった。
エレノアも、カインも、マルタも、ただリリアナを見ている。
リリアナは震えた。
「だって、私、上手に話せないもの。聞かれたら間違えるかもしれない。泣いてしまうかもしれない。オルガ様は、きっと私よりずっと上手に話すわ。私が馬鹿みたいに見える」
カインが言った。
「上手に話す必要はない」
「でも」
「覚えていることを、覚えている通りに話せ」
「それが難しいのです」
リリアナは思わず強く言った。
「私は、ずっと人にどう見られるかばかり考えてきました。可愛く見えるか、優しく見えるか、可哀想に見えるか。だから、本当のことをそのまま話すのが怖いのです」
言ってから、自分で驚いた。
こんなことを人前で言うつもりはなかった。
けれど、口から出てしまった。
エレノアは、責めなかった。
ただ、静かに聞いていた。
「怖いなら、怖いと言っていいわ」
エレノアが言った。
リリアナは姉を見る。
「ただし、怖いから話さない、は駄目」
「……お姉様は、やっぱり厳しい」
「そうね」
「でも、少し分かるようになりました」
「何が?」
「お姉様の厳しさは、私を嫌いだからだけじゃなかったんだって」
エレノアは、ほんのわずかに表情を変えた。
「嫌いだからだけ、ということは、嫌いではあるのね」
リリアナは、はっとして口元を押さえた。
「あ、違……違わないかもしれないけど、今そういう意味で言ったのではなくて」
マルタが小さく咳をした。
笑いを堪えたのかもしれない。
カインの表情は変わらない。
けれど、部屋の空気が一瞬だけ和らいだ。
リリアナは真っ赤になりながら俯いた。
「ごめんなさい」
「いいわ」
エレノアは静かに答えた。
「嫌いな気持ちが少しあるのは、たぶんお互い様だから」
リリアナは顔を上げた。
胸が痛かった。
でも、それは嘘で慰められるよりずっとましだった。
「でも」
エレノアは続けた。
「嫌いな気持ちがあることと、あなたをまた駒にさせていいことは別よ」
リリアナの目に、涙が浮かんだ。
今度の涙は、少し違った。
許されたからではない。
可哀想だと言われたからでもない。
姉が、自分を好きではない部分を抱えたまま、それでも守るべき証言者として見てくれている。
それが苦しくて、ありがたくて、どう受け取ればいいか分からなかった。
「私、駒じゃないって言いたい」
リリアナは、ぽつりと言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
父へか。
母へか。
オルガへか。
ダリウスへか。
姉へか。
それとも、自分自身へか。
「ずっと、お人形みたいにしていれば愛されると思っていました。綺麗なドレスを着て、泣く時も可愛く泣いて、殿下に選ばれたら、それで私はお姉様に勝てるんだって。でも、違った」
リリアナは書類を見た。
相続案。
父の文字。
姉の整理。
自分の配置。
「私は、駒じゃない」
声は小さかった。
けれど、今度ははっきりしていた。
「今日、言います。上手じゃなくても、泣いても、言います。私は駒じゃないって」
エレノアは、しばらく妹を見つめた。
それから、ゆっくり頷いた。
「その言葉は、記録に残す価値があるわ」
リリアナは少しだけ笑いそうになり、でもすぐ泣きそうになった。
「お姉様は、本当に何でも記録にするのね」
「必要だから」
「うん。今は、少しだけ分かる」
その返事を聞いて、エレノアの目元がほんのわずかに和らいだ。
ほんの一瞬。
けれど、リリアナはそれを見逃さなかった。
午後、大裁定の間には再び重い空気が満ちていた。
オルガ・ベルナール夫人は、逃げなかった。
王弟府の命令に従い、静かに王宮へ現れた。
灰青のドレス。
真珠一粒の髪飾り。
病弱な夫を支える分家夫人にふさわしい、控えめな装い。
彼女は、国王と王弟へ深く礼を取り、顔を上げた時にはいつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
「お呼びと伺い、参上いたしました」
声は柔らかい。
大裁定の間にいる何人かの貴族が、彼女へ同情めいた視線を向けている。
噂はすでに流れ始めていた。
王弟が分家夫人を疑っている。
エレノアが自分を追放しようとした一族への怒りで、分家にまで手を伸ばしている。
オルガ夫人は慈善活動に熱心なだけなのに、サルヴィ商会の罪を押しつけられている。
物語は、証拠より早く走る。
エレノアはそれを感じた。
だからこそ、今日の証言が必要だった。
オルガは、証拠を突きつけられても微笑むだろう。
なら、その微笑みが誰をどう動かしてきたのか、人の言葉で示さなければならない。
カインが、まず祈りの家で保護されたミラ・ハーディの証言を読み上げさせた。
ミラ本人は別室にいる。まだ衰弱が激しく、大裁定の間へ出ることは難しい。
証言には、オルガの名があった。
王宮女官服。
東翼執務室への侵入。
リリアナへの偽署名誘導。
ダリウスとの連絡。
祈りの家での監禁。
オルガは、微笑みをわずかに悲しげなものへ変えただけだった。
「ミラは、気の毒な女性です。生活に困って、判断を誤ったのでしょう。私の名を出せば、少しでも罪が軽くなると思ったのかもしれません」
予想通りだった。
カインは次に、サルヴィ商会主アルバンの証言を示した。
オルガは、また同じように言った。
「商人は保身のためなら、いくらでも名を売りますわ」
慈善衣料会の保管庫から見つかった女官服。
オルガ推薦のミラ・ハーディ。
架空配布先。
祈りの家の地下書類。
署名入り書簡。
それでも、彼女は崩れなかった。
「署名は似せられたものかもしれません。女官服は保管庫に寄付されたもの。架空配布先については、事務係の管理不足でしょう。祈りの家に私がいた証拠はございません」
ひとつひとつ、逃げ道を作る。
完全に否定せず、別の可能性を出す。
同情を混ぜる。
責任を散らす。
エレノアは、そのやり口を静かに見ていた。
そして、リリアナの番が来た。
「リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢」
カインに呼ばれ、リリアナは立ち上がった。
膝が震えているのが、自分でも分かった。
大裁定の間の視線が、一斉に集まる。
ユリウスも見ている。
エレノアも。
オルガも。
父はいない。
母もいない。
今は、自分一人で立たなければならない。
リリアナは、何度も深呼吸した。
うまく話そうとしてはいけない。
可愛く泣こうとしてはいけない。
覚えていることを、覚えている通りに。
「私は……リリアナ・ヴァレンシュタインです」
声は震えた。
少し笑う者がいるかと思ったが、誰も笑わなかった。
「私は、王太子殿下に選ばれた時、自分が特別なのだと思いました。お姉様より、私の方が人の心が分かるのだと。お姉様は冷たくて、私は優しいのだと……そう思っていました」
エレノアは表情を変えなかった。
リリアナは、続けた。
「でも、私は何も知りませんでした。王妃基金のことも、王太子妃候補の仕事も、書類に署名する責任も。知らなかったのに、知ろうともしませんでした」
大裁定の間は静まり返っている。
オルガは、微笑みを浮かべたままだった。
しかし、その目はリリアナをじっと見ていた。
誘導するように。
迷わせるように。
リリアナは、一瞬だけ言葉に詰まった。
その時、エレノアの声が聞こえた。
「リリアナ」
小さな声だった。
けれど、届いた。
「記録のために、見たことだけを」
リリアナは頷いた。
「はい」
そうだ。
見たことだけ。
覚えていることだけ。
「私は、東翼執務室で女官服の女性に会いました。名前は分かりません。優しい声で、私にも役に立てることがあると言いました。お姉様も最初は署名の練習から始めたのだと……そう言われました」
オルガの微笑みが、わずかに動いた。
「その女性は、私が分からないと言うと、怒りませんでした。むしろ、分からないままでも大丈夫だと。王太子妃になる方は、細かなことを全部分かる必要はないと。そう言いました」
リリアナは、ハンカチを握りしめる。
「私は、その言葉を聞いて安心しました。お姉様みたいにできなくてもいいのだと思いました。でも、それは違いました。私は、分からないまま署名しようとしました。お姉様の名前に似せて」
声が震える。
涙が浮かぶ。
でも、止まらない。
「それは、私の責任です」
大裁定の間に、静かな衝撃が走った。
リリアナが、自分で責任と言った。
誰かのせいだけにせず。
知らなかっただけで済ませず。
その言葉を、ユリウスは目を伏せて聞いていた。
オルガはまだ微笑んでいる。
だが、その微笑みは少し硬い。
リリアナは、彼女へ顔を向けた。
「オルガ様」
直接呼ばれ、オルガは優しく首を傾げた。
「何でしょう、リリアナ様」
その声は、相変わらず柔らかかった。
リリアナは、その声を聞いて思った。
昔なら、この声を信じたかもしれない。
この人は優しい人だと思ったかもしれない。
でも今は違う。
「私は、あなたに何度か茶会で声をかけられました」
「ええ。ご挨拶くらいは」
「その時、あなたは言いました。エレノア様は強すぎるから、殿下は安らげないのだと。王妃に必要なのは正しさより柔らかさだと」
オルガは微笑む。
「一般論として、そう申し上げたかもしれません」
「私は、それを聞いて嬉しかった」
リリアナは正直に言った。
「お姉様に勝てる理由をもらった気がしたから」
エレノアは目を伏せた。
リリアナは続ける。
「でも、あなたは私を見ていたのではありません。私の嫉妬を見ていたのです。私の弱さを見て、そこに言葉を置いた」
オルガの目が、初めて少し冷たくなった。
「リリアナ様。傷ついていらっしゃるのね。誰かにそう言うように言われたのでは?」
その一言で、場の空気が揺れた。
いつものやり方だ。
リリアナの言葉を、リリアナ自身のものではないと言う。
誰かに言わされたのだと。
また、駒に戻そうとしている。
リリアナの手が震えた。
泣きそうになる。
だが、今度は泣かなかった。
「違います」
小さく、しかしはっきりと言った。
「これは、私の言葉です」
オルガの微笑みが止まった。
リリアナは、震える足で立ち続けた。
「私は、馬鹿でした。知らないことを知らないままにして、可哀想な妹でいれば誰かが守ってくれると思っていました。だから、あなたの言葉も、ダリウス様の言葉も、都合よく信じました」
一度、息を吸う。
「でも、私は駒ではありません」
その言葉は、大裁定の間にまっすぐ響いた。
「お父様の駒でも、あなたの駒でも、殿下の隣に置かれるお人形でもありません。私は、自分がしたことを話します。知らなかったことも、知ろうとしなかったことも、全部」
涙が頬を伝った。
それでも、声は途切れなかった。
「私は駒ではありません。だから、もう誰かの言葉で泣きません」
沈黙。
深い沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、エレノアはリリアナを見ていた。
胸の奥に、いくつもの感情が押し寄せる。
怒りは消えない。
奪われたものは戻らない。
許しもまだ遠い。
それでも、妹が初めて自分の言葉で立ったことだけは、確かだった。
オルガは、ゆっくりと口を開いた。
「立派ですわ、リリアナ様」
声は柔らかい。
だが、ほんのわずかに硬かった。
「けれど、あなたはまだ子供です。自分が何を言っているか、本当に分かって」
「分かっていないこともあります」
リリアナは遮った。
初めて、オルガの言葉を遮った。
「でも、分からないまま、あなたに続きを決められるのは嫌です」
その一言で、オルガの微笑みから明らかに温度が消えた。
カインが静かに言った。
「記録したな」
「はい」
オスカーが答える。
「リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢の証言、記録済みです」
カインはオルガへ視線を向けた。
「オルガ・ベルナール夫人。あなたを、王妃基金不正、慈善衣料会を利用した偽署名誘導、王宮女官服不正使用、ダリウス・モーン監禁および証拠隠滅未遂の疑いで拘束する」
大裁定の間がざわついた。
オルガは一瞬、目を伏せた。
そして、また微笑んだ。
「お見事ですわ」
その言葉が誰へ向けられたものか、分からなかった。
カインか。
エレノアか。
それとも、自分の言葉で立ったリリアナか。
近衛がオルガのそばへ進む。
彼女は抵抗しなかった。
ただ、連れていかれる直前、エレノアへ視線を向けた。
「エレノア様。あなたは人を駒にしないと仰る。でも、裁く側に立つ者は、いつか必ず誰かを動かしますわ。その時、自分だけは違うと思わないことです」
エレノアは、まっすぐ彼女を見た。
「だから記録します」
オルガは、薄く笑った。
「本当に、王妃陛下そっくり」
その言葉を最後に、彼女は近衛に連れられて大裁定の間を出ていった。
扉が閉まる。
ざわめきが少しずつ収まる。
リリアナは、その場に立ったまま動けなかった。
力が抜けたように膝が揺れる。
ユリウスが反射的に動きかけたが、途中で止まった。
代わりに、マルタが近づき、そっと椅子を引いた。
「お座りください」
「……はい」
リリアナは椅子に腰を下ろした。
涙はまだ止まらない。
だが、泣き方が違った。
許してほしい涙ではない。
自分の言葉で立った後の、怖さと疲れの涙だった。
エレノアは、少し離れた場所から妹を見ていた。
リリアナが顔を上げる。
二人の目が合った。
リリアナは、何かを言おうとして、やめた。
謝罪ではない。
甘えでもない。
ただ、小さく頭を下げた。
エレノアも、ほんのわずかに頷いた。
姉妹の間にあるものは、まだ壊れたままだ。
でも、瓦礫の下から初めて、何かを拾い上げた気がした。
それが許しなのか、理解なのか、ただの始まりなのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
リリアナ・ヴァレンシュタインは、その日初めて、自分は駒ではないと言った。
そして、その言葉は正式な記録に残った。




