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第25話 閉ざされた祈りの家

 王都北区の外れには、古い祈りの家があった。


 かつては身寄りのない子供や、病で働けなくなった者たちを一時的に受け入れる施設だったという。だが十年前、資金難と管理者の死によって閉鎖され、今では祈りの名だけが残っている。


 建物は、王都の華やかな街並みから外れた坂の上にあった。


 石造りの小さな礼拝堂と、そこに繋がる古い宿舎。尖塔は途中で折れ、窓には板が打ちつけられている。門柱に彫られた聖句は風雨で削れ、読める文字はわずかだった。


 ――弱き者を、見捨てるな。


 エレノアは、その消えかけた文字を見上げた。


 皮肉だと思った。


 慈善衣料会の架空配布先として使われていた名。

 偽女官ミラ・ハーディが向かわされたかもしれない場所。

 そして、王妃基金から消えた衣料費の行き先として記録されていた施設。


 閉ざされた祈りの家。


 そこに、本当に誰かがいるのなら。


 それは祈るためではない。


 隠すためだ。


「中に灯りは?」


 カインが近衛隊長レナードへ尋ねる。


「裏手の宿舎側に、かすかな灯りが確認されています。正面礼拝堂は無人に見えますが、地下室がある可能性が」


「周囲は」


「北側に雑木林。東に細い墓地道。西側は崖に近い斜面です。逃げるなら裏手か墓地道でしょう」


 カインは短く頷いた。


「裏手と墓地道を塞げ。礼拝堂内は証拠保全を優先する。火を使わせるな」


「はっ」


 近衛たちが霧の中へ散っていく。


 まだ朝は完全に明けきっていない。空は鉛色で、風は冷たかった。古い石壁に触れると、指先に湿気が移りそうだった。


 エレノアは、外套の前を押さえた。


 隣にはマルタがいる。


 マルタは祈りの家の門を見つめ、低く言った。


「ここは、王妃陛下が一度だけ視察を望まれた場所です」


「王妃様が?」


「ええ。閉鎖前、支援を続けるかどうか議題に上がったことがございました。結局、管理者の不在と建物の老朽化で閉鎖が決まりましたが、王妃陛下は最後まで気にしておられました」


 弱き者を、見捨てるな。


 門柱の文字が、また目に入った。


 王妃は、この言葉を見たのだろうか。


 そして今、その場所が不正の隠れ場にされている。


 エレノアは胸の奥に冷たい怒りを覚えた。


「行くぞ」


 カインの声で、正面扉が開けられた。


 重い軋み。


 埃と古い木の匂いが漂う。


 礼拝堂の中は薄暗かった。


 長椅子はほとんど撤去され、床には割れた瓦礫が散っている。祭壇の布は色褪せ、壁の聖画は湿気で歪んでいた。


 だが、足跡があった。


 埃の上に、複数の靴跡。


 新しい。


 礼拝堂の中央を通り、祭壇の奥へ続いている。


「最近使われていますね」


 エレノアが言うと、レナードが頷いた。


「足跡は三種類以上あります。小柄な者のものも」


「ミラかもしれない」


 カインが言った。


 祭壇の裏に、小さな扉があった。


 板で塞がれているように見えたが、実際には簡単に外せるよう細工されていた。


 近衛が板を外す。


 狭い通路が現れた。


 奥から、かすかな声が聞こえた。


「……誰かいます」


 マルタが小さく言った。


 カインが手を上げる。


 全員が動きを止めた。


 耳を澄ます。


 泣き声ではない。


 祈りでもない。


 誰かが、弱々しく何かを呟いている。


「助け……」


 エレノアの胸が跳ねた。


 カインが鋭く命じる。


「進め」


 近衛が先に入り、通路の安全を確認する。


 奥は小さな保管室だった。


 かつて礼拝用具を置いていた場所だろう。壊れた燭台や古い聖典箱が積まれている。その隅に、一人の女性が座り込んでいた。


 痩せた頬。


 乱れた茶色の髪。


 煤と泥で汚れた服。


 腕には縄の痕がある。


 ミラ・ハーディだった。


 彼女はエレノアたちを見ると、怯えたように後ずさろうとした。しかし、足に力が入らないらしく、その場に崩れた。


「来ないで……私は、もう……」


「ミラ・ハーディですね」


 エレノアは声を抑えて尋ねた。


 ミラは震えながら頷いた。


「王宮の……方……?」


「王弟殿下の監査です。あなたを保護します」


「保護……」


 その言葉を聞いた瞬間、ミラの目から涙がこぼれた。


「私、殺されると思って……」


 マルタがすぐに近づこうとする。


 しかしカインが止めた。


「待て。周囲を確認しろ」


 近衛が保管室の奥を調べる。


 箱がいくつかある。


 布袋、古い衣料、紙束。


 そして、床に血の跡があった。


 乾ききってはいない。


「ここで争いがあったようです」


 レナードが言った。


「誰の血ですか」


 エレノアが問うと、ミラが震えた。


「ダリウス様……いえ、モーン卿の血です。たぶん」


 全員の視線がミラへ向く。


 カインが低く尋ねた。


「ダリウスはここに来たのか」


 ミラは両手を握りしめた。


「昨夜、連れてこられました。手を怪我していて、顔色も悪くて……夫人と揉めていました」


「夫人とは、オルガ・ベルナールか」


 ミラは怯えたように目を見開いた。


 だが、逃げ場がないと悟ったのか、小さく頷いた。


「はい……」


 ついに、明確な証言が出た。


 オルガ。


 サルヴィ商会の商会主だけではない。


 ミラ自身の口から、その名が出た。


「彼女はここで何をしていた」


 カインが問う。


「モーン卿を逃がすって、最初は言っていました。でも、本当は逃がすつもりなんてなかったんです。血のついた手袋を馬車に置いて、死んだことにすればいいって。モーン卿が怒って……それで、口論になって」


「ダリウスは今どこだ」


「分かりません。奥の地下へ連れていかれました。でも、その後、裏口の方で物音がして……私はここに閉じ込められて」


 ミラは震える声で続けた。


「私、言われた通りにしただけなんです。女官服を着て、リリアナ様に書類を渡して、署名の練習だと言って……でも、まさかこんなことになるなんて」


 その言い方に、エレノアは少しだけ目を細めた。


 言われた通り。


 その言葉は何度も聞いた。


 けれど、今ここでそれを責めるより先に、必要なことがある。


「ミラ。あなたがリリアナへ渡した書類は、誰から受け取りましたか」


「オルガ様です。直接ではなく、慈善衣料会の保管庫で。指示書が女官服の中に入っていて……あと、ダリウス様からも、リリアナ様は優しくすればすぐ信じるからって」


 マルタの顔に怒りが浮かんだ。


「王宮女官服は、どこで手に入れましたか」


「私が王宮を辞めた時、一着だけ持ち出しました。でも型が古くて、そのままでは入れないから、衣装管理室の型紙を写したものをもらって」


「誰から」


「名前は……分かりません。王宮の洗濯場にいた昔の知り合いから、とオルガ様が」


「その知り合いの特徴は」


「左手の薬指が曲がっている女性。背が低くて、声が少し掠れていて……」


 マルタがすぐに反応した。


「ベアタかもしれません。洗濯室の古参です。最近、妹の病を理由にまとまった休暇を」


「確認しろ」


 カインが命じると、レナードが部下へ合図した。


 また一本、王宮内部へ線が伸びた。


 エレノアは、ミラの腕の縄痕を見た。


「あなたは、なぜここに閉じ込められたのですか」


 ミラは唇を震わせた。


「私が怖くなって、もうやめたいと言ったからです。リリアナ様が泣いて……本当に何も分かっていない方だったから。私、あの方に『お姉様も最初はそうでした』って言ったんです。指示にそう書いてあったから。でも、言ったあと、変な気持ちになって」


「変な気持ち?」


「私にも姉がいました。もう亡くなりましたけど。いつも私を庇ってくれて……だから、リリアナ様がお姉様の名前で署名しようとした時、少しだけ……嫌になって」


 ミラは泣きながら言った。


「それでも署名させたんです。お金をもらっていたから。逃げたかったから。王宮を辞めてから、仕事もなくて、借金があって……オルガ様は、これが済めば北の町で仕事を用意すると」


「その約束は守られなかった」


「はい」


 ミラは両手で顔を覆った。


「私、馬鹿でした。利用されたんです。でも、利用されたからって、したことは消えないんですよね」


 その言葉に、エレノアは静かに目を伏せた。


 リリアナと同じ場所へ、ミラもたどり着いていた。


 利用されたこと。


 責任が消えないこと。


 そこを認められるかどうかが、証言者としての最初の分かれ道だった。


「消えません」


 エレノアは答えた。


「ですが、話すことで止められるものがあります」


 ミラは涙を拭い、頷いた。


「話します。知っていることは全部。だから……ダリウス様を助けてください。あの人も悪い人です。でも、殺されるほどでは」


 カインがレナードを見る。


「地下を探せ」


「はっ」


 保管室のさらに奥には、古い床板があった。


 上に空箱が置かれ、分かりにくくされている。


 箱をどかすと、地下へ続く階段が現れた。


 冷たい空気が上がってくる。


 湿気と、鉄の匂い。


 血の匂いだった。


 カインはエレノアを見る。


「ここから先は待て」


「私は」


「証拠保全の確認なら後でできる。危険だ」


 エレノアは一瞬反論しかけたが、血の匂いを感じて言葉を飲んだ。


 倒れては意味がない。


 今、自分がするべきことは、無理に地下へ入ることではない。


 ミラの証言を保全し、地上の証拠を押さえることだ。


「分かりました」


 カインは頷き、近衛と共に地下へ降りていった。


 エレノアは、マルタと残った。


 ミラには水と外套が与えられた。震えが止まらない彼女に、マルタが静かに声をかける。


「深く息をしてください。今は話せることからで構いません」


 マルタの声は、王宮の女官長らしく落ち着いていた。


 ミラは涙を浮かべて頷く。


「私……王宮を辞めてから、誰も名前を呼んでくれなくなって。みんな、使い終わった人間みたいに見るんです。オルガ様だけが、あなたにもまだ役目があるって」


「役目という言葉は、便利です」


 エレノアは静かに言った。


「人を道具にする時ほど、よく使われます」


 ミラは、その言葉に肩を震わせた。


「エレノア様も……?」


 エレノアは、少しだけ考えた。


「私も、役目を与えられていると思っていました。でも、役目と自分自身を混同すると、いつか誰かに都合よく置かれます」


「置かれる……」


「ええ」


 慈善院へ整理されるはずだった自分。


 王太子の隣へ置かれたリリアナ。


 偽女官として東翼執務室へ置かれたミラ。


 人は、置かれるだけでは人ではなくなる。


 自分の足で立つためには、自分の言葉で話さなければならない。


「あなたは、今から自分の言葉で証言してください」


 エレノアは言った。


「誰かに言わされた言葉ではなく」


 ミラは何度も頷いた。


 やがて、地下から足音が戻ってきた。


 カインだった。


 その顔はいつもと変わらないようで、目がわずかに険しい。


「ダリウスはいたのですか」


 エレノアが問う。


「ああ」


 カインは短く答えた。


「生きている」


 ミラが泣き崩れた。


 エレノアも、胸の奥で詰めていた息をようやく吐いた。


「ただし、負傷している。手と脇腹に傷。意識はあるが、衰弱している。すぐ王宮医療室へ運ぶ」


「話せますか」


「短時間なら。だが、今は命を優先する」


「はい」


 エレノアは頷いた。


 ダリウスが生きている。


 それだけで、大きい。


 彼は多くを知っているはずだ。


 オルガの指示。

 サルヴィ商会との連絡。

 財務官とのやり取り。

 グレゴール公爵との密談。

 王太子府への入り込み方。

 リリアナへの誘導。


 そして、王妃の薬についても。


 カインは、さらに言った。


「地下に書類もあった。少量だが、重要だ」


「どのような」


「ダリウスが隠していたらしい。自分が切られた時の保険だ」


 エレノアは、すぐに理解した。


 ダリウスは完全な忠臣ではない。


 悪事に関わった者は、他者を信じきれない。


 だから自分の身を守る証拠を隠す。


 その証拠が、祈りの家にあった。


「保険の中身は?」


「オルガの署名入り書簡がある。完全なものではないが、慈善衣料会とミラへの指示、リリアナへの接触、ダリウスの国外逃亡手配。さらに、王妃の薬について『眠らせすぎるな、死期は急がせるな』という一文があった」


 エレノアの体が冷えた。


 死期は急がせるな。


 つまり、王妃の死期を調整する意図があった。


 完全な毒殺ではなく、衰弱を早める。


 けれど、早すぎて疑われないようにする。


 それを、誰かが書いていた。


「筆跡は」


「オルガのものと照合が必要だが、可能性は高い」


「動機は、分家相続ですか」


「それだけではないだろうな」


 カインは、祈りの家の壊れた窓を見た。


「王太子の継承を揺らし、本家公爵を失脚させ、分家を立てる。だが、それを狙うなら王妃は邪魔だった」


「王妃様が生きていれば、王太子府と公爵家の動きを見抜くから」


「そして、あなたも王妃の側にいた」


 エレノアは黙った。


 王妃を弱らせる。


 エレノアを王太子妃候補から外す。


 リリアナを王太子の隣に置く。


 グレゴールを利用し、後で切る。


 ユリウスの監督不備を露呈させ、王太子の継承権を揺らす。


 その先に、分家の台頭。


 単なる横領ではない。


 王宮の継承と公爵家の相続を同時に揺さぶる、長い計画だった。


「オルガ夫人を拘束できますね」


 エレノアが言うと、カインは頷いた。


「できる。だが、彼女はまだ言い逃れるだろう」


「署名入り書簡、ミラの証言、アルバン商会主の証言、慈善衣料会の保管庫、祈りの家の地下、ダリウスの証言。これだけあれば十分では?」


「十分だ。法的には」


「法的には?」


「だが、彼女は社交界を使う。病弱な夫を支える献身的な分家夫人を、王弟と元婚約破棄令嬢が追い詰めている、と話を変える者も出る」


 エレノアは、苦く息を吐いた。


 分かっていた。


 記録だけではなく、物語も戦場になる。


 オルガはきっと、そこに長けている。


 自分は弱い女だと微笑みながら、他人の同情を利用する。


 リリアナの涙を利用したように。


「なら、リリアナの証言が必要です」


 エレノアは言った。


 カインは彼女を見る。


「危険だ」


「分かっています。でも、オルガ夫人が『妹はまだ使える』と言ったことを覆すには、リリアナ自身が自分の言葉で立つ必要があります」


「彼女に耐えられるか」


「分かりません」


 エレノアは正直に答えた。


「でも、彼女が自分を駒ではないと示すには、それしかありません」


 カインは少しだけ沈黙した。


「あなたは厳しい姉だな」


「今は姉ではありません」


「そう言うと思った」


「……姉なら、もっと優しいことを言えたでしょうか」


「さあな」


 カインは短く返した。


「だが、優しい言葉で人は守れない時がある」


 エレノアは、祈りの家の門柱を思い出した。


 弱き者を、見捨てるな。


 見捨てないことと、甘やかすことは違う。


 リリアナにも。


 ミラにも。


 自分にも。


 その日の昼、祈りの家は王弟府の封印下に置かれた。


 ミラは保護され、王宮へ移送された。


 ダリウスは負傷したまま医療室に運ばれ、近衛の監視がついた。


 地下から見つかった書類は厳重に封印され、王宮北翼の監査室へ送られた。


 そして、オルガ・ベルナール夫人の屋敷には、正式な拘束命令が届けられることになった。


 エレノアは馬車に戻る前、もう一度だけ門柱の前に立った。


 弱き者を、見捨てるな。


 その文字は、半分ほど崩れていた。


 エレノアは、指先で石の表面に触れた。


 冷たく、ざらついている。


「王妃様」


 小さく呟く。


「ここも、あなたが守ろうとした場所だったのですね」


 風が吹き、枯れた草が揺れた。


 祈りの家は、長く閉ざされていた。


 だが、その閉ざされた場所から、ようやく声が出てきた。


 ミラの証言。


 ダリウスの命。


 オルガの書簡。


 それらは、王宮をさらに揺らすことになる。


 エレノアは外套を翻し、馬車へ向かった。


 次は、オルガの微笑みを裁定の場へ引きずり出す番だった。

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