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第23話 分家夫人オルガ、微笑む

 オルガ・ベルナール夫人は、朝の茶を飲んでいた。


 王都の貴族街から少し離れた、静かな屋敷。


 ヴァレンシュタイン公爵家の分家にあたるベルナール家の屋敷は、本家ほど大きくはない。だが、窓辺の花も、壁に掛けられた絵も、銀器の磨き方も、すべてが控えめに整えられていた。


 派手ではない。


 貧しくもない。


 見る者が見れば分かる程度の品格。


 それが、オルガという女の好みによく似ていた。


 彼女は薄い翡翠色の朝着をまとい、窓辺の席で静かに茶杯を持っている。年は三十代半ば。美貌を誇るというより、相手に警戒心を抱かせない柔らかさがあった。


 よく笑う。


 よく頷く。


 相手の言葉を最後まで聞く。


 そして、聞き終えた頃には、なぜか相手の方が自分の秘密を話している。


 社交界でのオルガは、そういう女だった。


 ベルナール卿の妻。


 病弱な夫の代わりに、慈善会や夫人同士の茶会へ顔を出す、控えめで賢い分家夫人。


 その程度の存在だと、多くの者は思っていた。


 だからこそ、彼女は多くの場所へ入れた。


 王妃基金後援会。


 慈善衣料会。


 王宮女官たちの休憩室に近い小さな祈祷会。


 財務官夫人の茶会。


 公爵家分家の相続相談。


 サルヴィ商会の寄付式。


 誰も、中心人物だとは思わない。


 けれど、中心にいない者は、かえって全員の声を聞ける。


 オルガは、それを知っていた。


 侍女が足早に入ってきた。


「奥様」


「そんなに急ぐと、床が怖がるわ」


 オルガは穏やかに言った。


 侍女は青ざめた顔で頭を下げる。


「失礼いたしました。王宮より、王弟殿下の使者が」


「あら」


 オルガは茶杯を受け皿へ戻した。


 音はしなかった。


「早かったわね」


「奥様……?」


「いえ。こちらの話よ」


 彼女は微笑んだ。


「お通しして。応接室を使います。銀の茶器ではなく、白磁の方を」


「はい」


「それから、旦那様は?」


「お部屋でお休みです」


「そのままで。お体に障ってはいけないもの」


 侍女が去る。


 オルガは立ち上がり、鏡の前へ向かった。


 派手すぎない装い。


 だが、弱く見えすぎてもいけない。


 喪に近い灰青のドレスを選ぶ。王妃の死後、明るすぎる色は避けるべきだ。髪飾りは真珠一粒。指輪は結婚指輪だけ。


 哀しみを知る夫人。


 病弱な夫を支える妻。


 慈善活動に心を砕く穏やかな女。


 その姿を、彼女は鏡の中に整えた。


「さあ」


 オルガは鏡の自分に微笑んだ。


「今日は、どのくらい見えているのかしら」


 応接室には、すでに使者ではなく本人がいた。


 王弟カイン・レオ・グランベルク。


 黒に近い礼服をまとい、感情を読ませない顔で立っている。


 その隣には、エレノア・ヴァレンシュタイン。


 藍色のドレスに、王弟府の保護を示す小さな銀章をつけていた。派手な装飾ではない。けれど、それは社交界でどんな宝石よりも重い意味を持つ。


 王弟宰相の保護下にある令嬢。


 王妃の遺言状を握る証人。


 そして、オルガが本来なら慈善院へ送られるはずだったと見ていた女。


 オルガは、深く礼を取った。


「王弟殿下。エレノア様。ようこそお越しくださいました」


 声は柔らかい。


 驚いた様子も、怯えた様子もない。


 エレノアは、その落ち着きにわずかな違和感を覚えた。


 早朝の訪問。


 サルヴィ商会摘発の直後。


 普通なら、動揺を隠しきれない。


 だがオルガは、すでに来ると分かっていた客を迎えるように微笑んでいる。


 カインは座らなかった。


「オルガ・ベルナール夫人。サルヴィ商会旧倉庫の摘発に伴い、いくつか確認したいことがある」


「存じております」


 オルガは静かに答えた。


 カインの目が細くなる。


「何を存じている」


「商会が摘発されたことです。朝から王都中がその話でもちきりですもの」


「ずいぶん早耳だな」


「慈善会の者は、朝が早いのです。衣料を届けるにも、炊き出しの支度にも、夜明け前から動きますから」


 嘘ではない。


 少なくとも、完全な嘘ではない。


 エレノアは、そう感じた。


 オルガは座るよう勧めた。


「立ったままでは、お話も固くなります。どうぞ」


 カインは数秒、彼女を見た。


 それから、椅子に腰を下ろす。


 エレノアもその横に座った。


 オスカーが少し後ろで記録用の紙を広げる。


 白磁の茶器が運ばれてきた。


 オルガは茶に手をつけない。


 客が飲むまで待つ。


 けれど、カインもエレノアも茶杯に触れなかった。


 オルガは微笑みを崩さずに言った。


「毒は入っておりませんよ」


 部屋の空気が、一瞬だけ冷えた。


 大胆な言葉だった。


 王妃の薬に黒眠草の疑いが出ている今、その冗談はあまりにも危うい。


 だが、オルガはあくまで穏やかだった。


「失礼。最近の王宮では、薬草の話題が多いと聞きますので」


 エレノアは静かに言った。


「その話題を、夫人はどこでお聞きに?」


「噂ですわ。王宮の噂は、扉を閉めても窓から出ていきます」


「窓から出ていく噂にしては、ずいぶん中身をご存じのようです」


「エレノア様は、相変わらず鋭いのですね」


「相変わらず?」


 エレノアは、そこで少し目を細めた。


 オルガは言い間違えた顔をしない。


 むしろ、試すように微笑んでいる。


「王妃基金後援会で、何度かご一緒しましたでしょう。あなたはいつも書類を見ていらした。夫人たちが宝石や新しい菓子の話をしている時でも、寄付先の記録や支出の控えを」


「見苦しかったでしょうか」


「いいえ」


 オルガは首を横に振った。


「羨ましかったのです」


 その返答に、エレノアは黙った。


「羨ましい?」


「ええ。誰かから正式に仕事を与えられている女性は、強く見えますもの。私のような分家夫人は、どれだけ働いても『病弱な夫を支える健気な妻』で終わりです」


 オルガの声には、ほんの少しだけ温度があった。


 演技か、本音か。


 すぐには分からない。


「王妃基金後援会も、慈善衣料会も、夫人たちの手慰みだと思われる。けれど、そこで動く金や人脈は小さくありません。男たちは、女の茶会で決まることを軽く見る。だから、利用しやすい」


 言ってから、オルガは口元に手を当てた。


「あら。少し本音が出ました」


 カインが低く問う。


「サルヴィ商会を利用したのか」


「いいえ。サルヴィ商会が慈善衣料会に寄付していたことは知っています。でも、商会の不正までは」


「商会主アルバンが、あなたの名を出した」


「追い詰められた商人は、誰の名でも出すでしょう」


「旧倉庫の見習いも、女の声を聞いている」


「女の声など、王都にいくらでもございます」


「その女は『公爵はもう使えない』『王太子も凍った』『次は分家を立てる』と言ったそうだ」


 オルガの微笑みは、崩れなかった。


 だが、ほんのわずかに、指先が茶器の縁を撫でた。


 エレノアはそれを見た。


 動揺ではない。


 計算の癖だ。


 次にどの言葉を選ぶか、頭の中で並べ替えている。


「恐ろしい言葉ですこと」


 オルガは静かに言った。


「その女が私であると?」


「可能性を確認している」


 カインの声に余白はなかった。


 オルガは彼をまっすぐ見た。


「では、私の昨夜の所在を確認なさればよろしいでしょう。私は夫の発熱に付き添っておりました。侍女も医師もおります」


「確認する」


「どうぞ」


 あまりに用意されている。


 エレノアは、膝の上で指を組んだ。


 昨夜の所在は固めている。


 ならば、本人は直接倉庫へ行っていない可能性が高い。


 声を聞いたという証言も、誰かに似せさせたか、見習いにそう思わせたか。


 あるいは、オルガがあえて声だけを残し、所在証明で逃げるように仕組んだか。


「夫人」


 エレノアが口を開いた。


「慈善衣料会の名簿を見せていただけますか」


「もちろんです。後ほど写しを」


「原本を」


 オルガは微笑んだ。


「エレノア様は、写しを信用なさらないのですね」


「場合によります」


「では、原本をご用意しましょう」


「今、ここで」


 少しだけ、沈黙が落ちた。


 オルガは茶杯を置いた。


 音は静かだった。


「急なのですね」


「急ぐ理由があります」


「偽女官の件ですか」


 エレノアは、オルガを見つめた。


 カインの視線も鋭くなる。


 オルガは、しまったという顔をしなかった。


 むしろ、こちらの反応を確かめるようだった。


「それも噂で?」


 エレノアが尋ねる。


「リリアナ様が、王宮内でどなたかに署名を促されたとか。お気の毒に。あの方は、少し人を信じやすいところがおありですもの」


「お会いしたことが?」


「直接、深くは。ただ、茶会で何度か。可愛らしい方ですわね。まるで、誰かが守ってあげなければならないお人形のようで」


 その言葉に、エレノアの胸が小さくざわついた。


 お人形。


 リリアナをそう見る者がいる。


 本人の甘さや無知とは別に、彼女を人ではなく使える飾りと見る目。


 オルガは続けた。


「けれど、お人形は怖いのです。置き場所を変えるだけで、部屋全体の印象が変わる。誰の隣に置くかで、意味が変わる」


「リリアナを、王太子殿下の隣に置いたのも、そのためですか」


「私が置いたわけではありません。選ばれたのは王太子殿下です」


「選びやすいようにした者は?」


 オルガの笑みが、少し深くなった。


「エレノア様。人は、自分で選びたいものを選ぶのです。周りはただ、その選択肢を見えやすくするだけ」


 認めてはいない。


 だが、思想は見せた。


 エレノアは、そこにオルガの本質を見た気がした。


 この女は、刃を振るうタイプではない。


 箱の位置を変える。


 名簿の順番を変える。


 茶会の席を整える。


 噂を一つ流す。


 不安を少し煽る。


 劣等感に柔らかく触れる。


 人が自分で選んだと思えるように、道だけを整える。


 そして、あとで言うのだ。


 私は何もしていない、と。


「慈善衣料会の名簿を」


 カインが短く言った。


 オルガは、一度だけ侍女へ目を向けた。


「書斎の青い棚、下から二段目。慈善衣料会の名簿を」


「かしこまりました」


 侍女が出ていく。


 その背中を見送りながら、エレノアは尋ねた。


「夫人の書斎に置かれているのですね」


「ええ。夫は体が弱いので、家の細かなことは私が」


「慈善衣料会の名簿も、家の細かなことですか」


「女性の仕事は、いつも細かなことに分類されます」


 オルガの声に、わずかな皮肉が混ざった。


「けれど、細かなことを積めば、家も王宮も動かせる。エレノア様なら、お分かりでしょう?」


「だから、王妃基金を動かしたのですか」


「私は動かしておりません」


「では、動かし方を知っていた」


 オルガは答えなかった。


 その沈黙もまた、記録される。


 オスカーの筆が静かに紙を走った。


 やがて、侍女が名簿を持って戻ってきた。


 青い革表紙の冊子。


 エレノアは受け取り、封の状態を確認する。


 手垢のついた表紙。


 何度も開かれた跡。


 最新の追記がいくつかある。


「この名簿は、いつ更新されましたか」


「半月ほど前です」


「王太子妃候補交代の前ですね」


「そうなりますね」


 エレノアはページをめくった。


 会員名。


 寄付先。


 担当地区。


 配布衣料。


 協力商会。


 その中に、目を引く名前があった。


 ミラ・ハーディ。


 所属、慈善衣料会臨時協力員。

 元王宮洗濯係。

 現在、衣料配布補助。

 推薦者、オルガ・ベルナール夫人。


 エレノアは指を止めた。


「ミラ・ハーディ」


 オルガの微笑みは変わらない。


「働き者ですわ。少し気が弱いけれど、針仕事が上手で」


「元王宮洗濯係」


「ええ。夫を亡くし、王宮を下がった方です。慈善衣料会で仕事を世話しました」


「王宮女官服に詳しいですね」


「洗濯係でしたもの。当然でしょう」


「現在、どこに?」


 オルガは、少し悲しそうに眉を下げた。


「昨日から見えていません。心配していたのです」


 嘘か。


 真実か。


 少なくとも、答えは早すぎた。


 準備されている。


 エレノアは名簿の該当箇所をオスカーへ示した。


「この方の住居と関係者を確認してください。リリアナへ接触した偽女官の可能性があります」


「はい」


 カインはオルガへ視線を向ける。


「ミラ・ハーディを出頭させろ」


「見つかれば、すぐに」


「あなたの推薦者だ」


「推薦した者が、常に人を縛れるわけではありません」


「だが、紹介した責任はある」


 オルガは少しだけ目を伏せた。


「責任。最近、王宮ではその言葉が流行っているのですか」


「流行ではない」


 カインの声は冷たい。


「これまで避けてきた者が多すぎただけだ」


 オルガは、ほんの一瞬だけ黙った。


 その沈黙には、初めて微かな苛立ちがあった。


 カインは容赦しない。


 オルガの柔らかい社交術が、彼には通じない。


 エレノアは、もう一つの欄を見つけた。


「慈善衣料会の保管庫が、南水路沿いにありますね」


「ええ。小さなものです」


「サルヴィ商会旧倉庫の近くです」


「南区の倉庫は、だいたい水路沿いですわ」


「その保管庫を確認します」


「今から?」


「はい」


 オルガは茶杯を持ち上げた。


 まだ一口も飲んでいなかった茶は、もう冷めている。


「エレノア様」


「何でしょう」


「あなたは、本当に変わりましたね」


「そうでしょうか」


「以前のあなたなら、もう少し周囲の顔色を見ていらした。王太子殿下の顔色、公爵家の面目、妹君の涙、王妃陛下のご負担。たくさんのものを背負って、身動きが取れなくなっていた」


 エレノアは答えなかった。


 オルガは微笑む。


「今は、迷いなく切り込んでいらっしゃる。誰かに守られていると、人は強くなるのですね」


 その言葉には、毒があった。


 王弟カインの保護下。


 それを揶揄している。


 エレノアは静かに返した。


「守られているから強くなったのではありません」


「あら、では?」


「責任と権限がそろったからです」


 オルガの微笑みが、ほんの少しだけ止まった。


「私は以前も仕事をしていました。ただ、権限がありませんでした。今は違います。王妃陛下の遺言と国王陛下の裁可により、確認すべき場所を確認できます」


「それで、幸せですか」


 唐突な問いだった。


 エレノアは、少しだけ目を細める。


「幸せ?」


「ええ。権限、責任、記録。あなたはそれを得た。けれど、父君は拘束され、母君は泣き、妹君は怯え、元婚約者は継承権を凍結された。あなたの周りは壊れてばかりです」


 オルガは柔らかく言った。


「それでも、あなたは正しいと言える?」


 部屋が静まり返った。


 その問いは、ただの挑発ではない。


 オルガは、エレノアの最も痛いところを知っている。


 正しさの代償。


 記録で裁くことで壊れるもの。


 家族。


 婚約。


 王宮。


 エレノアは、ずっとそれを恐れていた。


 だが、今は逃げなかった。


「正しいかどうかを、私一人で決めるつもりはありません」


 エレノアは言った。


「だから記録します」


「記録に逃げるのですね」


「いいえ」


 エレノアは、オルガを見た。


「感情だけで誰かを裁かないために、記録を見るのです。私が父を憎んでいるから裁くのではない。妹に怒っているから責めるのではない。王太子殿下に失望したから継承権を問うのではない」


 声は静かだったが、揺れていなかった。


「したことを、したこととして見るためです」


 オルガは、しばらく黙った。


 それから、ふっと微笑んだ。


「王妃陛下が、あなたを選んだ理由が分かる気がします」


「夫人は王妃様をどう見ておられましたか」


「強い方でした」


 オルガは答えた。


「強すぎる方でした。病に伏せってもなお、夫人たちの寄付ひとつ、孤児院の屋根ひとつ、薬草園の棚ひとつまで気にされる。王妃というのは、もっと上から微笑むだけでも許される立場でしょうに」


「それを邪魔だと思った方もいるでしょうね」


「ええ」


 オルガは否定しなかった。


「強すぎる女は、邪魔になることがあります」


「夫人も?」


「私は弱い女ですわ」


「弱い方は、人を駒とは呼びません」


 オルガの目が、初めて少しだけ冷たくなった。


 エレノアは続けた。


「倉庫の見習いは、『妹はまだ使える』という言葉を聞いています」


「ひどい言葉です」


「本当に」


「私が言った証拠は?」


「今はありません」


「では、私は何も申し上げられません」


「ええ。ですから、証拠を探します」


 カインが立ち上がった。


「慈善衣料会の保管庫を封鎖する。オルガ夫人、あなたには当面、屋敷からの外出を禁じる」


「拘束ではなく?」


「今はまだな」


「光栄ですわ。疑われながらも、自由を少し残していただけるなんて」


「自由ではない。監視だ」


 オルガは穏やかに礼をした。


「承知いたしました」


 その態度は最後まで崩れなかった。


 だが、エレノアには分かった。


 オルガは完全には余裕ではない。


 慈善衣料会の保管庫。


 ミラ・ハーディ。


 分家ベルナール卿。


 サルヴィ商会の書簡。


 そこに、彼女を捕まえる何かがある。


 屋敷を出る直前、オルガがエレノアを呼び止めた。


「エレノア様」


「何でしょう」


「妹君を、どうなさるおつもり?」


 エレノアは振り返る。


 オルガは窓辺に立ち、朝の光を背にしていた。


「リリアナ様は、あなたの証言次第で救われるかもしれない。あるいは、共犯者として沈むかもしれない」


「判断するのは裁定会議です」


「でも、あなたの言葉は重い」


 オルガは微笑んだ。


「妹君はまだ使える。ええ、本当にそう。あなたを揺らすには、あの子が一番効く」


 カインの表情が冷える。


 だが、エレノアは目を逸らさなかった。


「夫人」


「はい」


「今の発言も記録されます」


「もちろん」


 オルガは、楽しそうにさえ見える微笑みを浮かべた。


「記録なさって。私、記録される言葉しか申し上げておりませんから」


 その一言で、エレノアは確信した。


 オルガは、まだ何かを隠している。


 そして、おそらくそれは証拠としては簡単に出てこない。


 言葉の端。


 人の感情。


 誰かの弱さ。


 書類に残らないところで、彼女は人を動かす。


 だからこそ、捕まえるには、彼女が残した「書類に残るわずかなほころび」を探すしかない。


 馬車に戻ると、カインが言った。


「厄介な女だ」


「はい」


「だが、崩れる」


「崩します」


 エレノアは即答した。


 自分でも驚くほど、迷いがなかった。


 オルガは微笑んだ。


 余裕を見せ、毒を含ませ、リリアナの名で揺さぶった。


 だが、それでもエレノアはもう以前のように立ち止まらない。


 妹を使える駒と呼ぶ者を、見逃す気はなかった。


 慈善衣料会の保管庫へ向かう馬車の中で、エレノアは名簿の写しをもう一度開いた。


 ミラ・ハーディ。


 元王宮洗濯係。


 偽女官の可能性。


 そして、保管庫。


 次に開く扉の向こうに、オルガの微笑みを崩す何かがある。


 エレノアは、そう感じていた。

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