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第21話 王弟宰相の保護下に入る令嬢

 夜が明ける前の王宮は、ひどく冷えていた。


 窓の外には薄い霧が漂い、庭園の芝は白く湿っている。回廊に吊るされた灯火はまだ消されておらず、石壁に淡い橙色の揺らぎを落としていた。


 エレノアは、北翼の監査室で夜を越した。


 寝台に入ったわけではない。


 机に突っ伏したわけでもない。


 ただ、椅子に腰かけたまま、父の相続案を何度も読み返していた。


 ――エレノアについては、王太子妃候補解消後、修道院付属慈善院への寄進名目で整理。


 その一文は、短かった。


 短いからこそ、逃げ道がなかった。


 父はエレノアを処罰するつもりだったのではない。


 追放するつもりだったのでもない。


 もっと冷たい。


 整理するつもりだった。


 家の帳簿を整えるように。

 余った家具を別邸へ移すように。

 古くなった書類を紐で縛って棚の奥へしまうように。


 王太子妃候補として使えなくなった長女を、慈善院への寄進という美しい名目で表舞台から消す。


 世間には、こう説明しただろう。


 王太子殿下との婚約破棄に心を痛めたエレノアは、自ら慈善事業へ身を捧げる道を選んだ。


 なんと健気な令嬢だろう。

 なんと公爵家らしい高潔な選択だろう。

 妹リリアナ様の王太子妃への道を、姉として静かに支えるのだ。


 社交界は、きっと美談として受け取った。


 エレノアが何を思ったかなど、誰も聞かない。


 王宮で十年働いた記録も、王妃の遺言状も、基金の不審に気づいた目も、すべて「傷心の令嬢」という布で覆われる。


 そうなる前に王妃の遺言状が開かれた。


 それがどれほど危うい時間差だったのか、今になって分かる。


 エレノアは、机の上に置かれた相続案を見下ろした。


 怒りは遅れてくるものなのだと、初めて知った。


 昨日それを読んだ時は、ただ腑に落ちた。


 父にとって、自分はそういうものだったのだと。


 しかし夜が深くなるにつれ、胸の底に沈んでいたものが少しずつ熱を持ち始めた。


 なぜ。


 たった一言、それだけが浮かんでは消えた。


 なぜ、娘をそんなふうに扱えるのか。


 なぜ、黙って従うと思ったのか。


 なぜ、自分はそれを当然のように受け入れかけていたのか。


 扉が軽く叩かれた。


「入る」


 返事をする前に、声がした。


 王弟カインだった。


 エレノアは慌てて立ち上がろうとしたが、彼は片手で制した。


「そのままでいい」


「いえ、失礼いたしました。もう朝でしたか」


「夜明け前だ」


 カインは部屋へ入り、机の上に視線を落とした。


 相続案。


 王妃基金の台帳。


 サルヴィ商会の書簡。


 ダリウス・モーンの逃走経路図。


 そして、エレノアが一晩で書き足した時系列表。


 彼は眉を動かした。


「眠っていないな」


「少しは休みました」


「嘘が下手だ」


「……目を閉じました」


「それを休みとは呼ばない」


 カインは短く言い、手にしていた盆を机の端に置いた。


 温かい薬草茶と、薄く切ったパン、少量の肉と卵。


 王弟が自ら食事を運んできたことに、エレノアは一瞬、言葉を失った。


「殿下が、なぜ」


「廊下で侍女に会った。あなたがまた食事を忘れていると聞いた」


「忘れていたわけでは」


「食べる気がなかった?」


「……資料の確認を優先していました」


「同じだ」


 カインは向かいの椅子に座った。


 座るのか、とエレノアは少し驚いた。


 彼はいつも立っている印象があった。


 相手の言い訳を逃さず、机の上の書類を見下ろし、必要な言葉だけを落とす人。


 そのカインが、今は同じ高さに座っている。


「食べろ」


「ですが」


「命令だ」


「殿下は、命令という言葉を便利にお使いになりますね」


「あなたには効く」


 あまりに淡々とした返答だったので、エレノアは思わず少しだけ息を漏らした。


 笑った、というほどではない。


 けれど、張り詰めていたものが一瞬だけ緩んだ。


 カインは表情を変えなかった。


 だが、その目はその小さな変化を見逃していないようだった。


 エレノアは観念して、薬草茶を口にした。


 温かい。


 苦みはあるが、後味はやわらかかった。


「この茶は」


「マルタが用意した。神経を落ち着ける薬草だそうだ」


「マルタが」


「ああ。彼女も、あなたが倒れるのを警戒している」


「皆様、大げさです」


「大げさではない」


 カインは、机の上の相続案を指で軽く叩いた。


「これを読んだ後で平然と働ける人間は、平然としているのではなく、痛みを棚上げしているだけだ」


 エレノアは、カップを持つ手を止めた。


「痛みを棚上げ……」


「違うか」


「……違いません」


 認めると、胸の奥が少し苦しくなった。


 自分では平気なつもりだった。


 父の本心など、もう十分見たと思っていた。


 それでも「整理」という言葉は、思っていたより深く刺さっていた。


「殿下」


「何だ」


「父は、私を慈善院に送るつもりでした」


「ああ」


「それは、私を罰するためではなく、公爵家の都合を整えるためです」


「そうだろうな」


「私は、それを読んで……驚きませんでした」


 カインは黙って聞いていた。


 エレノアは視線を紙へ落とす。


「ひどいことだと思うのに、どこかで納得してしまったのです。ああ、父ならそうするだろう、と。そう思った自分が、嫌でした」


「なぜ」


「父にそこまで期待していなかった自分を、認めることになるからです」


 部屋は静かだった。


 外ではまだ夜明け前の風が窓を揺らしている。


 カインは、しばらくして言った。


「期待を失うのは、裏切りを受けるより疲れる」


 エレノアは顔を上げた。


 その言葉は、妙に実感を伴っていた。


「殿下にも、そのようなご経験が?」


「王宮にいれば、いくらでもある」


 カインは軽く流した。


 だが、それ以上踏み込むなという空気ではなかった。


 ただ、今話すべき中心は自分ではない、と線を引いただけだ。


 エレノアはそれを感じ取り、無理に尋ねなかった。


 代わりに、パンを一口食べた。


 味はよく分からない。


 それでも、胃に何かが入ると、指先の冷えが少し和らいだ。


「今日から、あなたの扱いを正式に変える」


 カインが言った。


「扱い、ですか」


「昨夜の相続案で分かった。公爵家はあなたを排除する意図を持っていた。ダリウスは逃走中。サルヴィ商会もまだ押さえきれていない。財務官ベルトラムの背後に別の貴族がいる可能性もある」


「はい」


「つまり、あなたは証人であると同時に、邪魔者だ」


 率直な言い方だった。


 だが、エレノアにはその方がありがたかった。


 曖昧な慰めより、危険の輪郭がはっきりする。


「王弟殿下の保護下に置く、という王妃様の遺言を正式に発動する」


「すでに保護下にあるのでは?」


「まだ不十分だ。今までは監査権限上の保護だった。今日からは身柄の保護も含める」


 エレノアはカップを置いた。


「身柄の保護」


「ああ。あなたの居室を北翼へ移す。王弟府の管理下に置く。外出、面会、書簡の受け渡しは記録制。護衛を二名つける。公爵家関係者との私的面会は、あなたが望まない限り認めない」


 それは、想像以上に大きな変更だった。


 エレノアは少し黙った。


「それでは、まるで私が監禁されるように見えませんか」


「監禁ではない。保護だ」


「世間はそう受け取るでしょうか」


「世間には、王妃遺言に基づく保護措置と通達する」


「王弟殿下が婚約破棄された令嬢を囲った、と噂する者も出ます」


 カインは、わずかに目を細めた。


「出るだろうな」


「よろしいのですか」


「私の評判はもともと冷たい」


「そういう問題では」


「あなたの身の安全より重要な噂はない」


 即答だった。


 エレノアは、言葉を失った。


 守る。


 その言葉を、彼は華やかには使わない。


 甘い約束もしない。


 だが、必要な形で示す。


 居室。

 護衛。

 記録。

 面会制限。

 権限。


 それは、恋物語のような守り方ではない。


 けれど、エレノアが今まで一番欲しかった種類の守りだった。


「殿下」


「何だ」


「私は、殿下のご負担になりませんか」


「なる」


 あまりに早い返答だった。


 エレノアは瞬きをした。


 カインは続ける。


「人を保護するのだから負担にはなる。護衛も、部屋も、記録管理も必要だ。だが、負うべき負担だ」


「……そう言われると、かえって安心します」


「負担ではないと言われる方が?」


「はい。嘘に聞こえます」


「なら正直に言う。あなたを保護すれば、私は面倒を抱える」


「はい」


「だが、あなたを保護しなければ、王妃の遺言と監査そのものが危うくなる。だから保護する」


「私自身ではなく、監査のためですか」


 その問いは、思ったより小さな声になった。


 エレノア自身、なぜそう尋ねたのか分からなかった。


 仕事として必要だから保護する。


 それで十分なはずだった。


 十分なはずなのに、胸の奥で何かが少しだけ痛んだ。


 カインは、少し沈黙した。


 そして答えた。


「最初はそうだった」


 エレノアは彼を見た。


「今は?」


「今は、監査のためだけではない」


 声は静かだった。


 暖炉の火のような温度はない。


 むしろ冬の石畳のように冷静だった。


 それなのに、エレノアの胸の奥に、確かに何かが落ちた。


「あなたは王妃が守ろうとした者だ。だが、それだけでもない。あなた自身が、もう守られるべき証人だ」


「証人だから、ですか」


「人は、役割だけで守られるべきではない」


 カインは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「王妃にそう叱られたことがある」


 エレノアは、その姿を見つめた。


 冷徹宰相。


 鉄筆の王弟。


 情に流されない男。


 そう呼ばれている彼が、亡き王妃に叱られた記憶を口にしている。


 王妃エレオノーラは、本当に多くのものを残していたのだと思った。


 書類だけではない。


 人の中にも。


「分かりました」


 エレノアは静かに言った。


「保護措置を受け入れます」


「条件はあるか」


「あります」


 カインの目に、わずかな満足の色が浮かんだ。


 まるで、条件を出すことを期待していたように。


「言え」


「私の書簡は検閲ではなく、記録管理にしてください。私的な内容まで無断で読まれるのは困ります」


「当然だ。宛先、日時、封印状態だけを記録する。開封はしない。ただし不審物は別だ」


「面会制限については、私が拒否権を持つ形にしてください」


「認める」


「護衛は、私の発言を遮らない方を」


「……護衛に発言を遮られた経験があるのか」


「公爵家では、父の使用人がよく遮りました」


「分かった。口の軽い者は外す」


「それから」


 エレノアは少し迷った。


「リリアナとの面会は、記録ありなら認めてください」


 カインは彼女を見た。


「妹を遠ざけたいのではないのか」


「遠ざけたい気持ちはあります」


 エレノアは正直に言った。


「ですが、彼女は証人でもあります。父と母に囲われたままでは、また言葉を奪われます」


「姉として?」


「いいえ」


 エレノアは首を横に振った。


「少なくとも今は、姉としてではありません。監査補佐官として、彼女の証言を保護する必要があります」


「本当にそれだけか」


 エレノアは黙った。


 カインは待った。


 急かさない。


 その沈黙の中で、エレノアは自分の感情を探した。


 リリアナへの怒りはある。


 嫉妬もあった。


 奪われ続けた記憶も消えていない。


 けれど、父の相続案を見た後、リリアナもまた駒にされていたことを否定できなくなった。


 だからといって、すぐに抱きしめて許せるわけではない。


 そんな綺麗な姉妹愛にはならない。


 ただ、リリアナがもう一度誰かに利用されることを見過ごせば、自分もまた「見なかった」側に立つことになる。


「……それだけでは、ありません」


 エレノアは小さく言った。


「でも、まだ言葉にできません」


「なら、今はそれでいい」


 カインは立ち上がった。


「朝の正式会議で、あなたの保護措置を発表する」


「王太子殿下や父は反発するでしょう」


「反発させておけばいい」


「リリアナは?」


「彼女には、証人保護の意味も説明する」


「ありがとうございます」


「礼はいらない。食事を続けろ」


 それだけ言って、カインは部屋を出ていった。


 残されたエレノアは、しばらく扉を見つめていた。


 彼は余計なことを言わない。


 大丈夫だとも、可哀想にとも、あなたは悪くないとも言わない。


 けれど、机の上には温かい食事がある。


 扉の外には護衛がつく。


 北翼には居室が用意される。


 書簡は無断で開けないと約束された。


 それらは、どんな慰めよりも確かなものだった。


 エレノアは残っていたパンを口に運んだ。


 今度は、少しだけ味がした。


 朝の会議は、王宮北翼の小裁定室で開かれた。


 出席者は限られている。


 国王アレクシス、王弟カイン、王太子ユリウス、エレノア、リリアナ、マルタ、オスカー、そして王家法務官。


 グレゴール公爵は監査拘束中のため出席を許されなかった。


 セレスティアも証人として別室待機となっている。


 リリアナは、昨日よりもさらに顔色が悪かった。


 しかし、目は少し変わっていた。


 泣き腫らした赤さは残っているが、ただ怯えているだけではない。


 何かを知ってしまった者の目だった。


 カインが保護措置を読み上げると、最初に反応したのはユリウスだった。


「エレノアを北翼に移すのですか」


「そうだ」


「王弟府の管理下へ?」


「王妃遺言に基づく保護措置だ」


「それでは、まるで私が彼女に近づけないようにしているようではありませんか」


 カインは冷静に返した。


「その通りだ」


 ユリウスは言葉を詰まらせた。


 リリアナが小さく顔を上げる。


 エレノアは黙っていた。


 この場で自分が口を挟めば、ユリウスの感情がこちらへ向く。


 今はカインの正式通達として進めるべきだった。


「ユリウス」


 国王が低く言った。


「そなたは現在、王位継承適性再審査中だ。王妃基金監査に関わる証人へ私的に接触することは認められぬ」


「私は、エレノアに危害を加えるつもりなどありません」


「意図の問題ではない」


 国王の声は疲れていたが、厳しかった。


「どう記録されるかの問題だ」


 ユリウスは、唇を噛んだ。


 それは、最近何度も突きつけられている言葉だった。


 意図ではなく記録。


 善意ではなく結果。


 知らなかったではなく責任。


 彼はエレノアを見た。


 彼女は静かに立っている。


 以前なら、自分の隣にいた。


 今は、王弟の保護下へ移される。


 それが、自分にはもう止められない。


「……承知しました」


 ユリウスは、ようやくそう言った。


 声は苦かった。


 次にリリアナが、恐る恐る口を開いた。


「私は……お姉様と話せなくなるのですか」


 その問いには、幼さと不安が混ざっていた。


 カインはエレノアへ視線を向けた。


 答えるかどうかを委ねられたのだと、エレノアは分かった。


「記録を残した上でなら、面会できます」


 エレノアが答えると、リリアナは少しだけ息を呑んだ。


「記録が必要なの?」


「今は必要よ」


「姉妹なのに?」


「姉妹だから、曖昧になりやすいの」


 リリアナは俯いた。


 その手には、昨日から持ち歩いている証言用紙がある。


 紙の端が少し折れていた。


「私……昨日、マルタに言われたの。謝るのは急がなくていいって」


「ええ」


「何に謝ればいいか、まだ分かっていないからって」


 リリアナの声が震える。


「でも、ひとつだけ分かったことがあるわ」


 エレノアは黙って続きを待った。


「私、お姉様が譲ってくれたものを、優しさだと思っていたの。でも、違ったのね。私が泣けば、お姉様が黙るって、覚えてしまっただけだった」


 小裁定室に沈黙が落ちた。


 ユリウスも、国王も、マルタも何も言わない。


 リリアナは続けた。


「まだ……まだ、ちゃんと謝れない。だって、謝ったら許してほしいって思ってしまうから。でも、証言はするわ。覚えていることは、全部話す」


 エレノアは、妹を見た。


 リリアナの言葉は、拙かった。


 綺麗に整えられた謝罪ではない。


 自分の罪を全部理解した人間の言葉でもない。


 けれど、初めて逃げずに口にした言葉だった。


「分かったわ」


 エレノアは言った。


「その証言は、私が保護します」


 リリアナの目に涙が浮かんだ。


 だが、彼女は泣かなかった。


 唇を噛み、何度も頷いた。


「ありがとう……ございます」


 お姉様、と呼びかけかけて、途中で言葉を変えたのだろう。


 その不器用さが、少しだけ胸に残った。


 会議の後、エレノアは北翼の居室へ移ることになった。


 そこは王弟府に近い、小さな客間だった。


 豪華ではない。


 けれど、机が広く、書棚があり、窓から庭ではなく監視塔が見える。


 王宮の華やかな中心からは少し外れた部屋。


 だが、今のエレノアにはその方が落ち着いた。


 机の上には、新しい鍵束が置かれていた。


 王妃基金監査資料室。

 王妃私室補助鍵。

 北翼記録保管庫。

 そして、この部屋の鍵。


 カインがそれを指し示す。


「あなたの鍵だ」


 エレノアは、鍵束を見つめた。


 かつて彼女は王宮の多くの鍵を持っていた。


 けれど、それは王太子妃候補として、誰かを支えるための鍵だった。


 失えば、机ごと奪われる鍵。


 立場が消えれば、手放さなければならない鍵。


 今、目の前にある鍵は違う。


 王妃の遺言に基づき、彼女自身の職務に与えられた鍵だった。


「受け取っていいのでしょうか」


「そのために置いた」


「重いですね」


「鍵は軽い」


「意味が重いのです」


「なら、持つ練習をしろ」


 エレノアは、少しだけ笑った。


 今度は自分でも分かるくらい、ほんのわずかに。


「殿下は、時々とても乱暴に正しいことを仰います」


「よく言われる」


「でしょうね」


 鍵束を手に取る。


 金属が冷たい。


 けれど、手のひらに収まる重さが確かだった。


 この鍵は、誰かの隣に立つためではない。


 自分の名前で扉を開けるためのものだ。


 エレノアは、そっと握りしめた。


「王妃様の記録を、最後まで見ます」


「ああ」


「公爵家のことも」


「ああ」


「王太子殿下の再審査も、必要なら」


「情けを挟むな」


「挟みません」


 少し間を置いて、エレノアは言った。


「ただ、見落としもしません」


 カインは頷いた。


「それでいい」


 部屋の外では、護衛が配置につく足音がした。


 廊下の向こうでは、王宮が今日も動いている。


 ダリウスはまだ逃げている。


 サルヴィ商会旧倉庫の捜索結果も、まだ完全には届いていない。


 父グレゴールの尋問も続く。


 リリアナの証言も、ユリウスの再教育も始まったばかりだ。


 すべてはまだ途中だった。


 けれど、エレノアは初めて、王宮の中に自分の場所を持った気がした。


 誰かの影ではなく。


 誰かの婚約者でもなく。


 公爵家の駒でもなく。


 王妃が最後に信じた証人として。


 王弟宰相の保護下に入った令嬢は、その日、冷たい鍵束を手にして静かに立っていた。


 そして、その鍵の重さを、もう誰にも譲らないと決めた。

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