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妹に婚約者も家名も奪われましたが、私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第16話 妹は泣けば許されると思っていた

 リリアナ・ヴァレンシュタインは、泣き方を知っていた。


 いつ、目を伏せればいいのか。


 いつ、声を震わせればいいのか。


 いつ、唇を噛めば、周囲が「可哀想に」と思ってくれるのか。


 それは彼女が意識して身につけた技術ではなかった。


 幼い頃から、そうすれば世界が柔らかくなったのだ。


 髪飾りが欲しいと泣けば、姉が譲ってくれた。


 家庭教師の時間がつらいと泣けば、母が「リリアナにはまだ早いわ」と抱きしめてくれた。


 父に叱られそうになると涙ぐめば、父はため息をつきながらも「仕方のない子だ」と許してくれた。


 姉と同じものが欲しい。


 姉よりも見てほしい。


 姉ばかり褒められるのは嫌。


 そうした感情に、はっきりした名前をつけたことはなかった。


 ただ、泣けば誰かが来てくれた。


 泣けば、姉が黙った。


 泣けば、母が味方をしてくれた。


 泣けば、父が相手を責めてくれた。


 だからリリアナにとって涙とは、心の痛みそのものであると同時に、世界へ助けを求める一番確かな方法だった。


 だが、王宮裁定会議の席で、その方法は初めて通じなかった。


「リリアナ・ヴァレンシュタイン嬢」


 王弟カインの声が、裁定会議の間に低く響いた。


 リリアナは椅子に座ったまま、両手でハンカチを握りしめていた。


 目元は赤い。


 涙はもう何度も滲んでいる。


 けれど、泣き崩れることは許されなかった。


 許されない、というより、泣いたところで誰も会議を止めてくれないのだ。


 それが恐ろしかった。


 父は怒りに顔を強張らせ、母は青ざめながら何度もリリアナを見ている。王太子ユリウスは苦しげに沈黙し、財務官ベルトラムは自分の身を守ることで精一杯に見えた。


 そして姉エレノアは、王弟カインの隣に座っている。


 藍色のドレス。


 背筋の伸びた姿。


 机の上には、王妃基金の台帳、宝飾品の鑑定書、薬包分析の中間報告、サルヴィ商会推薦状、そしてリリアナ自身に関わる書類が並んでいた。


 姉は、昔と同じように静かだった。


 けれど、今の静けさは、リリアナが知っている姉のものとは少し違う。


 以前のエレノアは、家族の中で黙っていた。


 我慢していた。


 譲っていた。


 今は違う。


 黙っているのではなく、見ている。


 我慢しているのではなく、記録を待っている。


 譲るためではなく、逃がさないために静かでいる。


 それがリリアナには怖かった。


「はい……」


 リリアナは、かろうじて返事をした。


 カインは机上の一枚の紙を見た。


「昨日提出された王妃基金関連の補助承認書について確認する。これは、王妃基金から王都西区慈善衣料費として支出された銀貨三百枚の追加承認書だ」


 リリアナは、意味が分からずに瞬きした。


「慈善衣料費……」


「記憶にないか」


「私、そのようなものは……」


 カインが、エレノアへ視線を向けた。


 エレノアは一枚の書類を手に取る。


「この承認書には、私の署名に似せた署名があります」


 会議の間が静まり返った。


 リリアナの心臓が、どくんと大きく跳ねる。


 姉の署名。


 似せた署名。


 その言葉だけで、何かまずいことが起きているのは分かった。


 だが、リリアナにはすぐに思い出せなかった。


 いや、思い出したくなかった。


 エレノアは書類を机の上に置いた。


 そこには確かに、流れるような筆跡で「エレノア・ヴァレンシュタイン」と書かれている。


 だが、本物のエレノアの字を知る者ならすぐ分かる。


 形は似ている。


 しかし、線が浅い。


 力の入れ方が違う。


 最後の一画に迷いがある。


「これは私の署名ではありません」


 エレノアは言った。


 その声に怒りはなかった。


 だから、余計に怖かった。


 リリアナは震える声で言う。


「私、そんな……そんなつもりでは」


 カインが問う。


「覚えはあるのか」


「……あの」


 リリアナの視線が母へ向かう。


 セレスティアは唇を噛み、何か言いたそうにしている。


 だが、カインの視線が母を制した。


「リリアナ嬢に聞いている」


 逃げ場がなかった。


 リリアナはハンカチを握りしめる。


「女官に……言われたのです」


「どの女官だ」


「名前は……分かりません。東翼執務室に来て、衣料費の承認が急ぎだと。お姉様がいなくなったばかりで、手続きが止まっているから、仮の確認だけでも必要だと」


「それで署名したのか」


「私の名前では駄目だと言われました。まだ権限が整っていないから、前任者の確認印が必要だと」


 リリアナの声はどんどん小さくなった。


「それで……お姉様の署名を、少し真似て……」


 会議の間に、重苦しい沈黙が落ちた。


 ユリウスが目を閉じる。


 母セレスティアが小さく息を呑む。


 父グレゴールは、今にも怒鳴り出しそうな顔をしていた。


 だが、カインが先に言った。


「つまり、あなたは自分に権限がないと知りながら、エレノア嬢の署名に似せて承認書へ署名した」


 リリアナの目に涙が溜まる。


「そんな大ごとだと思わなかったのです」


「大ごとかどうかを判断する知識がなかった」


「はい……」


「知識がないなら、なぜ署名した」


 リリアナは答えられなかった。


 喉が苦しい。


 息が詰まる。


 泣きたい。


 泣けば、昔ならここで誰かが止めてくれた。


 もういい。


 リリアナは悪くない。


 騙した相手が悪い。


 そう言ってくれた。


 けれど、カインは止めない。


 エレノアも止めない。


 国王も、重臣たちも、誰も彼女の涙に席を立たない。


「私……私は、ただ」


 リリアナは絞り出すように言った。


「皆様の役に立ちたかっただけです。お姉様の仕事を、少しでもできるようになりたくて。止めたら迷惑がかかると思って」


「それは、誰に言われた?」


 エレノアが静かに尋ねた。


 リリアナは姉を見た。


 その目が、怖い。


 責めているというより、奥まで見ようとしている目だった。


「女官が……」


「本当に女官だった?」


「え?」


「服装は女官だったかもしれない。でも、王宮女官の顔をあなたはどれほど覚えている?」


 リリアナは言葉を失った。


 覚えていない。


 東翼執務室に出入りする女官たちの顔を、リリアナはほとんど見ていなかった。


 お茶を運ぶ人。


 花を替える人。


 書類を持ってくる人。


 姉なら一人一人の名を覚えていたかもしれない。


 でも、リリアナは違った。


 皆、自分を助けるためにいる人たちだと思っていた。


 名前を知らなくても、困らなかった。


「……覚えていません」


 リリアナは小さく答えた。


「背格好は?」


「私より少し背が高くて……茶色の髪で……」


「年齢は?」


「二十代くらい、だったと思います」


「声は?」


「優しい声でした」


「優しい声」


 エレノアは繰り返した。


 それだけだった。


 だが、リリアナは自分がどれほど曖昧なものに従ったのか、そこで初めて気づき始めた。


 優しい声。


 それだけで、書類に署名した。


 姉の名前を真似て。


 権限もないのに。


「承認書の提出先は財務局です」


 エレノアはカインへ向けて言った。


「この書類が通っていれば、慈善衣料費の名目で銀貨三百枚が追加支出されるところでした」


 カインが財務官ベルトラムを見る。


「財務局は、この署名を本物として扱ったのか」


 ベルトラムは青ざめながら答えた。


「まだ最終処理前でした。確認中で」


「なぜ偽署名の疑いを報告しなかった」


「似ておりましたので」


「エレノア嬢の署名を確認したことがないのか」


「もちろんございます」


「なら、違いは分かったはずだ」


 ベルトラムは口をつぐむ。


 カインの声がさらに冷える。


「見逃したのか、見逃すつもりだったのか」


 答えはなかった。


 リリアナの涙が一粒、頬を伝った。


「私、悪いことをしようとしたわけではありません」


 その声は、幼い頃から何度も使ってきた響きだった。


 悪気はなかった。


 知らなかった。


 そんなつもりではなかった。


 けれど、今回は誰もすぐに頷かなかった。


 エレノアが静かに言う。


「悪気がなかったことと、悪い結果が出なかったことは別よ」


 リリアナは顔を上げた。


「お姉様まで、私を責めるの?」


「責めているのではないわ」


「責めているじゃない!」


 リリアナの声が震えながら大きくなった。


「私だって頑張ろうとしたの! お姉様みたいにできないって分かっていても、少しでも役に立ちたくて! なのに、皆、私が失敗するたびにお姉様と比べる。お姉様ならできた、お姉様なら間違えなかった、お姉様なら知っていたって!」


 涙が次々にこぼれた。


「私には無理よ! こんな難しいこと、急にできるわけないじゃない!」


 母セレスティアが立ち上がりかけた。


「リリアナ……」


 しかし、カインが短く言った。


「座っていろ」


 セレスティアは動けなくなった。


 リリアナはその場で泣きながら、姉を見た。


「お姉様は、いつもそうだったわ。何でもできる顔をして、私には何も任せてくれない。私ができないと、ほら見たことかって思っているのでしょう?」


「思っていないわ」


「嘘よ!」


「リリアナ」


 エレノアの声が、少し低くなった。


 その一声で、リリアナは息を呑んだ。


 姉が本気で名前を呼ぶ時の声だった。


「できないなら、欲しがってはいけなかった」


 その言葉は、刃のようにまっすぐだった。


 リリアナの顔から、血の気が引いていく。


「……ひどい」


「ひどい言葉だと思う」


 エレノアは認めた。


「でも、言わなければならないわ」


「私は、殿下を愛して」


「王太子殿下の隣に立つということは、殿下に微笑むだけでは済まない。王妃候補になるということは、席次も、基金も、文書も、外交も、誰かの生活も背負うということよ」


「そんなの、誰も教えてくれなかった!」


 リリアナの叫びが会議の間に響いた。


 エレノアは、一瞬だけ目を伏せた。


「そうね」


 意外な返答に、リリアナは泣きながら固まった。


「誰も、あなたにきちんと教えなかった。それは確かよ」


 エレノアの視線が、父と母へ移る。


「お父様も、お母様も、あなたを愛される子として育てた。けれど、責任を持つ人間としては育てなかった」


 セレスティアが震えた。


 グレゴールが低く唸る。


「エレノア、言葉を慎め」


「慎みません」


 エレノアは初めて、父の言葉をはっきり拒んだ。


 会議の間に緊張が走る。


「リリアナは何も知らず、何も教えられず、それでも望めば与えられると思って育ちました。けれど、それはリリアナだけの罪ではありません」


 リリアナは、涙を流したまま姉を見る。


 エレノアの声は、責めるだけのものではなかった。


 だが、逃がすものでもなかった。


「ただし、だからといって、あなたの責任が消えるわけではない」


 リリアナの肩が震える。


「あなたは王太子殿下の隣を欲しがった。私の席を欲しがった。王太子妃候補という立場を欲しがった。欲しがった以上、そこにある責任を知らなかったでは済まない」


「私……私は、お姉様みたいになりたかっただけ」


「違うわ」


 エレノアは首を横に振った。


「あなたは、私の持っているものが欲しかっただけ」


 リリアナは息を呑んだ。


 誰も言わなかった言葉。


 リリアナ自身も、心の奥で見ないようにしていた言葉。


 姉のようになりたかった。


 そう思っていた。


 でも、本当は。


 姉が持っているものが欲しかった。


 姉が認められている場所が欲しかった。


 姉が立っている隣が欲しかった。


 姉が我慢して守っていたものの重さなど知らないまま、そこに座れば自分も愛されると思っていた。


「お姉様は、いつも譲ってくれたのに……」


 リリアナは呟いた。


 その声には、恨みと甘えと混乱が混ざっていた。


「髪飾りも、家庭教師も、お母様の時間も、いつも……お姉様は譲ってくれたのに」


「ええ」


 エレノアは頷いた。


「だから、あなたは奪うことを覚えた」


 その瞬間、リリアナの顔が凍りついた。


 セレスティアが口元を押さえた。


 ユリウスが目を伏せる。


 グレゴールは怒鳴ろうとして、カインの視線に阻まれた。


 エレノアは続けた。


「私は、譲れば家が丸く収まると思っていた。あなたが泣かなければ、お母様が困らず、お父様が怒らず、私は良い姉になれると思っていた」


 声は静かだった。


 けれど、一言一言が深く沈んでいく。


「でも違った。私はあなたに優しくしていたのではないわ。奪ってもいいと教えてしまっていた」


「そんな……そんな言い方」


「あなたは、泣けば許されると思っていた。私も、あなたが泣けば譲ってきた。だから今、ここまで来てしまった」


 リリアナは両手で口元を覆った。


「私は、悪い子なの?」


 その問いは、あまりにも幼かった。


 王太子妃候補として会議の場に座っている少女の問いではなく、姉の髪飾りを欲しがって泣いていた頃の妹の声だった。


 エレノアは、すぐには答えなかった。


 悪い子。


 そう言えれば簡単だった。


 リリアナは悪女だ。


 妹は姉から婚約者を奪った。


 泣いて周囲を味方につけ、姉を追い出した。


 そう断じれば、読者も、貴族たちも、王宮も分かりやすい。


 だが、現実はもっと濁っている。


 リリアナは悪意だけで動いたわけではない。


 無知で、甘やかされ、嫉妬し、欲しがり、泣き、周囲に利用された。


 その結果、誰かを傷つけた。


 それは、罪がないという意味ではない。


「悪い子かどうかを、私が決めることではないわ」


 エレノアは言った。


「でも、あなたのしたことは記録に残る」


 リリアナは涙に濡れた目で姉を見る。


「なら、どうすればいいの」


「話しなさい」


「何を」


「あなたが覚えていることを全部。誰に何を言われたか。誰が書類を持ってきたか。誰が署名を急がせたか。首飾りを誰から受け取ったか。社交界デビューの準備に誰が関わったか。泣くのではなく、話しなさい」


 リリアナは震えた。


 今までなら、泣けば済んだ。


 でも、今は違う。


 涙ではなく言葉。


 言葉ではなく記録。


 自分の記憶を、誰かを守るためではなく、真実のために差し出す。


 それはリリアナにとって、初めての恐怖だった。


「話したら、お父様が……」


 リリアナの視線が父へ向く。


 グレゴールは怒りをこらえた顔で娘を睨んでいた。


 その目を見た瞬間、リリアナの体が竦む。


 今まで父は、リリアナを叱らなかった。


 甘やかしてくれた。


 守ってくれた。


 でも今の父の目は、違う。


 言うな。


 黙れ。


 そう命じている。


 初めて、リリアナは気づいた。


 自分は守られていたのではない。


 都合の悪いことを知らないまま、飾りとして置かれていただけなのではないか。


「リリアナ」


 エレノアの声がした。


 父ではなく、姉を見る。


「人に従うと、また利用されるわ」


 以前、姉はそう言った。


 その意味が、今少しだけ分かった。


 リリアナはハンカチを握りしめた。


「……二年前の社交界デビューの前」


 か細い声で、彼女は話し始めた。


「お父様が、首飾りを持ってきてくださいました。特別なものだと。王太子殿下の目にも留まるだろうと」


 グレゴールが立ち上がる。


「リリアナ!」


「座れ」


 カインの声が鋭く響いた。


 近衛騎士が一歩前に出る。


 グレゴールは、歯を食いしばりながらも座った。


 リリアナは震えながら続けた。


「お母様は、王宮に出す書類のことは気にしなくていいと仰いました。お姉様がいつも整えてくれるから、と」


 セレスティアの顔が青ざめる。


「私は……私は、ただ」


「続けて」


 エレノアの声は静かだった。


 リリアナは涙を拭った。


「その頃、ダリウス様がよく屋敷にいらしていました。王太子殿下の側近だから、殿下の好みを教えてくださるって。首飾りも、殿下は淡い月色がお好きだと……」


 カインの目が鋭くなる。


「ダリウス・モーンか」


「はい」


 リリアナは頷いた。


「それから、最近も……私が王太子妃候補になったあと、東翼執務室の使い方について、女官を通じて助言すると仰っていました」


 エレノアは、先ほどの偽署名書類へ視線を落とした。


 つながった。


 女官を装った者。


 偽署名を促した者。


 リリアナの無知を利用し、エレノアの名を汚し、王妃基金からさらに金を引き出そうとした者。


 その背後に、ダリウスがいる可能性が高い。


 オスカーが素早く記録する。


 カインが命じた。


「ダリウス・モーンの屋敷封鎖を急がせろ。関係者全員の出入りを禁じる」


「はい」


 近衛の一人がすぐに出ていく。


 リリアナは、震えながら椅子に沈み込んだ。


「私……利用されていたの?」


 誰もすぐには答えなかった。


 エレノアが静かに言う。


「その可能性があるわ」


「でも、私も悪いのね」


「あなたにも責任はある」


 リリアナは目を閉じた。


 涙が落ちる。


 けれど、もう「悪くない」と言ってくれる声を探さなかった。


 その沈黙が、彼女にとって最初の変化だった。


 ユリウスが低く言った。


「ダリウスが……そこまで関わっていたのか」


 エレノアは彼を見る。


「殿下も、ダリウス卿について覚えていることを記録してください」


「ああ」


 ユリウスは頷いた。


 昨日よりも、少しだけ素直だった。


 彼もまた、自分の側近を見ていなかったのだ。


 リリアナは、泣いていた。


 けれど、会議は止まらなかった。


 泣いても許されないのではない。


 泣いても事実は消えない。


 そのことを、彼女は初めて体で覚え始めていた。


 やがてカインが、会議の一時休止を告げた。


 リリアナは立ち上がろうとして、足に力が入らずよろめいた。母が支えようとする。


 だが、その前にリリアナは小さく首を振った。


「大丈夫です」


 セレスティアが驚いたように娘を見る。


 リリアナはまだ涙を拭いきれていない。


 けれど、母の腕にすがる代わりに、自分で椅子の背を掴んで立った。


 そして、エレノアを見た。


「お姉様」


「何?」


「私……まだ、全部は分からないわ」


「ええ」


「でも、覚えていることは話します」


 その声は弱かった。


 頼りなかった。


 それでも、今までとは違っていた。


 エレノアは頷いた。


「それでいいわ」


「許してくれる?」


 その問いに、エレノアはすぐには答えなかった。


 リリアナの顔に不安が浮かぶ。


 エレノアは静かに言った。


「今は、許すかどうかを決める時ではないわ」


「……そう」


「今日から私は、あなたの姉としてではなく、王妃の証人として話します」


 リリアナの瞳が揺れた。


 その言葉は冷たい。


 けれど、リリアナはもう、それをただの冷たさとは受け取れなかった。


 姉として許す。


 姉として庇う。


 姉として譲る。


 エレノアは、もうその場所から降りたのだ。


 王妃の証人として立つ。


 その意味を、リリアナはまだ完全には分からない。


 ただ、自分がもう涙だけで姉を動かすことはできないのだと分かった。


 会議の間を出る時、リリアナは一度だけ振り返った。


 机の上には、偽署名の承認書が残っている。


 自分が軽い気持ちで書いた、姉の名前。


 その紙が、今はとても重く見えた。


 王宮の廊下には、夕方の光が差していた。


 泣けば許される世界は、そこで終わった。


 リリアナ・ヴァレンシュタインは、その日初めて、自分の涙ではなく、自分の言葉で裁きの場に立つことになった。

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