第17話 王太子の後悔は、愛ではなく恐怖から始まる
ユリウス・グランベルクは、自分が王になるのだと思っていた。
疑ったことはなかった。
生まれた時から王太子であり、王宮の誰もが彼を未来の国王として扱った。教師たちは彼に王の歴史を教え、騎士たちは彼へ剣を捧げ、貴族たちは彼の一言に微笑み、女官たちは彼が通るたびに頭を下げた。
足りないものは、いずれ身につくと思っていた。
苦手なことは、誰かが補えばいいと思っていた。
細かな文書や複雑な派閥関係は、王が自ら抱え込むものではない。王には大局を見る役目があり、細部は臣下が支えるものだ。
そう教わった。
そう信じていた。
けれど、その「臣下」の中に、婚約者であるエレノアがどれほど深く含まれていたのか、彼は知らなかった。
いや、知ろうとしなかった。
裁定会議が一時休止となった後、ユリウスは自分の執務室に戻った。
部屋の中は、以前よりずっと広く感じられた。
広く、冷たく、空虚だった。
机の上には、エレノアが残した資料がまだ積まれている。朝会要点整理、演説草稿の修正履歴、外交儀礼確認書、茶会席次注意表、王妃基金支出に関する警告書。
どれも、彼がまともに読んでこなかったものだった。
そして今、それらが彼を見ている。
責めるのではない。
ただ、そこにある。
その静かさが、何よりも苦しかった。
「……ダリウスは、まだ捕まらないのか」
ユリウスが尋ねると、側近ローレンは顔を強張らせた。
「屋敷は押さえられましたが、本人は不在とのことです。体調不良を理由に出仕を休んだ後、早朝に外出した形跡があると」
「逃げたのか」
「その可能性が高いかと」
ユリウスは椅子の背にもたれた。
ダリウス・モーン。
外務補助として王太子府に出入りしていた男。話し方は柔らかく、貴族間の雑談にもよく通じ、ユリウスにとっては扱いやすい側近だった。
エレノアのように、いちいち訂正しない。
ローレンのように、慎重すぎる助言をしない。
ユリウスが何かを言えば、ダリウスはまず頷いた。
『殿下のお考えはもっともでございます』
その言葉を、心地よいと思っていた。
今になって、その心地よさが恐ろしくなる。
「私は、あいつを信じていたのか」
自分の声が思ったより小さく響いた。
ローレンは答えに迷ったようだった。
「殿下は……ダリウス卿を重用されていました」
「なぜだ」
「殿下のお言葉を、よく汲む者でしたので」
「つまり、私に都合のいい男だったということか」
ローレンは黙った。
その沈黙が、答えだった。
ユリウスは机の上にあった一枚の紙を手に取った。
ダリウスの出仕記録。
サルヴィ商会推薦状の副署名に関する補足。
王妃の薬について王宮医師へ伝言した可能性。
リリアナへ近づき、王太子の好みを教える名目でヴァレンシュタイン公爵家に出入りしていた記録。
点が、線になっていく。
ユリウスの知らないところで。
いや、違う。
彼の目の前で。
彼が見なかっただけで。
「ローレン」
「はい」
「ダリウスがサルヴィ商会の件で書類を持ってきた時、私は何をしていた」
ローレンは一瞬、口を閉ざした。
「言え」
「……リリアナ様の社交界デビューの準備について、グレゴール公爵閣下とお話しされていました」
「私は、その推薦状を読んだか」
「一度は目を通されました」
「内容を覚えていない」
「殿下は、グレゴール公爵閣下の推薦なら問題ないだろう、と」
ユリウスは目を閉じた。
覚えている。
かすかに。
父親として娘のために尽力するグレゴール公爵を、好ましく思ったのだ。
リリアナが社交界で輝くなら、王宮にとっても良いことだと。
エレノアはその頃、王妃の病状悪化と王妃基金の支出確認に追われていた。彼女は何度か、サルヴィ商会の納入記録について確認したいと言っていた気がする。
だが、ユリウスは聞き流した。
『また書類か、エレノア』
そう言った記憶がある。
彼女は何も言い返さなかった。
ただ、静かに礼をして部屋を出ていった。
あの時、彼女は何を思っていたのだろう。
ユリウスは、初めてその沈黙の中身を考えた。
うるさいと思った。
息が詰まると思った。
だが、彼女はその時すでに、王妃の薬と基金の不審を追っていたのではないか。
自分が退屈だと思った書類の向こうに、王妃の命があったのではないか。
「……私は何をしていた」
口から漏れた声は、自分自身に向けたものだった。
ローレンは何も言わない。
言えるはずがなかった。
王太子は、椅子から立ち上がった。
「評議会の記録を持ってこい」
「どの記録でございますか」
「全部だ。王妃基金、サルヴィ商会、ダリウス、薬包分析、エレノアの発言も」
「かしこまりました」
ローレンが動こうとした時、ユリウスは彼を呼び止めた。
「お前も残れ」
「私も、でございますか」
「お前の記憶も必要だ」
ローレンは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その姿を見て、ユリウスは胸の奥が苦くなった。
ローレンは慎重な男だった。
時に慎重すぎて苛立つこともあった。
だが、彼は何度も止めようとしていたのかもしれない。
エレノアほど強くは言えなかっただけで。
ユリウスは、側近さえも見ていなかった。
部屋に資料が運び込まれる。
彼は座り直し、今度こそ読み始めた。
王妃基金支出台帳。
薬草園整備費の過大支出。
孤児院修繕費の差し戻し。
月涙石の首飾り。
サルヴィ商会。
ダリウス・モーン。
財務官ベルトラム。
王宮医師の記録漏れ。
グレゴール公爵の推薦。
そして、そのあちこちに残るエレノアの注釈。
要確認。
金額不一致。
王妃陛下へ確認予定。
殿下への報告、時機を見る。
証拠不十分。断定不可。
継続調査。
彼女は、どれほど長く一人でこれを見ていたのだろう。
ユリウスは、紙の上の文字を追いながら、喉の奥が詰まるのを感じた。
愛していた。
そう言えれば、物語としては美しいのかもしれない。
失って初めて気づいた愛。
捨てた婚約者の価値を知り、後悔する王太子。
だが、今のユリウスの胸にあるものは、そんな綺麗な感情ではなかった。
恐怖だった。
自分が王になれると思っていた人生が、どれほど危うい足場の上にあったのか。
自分の判断だと思っていたものが、どれほどエレノアの補助に守られていたのか。
自分が見ていなかった小さな怠慢が、王妃の死の影にまでつながっているかもしれないこと。
それが怖かった。
エレノアを失ったから怖いのではない。
エレノアなしの自分が、あまりに何も見えていなかったことが怖い。
その恐怖こそが、ユリウスの後悔の始まりだった。
扉が叩かれた。
入ってきたのはリリアナだった。
彼女は一人ではなかった。マルタが少し後ろに控えている。おそらく、証言整理のために訪れたのだろう。
リリアナの目元は赤い。
だが、いつものように泣きつくような顔ではなかった。
「殿下」
「リリアナ」
ユリウスは立ち上がりかけたが、リリアナは小さく首を振った。
「そのままで。私……今日は、慰めてもらいに来たのではありません」
その言葉に、ユリウスは目を見開いた。
リリアナは両手で一枚の紙を握っている。
「二年前の社交界デビュー前後に覚えていることを、マルタに手伝ってもらって書き出しました。まだ、全部ではありません。でも、提出しなければならないと思って」
彼女の声は震えていた。
それでも、逃げてはいなかった。
ユリウスは紙を受け取った。
リリアナの字は、少し乱れている。
ダリウス・モーンが屋敷へ来た日。
父が首飾りを持ってきた日。
母が保管箱を開けた日。
王太子殿下が月色を好むと聞いたこと。
東翼執務室で女官らしき人物に署名を促されたこと。
その一つ一つは曖昧だった。
だが、彼女なりに記録しようとしていた。
ユリウスは紙から顔を上げた。
「よく書いた」
リリアナの目に涙が浮かんだ。
だが、彼女は泣かなかった。
「私、今まで何も知らなかったのだと思っていました。でも、本当は……知ろうとしていなかったのかもしれません」
その言葉は、ユリウス自身の胸にも刺さった。
「私もだ」
彼は小さく答えた。
リリアナは顔を上げる。
「殿下も?」
「ああ」
ユリウスは、机の上の書類を見た。
「私は、自分が王太子として見ているつもりだった。だが、見ていたのは自分に都合のいいものだけだった」
リリアナは黙っていた。
マルタも、何も言わなかった。
「エレノアは、ずっと見ていた」
ユリウスは、その名を口にした。
今度は、呼び戻すためではない。
責めるためでもない。
ただ、認めるために。
「私は、それを冷たいと呼んだ」
リリアナの顔が苦しそうに歪む。
「私も……お姉様は意地悪だと思っていました」
「そう思いたかったのだろうな」
ユリウスは、自分へも向けるように言った。
「彼女が正しいと認めれば、私たちが見ていなかったことになる」
リリアナはハンカチを握りしめた。
「殿下は、お姉様を愛していたのですか」
突然の問いだった。
ユリウスはすぐには答えられなかった。
以前なら、こう答えたかもしれない。
エレノアは婚約者だったが、君を愛している。
君は私を笑わせてくれる。
君の方が人の心が分かる。
だが、今、その言葉はひどく薄っぺらく感じられた。
「分からない」
ユリウスは正直に言った。
リリアナが目を見開く。
「分からない?」
「ああ。私は、エレノアを必要としていた。だが、それを愛だと思ったことはなかった。むしろ、息苦しいと思っていた」
ユリウスは、資料の端に触れた。
「今、彼女を失って苦しい。だが、それが愛なのか、彼女に支えられていた自分を失う恐怖なのか、分からない」
リリアナは黙った。
その答えは、彼女が欲しかったものではなかっただろう。
でも、今のユリウスには、それ以上きれいな嘘をつけなかった。
「リリアナ。私は君を守ると言った」
「はい」
「だが、守るという意味も間違えていたのかもしれない」
リリアナの目が揺れる。
「君を泣かせないことが守ることだと思っていた。君の代わりに誰かを責めることが守ることだと思っていた。でも、それでは君も、私も、何も知らないままだ」
リリアナは唇を噛んだ。
「私は、怖いです」
「ああ」
「お父様が何をしていたのか、お母様が何を知っていたのか、ダリウス様が私に何をさせたのか。知るのが怖い」
「私も怖い」
王太子が怖いと言う。
それは、以前なら許されない弱さだと思っただろう。
だが今、ユリウスはその弱さを隠すよりも、正面から見る方が必要だと感じていた。
「だが、見なければならない」
その言葉は、エレノアのものに似ていた。
リリアナもそれに気づいたのか、少しだけ苦い顔をした。
「お姉様みたいなことを仰るのですね」
「そうかもしれない」
ユリウスは、小さく笑おうとして失敗した。
「私は、彼女の言葉を聞いていなかったからな」
部屋の外で、慌ただしい足音がした。
侍従が駆け込んでくる。
「殿下。ダリウス・モーン卿の件で、王弟殿下より緊急通達です」
ユリウスは立ち上がった。
「見つかったのか」
「いえ。屋敷地下より、焼却途中の書類が発見されました。サルヴィ商会との書簡、財務官ベルトラム閣下宛ての覚え書き、ヴァレンシュタイン公爵家への訪問記録が含まれているとのことです」
リリアナが息を呑む。
ローレンの顔色が変わる。
ユリウスは、机に手をついた。
「ダリウスは」
「現在、王都南門方面へ逃走した可能性があり、近衛が追っています」
「私も行く」
反射的にそう言ったユリウスへ、ローレンが慌てて近づく。
「殿下、危険です」
「王太子府の側近だ。私にも責任がある」
「だからこそ、ここで記録を整えるべきです」
その声は、ローレンにしては強かった。
ユリウスは彼を見た。
「現場は近衛と王弟殿下にお任せください。殿下が今行けば、ダリウス卿に政治的な逃げ道を与えかねません。王太子殿下が直接動いたとなれば、側近を庇った、あるいは口封じに動いたと噂される可能性があります」
以前なら、ユリウスは怒ったかもしれない。
側近に行動を止められるなど、王太子の威厳に関わると思っただろう。
だが今、彼は立ち止まった。
ローレンの言っていることは、エレノアがいつも言っていた類の言葉だった。
今ここで動けば、どう見えるか。
自分の意図ではなく、周囲にどう記録されるか。
それを考えろということだ。
ユリウスはゆっくりと息を吐いた。
「……分かった」
ローレンが安堵したように頭を下げる。
「では、私は何をすべきだ」
「ダリウス卿との過去の面談記録、指示記録、推薦状処理時の記録をすべて整理してください。殿下ご自身の記憶も、時系列で」
「時系列か」
「はい」
ユリウスは机に戻った。
「書く」
その一言に、リリアナが少しだけ目を伏せた。
彼女もまた、手元の記録紙を握り直す。
「私も、続きを書きます」
マルタが静かに頷いた。
「お手伝いいたします」
部屋の空気は重かった。
だが、何も見ないまま甘い言葉で慰め合っていた時よりは、少しだけ前へ進んでいる気がした。
その頃、北翼の監査室では、エレノアが焼却途中の書類の報告を受けていた。
紙の端は黒く焦げている。
だが、読める文字が残っていた。
サルヴィ商会。
追加納入。
黒眠草。
財務官承認。
公爵家経由。
リリアナ様周辺、誘導容易。
王太子殿下、詳細確認なし。
最後の一文を見た時、エレノアは目を閉じた。
誘導容易。
王太子も、リリアナも、そう見られていた。
利用できる者として。
そして自分は、邪魔な者として王宮から外された。
「ダリウスは、最初から王太子府と公爵家の隙を利用していたのですね」
エレノアが言うと、カインは書類を見たまま答えた。
「おそらくな。だが、利用されたことは免罪符にならない」
「はい」
「ユリウスにも、リリアナにも、そして公爵家にもだ」
エレノアは頷いた。
胸の奥に、重い痛みがある。
ユリウスが後悔し始めていることも、リリアナが少しずつ話し始めていることも、マルタから聞いていた。
それでも、簡単に許すことはできない。
許すかどうかを今決める段階でもない。
必要なのは、記録。
後悔ではなく、証言。
涙ではなく、事実。
「殿下」
「何だ」
「王太子殿下の継承適性再審査は、避けられませんね」
カインは、少しだけ沈黙した。
「避けられない」
「王妃様は、それを望んでおられました」
「ああ」
「ですが、王妃様は殿下を完全に見捨てていたのでしょうか」
カインは、エレノアを見た。
「なぜそう思う」
「再審査、と書かれていました。廃嫡ではなく」
カインの瞳が、わずかに深くなる。
「あなたも同じところを見るか」
「王妃様は、厳しい方でした。でも、道を完全に閉ざす方ではありませんでした」
「そうだな」
カインは、焼けた書類を封筒に戻した。
「ユリウスが王に足るかどうかは、これから問われる。だが、今のままでは足りない。それは間違いない」
エレノアは窓の外を見た。
王宮の庭は、夜に沈み始めている。
この場所で、ユリウスは王になるのだと信じて育った。
リリアナは愛される王妃になるのだと夢見た。
エレノアは、その二人を支えるのが自分の役目だと思っていた。
けれど今、全てが崩れた。
崩れたからこそ、本当の形を見なければならない。
王太子の後悔は、愛ではなく恐怖から始まった。
それは醜い始まりかもしれない。
けれど、人は時に、恐怖して初めて自分の足元を見る。
ユリウスがそこから何を見るのか。
リリアナが自分の涙の先に何を語るのか。
そして、王妃の死に関わった者たちが、どこまで逃げられると思っているのか。
まだ、裁きは終わっていない。
むしろ、ここからが本番だった。




