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妹に婚約者も家名も奪われましたが、私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第15話 王妃の死に毒の影

 王妃エレオノーラの死は、病によるものだった。


 少なくとも、王宮ではそう記録されている。


 長く伏せっていた。

 食が細くなった。

 眠る時間が増えた。

 医師の見立てでは、体力が徐々に落ちていった。


 だから、誰も疑わなかった。


 王妃は静かに衰弱し、祈るように息を引き取ったのだと、皆が思っていた。


 けれど、記録は時に、死者の声よりも冷たく真実を語る。


 中立薬師が王宮へ到着したのは、翌日の昼前だった。


 カインが手配したのは、王宮医師団とは縁の薄い老薬師だった。名をヘルマンという。王都の北区で小さな薬房を営んでおり、貴族に媚びることも、教会に寄りかかることもなく、ただ薬草と処方の正確さで知られている人物だった。


 白髪を後ろで束ね、深い皺の刻まれた顔をしている。背は高くないが、目は鋭い。王宮の豪奢な廊下を歩いても気圧される様子はなく、むしろ王宮側の官吏たちの方が彼の沈黙に緊張していた。


 王妃私室の隣に、臨時の分析部屋が用意された。


 窓は開けられ、机には清潔な布が敷かれ、薬包、小瓶、王妃の服薬記録、納入台帳、処方記録の写しが並べられている。


 エレノアは、カインと共に立ち会った。


 マルタも証人として同席している。


 王宮医師は、少し離れた場所に立たされていた。彼の顔色は悪く、何度も額の汗を拭っている。


 財務官ベルトラムは出席を求められていたが、まだ到着していない。


 遅れているのではない。


 来たくないのだろう。


 だが、カインの命令書に逆らうことはできない。


「では、始めますぞ」


 ヘルマン老薬師は、王妃の未使用薬包をひとつ開いた。


 指先で粉末を少量取り、色を確かめ、香りを嗅ぐ。次に小さな銀皿の上へ移し、薬液を一滴垂らした。


 粉末の一部が、鈍い紫に変わる。


 老薬師の眉が動いた。


「黒眠草ですな」


 王宮医師がすぐに声を上げた。


「鎮静補助として処方したものです。王妃陛下は夜に眠れない日がありました。少量ならば問題はありません」


「少量ならばな」


 ヘルマンは淡々と答えた。


 別の薬包を開く。


 同じ反応。


 また別の薬包。


 同じ反応。


 部屋の空気が重くなっていく。


 エレノアは、手元の処方記録を見た。


「この期間の処方記録では、黒眠草の使用は三日に一度、夜用の鎮静薬に限るとあります」


「薬包には?」


 カインが問う。


 ヘルマンは、皿の上の粉末を見下ろした。


「少なくとも、ここに残っている五包のうち四包に含まれております。量も、弱った患者へ毎日使うには多い」


 マルタが小さく息を呑んだ。


 王宮医師は焦ったように首を振る。


「ありえません。私の処方ではありません。薬包の調合は、薬房係が」


「薬房係の記録も確認します」


 エレノアは静かに言った。


「王妃陛下の薬は、王宮薬房で調合されたものと、サルヴィ商会から納入された既製薬草粉が混ざっています。どの段階で黒眠草が増えたのか、確認が必要です」


「私を疑うのですか」


 王宮医師の声が震えた。


 エレノアは彼を見た。


「疑っています」


 会議室ではなく、小さな分析部屋に、短い沈黙が落ちた。


 王宮医師の顔が青ざめる。


 エレノアは言葉を続けた。


「ただし、犯人と断じているわけではありません。あなたが処方したのか、薬房係が誤ったのか、納入時点で混入していたのか、あるいは別の者が手を加えたのか。それを確認するために、記録と薬を照合しています」


 カインがわずかに目を細めた。


 エレノアの声には感情があった。


 けれど、怒りに飲まれてはいない。


 王妃の死に関わるかもしれない場で、それは容易なことではなかった。


 老薬師は、次に小瓶を手に取った。


 茶色の小瓶。


 黒眠草粉末。


 納入印はサルヴィ商会。


 蓋の内側に付着した粉を確認し、老薬師は鼻を鳴らした。


「質が悪い」


 王宮医師が目を見開く。


「質が悪い?」


「黒眠草そのものは薬にもなる。だが、この粉は乾燥が荒く、茎の部分まで混ざっている。効きが安定せん。弱った者に使えば、日によって眠気が強く出る」


 エレノアは、王妃の私的記録を思い出した。


 ――薬の色、日によって濃淡あり。

 ――サルヴィ商会納入後、眠気強まる。


 王妃は感じていた。


 薬が変わったことを。


「老薬師」


 エレノアは尋ねた。


「この量を継続的に服用した場合、病で衰弱した方にはどのような影響が出ますか」


 王宮医師が口を開きかける。


 だが、カインが視線で制した。


 ヘルマンは皿の上の粉を見つめながら答えた。


「毒とは言いませんな」


 その言葉に、王宮医師が少しだけ息をついた。


 しかし老薬師は続けた。


「だが、毒でないから安全というわけではない。食欲を落とし、日中の意識を鈍らせ、体の回復を妨げる。病人に長く与えれば、死を早めることはある」


 マルタが両手を握りしめた。


 エレノアは、喉の奥が冷えるのを感じた。


 毒ではない。


 だが、死を早める。


 それは、最も厄介な形だった。


 明確な毒殺ではないと言い逃れられる。


 療養薬の一部だと主張できる。


 病死の影に隠せる。


 けれど、確かに命を削る。


「証明はできますか」


 カインが問う。


 ヘルマンは唸った。


「死者の体を今から調べても、決定的なものは難しいでしょうな。だが、薬包、処方記録、納入記録、服薬後の症状記録が揃えば、少なくとも不適切な投与が続いていたことは示せる」


「死因の断定ではなく、死を早めた可能性の証明か」


「その通りです」


 エレノアは、王妃の記録を机に広げた。


 王妃の字。


 病状の変化。


 眠気。


 食欲低下。


 薬の濃淡。


 そして、サルヴィ商会の名。


 それらが、一本の線へ近づいている。


 その時、扉が開いた。


 財務官ベルトラムが、青白い顔で入ってくる。


「遅くなりまして、申し訳ございません」


 カインは、感情のない目で彼を見た。


「遅い」


「台帳の確認に手間取りまして」


「台帳は封鎖済みだ。何を確認していた」


 ベルトラムは一瞬、言葉に詰まった。


「記憶の整理を」


「便利な記憶だな」


 カインの一言で、室内の温度が下がる。


 ベルトラムは乾いた笑みを浮かべた。


「それで、何か分かりましたかな」


 エレノアは、黒眠草の小瓶を示した。


「王妃様の薬包に、処方記録より多い黒眠草が含まれていました。この小瓶はサルヴィ商会納入品です」


「サルヴィ商会は、王宮指定業者のひとつです。納入品のすべてを財務局が確認しているわけではありません」


「しかし支出承認は財務局です」


「支払い処理をしただけです」


 予想通りの答えだった。


 エレノアは別紙を出した。


「サルヴィ商会への薬草納入費は、王妃基金ではなく王妃療養費から出ています。ただし、同時期に王妃基金から薬草園整備費として同商会へ別支出があります」


「何か問題が?」


「同じ月、同じ商会へ、二つの名目で大きな支出がある。片方は療養費、片方は基金。にもかかわらず、納入実績が金額に見合いません」


「帳簿の整理上、月を跨いだ納入が」


「では、納入証明を提出してください」


 ベルトラムの目元が動いた。


「現在、探しております」


「またですか」


 エレノアの声は静かだった。


「先ほどから、重要な書類ほど見つかりませんね」


 ベルトラムの表情が強張る。


「私を疑うのは勝手ですが、王妃陛下の死まで私に結びつけるのは無礼です」


「無礼を恐れて、記録を見ないことはできません」


「私は財務を預かる者です。薬の中身など知りません」


「薬の中身は知らなくても、薬商への支出は知っています」


 エレノアは、彼を見た。


「そして、薬商を王宮へ紹介した人物も」


 ベルトラムの視線がわずかに揺れた。


 カインがその変化を見逃すはずもない。


「グレゴール・ヴァレンシュタイン公爵だな」


 ベルトラムは口を閉ざした。


 エレノアは言った。


「サルヴィ商会の王宮納入開始にあたり、推薦状が出されています。推薦者はグレゴール公爵。そして、推薦状の副署名者に王太子殿下の側近ローレン様のお名前があります」


 その瞬間、部屋の空気が変わった。


 カインの目が細くなる。


「ローレン?」


「はい」


 エレノアは書類を差し出した。


 そこには、確かに署名があった。


 サルヴィ商会は、王都における薬草流通と地方慈善事業支援に実績あり。

 王宮納入業者として推薦する。

 推薦者、グレゴール・ヴァレンシュタイン公爵。

 副署名、王太子殿下側近ローレン・ディム。


 ベルトラムがすぐに言う。


「側近殿は、紹介状の形式上署名しただけでしょう。王太子殿下の政務補助として」


「その可能性もあります」


 エレノアは認めた。


「ですが、確認は必要です」


 カインはオスカーへ視線を向けた。


「ローレンを呼べ」


「はい」


 オスカーが退室する。


 エレノアは書類へ視線を落とした。


 ローレンは、王太子ユリウスの側近だ。


 いつも控えめで、ユリウスの機嫌を損ねないように立ち回る男。エレノアが王太子の書類を整えていた頃も、ローレンは何度もその場にいた。


 彼が中心人物だとは考えにくい。


 だが、形式上の署名であっても、サルヴィ商会が王宮へ入り込む入口になったのは事実だ。


 そして、その入口に王太子側近の名があることは重い。


 やがて、ローレンが青ざめた顔で現れた。


 彼は王太子執務室から急ぎ呼び出されたらしく、礼服の袖口が少し乱れている。


「カイン殿下。お呼びと伺い」


「サルヴィ商会推薦状に副署名したか」


 ローレンは一瞬、目を瞬かせた。


「サルヴィ商会……」


「記憶にないか」


「いえ、ございます」


 彼は慎重に答えた。


「二年ほど前、グレゴール公爵閣下より、慈善事業にも協力している薬草商会として推薦がございました。王妃陛下の療養薬の安定供給に役立つと」


「副署名した理由は」


「殿下……王太子殿下のご確認をいただく前の事務手続きとして、私が形式確認を」


 エレノアは尋ねた。


「王太子殿下は、その推薦をご存じでしたか」


 ローレンは、言葉を詰まらせた。


「ご説明は、いたしました」


「殿下は内容を確認されましたか」


「……深くは」


 やはり。


 エレノアはそう思った。


 ユリウスは、細かな納入業者の推薦など気に留めなかったのだろう。


 側近が整え、公爵が推薦し、財務官が承認する。


 それなら問題ないと流した。


 そしてエレノアも、その当時は決定的な不審に気づいていなかった。


 気づいた時には、商会はすでに王宮に入り込んでいた。


「推薦状作成時、サルヴィ商会の実績確認は?」


 エレノアが問う。


「提出資料上は、地方薬草園との取引実績、孤児院への寄付実績がありました」


「その実績は誰が確認しましたか」


「財務局より問題なしと」


 視線がベルトラムへ向く。


 ベルトラムは苦々しく顔を歪めた。


「提出資料に不備はなかった」


「実地確認は?」


 カインの声が落ちる。


 ベルトラムは黙った。


「実地確認はしたのか」


「……必要なしと判断しました」


「なぜ」


「推薦者が公爵閣下であり、王太子殿下側近の副署名もあったため」


 今度はローレンの顔色が変わる。


「私の署名を、信用確認の代わりにしたのですか」


「形式上のものとはいえ、王太子殿下側近の署名です」


 責任の押しつけ合いが始まった。


 エレノアは、静かにそれを見ていた。


 王宮ではよくある。


 署名はしたが中身は見ていない。

 推薦はしたが実務は知らない。

 承認したが確認は部下がした。

 形式上の署名であって実質的責任はない。


 そうやって、責任は薄く広がる。


 誰も責任者ではなくなる。


 だからこそ、記録が必要だった。


「ローレン様」


 エレノアは言った。


 ローレンが彼女を見る。


 その目には、焦りと後悔が混じっていた。


「当時、サルヴィ商会の推薦資料を王太子殿下へ提出した記録はありますか」


「おそらく、殿下の執務控えに」


「探してください」


「はい」


「それから、殿下が承認したかどうかではなく、どこまで説明を受けたかも必要です」


 ローレンは唇を噛んだ。


「……殿下は、ほとんどご覧になっていません」


 ベルトラムが目を光らせる。


「それは、王太子殿下にも責任があるということですかな」


 嫌な流れだった。


 エレノアは即座に言った。


「責任の所在を広げて曖昧にするのはやめてください」


 ベルトラムの顔が引きつる。


「何ですと」


「王太子殿下が詳細確認を怠ったことと、財務局が実地確認を省いたこと、そしてサルヴィ商会の納入不備は、それぞれ別の問題です。混ぜると真相がぼやけます」


 カインが短く頷いた。


「その通りだ」


 ローレンは深く頭を下げた。


「私の手元の記録をすべて提出いたします」


「頼みます」


 エレノアの声は、責めるものではなかった。


 ローレンはそれに少し驚いたようだった。


「エレノア様」


「何でしょう」


「私は……あなたが王太子殿下に提出されていた確認資料を、もっと重く扱うべきでした」


 その謝罪は、突然だった。


 エレノアは、少しだけ目を伏せた。


「今は、記録をお願いします」


「はい」


 ローレンは退室した。


 その背中を見送りながら、エレノアは思った。


 王宮は、誰か一人の悪意だけで腐るわけではない。


 少しずつ確認を省く。

 少しずつ責任を曖昧にする。

 少しずつ「大丈夫だろう」と流す。

 少しずつ、声の大きい者の言い分が通る。


 そして、その隙間に悪意が入り込む。


 王妃の死に影を落としたものは、おそらく一人の犯人だけではない。


 無関心。

 怠慢。

 甘え。

 権威への遠慮。

 そして、証拠がなければ動けない慎重さ。


 その全てが絡み合っている。


「エレノア」


 カインが低く言った。


「今日の分析はここまでだ」


「ですが」


「ローレンの記録、サルヴィ商会の召喚、薬包の詳細分析。結果が出るまで推測を重ねても意味がない」


 エレノアは、反論しかけて止めた。


 その通りだった。


 今は、見えた線を記録し、次の証拠を待つ段階だ。


「承知しました」


 しかし、その時、王宮医師が震える声で言った。


「私は……本当に、王妃陛下を害するつもりなどありませんでした」


 全員の視線が彼へ向く。


 王宮医師は、顔を蒼白にしている。


「黒眠草の量が増えていたことも、私は……私は、薬房係が調整したのだと思っていたのです。王妃陛下が眠れぬ夜が続くと聞いて」


 エレノアは彼を見た。


「誰から聞いたのですか」


 王宮医師は口を閉ざした。


 カインの声が鋭くなる。


「答えろ」


「……王太子殿下の側近を通じて、です」


 エレノアの胸が、嫌な音を立てた。


「ローレン様ですか」


「いえ」


 王宮医師は首を横に振った。


「別の側近です。ダリウス・モーン卿。王太子殿下の外務補助をしていた方です」


 新しい名が出た。


 エレノアの記憶の中で、細い線が動く。


 ダリウス・モーン。


 王太子側近の一人。


 主に外務局との連絡を担当していた男。人当たりがよく、ユリウスに対してもリリアナに対しても柔らかく接していた。


 そして、サルヴィ商会の推薦資料が出た頃、何度かグレゴール公爵と廊下で話していた記憶がある。


 エレノアは、その時は深く気に留めなかった。


 公爵家と王太子側近が話すこと自体は珍しくない。


 だが、今は違う。


「ダリウス卿は、現在どこに?」


 カインが問う。


 オスカーが答える。


「本日、王宮には出仕しておりません。体調不良との届けが」


 カインの目が冷たく光った。


「屋敷を押さえろ」


「はい」


「逃げる前に」


 部屋の空気が、一気に緊迫した。


 ベルトラム財務官の表情も変わっている。


 王宮医師は、すがるように言った。


「私は、ダリウス卿から、王妃陛下が夜ごと苦しまれていると聞きました。少し鎮静を強めた方がよいのではと。私は、王妃陛下のためだと」


「処方記録には残っていません」


 エレノアの声は冷たくなった。


「なぜです」


「正式処方の変更ではなく、薬房内での微調整として」


「記録せずに?」


 王宮医師は答えられなかった。


 それだけで十分だった。


 悪意があったかどうかは、まだ分からない。


 だが、記録を怠った。


 それは事実だ。


 王妃の命に関わる薬で。


「王宮医師の処方権限を一時停止する」


 カインが宣言した。


「監査終了まで、医師団長預かりとする。薬房係も聴取する」


 王宮医師は崩れるように膝をついた。


 マルタは、彼を見ていなかった。


 彼女はただ、王妃の薬包を見つめていた。


 その目には、静かな怒りが宿っている。


 エレノアは、机の上の証拠を見た。


 サルヴィ商会。


 グレゴール公爵。


 財務官ベルトラム。


 王宮医師。


 ローレンの副署名。


 そして、新たに浮かんだダリウス・モーン。


 王妃の死に差した影は、さらに濃くなった。


 それは単純な毒殺ではない。


 直接的な刃でもない。


 薬を少しずつ変え、記録を曖昧にし、責任を分散させ、病の影に死を押し込む。


 そんな陰湿な影だった。


 夕刻、分析部屋を出たエレノアは、王妃私室の前で足を止めた。


 白い扉は閉じられている。


 その向こうに、王妃が眠っていた寝台がある。


 もう誰もいない。


 けれど、彼女の残した記録は、今も王宮を動かしている。


「王妃様は、ずっとお一人で疑っておられたのですね」


 エレノアは小さく言った。


 マルタが、そっと首を振る。


「お一人ではありません」


「え?」


「王妃陛下は、エレノア様を信じておられました」


 その言葉に、エレノアは目を伏せた。


「信じてくださったのに、私は間に合いませんでした」


 カインが隣で言った。


「間に合わなかったものを数えるな」


 エレノアは顔を上げる。


「これから間に合わせるものを見ろ」


 その言葉は、慰めではなかった。


 命令に近かった。


 だから、エレノアは頷けた。


「はい」


 その時、廊下の向こうから足音が聞こえた。


 ユリウスだった。


 彼は王太子の礼服のまま、顔色を悪くして立っていた。隣にはローレンはいない。


「エレノア」


 呼ばれた名に、エレノアは振り向く。


 カインが無言で一歩前へ出かけたが、エレノアはそれを目で制した。


 ユリウスは、今までとは違う顔をしていた。


 怒りでも、苛立ちでもない。


 困惑と、恐怖と、少しの後悔。


「王妃様の薬に……本当に不審が?」


「分析途中です」


 エレノアは答えた。


「ですが、黒眠草の過剰混入が確認されました」


 ユリウスは、目を伏せた。


「私は知らなかった」


 その言葉は、リリアナのものと似ていた。


 私は知らなかった。


 エレノアは、静かに彼を見る。


「知らなかったことと、責任がないことは同じではありません」


 ユリウスは唇を噛んだ。


 以前なら、彼はこの言葉に怒っただろう。


 今も傷ついた顔はした。


 だが、怒鳴らなかった。


「……分かっている」


 初めて、彼はそう言った。


 エレノアは少しだけ目を見開いた。


 ユリウスは続けた。


「いや、分かっていなかった。今も、全部は分からない。ただ……王妃様が亡くなる前、私は何度も見舞いを後回しにした。政務が忙しいと言って。君に任せればいいと思っていた」


 声が震えている。


「君が見ているから、大丈夫だと」


 エレノアは何も言わなかった。


 ユリウスは、ようやく自分の言葉の残酷さを聞いているようだった。


「王妃様のことも、王宮のことも、君のことも。私は、誰かが支えてくれていることを、当然だと思っていた」


 謝罪の形には、まだなっていない。


 だが、言い訳だけでもなかった。


 エレノアは静かに答えた。


「今、必要なのは後悔ではありません」


「では、何が必要だ」


「記録です」


 やはり、彼女はそう言った。


「王太子殿下の側近であるダリウス・モーン卿について、覚えていることをすべて書面にしてください。サルヴィ商会推薦時、王妃様の薬についての発言、グレゴール公爵との接触、外務局とのやり取り。些細なことでも構いません」


 ユリウスは、少しだけ呆然とした。


 謝罪を受け取ってくれるでもない。


 責めるでもない。


 ただ、記録を求める。


 それがエレノアだった。


 いや、これまでもそうだったのだろう。


 自分が見ていなかっただけで。


「分かった」


 ユリウスは答えた。


「書く」


 カインが、少しだけ目を細めた。


 エレノアは一礼する。


「お願いいたします」


 その礼は、まだ遠かった。


 けれど、ユリウスは今度こそ理解した。


 彼女に近づくには、過去のように呼びつけるのではなく、自分が記録の前に立つしかないのだと。


 夜。


 王宮に緊急命令が走った。


 ダリウス・モーン卿の屋敷を監視。

 サルヴィ商会代表の出頭命令。

 王妃薬包の正式分析開始。

 王宮医師の処方権限停止。

 財務官ベルトラムの外部連絡制限。


 王妃の死に毒の影が差した。


 まだ犯人は見えない。


 だが、影の形は少しずつ浮かび上がっている。


 エレノアは、北翼の控室でその日の記録を整理した。


 手は疲れている。


 目も重い。


 けれど、筆は止まらなかった。


 王妃様。


 私は今度こそ、見落としません。


 そう心の中で告げながら、彼女は黒眠草の名を、ゆっくりと紙に記した。

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