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妹に婚約者も家名も奪われましたが、私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第14話 証拠で裁く令嬢

 王宮裁定会議の翌朝、王宮の空気は明らかに変わっていた。


 それまで廊下を満たしていた噂の気配は、まだ消えていない。むしろ濃くなっている。


 だが、その質が違った。


 以前は、面白がる囁きだった。


 王太子殿下が婚約破棄をなさったらしい。

 妹君が新しい婚約者候補になるらしい。

 エレノア様は王宮を追い出されたらしい。


 そんな、他人の不幸を甘い菓子のように口にする声だった。


 今は違う。


 王妃基金。

 遺産目録。

 財務官の台帳封鎖。

 サルヴィ商会。

 ヴァレンシュタイン公爵家の宝飾保管室。

 そして、王妃陛下の薬。


 誰もが、軽々しく口にできない言葉を抱えて歩いている。


 笑い話ではない。


 これは、王宮の骨にひびが入る音だった。


 エレノアは、王弟カインの用意した北翼の控室で朝を迎えた。


 正確には、ほとんど眠っていない。


 半刻休めと言われ、横にはなった。けれど、目を閉じれば王妃の筆跡が浮かんだ。


 黒眠草。

 サルヴィ商会。

 グレゴール・ヴァレンシュタイン公爵。

 王妃基金。

 月涙石の首飾り。


 どの言葉も、眠りの底へ沈ませるには重すぎた。


 それでも、体は少しだけ楽になっている。


 カインが命じた通り、温かい食事と薬草茶を口にし、侍女に髪を整えてもらった。王宮にいた頃のエレノアなら、食事を後回しにしてすぐ書類へ向かっただろう。


 だが、今は違う。


 倒れれば、証言が止まる。


 証言が止まれば、記録を握り潰したい者たちに時間を与える。


 だから、食べる。


 休む。


 息をする。


 それもまた、務めの一部だった。


「エレノア様、こちらが昨夜回収された財務局台帳の写しでございます」


 オスカーが机の上に、封印済みの写しを並べた。


 彼は疲れた顔ひとつ見せず、分類ごとに資料を整えている。王弟カインの秘書官らしく、無駄な動きがない。


「ありがとうございます」


 エレノアは一冊目を開いた。


 王妃基金支出台帳。


 表向きは整っている。


 支出名目も、署名も、承認印も、形式上は問題がない。


 だが、形式だけを整えた文書ほど、見るべき場所は決まっている。


 日付。

 金額。

 支出名目。

 納入先。

 承認者。

 そして、実際の成果物。


 エレノアは指先で台帳の列をなぞった。


「王都南区孤児院、屋根修繕費。申請額、銀貨八百枚。差し戻し三回。理由、担保登録品確認未了」


 別の紙を開く。


「同月、サルヴィ商会へ薬草園整備費として銀貨七百五十枚。納入報告書あり。ただし薬草園管理簿では、整備作業は一部のみ」


 さらに別の紙。


「ヴァレンシュタイン公爵家、リリアナ社交界披露宴関連支出。表向きは公爵家私費。ただしサルヴィ商会系列の装飾業者へ、銀貨七百二十枚相当の支払い記録」


 オスカーが眉を寄せる。


「金額が近いですね」


「近いだけでは証拠になりません」


「はい」


「けれど、同月に王妃基金からサルヴィ商会へ支出があり、その商会から系列業者へ金が流れ、さらに公爵家の披露宴費用と重なるなら、確認対象にはなります」


「資金洗浄の可能性を?」


「断定はしません」


 エレノアは、昨日と同じ言葉を繰り返した。


「ですが、確認します」


 オスカーはわずかに頷いた。


 その時、扉が叩かれた。


 入ってきたのはマルタだった。


 王妃私室の封鎖確認を終えたばかりなのだろう。顔には疲労があるが、目は冴えている。


「エレノア様。ヴァレンシュタイン公爵家の宝飾保管室より、該当品が届きました」


 エレノアの手が止まった。


「月涙石ですか」


「はい。公爵家は当初、提出を渋ったようですが、王弟殿下の命令書により封印付きで搬送されました」


「お父様は?」


「強く抗議されたとのことです」


「でしょうね」


 エレノアは静かに息を吐いた。


 父が怒る姿は容易に想像できた。


 公爵家の誇り。


 家門への侮辱。


 娘が父を疑うのか。


 きっと、そんな言葉を並べたのだろう。


 だが、王妃基金の担保登録品と酷似した宝飾品がある以上、確認しないわけにはいかない。


「確認場所は?」


「裁定会議の間にて。国王陛下、王弟殿下、王太子殿下、リリアナ様、ヴァレンシュタイン公爵夫妻、財務官、宝飾鑑定士が同席されます」


「分かりました」


 エレノアは立ち上がった。


 体の奥が少し重い。


 けれど、足は止まらなかった。


 会議の間へ向かう廊下で、エレノアはリリアナと鉢合わせた。


 リリアナは淡い灰色のドレスを着ていた。昨日よりも装飾は少なく、顔色も悪い。手には小さなハンカチを握りしめている。


 彼女の隣には母セレスティアがいた。


 セレスティアは娘の肩に手を置き、エレノアを見ると、困ったように眉を下げた。


「エレノア」


「お母様」


 エレノアは礼をした。


 母はその礼に、少しだけ傷ついたような顔をした。


 昔なら、エレノアはそこで胸を痛めただろう。


 母を傷つけた。


 自分が冷たいから。


 もっと柔らかく言うべきだった。


 そう思っただろう。


 だが今は、違った。


 礼は、礼だ。


 母娘としてではなく、会議の出席者として交わすべき距離がある。


「あなた、本当にこんなことを続けるの?」


 セレスティアの声は小さかった。


 周囲に聞かれないように抑えている。


 だが、その中には確かな非難があった。


「王妃基金の監査のことでしょうか」


「家の宝飾品を調べさせるなんて。リリアナは昨夜から眠れていないのよ」


 リリアナが目を伏せる。


 エレノアは妹を見た。


 その顔には、疲れと不安が浮かんでいる。


 可哀想だと思わないわけではない。


 けれど、その可哀想さで、王妃基金の記録は消えない。


「眠れなかったのは、リリアナだけではありません」


 エレノアは静かに言った。


 セレスティアが息を呑む。


「王都南区孤児院の子供たちは、修繕費が下りなければ冬を越せません。薬草園の納入記録が改ざんされていたなら、王妃様の薬に関わります。眠れない者は、他にもいます」


「あなたは……本当に」


 母の声が震えた。


「家族よりも書類が大切なのね」


 その言葉は、昔のエレノアなら深く刺さった。


 けれど今は、刺さる前に見えた。


 母は、書類の向こうにいる人間を見ていない。


 孤児院の子供たちも、薬草園で働く者たちも、王妃の病床も、見ていない。


 見えているのは、怯えるリリアナと、傷ついた公爵家だけだ。


「お母様」


 エレノアは答えた。


「書類は、人がしたことを残すものです」


 セレスティアは何も言えなくなった。


「書類が大切なのではありません。そこに記された人の痛みを、なかったことにしないために必要なのです」


 リリアナが、顔を上げた。


 その瞳が揺れている。


 エレノアは妹へ視線を向ける。


「リリアナ」


「……何?」


「今日、あなたに確認することがあるわ」


 リリアナの肩が小さく震えた。


「私、何も知らないわ」


「知らないことは、知らないと答えればいい」


「またそれ」


「それが一番あなたを守るから」


 リリアナは目を見開いた。


 責められると思っていたのだろう。


 けれど、エレノアは責めるために言ったのではなかった。


 知らないことを知っているふりをすれば、後で嘘になる。


 嘘になれば、誰かに利用される。


 リリアナはそれを知らない。


 だから言う必要があった。


「……お姉様は、私を守るつもりなの?」


「真実を守るつもりよ」


 リリアナの顔が少し歪む。


 その答えは、彼女が欲しかったものではなかったのかもしれない。


 だが、今のエレノアに言えるのは、それだけだった。


 会議の間には、すでに関係者が揃っていた。


 中央の机の上に、黒い布をかけられた小箱が置かれている。


 ヴァレンシュタイン公爵家から提出された宝飾品。


 その横には、王妃遺産目録の写し、担保登録証明、宝飾鑑定士の道具が並べられていた。


 国王アレクシスは、昨日よりもさらに疲れた顔をしている。


 王太子ユリウスは、エレノアが入ってくるとわずかに顔を上げた。


 何か言いたそうに見えたが、言葉は出なかった。


 カインはすでに席に着いていた。


 エレノアを見ると、短く頷く。


 それだけで十分だった。


 彼は彼女を慰めない。


 だが、立つ場所は与える。


 エレノアは補佐席へ向かった。


 リリアナとセレスティアは、ヴァレンシュタイン公爵家側の席へ。


 父グレゴールは、怒りを隠そうともしていなかった。


「始める」


 カインの声で、会議の間が静まった。


「本日は、王妃基金担保登録品である月涙石の首飾りと、ヴァレンシュタイン公爵家より提出された宝飾品の照合を行う。加えて、王妃基金支出台帳と公爵家関連支出の関係について確認する」


 グレゴールが口を挟む。


「王弟殿下。私はこのような侮辱を認めたわけではありません」


「認める必要はない」


 カインは冷たく返した。


「国王裁可済みだ」


 グレゴールは国王へ視線を向ける。


 だが、国王は何も言わなかった。


 それが答えだった。


 カインは宝飾鑑定士へ目を向ける。


「始めろ」


 鑑定士が小箱の封印を確認する。


「封印、破損なし。搬送時記録と一致します」


 黒布が外される。


 中には、月の雫のような淡い青白い石を連ねた首飾りがあった。


 その瞬間、リリアナが小さく息を呑んだ。


 エレノアは、その反応を見逃さなかった。


「リリアナ」


 カインではなく、エレノアが呼んだ。


 リリアナの肩が震える。


「この首飾りに見覚えがありますか」


 リリアナは、首飾りを見つめた。


 美しい石だった。


 二年前、社交界デビューの夜、胸元で輝いていたもの。


 ユリウスに「春の月のようだ」と言われた、あの夜の首飾り。


 忘れるはずがない。


「……あります」


 声は震えていた。


 セレスティアが隣で身じろぎする。


 グレゴールの顔が険しくなる。


 エレノアは続けた。


「最後に身につけたのは、二年前の社交界デビューの夜ですか」


「はい」


「贈り主は?」


「お父様です」


 リリアナの声がさらに小さくなる。


 グレゴールが机を叩きそうになったが、カインの視線を受けて止まった。


 エレノアはリリアナを見つめた。


「その時、この首飾りが王妃様の所有品であると聞いていましたか」


 リリアナは、激しく首を横に振った。


「知らないわ! 本当に知らなかったの!」


 声が泣きに変わりかける。


 だが、リリアナは必死にこらえた。


 泣いても質問は終わらない。


 それを、もう知っている。


「お父様が、私のために用意したと仰ったの。お母様も、とても似合うって。王妃様のものだなんて、私、本当に……」


「分かりました」


 エレノアは短く言った。


 その声に、責める響きはなかった。


 リリアナは涙をこぼしそうになりながら、唇を噛む。


 鑑定士が王妃遺産目録の写しと照合を始めた。


「目録記載、月涙石の首飾り。石数、二十七。中央石に微細な白筋。留め具裏に王妃陛下個人紋章、百合と月桂樹の極小刻印」


 鑑定士が首飾りを裏返す。


 会議の間に、重い沈黙が落ちた。


「刻印、確認できます」


 その一言で、セレスティアが口元を押さえた。


 グレゴールの顔が青くなり、それから赤くなった。


 リリアナは、椅子に座ったまま固まっていた。


 ユリウスは目を見開く。


「つまり……」


 誰かが呟いた。


 鑑定士は続けた。


「石数、中央石の特徴、留め具の刻印、すべて目録と一致します。提出品は、王妃エレオノーラ陛下所有、月涙石の首飾りと見て間違いないかと」


 会議の間がざわついた。


 王妃の所有品。


 孤児院基金の担保登録品。


 それが、二年前、リリアナの社交界デビューで使われていた。


 グレゴールが叫んだ。


「私は知らなかった!」


 あまりに早い否定だった。


 エレノアは父を見る。


「お父様がリリアナへ贈ったと、本人が証言しました」


「購入したのだ! 正規の宝飾商を通じて!」


「その購入記録を提出してください」


「今すぐには無理だ」


「では、後ほど正式に」


 グレゴールは唇を噛む。


 エレノアは資料を開いた。


「宝飾商記録では、該当首飾りはサルヴィ商会系列の仲介業者を経由しています。しかし、その業者には当時、この品質の月涙石を扱った正式仕入れ記録がありません」


「商人の管理不足だろう」


「その可能性もあります」


 エレノアは父の反論を否定しなかった。


「ですので、商会側の台帳を確認します」


「お前は……」


 グレゴールが低く唸った。


「本気で父を罪人にするつもりか」


「お父様が罪人かどうかは、記録が示します」


「また記録か!」


 父の怒声が響く。


 だが、以前のように場を支配する力はなかった。


 なぜなら、机の上には首飾りがある。


 王妃の紋章が刻まれた、動かぬ証拠が。


 エレノアは次の資料を出した。


「続いて、王妃基金からの支出流用疑惑について確認します」


 財務官ベルトラムの表情がこわばる。


「王妃基金支出台帳では、薬草園整備費としてサルヴィ商会へ銀貨七百五十枚が支払われています。承認印は財務官ベルトラム閣下」


 ベルトラムは無理に笑った。


「正式な支出です」


「はい。台帳上は」


 エレノアは別紙を広げる。


「しかし薬草園管理簿では、同時期に実施された整備は乾燥棚の修繕と排水溝の一部補強のみ。薬草園管理人の報告によれば、実費は銀貨二百枚程度」


「管理人が正確な費用を把握していなかった可能性があります」


「その可能性もあります」


 エレノアはまた認めた。


 だが、そこで止まらない。


「ただし、サルヴィ商会から系列装飾業者へ、同月中に銀貨五百枚相当の送金があります。その系列装飾業者は、ヴァレンシュタイン公爵家社交界披露宴の会場装飾を担当しています」


 会議の間の視線が、再びグレゴールへ向く。


 グレゴールは歯を食いしばった。


「偶然だ」


「その可能性もあります」


「ならばなぜ、疑う」


「偶然が重なりすぎるからです」


 エレノアは、声を乱さない。


「王妃基金からサルヴィ商会へ過大支出。サルヴィ商会系列から公爵家披露宴業者へ送金。同時期に王妃所有の月涙石首飾りが公爵家へ流入。さらに、孤児院修繕費は担保確認未了として差し戻し」


 ひとつずつ、石を置くように。


「これらをすべて偶然とするには、確認すべき点が多すぎます」


 国王が深く息を吐いた。


 重臣の一人が低い声で言う。


「財務官。薬草園整備費の実費確認書はあるのか」


 ベルトラムは汗を拭った。


「現在、財務局にて確認中です」


 カインが冷たく言った。


「財務局は封鎖済みだ。確認中ではなく、提出待ちだろう」


「……はい」


「提出できるのか」


「時間をいただければ」


「どのくらいだ」


「三日ほど」


「一刻以内に出せ」


 ベルトラムの顔が引きつった。


「一刻など」


「正式支出なら、実費確認書はすぐ出せる」


 カインの言葉に、ベルトラムは黙った。


 その沈黙が、会議の間に広がる。


 エレノアは、さらに次の資料を手に取った。


「次に、薬草納入記録について」


 王宮医師が身じろぎした。


 今まで黙っていた彼は、顔色が悪かった。


 エレノアは彼を見た。


「王妃様の療養薬について、処方記録と納入記録に相違があります」


 会議の間が、また一段重くなる。


 薬。


 王妃の死。


 そこに踏み込むことは、誰もが恐れていた。


 だが、避けるわけにはいかない。


「王妃様の処方記録では、高地薬草を中心とした滋養薬が継続処方されていました。しかし、実際に薬棚に残されていた薬包には、黒眠草の含有が疑われるものがあります」


 マルタが証拠箱を示す。


 封印された薬包。


 黒眠草の小瓶。


 王妃の書き残した札。


 王宮医師が声を上げた。


「黒眠草は、鎮静補助として必要な場合があったのです!」


「臨時使用は記録されています」


 エレノアは淡々と答える。


「ですが、残された薬包の数と処方記録が合いません。王妃様の私的記録にも、薬の色の濃淡と眠気の増加について記されています」


 王宮医師の目が泳いだ。


 ベルトラムが口を挟む。


「亡き王妃陛下は病により不安を抱えておられた。私的記録を根拠に医療判断を疑うのは危険です」


「ですので、中立薬師による分析を依頼しています」


 カインが補足した。


「分析結果が出るまで、王宮医師および関係者の薬棚への接近は禁止する」


 王宮医師の顔が蒼白になる。


「私は、王妃陛下をお救いしようと」


「それなら、記録を提出できるな」


 カインの一言で、医師は黙った。


 エレノアは、机の上の証拠を見た。


 首飾り。

 台帳。

 商会記録。

 薬包。

 王妃の私的記録。


 ひとつひとつは小さい。


 だが、並べれば逃げ道を塞ぐ壁になる。


 証拠で裁く。


 感情で断罪するのではない。


 叫び声で押し切るのでもない。


 泣いて許しを乞う者を、その場の空気で救うのでもない。


 記録を見る。


 事実を並べる。


 逃げられない形にする。


 それが、王妃がエレノアに託したやり方だった。


 その時、リリアナが小さく声を上げた。


「私……」


 全員の視線が彼女へ向く。


 リリアナは震えていた。


 けれど、逃げるようには俯かなかった。


「私、本当に知りませんでした。あの首飾りが王妃様のものだなんて。孤児院のためのものだなんて……知らなかったのです」


 涙が頬を伝った。


 だが、今度の涙は、誰かを責めるための涙ではなかった。


 少なくとも、エレノアにはそう見えた。


「リリアナ」


 エレノアは静かに言った。


「知らなかったことと、使ったことは別です」


 リリアナの肩が震える。


「でも」


「あなたが盗んだと言っているのではありません」


 エレノアは、言葉を選んだ。


「けれど、その首飾りを身につけたことで、本来使われるべきだった孤児院修繕費の担保が失われました。その結果、支出は差し戻されました。あなたが知らなかったとしても、影響はありました」


 リリアナは、涙を拭わなかった。


「……どうすればいいの」


「まず、知っていることをすべて話して」


「話したら、お父様が」


「記録に従いなさい」


 エレノアの声は、決して甘くなかった。


 けれど、リリアナを突き放すための冷たさでもなかった。


「人に従うと、あなたはまた利用されるわ」


 リリアナの瞳が揺れた。


 父グレゴールが怒鳴る。


「エレノア! 妹を唆すな!」


 カインがすぐに言った。


「発言を慎め、公爵」


 グレゴールはなおも怒りに震えている。


「これは家族の問題だ!」


「王妃基金担保品が絡んだ時点で、家族の問題ではない」


 カインの声が鋼のように響く。


 その瞬間、リリアナは顔を上げた。


「お父様」


 震える声だった。


 だが、確かに父へ向けられていた。


「あの首飾りは、どこで手に入れたのですか」


 グレゴールの顔が強張る。


「お前は黙っていなさい」


「でも、私が身につけたものです」


「黙れと言っている!」


 リリアナはびくりと震えた。


 けれど、完全には俯かなかった。


 その姿を見て、セレスティアが慌てて手を伸ばす。


「リリアナ、無理しなくていいのよ」


「お母様」


 リリアナは、母を見た。


「お母様も、知っていたの?」


 セレスティアの顔から血の気が引いた。


 その沈黙は、答えではない。


 まだ証拠ではない。


 けれど、リリアナの世界を揺らすには十分だった。


「……知らなかったのね」


 リリアナは呟いた。


「私だけが何も知らなかったのね」


 エレノアは、妹を見ていた。


 甘やかされてきた少女。


 泣けば許され、欲しがれば与えられ、姉に譲られて当然だと思ってきた妹。


 けれど、その妹もまた、父母に利用されていた。


 美しい首飾りを与えられ、王太子の目を引くための飾りにされた。


 何も知らされず、何も学ばされず、ただ愛される子として置かれていた。


 それは罪を消す理由にはならない。


 だが、傷ではあった。


 エレノアは、その傷を見落とさない。


 見落とさないからこそ、許すこととは別に記録する。


「リリアナ。二年前の披露宴について、後ほど詳しく証言してもらいます」


「……はい」


 小さな返事だった。


 初めて、リリアナは「分からない」ではなく、「はい」と答えた。


 会議はさらに進んだ。


 王妃基金の孤児院修繕費が差し戻された間、孤児院が雨漏りに苦しんでいたこと。


 薬草園整備費の過大支出のせいで、本来必要だった療養薬の品質確認が遅れていたこと。


 戦没騎士遺児支援金の一部が、名目上は衣料費として処理されながら、実際には納入確認がないこと。


 その一つ一つを、エレノアは丁寧に示した。


 誰かを劇的に断罪するためではない。


 逃げ道を消すために。


 感情ではなく、数字と日付で。


 ベルトラム財務官は、次第に沈黙が増えた。


 王宮医師は、分析結果が出るまで発言を控えると言い出した。


 グレゴール公爵は怒鳴り続けたが、会議の空気はすでに彼の怒声を恐れていなかった。


 国王は、最後に重く宣言した。


「ヴァレンシュタイン公爵家宝飾保管室を正式封鎖。サルヴィ商会代表を王宮へ召喚。王妃基金関連支出は、監査終了まで一時凍結する。ただし孤児院修繕費と薬草園の最低限維持費は、王弟管理下で臨時支出を認める」


 エレノアは深く頭を下げた。


「感謝いたします」


 孤児院の屋根。


 薬草園の最低限維持。


 まずそこを止めないこと。


 それが大切だった。


 不正を調べるために、弱い者たちへの支援まで止めてはならない。


 王妃なら、きっとそう言っただろう。


 会議が終わる頃、窓の外は夕暮れに染まっていた。


 リリアナは席に座ったまま、月涙石の首飾りを見つめていた。


 その美しさは変わらない。


 けれど、もう彼女にとって、それは甘い記憶だけの品ではなくなっていた。


 ユリウスは、エレノアに近づこうとして、途中で足を止めた。


 昨日のカインの言葉が頭にあった。


 彼女はもう、お前に命じられる立場ではない。


 今、声をかけるなら、何と言うべきか。


 分からなかった。


 だから、彼は何も言えなかった。


 エレノアは資料をまとめ、カインの補佐席から立ち上がった。


 その顔には疲労が見える。


 だが、目は逸れていない。


 カインが隣で短く言った。


「今日はここまでだ」


「まだ薬包分析の手配が」


「オスカーが進める」


「サルヴィ商会の過去三年分の納入記録も」


「私が命令書を出す」


「孤児院への臨時支出確認は」


「それは今すぐやる」


 カインは一度、エレノアを見た。


「あなたは休め」


 エレノアは反論しかけたが、今度は飲み込んだ。


 王妃の記録を見るためには、倒れてはいけない。


「承知しました」


 カインは頷いた。


 そのやり取りを、リリアナがじっと見ていた。


 姉が、誰かに仕事を奪われるのではなく、分担されている。


 命令されているのではなく、守られている。


 リリアナには、その違いがまだ完全には分からない。


 だが、何かが違うことだけは分かった。


 そしてその違いが、自分の知っていた姉の姿を少しずつ変えていく。


 エレノアは退室する前に、机の上の月涙石の首飾りへ視線を落とした。


 美しい石。


 王妃の持ち物。


 孤児院の屋根を守るはずだった担保。


 妹の社交界デビューを飾った罪なき宝石。


 その全てが、ひとつの品に重なっている。


 エレノアは静かに言った。


「これは、王妃基金の管理下へ戻してください」


 鑑定士と文書官が頷く。


 リリアナは、涙を落としながらも、その言葉に反論しなかった。


 会議の間を出ると、廊下には夜の気配が満ち始めていた。


 エレノアは立ち止まり、窓の外を見た。


 王宮の庭は暗く、美しく、どこか冷たい。


 この場所では、多くのものが綺麗な布で覆われる。


 不正も。


 傷も。


 涙も。


 けれど今日、布の端が少しめくれた。


 証拠で裁く令嬢。


 もし誰かがそう呼ぶなら、エレノアは否定しないだろう。


 裁きたいのではない。


 ただ、記録を見たい。


 王妃が最後に託したものを、最後まで見届けたい。


 そのためなら、父の怒声も、母の涙も、妹の震える声も、元婚約者の沈黙も、見なかったことにはしない。


 記録は、誰かを傷つけるためにあるのではない。


 傷をなかったことにしないためにある。


 エレノアは、そう信じることにした。

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