第13話 王宮裁定会議、開廷
王妃エレオノーラの私室は、主を失ってからも、まだ王妃の気配を残していた。
白百合の香りはもう薄れている。
窓辺に置かれた椅子には誰も座らず、銀の燭台は磨かれたまま静かに光っている。寝台の薄布はきちんと整えられ、化粧台の上には使いかけの香油瓶が一本だけ残されていた。
けれど、エレノアが見ていたのは、そうした思い出の品ではなかった。
部屋の奥。
壁に嵌め込まれた薬棚。
王妃が晩年、毎日使っていた薬草や煎じ薬、鎮痛用の丸薬、睡眠を助ける香草袋が保管されていた場所である。
棚にはすでに、王弟カインの命令による封印が施されていた。
黒い封紐。
王弟印。
無断で破れば、証拠隠滅として扱われる。
その事実だけで、王妃私室の空気は以前とはまるで違っていた。
ここはもう、亡き王妃を偲ぶ部屋ではない。
証拠の眠る場所だった。
「封印、確認いたしました」
マルタが低く言った。
エレノアは頷き、薬棚の前に立つ。
カインは少し後ろに控えていた。彼は前に出すぎない。エレノアが確認すべきものを、彼女自身の目で見られるように場所を空けている。
それが、ユリウスとは違った。
以前なら、王太子の周囲には常に誰かの感情があった。機嫌、苛立ち、疲労、甘え、不満。エレノアはそれらを読みながら動かなければならなかった。
だが、カインの隣では違う。
そこにあるのは、職務だけだ。
冷たくもある。
けれど、ひどく息がしやすかった。
「開けます」
エレノアが言うと、カインが短く答えた。
「ああ」
オスカーが開封記録を取り始める。
マルタが証人として封紐を確認し、エレノアが鍵を差し込んだ。
小さな音を立てて、薬棚の扉が開く。
乾いた薬草の匂いが、ふわりと漂った。
懐かしい匂いだった。
王妃の病室で、何度も嗅いだ匂い。
高地薬草の青い香り。
月花根の甘い眠気を誘う香り。
薄荷草の冷たい香り。
そして、その奥に混じる、重たい苦み。
黒眠草。
エレノアは眉を寄せた。
「……やはり、残っています」
棚の奥、茶色の小瓶に黒い粉末が入っていた。
封は切られている。
ラベルには、王宮医師の筆跡で「鎮静補助」と書かれていた。
だが、瓶の底に貼られた納入印は、サルヴィ商会のものだった。
エレノアは、瓶を持ち上げない。
まず、視認したまま記録する。
「黒眠草粉末。小瓶一つ。封開封済み。残量、およそ三分の一。納入印、サルヴィ商会」
オスカーの筆が走る。
マルタは、唇を噛みしめていた。
「王妃陛下には、これほど強い鎮静剤は必要なかったはずです」
エレノアは静かに言った。
「少なくとも、私が最後に確認した処方記録では、黒眠草は臨時使用に限られていました。毎日の薬に混ぜるものではありません」
カインが問う。
「混ぜられていた可能性は?」
「薬包を確認しなければ断定できません。ただ、王妃様が亡くなる前の三週間、急に眠る時間が増えました。食事量も落ちていました」
エレノアは棚の下段を確認する。
そこには、日付ごとに分けられた薬包の一部が残っていた。
本来なら、服用後の空包と未使用分は王宮医師が回収する。
だが、王妃は一部を残していた。
おそらく、意図的に。
「王妃様……」
マルタの声が震えた。
エレノアも胸が痛んだ。
病床にありながら、王妃は自分の薬を疑い、残し、記録していた。
どれほど心細かっただろう。
どれほど悔しかっただろう。
だが、王妃は最後まで取り乱さなかった。
証拠を残した。
エレノアに遺した。
だから、今ここで泣き崩れるわけにはいかなかった。
「薬包を封印してください。分析は、王弟殿下直属の薬師、または王宮外の中立薬師に依頼するべきです」
「王宮医師ではなく?」
オスカーが確認する。
「王宮医師も関与している可能性があります。少なくとも、処方記録と納入記録に矛盾がある以上、単独で任せるべきではありません」
カインは頷いた。
「中立薬師を手配する。王宮医師には、分析結果が出るまで薬棚への接近を禁じる」
「はい」
エレノアは、次に小箱を確認した。
そこには、王妃が自ら書いたと思われる短い札があった。
――薬の色、日によって濃淡あり。
――サルヴィ商会納入後、眠気強まる。
――エレノアに見せるには、まだ早い。証拠を増やす。
最後の一文で、エレノアの息が止まりかけた。
見せるには、まだ早い。
証拠を増やす。
王妃は、エレノアを巻き込むことすら慎重だったのだ。
彼女を守るためか。
それとも、証拠なき告発でエレノアが潰されることを恐れたのか。
その両方だろう。
エレノアは札を見つめたまま、しばらく動けなかった。
カインが静かに言う。
「エレノア」
「はい」
「それも記録だ」
その言葉で、彼女は現実へ戻った。
「……はい」
エレノアは、札の内容を読み上げた。
オスカーが記録する。
マルタが泣きそうな顔で、しかし背筋を伸ばして証人として立っている。
その一つ一つが、王妃の死の周囲に置かれた石になっていく。
道を作る石だ。
真実へ続く、冷たく硬い道。
薬棚の確認が終わった時、すでに王宮の鐘は午後を告げていた。
だが、休む時間はなかった。
王宮裁定会議が開かれる。
議題は、王妃基金の不正疑惑、遺産目録の不一致、セルベリア文書の所在不明。
そして、王妃遺言状に基づくエレノアの権限確認。
王妃私室から裁定会議の間へ向かう廊下で、エレノアは一度だけ立ち止まった。
窓に映る自分を見る。
深い藍色のドレス。
喪を示す黒い外套。
首元には、王妃からかつて贈られた小さな銀の百合飾りをつけている。
華やかではない。
だが、これでいい。
今の自分に必要なのは、美しさではない。
記録を見る目と、証言する声だ。
「行けるか」
カインが尋ねた。
エレノアは頷いた。
「はい」
「無理はするな」
「必要な無理はします」
カインは少しだけ目を細めた。
「では、倒れる前に申告しろ」
「倒れる前提なのですか」
「あなたは自分の限界を軽く見る癖がある」
意外な言葉だった。
エレノアは思わずカインを見た。
彼はいつも通り無表情に近い。
けれど、その言葉には、単なる職務上の注意とは違う響きがあった。
「……承知しました」
エレノアが答えると、カインは歩き出した。
裁定会議の間には、すでに多くの者が集まっていた。
国王アレクシスは上座に座り、その右に王太子ユリウス、少し離れてリリアナ。左側には王弟カインの席が用意されている。
重臣たち。
王宮財務官ベルトラム。
文書管理官。
女官長マルタ。
王宮医師。
ヴァレンシュタイン公爵グレゴール。
母セレスティア。
そして、関係貴族の代表として数名の侯爵、伯爵が列席していた。
空気は重い。
誰もが、今日ここで何かが決定的に変わることを感じていた。
扉が開き、カインが入る。
その半歩後ろに、エレノアが続いた。
会議の間の視線が、一斉に彼女へ集まった。
ユリウスの瞳が揺れる。
リリアナは、資料を握りしめたまま顔を強張らせている。
父グレゴールは、あからさまに不快そうな表情を浮かべた。
母セレスティアは、心配そうな顔を作っているが、その目の奥には動揺があった。
エレノアは、誰の視線にも反応しなかった。
カインの補佐席へ向かう。
以前なら、彼女の席はユリウスの斜め後ろだった。
王太子の婚約者として。
必要な時に小声で助言できる位置。
しかし今日は違う。
彼女の席は、王弟カインの隣に用意されていた。
王太子側ではなく、監査側。
その位置だけで、会議の空気がさらに変わる。
ユリウスが唇を引き結んだ。
リリアナは、姉が自分から遠い場所に座ったことに、安心したような、さらに不安になったような顔をした。
グレゴール公爵は低く言った。
「これは何の茶番だ」
その声は、会議の間に響いた。
国王の前であるにもかかわらず、彼は怒りを隠そうとしなかった。
「我が娘が、王弟殿下の補佐席に座るなど。しかも、公爵家への正式な相談もなく」
エレノアは父を見た。
その顔を見ても、昔のように胸が縮まることはなかった。
怖くないわけではない。
けれど、今は父の怒りよりも、机の上の記録の方が重い。
カインが静かに答えた。
「王妃遺言状に基づく臨時任命だ。公爵家の許可は不要」
「娘の処遇に、父である私の許可が不要と?」
「王妃基金監査に関しては不要だ」
「エレノアはヴァレンシュタイン公爵家の娘です」
グレゴールの声がさらに硬くなる。
「家の名を背負う者が、父を差し置いてこのような場に座るとは」
エレノアは静かに口を開いた。
「お父様」
その一言で、父の目が彼女へ向いた。
「この場では、ヴァレンシュタイン公爵家の娘としてではなく、王妃陛下の遺言状に基づく臨時監査補佐官として発言いたします」
「父に向かって何という口の利き方だ」
「父としてのお話でしたら、後ほど別の場で承ります」
グレゴールの顔が赤くなる。
エレノアは続けた。
「今は、王妃基金と遺産目録不一致に関する裁定会議です」
静かな声だった。
だが、その静けさがかえって場を制した。
国王アレクシスが、重々しく口を開く。
「始めよ」
会議の間に沈黙が落ちた。
カインが立ち上がる。
「本裁定会議の議題は三つ。第一、王妃基金および関連宝飾品の所在不明。第二、セルベリア王国との非公開協定文書の所在不明。第三、王妃エレオノーラ陛下の遺言状に基づく、エレノア・ヴァレンシュタイン嬢への臨時監査権限付与」
オスカーが記録を取る。
カインは続ける。
「まず、王妃遺言状の該当部分を読み上げる」
会議の間がざわついた。
遺言状。
噂では知っていても、正式に読み上げられるのは初めての者が多い。
エレノアは一枚の写しを手に取った。
原本はカインの封印下に保管されている。
彼女は立ち上がった。
国王の前で、王太子の前で、父母の前で、リリアナの前で。
王妃の言葉を読み上げる。
「王妃基金の監査権を、エレノア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢に委任する」
財務官ベルトラムの表情が硬くなる。
「王太子ユリウス・グランベルクの王位継承適性について、再審査を求める」
その場に衝撃が走った。
ユリウスは顔を蒼白にした。
リリアナが息を呑む。
グレゴール公爵は、驚きと怒りが混じった顔でエレノアを睨んだ。
国王は目を伏せ、重臣たちは互いに視線を交わす。
エレノアは声を乱さなかった。
「王宮文書管理、王妃教育関連記録、ならびに王妃基金関連資料の閲覧権を、エレノア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢へ一時的に付与する。必要に応じて、王弟カイン・レオ・グランベルクの保護下に置くこと」
読み終えた後、会議の間はしばらく静まり返った。
ユリウスは、何か言いたそうに唇を動かしたが、言葉にならなかった。
リリアナは、姉を見つめている。
以前のように「お姉様だけずるい」と言いたげな顔ではない。
今は、自分が知らない大きなものが姉の背後にあることに怯えている顔だった。
グレゴールが、机を強く叩いた。
「これは無効だ」
重臣たちの視線が彼へ集まる。
「王妃陛下は病床にあられた。判断力が正常であった保証はどこにある」
マルタが顔を上げた。
その目には、はっきりと怒りがあった。
「公爵閣下。王妃陛下のご判断を侮辱なさるのですか」
「私は事実を言っている。病に伏した王妃が、一公爵令嬢へ基金監査権など与えるはずがない」
カインが言った。
「遺言状の筆跡、封蝋、証人記録はいずれも確認済みだ。無効を主張するなら、根拠を文書で出せ」
「文書、文書と……」
グレゴールは苛立ったようにエレノアを睨む。
「お前の差し金か、エレノア」
会議の間がまた静まる。
エレノアは、父の視線を受け止めた。
「いいえ」
「では、なぜ王妃陛下はお前などに」
「それは、私ではなく王妃陛下にお尋ねになるべきことです」
「死者を盾にするな!」
父の怒声が響いた。
昔のエレノアなら、この声だけで言葉を飲み込んだだろう。
家で聞き慣れた声だった。
従わなければならない声。
長女として、父に逆らってはいけない。
そう思っていた声。
だが今、その声は会議の間にただ響いているだけだった。
記録は揺れない。
遺言状は消えない。
王妃の筆跡は、そこにある。
「お父様」
エレノアは静かに言った。
「本日は、怒声ではなく記録をご確認ください」
グレゴールの顔が歪む。
「娘が父を裁くつもりか」
「いいえ」
エレノアは机の上に、一冊の帳簿を置いた。
黒革の古い台帳。
王妃基金支出記録の写し。
オスカーがすでに複写し、封印記録をつけたものだった。
「記録が裁きます」
その言葉で、会議の間の空気が変わった。
カインは、わずかに頷いた。
「続けろ、エレノア」
「はい」
エレノアは台帳を開いた。
「王妃基金より、王都南区孤児院の屋根修繕費として支出予定だった銀貨八百枚。この支出は三度差し戻されました。理由は、担保確認未了」
エルザ・ロウ夫人の名が、書類上にあった。
エレノアは続ける。
「同時期、王妃基金関連支出として、薬草園整備費の名目でサルヴィ商会へ銀貨七百五十枚が支出されています」
財務官が口を開きかけた。
だが、カインの視線を受けて黙る。
「サルヴィ商会は、薬草園整備の納入報告を提出しています。しかし、実際の薬草園管理簿では、納入量が支出額に見合いません」
エレノアは別紙を示す。
「差額に相当する金額が、同月末、ヴァレンシュタイン公爵家主催の社交界披露宴関連費用と近い額で動いています」
リリアナの顔が青ざめた。
グレゴールが立ち上がる。
「言いがかりだ!」
「まだ断定はしておりません」
エレノアは父を見た。
「ですが、数字が近すぎます。加えて、サルヴィ商会の後援者名簿には、グレゴール・ヴァレンシュタイン公爵閣下のお名前があります」
会議の間に低いざわめきが広がった。
セレスティアが小さく震えた。
リリアナは、手元の資料を見つめる。
月涙石。
社交界デビュー。
父から贈られた首飾り。
その記憶が、彼女の中で音を立て始めていた。
「さらに」
エレノアは、別の紙を開いた。
「王妃遺品目録に記載された月涙石の首飾りが所在不明です。この首飾りは、王都南区孤児院修繕費の担保登録品でした」
グレゴールが歯を食いしばる。
「それがどうした」
「二年前、リリアナの社交界デビュー時に用いられた首飾りについて、宝飾商記録に『月涙石、王妃所蔵品に酷似』との注記があります」
「酷似しただけだ」
「その可能性はあります。ですので、現物確認が必要です」
エレノアはリリアナへ視線を向けた。
責める目ではなかった。
だが、逃がさない目だった。
「リリアナ。二年前の社交界デビューで使った首飾りは、現在どこにありますか」
リリアナの唇が震える。
「わ、分からないわ」
「最後に見たのは?」
「……デビューの夜のあと、お母様が保管すると」
セレスティアの顔が強張った。
会議の間の視線が母へ移る。
セレスティアは、困ったように微笑もうとした。
だが、いつもの微笑みはうまく作れなかった。
「古い宝飾箱に入れたと思いますわ。けれど、似た石など貴族家にはいくらでも」
「では、確認を」
カインが言った。
「ヴァレンシュタイン公爵家の宝飾保管室を封鎖する。月涙石に該当する宝飾品を提出せよ」
グレゴールが叫んだ。
「王弟殿下! それは公爵家への侮辱です!」
「王妃基金担保品の所在確認だ。侮辱ではない」
「我が家を疑うのか!」
「疑う根拠がある」
カインの声は冷たい。
その冷たさは、グレゴールの怒声よりもずっと強かった。
グレゴールは、エレノアへ憎々しげに目を向ける。
「お前は本気で家を潰すつもりか」
その問いに、エレノアは一瞬だけ黙った。
家。
生まれ育った場所。
愛されたかった場所。
譲り続けた場所。
自分を道具として使い、最後には妹を守るために切り捨てた場所。
それでも、完全に何も感じないわけではない。
父を裁くことは、痛い。
母を疑うことも、苦しい。
リリアナの涙を見るのも、胸が重い。
けれど、王妃の遺言状がある。
孤児院の屋根がある。
薬草園の記録がある。
消えた宝飾品がある。
王妃の薬に混じった黒眠草がある。
家族だからといって、それらを見なかったことにはできない。
「お父様」
エレノアは静かに答えた。
「家を潰したのは、私ではありません」
グレゴールの顔がさらに歪む。
「記録に残ることをした者です」
会議の間は静まり返った。
その言葉は、父だけでなく、その場にいる全員へ向けられていた。
財務官。
王宮医師。
母。
王太子。
リリアナ。
そして、かつて何も言わずに飲み込んできたエレノア自身へも。
記録に残ることをした者。
記録から逃げることはできない。
カインが国王へ向き直った。
「陛下。王妃基金および遺品関連不正疑惑について、正式監査への移行を求めます。対象は王宮財務局、サルヴィ商会、ヴァレンシュタイン公爵家関連帳簿、王妃私室薬棚、王宮医師の処方記録」
国王アレクシスは、長く沈黙した。
その顔には疲労があった。
妻を亡くした夫としての痛みと、国王として見なければならない現実が、同じ皺の中に刻まれている。
「許可する」
低い声だった。
だが、その一言で全てが動いた。
財務官が青ざめる。
グレゴールが拳を握りしめる。
セレスティアは椅子の背に手をかける。
リリアナは、もはや泣くこともできずに姉を見ている。
ユリウスは、エレノアの横顔を見つめていた。
彼女は、何も変わっていないように見えた。
整った字。
静かな声。
記録を積み上げるやり方。
だが、以前とは違う。
今の彼女は、彼の後ろで小声で助言する婚約者ではない。
会議の中央で、王宮の嘘を開いている。
ユリウスは、その姿を見て初めて思った。
自分は、この女性の何を見ていたのだろう。
冷たい。
可愛げがない。
息が詰まる。
その言葉で片づけていたものの中に、どれほどの力があったのだろう。
会議は続いた。
エレノアは、王妃基金の支出表を一つずつ提示した。
薬草園整備費。
孤児院修繕費。
戦没騎士遺児支援金。
宝飾品担保登録。
サルヴィ商会の納入記録。
財務官の承認印。
公爵家との金額の近似。
どれも、単独では決定的ではない。
だが、並べると線になる。
その線は、王妃の死の周囲へ伸びていた。
財務官がついに言った。
「これは、あくまで推測です」
「はい」
エレノアは認めた。
「ですから、監査が必要です」
「私を犯人扱いするのか」
「犯人を決めるのは、記録を確認した後です」
財務官は黙った。
エレノアは静かに続ける。
「ただし、記録確認を妨げる行為は、証拠隠滅として扱われます」
その言葉は、カインが昨日財務官に告げたものと同じだった。
今度は、エレノアの声で会議の間に響いた。
裁定会議は、長く続いた。
日が傾き、窓の外の光が赤みを帯び始める頃、第一段階の決定が下された。
王妃基金の正式監査開始。
財務局関連台帳の封鎖。
サルヴィ商会への出頭命令。
ヴァレンシュタイン公爵家宝飾保管室の確認。
王妃薬棚の薬包分析。
セルベリア文書の再捜索。
そして、エレノアの臨時監査補佐官としての権限承認。
その最後の決定が読み上げられた時、グレゴールは苦々しく顔を背けた。
リリアナは、姉をじっと見ていた。
その瞳には、嫉妬だけではないものがあった。
恐れ。
困惑。
そして、ほんの少しだけ、理解し始めた者の痛み。
会議が終わり、出席者たちが立ち上がる。
エレノアは資料を整えた。
手は少し冷えている。
緊張が解けた途端、疲労が押し寄せてきた。
それを隠そうとした時、カインが低く言った。
「エレノア」
「はい」
「今、限界を軽く見るなと言ったはずだ」
「……まだ倒れておりません」
「倒れてからでは遅い」
カインはオスカーに視線を向ける。
「控室を用意してある。半刻休め」
「ですが、資料整理が」
「命令だ」
エレノアは反射的に反論しかけた。
だが、カインの目を見て、言葉を止めた。
これは、彼女を黙らせるための命令ではない。
仕事を続けるために、休ませる命令だ。
「承知しました」
エレノアがそう答えると、カインは短く頷いた。
そのやり取りを、ユリウスが少し離れた場所から見ていた。
エレノアが誰かの命令に従う姿は、何度も見たことがある。
だが、その顔は今までと違った。
屈した顔ではない。
役割を理解して受け入れた顔だった。
その違いが、ユリウスにはひどく苦かった。
エレノアは資料を抱え、カインの補佐官として会議の間を出る。
その背中を、父も、母も、妹も、元婚約者も見送っていた。
けれど、もう誰も彼女を止められなかった。
王宮裁定会議は、開廷したばかりだった。
最初の帳簿が開かれた。
最初の証拠が示された。
そして、最初の嘘が崩れ始めた。
だが、王妃の死に差した影は、まだ深い。
その奥に誰がいるのか、まだ誰も知らない。
ただ一つだけ、はっきりしたことがある。
エレノア・ヴァレンシュタインは、もう誰かに奪われるだけの令嬢ではなかった。
彼女は記録を手に、王宮を裁く席へ座ったのだ。




