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妹に婚約者も家名も奪われましたが、私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第12話 彼女はもう、殿下の婚約者ではありません

 夕刻の王宮は、昼間よりも静かだった。


 静かであるはずがないほど、多くの人間が動いている。


 女官たちは廊下を磨き直し、文書官たちは王妃私室の封鎖記録を確認し、近衛騎士は北翼から東翼へ抜ける通路に立った。普段なら見過ごされるような小さな扉にも、今は警備が置かれている。


 誰も大声を出さない。


 けれど、誰もが知っていた。


 エレノア・ヴァレンシュタインが戻ってくる。


 王太子の婚約者としてではない。


 公爵家の令嬢としてでもない。


 亡き王妃エレオノーラの遺言状に基づき、王弟カイン直属の臨時監査補佐官として。


 その肩書きは、王宮の者たちに少なからぬ衝撃を与えていた。


 つい数日前まで、エレノアは「冷たい」「堅苦しい」「可愛げがない」と囁かれていた令嬢だった。王太子ユリウスに捨てられ、妹リリアナに席を奪われ、静かに王宮を去った女。


 そのはずだった。


 だが、王妃の遺言状が開かれた。


 王妃基金の監査権。

 王宮文書管理関連資料の閲覧権。

 王妃関連記録への立ち入り権。

 そして、王弟カインの保護下。


 噂は半日で形を変えながら王宮中を駆けた。


 王妃陛下は、最後にエレノア様を信じていたらしい。


 王太子殿下の婚約者だからではなく、エレノア様ご自身を。


 王妃基金の不正に、ヴァレンシュタイン公爵家が関わっているかもしれない。


 王太子殿下は、それを知らずにエレノア様を切った。


 誰もはっきりとは言わない。


 しかし、沈黙の中にそれらの言葉は沈んでいた。


 南翼の廊下で、ユリウスは立ち止まっていた。


 彼は、王太子らしい礼服をまとっている。髪も整えられ、胸元には王家の徽章が輝いていた。


 外見だけなら、いつも通りの華やかな王太子だった。


 だが、表情は硬い。


 側近ローレンが隣で控えているものの、声をかけることができずにいる。


「殿下」


 ようやくローレンが口を開いた。


「お出迎えは、王弟殿下にお任せになった方が」


「なぜだ」


「エレノア様は、王弟殿下直属の臨時監査補佐官として入宮されます。王太子殿下が先にお声をかけると、周囲に誤解を与える可能性がございます」


「誤解?」


 ユリウスは、苛立ったように振り向いた。


「私が彼女に声をかけることの何が誤解だ」


 ローレンは言葉を選ぶように少し黙った。


「エレノア様は、すでに殿下の婚約者ではございません」


 その一言が、廊下の冷気よりも鋭く刺さった。


 分かっている。


 自分がそうした。


 自分が婚約を破棄した。


 自分が、リリアナを選んだ。


 だからこそ、余計に受け入れがたかった。


 婚約を破棄したのは自分なのに、なぜ自分の方が置いていかれたような気分になるのか。


 ユリウスは唇を引き結んだ。


「彼女に話がある」


「正式な用件でございますか」


「……必要なら、正式にする」


「殿下」


 ローレンの声には、珍しく懇願が混じっていた。


「今、エレノア様に不用意なお言葉をかけるのは危険です。王弟殿下も同席されます」


「叔父上がいるなら、なおさらだ」


 ユリウスは歩き出した。


 ローレンはそれ以上止められなかった。


 王宮の正面玄関ではなく、東翼の内門が使われることになっていた。


 王太子妃候補としてなら正面玄関から迎えられたかもしれない。公爵令嬢としてなら、家格に応じた儀礼があっただろう。


 だが今回は違う。


 王弟直属の監査補佐官。


 王妃の遺言状に基づく臨時権限。


 表向きは控えめに、しかし警備と記録は厳密に。


 その扱いそのものが、カインらしかった。


 内門の外で、馬車が止まる音がした。


 その場にいた女官たちが、息を呑む。


 近衛騎士が姿勢を正す。


 最初に降りたのは、王弟カインだった。


 黒に近い礼服。無駄な装飾のない姿。いつものように表情は読めない。


 続いて、エレノアが降りた。


 ユリウスは、思わず足を止めた。


 数日前まで毎日のように見ていたはずの女性だった。


 だが、今のエレノアは少し違って見えた。


 派手な装いではない。


 深い藍色のドレスに、黒の外套。喪中であることを示す控えめな装いで、宝飾品もほとんど身につけていない。


 それでも、背筋はまっすぐだった。


 王太子に捨てられた令嬢の弱々しさはなかった。


 かといって、勝ち誇るような様子もない。


 ただ、静かにそこに立っている。


 その静けさが、ユリウスには苦しかった。


 彼女は泣いていない。


 怒ってもいない。


 縋ってもいない。


 それが、彼の中にあった最後の逃げ道を塞いでいく。


 エレノアは王宮の石畳に降り立ち、周囲へ一礼した。


 女官たちの中には、思わず深く頭を下げる者もいた。


 以前なら、王太子妃候補としての礼だった。


 今は違う。


 王妃が遺言状で指名した者への礼だった。


「エレノア」


 ユリウスは、気づけばその名を呼んでいた。


 周囲の空気が一瞬止まる。


 エレノアは顔を上げた。


 紫水晶のような瞳が、静かにユリウスを映す。


 そこに懐かしさはなかった。


 少なくとも、ユリウスにはそう見えた。


「王太子殿下」


 彼女は礼を取った。


 完璧な礼だった。


 だが、そこにはかつての距離がなかった。


 婚約者としての親しさも、補佐役としての反射的な応答もない。


 ただ、王族に対する礼。


 それだけだった。


 ユリウスは、その礼が気に入らなかった。


「話がある」


 カインが一歩、前へ出た。


「今でなければならない話か」


「叔父上。私はエレノアに話しているのです」


「私は、王弟直属の臨時監査補佐官に同行している」


 その言い方に、ユリウスの顔が強張った。


「それは分かっています。ですが、彼女は私の……」


 言いかけて、言葉が止まる。


 私の何だ。


 婚約者ではない。


 側近でもない。


 王太子妃候補でもない。


 それでも、彼の中ではまだ、エレノアは自分に応じるべき人間だった。


 長く隣にいた。


 命じれば動いた。


 呼べば来た。


 注意されることはあっても、最終的には自分を支えてくれた。


 その感覚が、まだ抜けていない。


「エレノア」


 ユリウスは言い直した。


「戻ってきたなら、まず私に報告するべきではないか」


 周囲の女官たちが、わずかに息を潜めた。


 カインの目が細くなる。


 エレノアは、静かに答えた。


「私の入宮は、王弟殿下直属の臨時監査補佐官としてのものです。ご報告は、王弟殿下を通じて正式に上がるものと存じます」


「形式の話をしているのではない」


「では、何の話でしょう」


 その問いは、以前のエレノアならもう少し柔らかく言ったかもしれない。


 だが今は、ただまっすぐだった。


 ユリウスは、胸の奥がざわつくのを感じた。


「君は、王宮の混乱を知っていたのだろう」


「一部は、報告を受けておりました」


「なら、なぜすぐに戻らなかった」


 言った瞬間、カインの視線が冷たくなった。


 だが、エレノアは顔色を変えなかった。


「私には権限がありませんでした」


「権限、権限と……君はまたそれか」


 ユリウスの声が少し荒くなる。


「王宮が混乱していると分かっていたなら、君なら手を貸せただろう」


「手を貸した後、責任はどなたが負うのですか」


「それは……」


「権限のない者が機密文書に触れ、王妃基金に関する判断をし、外交文書の所在を示した場合、責任の所在が曖昧になります。私はもう、王太子妃候補ではありませんでした」


「それでも、君は王宮を支えてきた」


「だからこそです」


 エレノアの声は静かだった。


「だからこそ、権限のないまま戻るわけにはまいりませんでした」


 ユリウスは、歯を食いしばった。


 分かる。


 理屈では分かる。


 今朝から書類を読み、引継書を見て、エレノアが言っていた意味を少しずつ理解し始めている。


 だが、それでも心が追いつかない。


 なぜ彼女は、こんなに遠い顔をしているのか。


 なぜ自分を責めないのか。


 なぜ泣かないのか。


 なぜ、もう自分の方を向いていないのか。


「私は、君に戻ってこいと言っている」


 ユリウスは言った。


 ローレンが後ろで顔を強張らせる。


 エレノアの表情は変わらない。


「どちらへ、でしょうか」


「王宮へだ」


「私は今、王宮へ戻りました」


「そうではない」


 ユリウスは苛立ちを隠せなかった。


「以前のように、私を補佐しろと言っている」


 その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が冷えた。


 エレノアは、ほんの少しだけ目を伏せた。


 怒ったのではない。


 呆れたのでもない。


 ただ、何かを静かに諦めたようだった。


「殿下」


 彼女は顔を上げた。


「私はもう、殿下の婚約者ではありません」


「婚約者でなくとも、王宮のために働くことはできる」


「そのために、私は王弟殿下直属の臨時監査補佐官として戻りました」


「私の補佐ではないのか」


「違います」


 短い返答だった。


 ユリウスは息を呑んだ。


 違います。


 たったそれだけの言葉が、これほど重いとは思わなかった。


「君は……」


 ユリウスの声に、苦いものが混じる。


「私を見捨てるのか」


 エレノアの瞳が、初めてわずかに揺れた。


 それは同情ではなかった。


 怒りでもない。


 悲しみに近い、けれどもう燃え上がらないものだった。


「殿下が、私との婚約を破棄なさいました」


「それは、リリアナを……」


「はい。リリアナをお選びになりました」


「だが、それと政務は別だ」


「別です。だからこそ、婚約者としての補佐と、正式な職務は分けるべきでした」


 ユリウスは言葉を失った。


 それは、カインが昨日言ったことと同じだった。


 王太子の婚約は私的な問題ではない。


 実務担当者を外すなら、手順がある。


 自分は、その手順を何一つ踏まなかった。


 ただ、エレノアが冷たいから。


 リリアナが優しいから。


 自分が息苦しいから。


 その程度の理由で、王宮の一部を支えていた柱を抜いた。


 だが、それを認めるには、まだ彼は若く、誇りが高すぎた。


「君は昔からそうだ」


 ユリウスは、つい言っていた。


「いつも正しい。いつも手続きだ、責任だ、権限だと言う。私が何を感じているかなど、考えもしない」


 エレノアは、静かに聞いていた。


「君といると、私はいつも責められているようだった。王太子として足りないと、婚約者に見下されているようだった」


 その言葉は、以前ならエレノアを深く傷つけただろう。


 今も痛みがないわけではない。


 だが、彼女はもう、その痛みを自分だけの欠陥として受け取らなかった。


「殿下」


 エレノアは言った。


「私は、殿下を見下したことはありません」


「なら、なぜいつも間違いばかり指摘した」


「殿下が、人前で恥をかかないようにです」


 ユリウスの顔が歪む。


「それが見下していると言うのだ」


「いいえ」


 エレノアは、初めて少しだけ声を強めた。


「それが、私の務めでした」


 廊下の奥で、誰かが息を呑んだ。


「殿下の演説が隣国に侮辱と取られないように。殿下の善意が貴族間の古傷を抉らないように。殿下の不用意な承認で、基金の不正が隠れないように。私は、必要なことを申し上げてきました」


「だから、それが息苦しかったのだ」


「そうでしょうね」


 エレノアは、淡々と受け止めた。


「守られている側に、守っている者の手は重く感じられるものです」


 ユリウスの頬に血が上る。


「私は守られていたと言いたいのか」


「はい」


 即答だった。


 ユリウスは声を失った。


 カインは何も言わない。


 ただ、エレノアの隣に立っている。


 その沈黙が、彼女の言葉を支えていた。


「殿下は、私の言葉を冷たいとお感じになった。ならば、それは私の未熟さでもあったのでしょう」


 エレノアは続けた。


「けれど、私がしてきたことを、なかったことにはできません。私が殿下を責めるために動いていたのではないことだけは、申し上げておきます」


「では、なぜ今は私を助けない」


 それは、ほとんど子供のような問いだった。


 だがユリウス自身は、その幼さに気づいていない。


 エレノアは少しだけ目を伏せた。


「私は、王宮を助けに戻りました」


「私ではなく?」


「はい」


 再び、短い答え。


 ユリウスは、まるで目の前で扉を閉められたような顔をした。


 その時、カインが口を開いた。


「ユリウス。そこまでだ」


「叔父上」


「彼女はもう、お前の婚約者ではない」


 その言葉は、廊下に静かに響いた。


「そして、お前に命じられる立場でもない」


 ユリウスは、カインを睨むように見た。


「私は王太子です」


「だからこそ、職務権限を理解しろ」


 カインは淡々と言った。


「エレノア嬢は、私の直属補佐として王妃基金監査に入る。お前が話したいなら、正式な面談申請を出せ。私的な呼び止めで時間を奪うな」


「私的な……」


「今のこれは、政務ではない」


 カインの声は冷え切っていた。


「お前の未練と混乱だ」


 ユリウスの表情が固まる。


 あまりに容赦のない言葉だった。


 ローレンは青ざめ、周囲の女官たちはさらに頭を下げる。


 だが、カインは撤回しなかった。


「王太子として必要な説明があるなら、評議会で行え。元婚約者として言いたいことがあるなら、今は飲み込め」


「叔父上に、私の何が分かる」


「少なくとも、お前が今、王宮の危機より自尊心を優先していることは分かる」


 ユリウスは何も言えなくなった。


 エレノアは、静かにカインへ向き直った。


「殿下。王妃私室へ向かってもよろしいでしょうか」


「ああ」


 カインは頷く。


「マルタが待っている。まず薬棚の封鎖確認、その後、王妃基金関連台帳の写しを確認する」


「承知いたしました」


 エレノアはユリウスへ一礼した。


「王太子殿下。失礼いたします」


 ただの礼。


 それだけだった。


 ユリウスは、声をかけられなかった。


 エレノアはカインと並んで歩き出す。


 以前なら、ユリウスの半歩後ろを歩いていた。


 彼の資料を抱え、彼の予定を確認し、彼の機嫌を読みながら。


 今は違う。


 彼女は王弟カインの隣にいる。


 正確には、半歩後ろ。


 しかしそれは従属ではなく、職務上の位置だった。


 カインは彼女を置いて先に進まない。


 廊下の角で、彼女が一瞬だけ周囲の配置を確認すると、カインも足を止める。


 彼女が何かに気づいた時、意見を述べる余地を与える。


 それを見て、ユリウスの胸が締めつけられた。


 自分は、そんなふうに歩いたことがあっただろうか。


 エレノアの歩幅を見たことがあっただろうか。


 彼女が何を見て、何に気づき、何を飲み込んでいたのか。


 考えたことが、あっただろうか。


「殿下」


 ローレンがそっと声をかける。


 ユリウスは動けなかった。


 エレノアの背中が遠ざかっていく。


 濃藍のドレス。


 黒の外套。


 凛とした姿勢。


 ほんの数日前まで、自分の隣にいるのが当然だと思っていた背中。


 だが今、その背中はもう振り返らない。


 廊下の向こうで、リリアナが立っていた。


 評議会へ向かう途中だったのだろう。淡い藤色のドレスを着て、手にはマルタから渡された資料を持っている。


 彼女は、エレノアとカインが近づいてくるのを見て、顔を強張らせた。


「お姉様……」


 エレノアは足を止めた。


「リリアナ」


 数日前までなら、妹の震えた声を聞けば、エレノアはすぐに気遣ったかもしれない。


 大丈夫かと聞き、資料を見てやり、必要なら自分が代わりに説明しただろう。


 だが今、彼女はただ妹を見た。


「評議会へ?」


「え、ええ」


「分からないことは、分からないと答えなさい。推測で答えると、後で訂正が難しくなるわ」


 その声は、厳しいが冷たくはなかった。


 リリアナは唇を噛む。


「また、そういう言い方をするのね」


「必要なことだから」


「私、あなたみたいにはできないわ」


「最初から同じようにできる必要はない」


 リリアナは驚いたように姉を見た。


 エレノアは続ける。


「けれど、できないことを認めずに承認すれば、誰かが傷つくわ」


「私が悪いって言いたいの?」


「悪いかどうかではないの。責任の話よ」


 リリアナは、また泣きそうな顔になった。


 だが、泣かなかった。


 泣けば逃げられないことを、もう少しだけ知っているからかもしれない。


「お姉様は、王宮に戻ってきたの?」


「ええ」


「私から、殿下を取り返しに?」


 ユリウスの胸が強く跳ねた。


 エレノアは、ほんの少しだけ目を細めた。


 悲しそうにも見えた。


「いいえ」


 はっきりと、彼女は言った。


「私は王妃様の記録を確認しに来たの。殿下の隣へ戻るためではないわ」


 リリアナは言葉を失った。


 その返答は、おそらく彼女が一番恐れていたものではなく、一番理解できないものだった。


 姉は、怒っていない。


 奪い返そうともしていない。


 けれど、もう譲る姉でもない。


 では、目の前の姉は何なのか。


 リリアナには、まだ分からなかった。


 カインが静かに言った。


「時間だ」


「はい」


 エレノアはリリアナへ一礼した。


「評議会で会いましょう」


 そのまま、カインと共に歩き出す。


 リリアナは、資料を握りしめたまま立ち尽くした。


 ユリウスもまた、同じ場所で動けなかった。


 二人は、まるで同じものを失った者のように、エレノアの背中を見送っていた。


 だが、失ったものの意味は違う。


 リリアナは、姉から奪った椅子の重さに怯えていた。


 ユリウスは、自分が捨てた女性の価値にようやく気づき始めていた。


 そしてエレノアは、もう二人の感情を背負って歩いてはいなかった。


 王妃私室の前では、マルタが待っていた。


 彼女はエレノアを見ると、深く、深く頭を下げた。


「お帰りなさいませ、エレノア様」


 その言葉に、エレノアは一瞬だけ目を伏せた。


 戻ってきた。


 だが、以前と同じ場所へではない。


 王妃の影の下へ。


 記録の中へ。


 そして、真実の前へ。


「ただいま戻りました、マルタ」


 エレノアは静かに答えた。


「王妃様の薬棚を確認しましょう」


 マルタは頷き、扉を開けた。


 王妃エレオノーラの私室。


 数日前まで、エレノアが最も長く過ごした場所。


 その奥に、まだ誰も触れていない薬棚がある。


 王妃の死に影を落とす記録が、そこに眠っている。


 エレノアは一歩、部屋へ入った。


 白百合の香りは、もうほとんど消えていた。


 代わりに、古い薬草と紙の匂いがした。


 彼女は背筋を伸ばす。


 もう泣く者ではない。


 逃げる者でもない。


 王妃が最後に信じた証人として、エレノアは王宮の嘘を見に戻った。

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