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妹に婚約者も家名も奪われましたが、私は王妃の遺言状を握っています 〜虐げられた公爵令嬢を捨てた王宮が、三日後に血塗れの相続争いで崩壊しました〜  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第11話 元婚約者は、初めて彼女の仕事を探す

 ユリウスは、机の上に積まれた書類を見ていた。


 正確には、見ているだけだった。


 読んでいるわけではない。


 文字は目に入ってくる。日付も、署名も、項目名も、王宮で使われる定型文も、ひとつひとつは理解できる。


 だが、それらが何を意味しているのか。

 どの文書とどの文書がつながっているのか。

 どれを先に処理し、どれを保留し、どれを誰に確認すべきなのか。


 そこが分からない。


 分からないことが、これほど苛立たしいとは思わなかった。


「……なぜ、こんなものを毎日見ていた」


 誰に向けた言葉でもなく、ユリウスは呟いた。


 王太子執務室は、朝から重苦しい空気に包まれていた。


 昨日、王弟カインが直接乗り込み、財務官の関連台帳提出を命じた。その場にいた官吏たちは、誰も大声を出さなかった。怒号が飛んだわけでもない。剣が抜かれたわけでもない。


 それなのに、王宮の空気は一変した。


 財務官の執務室は封鎖され、王妃基金関連の台帳は王弟直属の文書官によって押さえられた。王妃私室の薬棚も封鎖された。礼拝堂奥の祈祷箱にまで確認の手が伸びるという噂が、もう下働きの耳にまで届いている。


 そして今朝。


 王宮の誰もが、あることを知った。


 王弟カインが、王都外れの旧邸にいるエレノア・ヴァレンシュタインを訪ねた。


 ただの元婚約者ではない。


 ただの追放令嬢ではない。


 王弟自らが会いに行った人物。


 それだけで、彼女を見る王宮の目は変わり始めていた。


 ユリウスは、それが面白くなかった。


 面白くない、という言葉では足りない。


 胸の奥に、理解しがたい焦りがあった。


 彼女を捨てたのは自分だ。


 王太子である自分が、エレノアとの婚約を破棄した。


 リリアナを選んだ。


 ならば、エレノアは自分から離れた女であるはずだった。


 それなのに、王宮の視線は、なぜか今さら彼女を追い始めている。


 夫人たちも。


 女官たちも。


 文書官たちも。


 そして叔父であるカインまでも。


「殿下」


 側近ローレンが控えめに声をかけた。


 彼の腕には、さらに数冊の台帳が抱えられている。


 ユリウスは顔をしかめた。


「まだあるのか」


「はい。エレノア様が以前、殿下の会議前確認用にまとめられていた要約資料の控えが見つかりました」


 エレノア様。


 その呼び方に、ユリウスはかすかに眉を動かした。


 昨日まで、周囲は彼女を「エレノア嬢」と呼んでいた。王太子妃候補として敬意は払われていたが、今ほど妙に重くはなかった。


 だが、今朝から違う。


 王弟が動いた途端、人々は彼女の名を口にする時、慎重になった。


 まるで、うかつに触れてはいけないものを見るように。


「置け」


 ユリウスは短く言った。


 ローレンが机の端に台帳を置く。


 表紙には、エレノアの字があった。


 王太子殿下用・朝会要点整理。


 その文字を見ただけで、ユリウスはなぜか腹が立った。


 毎朝、机に置かれていた薄い冊子。


 見覚えがある。


 いや、見覚えがありすぎる。


 エレノアは毎朝、王太子が出席する会議の前に、この要点整理を持ってきた。


『殿下、本日の朝会では三点だけご注意ください』


 そう言って、彼女はいつも簡潔に説明した。


 西方領の税率変更。

 セルベリア大使への返答。

 王妃基金の支出承認。

 貴族夫人たちの席次調整。

 地方からの陳情。

 教会からの問い合わせ。


 ユリウスは、それを退屈なものだと思っていた。


 エレノアの声が淡々としているせいで、まるで教師に宿題を確認されているような気分になった。


 彼女の言葉のあとに、リリアナが現れて笑えば、どれほど救われた気持ちになったことか。


『殿下、お疲れなのですね。あまり無理なさらないで』


 リリアナの声は柔らかかった。


 エレノアのように、次の議題だの注意点だのを突きつけてこない。


 ただ、ユリウスを王太子ではなく一人の男として見てくれる気がした。


 だから、選んだ。


 そう思っていた。


 ユリウスは、冊子を開いた。


 一枚目には、日付と会議名。


 その下に、大きく三つの項目が書かれていた。


 一、セルベリア大使への返答は「協力」ではなく「継続的協調」とすること。

 二、孤児院修繕費については承認済みと明言しないこと。未承認理由を確認中。

 三、ハウゼン侯爵家とミルド伯爵家の婚姻問題には触れないこと。


 その横に、小さな注釈がある。


 殿下は善意から「両家の和解」を口にされがち。現在は禁句。

 ロウ夫人が同席する場合、基金関連の曖昧な発言不可。

 大使夫人の前では王妃陛下の私的約束を軽く扱わないこと。


 ユリウスは、紙を握りしめそうになった。


「……余計なことを」


 口ではそう言った。


 だが、胸の奥では違うものが動いていた。


 彼女は、いつもこうしていたのか。


 自分が口を滑らせる前に、禁句を調べていたのか。


 自分が知らずに誰かを傷つける前に、避けるべき話題を拾っていたのか。


 自分が会議で失敗しないように、たった三つの注意点に絞ってくれていたのか。


 ローレンが控えめに言った。


「殿下。エレノア様の資料は、かなり整理されています」


「見れば分かる」


「いえ、その……これだけ整理されているからこそ、今まで殿下は会議で大きな失言を避けられていたのかもしれません」


 ユリウスは鋭く顔を上げた。


「私が、彼女に失言を避けさせてもらっていたと言いたいのか」


 ローレンは青ざめた。


「失礼いたしました」


「違うのか」


 ユリウスは、思わずそう問い返していた。


 ローレンは口を閉ざす。


 その沈黙が答えだった。


 ユリウスは視線を落とした。


 別の冊子を開く。


 王太子殿下演説草稿・修正履歴。


 そこには、自分が過去に読んだ演説の下書きと、エレノアの修正が残っていた。


 自分の言葉だと思っていた。


 民が褒めた演説。


 貴族たちが頷いた挨拶。


 隣国大使が穏やかに微笑んだ歓迎文。


 それらの多くが、エレノアの赤字で整えられていた。


 ユリウスは、初めて知ったわけではない。


 彼女が修正していたことは知っていた。


 だが、それを「少し言い回しを直しただけ」だと思っていた。


 違った。


 彼女は、失敗しそうな言葉を消していた。


 人を傷つける表現を変えていた。


 傲慢に聞こえる一文を、王太子らしい品位へ整えていた。


 彼女は、彼の影で、彼の評判を作っていた。


「……なぜ言わなかった」


 ユリウスは呟いた。


 ローレンが戸惑う。


「何をでございますか」


「これだけやっているなら、なぜそう言わなかった」


 言ってから、ユリウスは自分の言葉のおかしさに気づいた。


 彼女は言っていた。


 何度も。


 会議前に確認してください。

 この表現は避けてください。

 この夫人には先に礼を述べてください。

 この文書はまだ承認されていません。

 この件は王妃陛下のご意向と異なります。


 彼は、それを「うるさい」と思った。


 息が詰まると思った。


 なら、彼女はどう言えばよかったのだろう。


 私はあなたを守っています、とでも言えばよかったのか。


 そう言われたら、きっと彼はもっと苛立った。


 自分が守られる側だと認めたくなかったから。


「殿下」


 ローレンが、さらに一冊の薄い台帳を差し出した。


「こちらは、王太子殿下宛ての私的補足記録のようです」


「私的?」


「はい。表には出していない、エレノア様の控えかと」


 ユリウスは受け取った。


 革表紙は古く、使い込まれている。


 中を開くと、日付ごとに短い記録が並んでいた。


 ユリウス殿下、本日、西方伯へ強い言い方。会議後、私より書簡にて補足。

 殿下、財務官の説明をそのまま了承。後日、王妃基金支出記録を再確認する必要あり。

 殿下、リリアナの体調を気遣い、午後の確認を中止。セルベリア返答草稿、夜に私が修正。

 殿下、ハウゼン家とミルド家の件を失念。次回注意喚起。

 殿下、王妃陛下の薬草供給について関心薄い。要説明。


 ユリウスは、読む速度が遅くなった。


 自分の失敗が、そこに淡々と記録されている。


 責める言葉ではない。


 罵倒でもない。


 ただ、事実が並んでいる。


 それが、かえって耐え難かった。


 エレノアは、自分を憎んでいたのだろうか。


 いや、この記録には憎しみがない。


 怒りもほとんどない。


 ただ、次に同じ失敗をしないための記録だ。


 彼女にとって、自分は婚約者だったのか。


 それとも、未熟な王太子として管理対象だったのか。


 そう考えた瞬間、ユリウスの胸に屈辱が走った。


 だが、その屈辱の奥で、もっと嫌な問いが生まれる。


 では、自分は彼女を何として見ていたのか。


 婚約者か。


 便利な補佐か。


 自分の失敗を事前に消してくれる安全網か。


 自分が王太子として立派に見えるよう、背後で支える影か。


 ユリウスは乱暴に台帳を閉じた。


「……リリアナは?」


「午後の評議会に向けて、女官長マルタより説明を受けているはずです」


「評議会……」


 王妃基金と遺産目録不一致について、リリアナも説明を求められる。


 昨日までなら、ユリウスはそれを止めただろう。


 リリアナはまだ慣れていない。


 彼女を責めるな。


 彼女は優しいだけだ。


 そう言って。


 だが、カインは昨日言った。


 泣いても、分からないものは分からないままだ。


 その言葉が、嫌に残っている。


 リリアナを守ることと、リリアナに責任を負わせないことは同じなのか。


 考えたくなかった。


 ユリウスは立ち上がった。


「東翼執務室へ行く」


「殿下?」


「エレノアの残した資料を直接見る」


「ですが、もうこちらへかなり運び込んでおります」


「全部ではないだろう」


「はい」


「なら見る」


 ローレンは慌てて後に続いた。


 王太子が東翼執務室へ向かうと、廊下にいた女官たちが道を開けた。


 以前なら、その足取りは堂々としていた。


 王宮は自分のものだと思っていた。


 少なくとも、将来そうなる場所だと思っていた。


 だが今、廊下の壁に掛かる王妃の肖像画が、彼を静かに見下ろしているように感じられた。


 王妃エレオノーラ。


 母ではない。


 しかし、幼い頃から王太子教育の多くを見守ってくれた女性。


 ユリウスは彼女を敬愛していた。


 いや、敬愛していたつもりだった。


 だが、彼女が何を守ろうとしていたのか。


 誰を信じていたのか。


 彼は、どれほど理解していたのだろう。


 東翼執務室の扉が見えた。


 昨日まで、エレノアの部屋。


 今は、リリアナの部屋。


 扉の前に立つと、中からマルタの声が聞こえた。


「王妃基金の支出記録について問われた場合、分からないことを無理に答えてはなりません。『確認中です』と答えてください。ただし、遺品目録の不一致を確認した場にいたことは否定できません」


 リリアナの弱々しい声が返る。


「でも、そんなことを言ったら、私が何も知らないと思われるわ」


「知らないことを、知っているふりをする方が危険です」


「……お姉様みたい」


「エレノア様は、知らないことを知っているふりはなさいませんでした」


 沈黙。


 ユリウスは扉の前で足を止めた。


 盗み聞きなど、王太子らしくない。


 だが、動けなかった。


 リリアナの声が、震えながら続く。


「皆、お姉様のことばかり」


「リリアナ様」


「茶会でも、評議会でも、書類でも、皆お姉様、お姉様って。私は、殿下に選ばれたのに」


「選ばれたことと、務めを果たせることは別でございます」


 マルタの声は静かだった。


 だが、鋭かった。


「私には無理だと言いたいの?」


「学ぶ必要があると申し上げています」


「お姉様は、私に何も教えてくれなかったわ」


「引継書は残されました」


「読めないのよ!」


 リリアナの声が少し大きくなった。


「読んでも分からないの! 数字も、商会の名前も、夫人たちの関係も、薬草園のことも、何も分からないの! そんなものを渡されて、さあやりなさいなんて、ひどいじゃない!」


 ユリウスは、扉の前で目を伏せた。


 リリアナの声は、苦しそうだった。


 守りたいと思う。


 今すぐ扉を開けて、もういいと言ってやりたい。


 だが、その一方で、机の上にあったエレノアの資料が頭に浮かんだ。


 彼女は十年かけて覚えた。


 誰にも泣きつかずに。


 誰にも「読めない」と叫ばずに。


 いや、叫べなかったのかもしれない。


 その違いを、今まで考えたことがなかった。


 マルタの声がした。


「リリアナ様。読めないことは罪ではありません」


「なら」


「しかし、読まなければならない立場を欲しがったことには、責任が伴います」


 また沈黙。


 ユリウスは、ゆっくりと扉を叩いた。


 中の声が止まる。


「私だ」


 扉が開かれた。


 リリアナは目を赤くしていた。


 マルタは、いつものように深く礼をする。


「殿下」


「リリアナ、大丈夫か」


 ユリウスが声をかけると、リリアナは一瞬で泣きそうな顔になった。


 いつもなら、すぐに抱き寄せただろう。


 だが、今日は足が止まった。


 机の上に、資料が広がっている。


 王妃基金支出記録。

 遺産目録不一致一覧。

 財務官発言記録。

 リリアナ立ち会い確認書。

 そして、エレノアの引継書。


 昨日まで彼が見ようとしなかったもの。


 今朝から彼を責め続けているもの。


「殿下……」


 リリアナが立ち上がる。


「私、頑張っているのです。でも、何も分からなくて……」


「ああ」


 ユリウスは頷いた。


 だが、次の言葉が出ない。


 大丈夫だ、と言いたかった。


 君は悪くない、と言いたかった。


 しかし、その言葉を口にすれば、机の上の書類はどうなるのか。


 王妃の遺品は。


 基金の数字は。


 セルベリア大使は。


 茶会で傷ついた夫人たちは。


 全部、なかったことになるのか。


 ユリウスは、初めて言葉を選んだ。


「分からないなら、分かるところから始めればいい」


 リリアナの目が見開かれた。


 彼女が求めていた言葉ではなかったのだろう。


「殿下……?」


「私も、今朝から資料を見ている。分からないことが多い」


 自分で言って、屈辱を感じた。


 だが、それは事実だった。


 リリアナは困惑した顔で彼を見る。


「殿下も?」


「ああ」


 マルタが、わずかに目を伏せた。


 驚いたようにも、少しだけ安堵したようにも見えた。


 ユリウスは机へ近づき、エレノアの引継書を手に取った。


 昨日、エレノアが置いていったもの。


 リリアナは読めないと言った。


 ユリウス自身も、昨日は読む必要がないと思った。


 彼は表紙を開く。


 一ページ目。


 本日の優先案件。


 茶会席次。

 セルベリア文書。

 王妃基金支出。

 王妃遺産目録。

 殿下演説草稿。


 その横に、短い注釈。


 リリアナ様へ。

 すべてを一日で覚える必要はありません。

 ただし、分からないものを「分からない」と記録してください。

 曖昧な承認は、後日責任の所在を不明にします。


 ユリウスは、その一文で手を止めた。


 すべてを一日で覚える必要はありません。


 エレノアは、リリアナが分からないことを責めていたわけではないのか。


 少なくとも、この文面には責める言葉はなかった。


 分からないことを、分からないと記録する。


 それだけを求めている。


 リリアナは、それを「意地悪」と受け取った。


 自分も、そう思おうとした。


 だが、本当にそうだったのか。


「……エレノアは」


 ユリウスは呟いた。


 リリアナがびくりと肩を揺らす。


「お姉様が、どうかなさいましたか」


「いや」


 ユリウスは引継書を閉じた。


「彼女は、どこまで考えていたのだろうな」


 リリアナの顔が曇った。


「殿下まで、お姉様を褒めるのですか」


「褒めているわけではない」


「では、何ですか」


 ユリウスは答えられなかった。


 自分でも分からない。


 悔しいのか。


 腹立たしいのか。


 感心しているのか。


 それとも、怖いのか。


 エレノアがいなくなって初めて、自分がどれほど彼女の上に立っていたのかを知り始めている。


 いや、違う。


 立っていたのではない。


 乗っていた。


 彼女が敷いた道の上を、自分の足で歩いているつもりになっていただけだ。


「殿下」


 マルタが静かに言った。


「午後の評議会まで時間がございません。リリアナ様には最低限、昨日確認した内容を整理していただく必要がございます」


「分かった」


 ユリウスは頷いた。


「私も同席する」


 マルタが少しだけ驚いたように顔を上げる。


「殿下が、でございますか」


「王太子として、知らないでは済まないのだろう」


 その言葉を言うのは苦しかった。


 だが、言わなければならない気がした。


 リリアナは不安げに彼を見た。


「殿下、私……」


「リリアナ」


 ユリウスは彼女を見た。


「分からないことは、分からないと言えばいい」


 リリアナの瞳が揺れる。


 その表情には、傷ついたような色があった。


 彼女はきっと、こう言ってほしかったのだ。


 君は悪くない。


 私が守る。


 評議会になど出なくていい。


 だが、今それを言えば、何かがさらに壊れる。


 ユリウスは、ようやくその程度には理解し始めていた。


「私も、分からないことが多い」


 彼は言った。


「だから、確認する」


 リリアナは、黙って俯いた。


 納得したわけではない。


 ただ、もう泣いても流れが変わらないことを感じ取っているのだろう。


 マルタは静かに資料を整えた。


「では、まず王妃遺産目録の不足品について確認いたします。リリアナ様が実際にご覧になったもの、触れたもの、発言なさった内容を時系列で整理します」


「時系列……」


 リリアナは小さく呟く。


 マルタは頷いた。


「はい。記憶は感情で変わります。ですが、時系列にすれば、少なくともどこで何が起きたか見えます」


 それは、エレノアがいつも言っていたことだった。


 ユリウスは、机のそばに立ったまま、その言葉を聞いた。


 記憶は感情で変わる。


 記録は、感情から事実を守る。


 エレノアは、そういうものを見ていたのかもしれない。


 その時、扉の外が少し騒がしくなった。


 侍従が慌てて現れる。


「殿下」


「何だ」


「王弟カイン殿下より、通達でございます」


 ユリウスの表情が変わる。


「叔父上から?」


「はい。本日夕刻、王妃遺言状に基づき、エレノア・ヴァレンシュタイン様が王宮へ入られます」


 部屋の空気が止まった。


 リリアナが顔を上げる。


「お姉様が……?」


 侍従は続けた。


「エレノア様は、王弟殿下直属の臨時監査補佐官として、王妃基金および王妃関連文書の確認にあたられるとのことです」


「臨時監査補佐官……」


 ユリウスは、その肩書きを繰り返した。


 婚約者ではない。


 公爵令嬢としてでもない。


 王弟直属。


 王妃遺言状に基づく。


 つまり、エレノアは自分に呼ばれて戻るのではない。


 自分の隣へ戻るのでもない。


 叔父カインの権限のもと、王妃の証人として王宮へ戻る。


 ユリウスの胸に、鋭い何かが走った。


 失った。


 その言葉が、初めて形を持った。


 今までは、どこかで思っていた。


 困れば呼び戻せる。


 必要なら、命じればいい。


 エレノアは、結局王宮に尽くす女だから。


 しかし、違った。


 彼女は戻ってくる。


 だが、もう自分のものではない。


 いや、最初から自分のものではなかったのだ。


「殿下……」


 リリアナの声が震えている。


「お姉様が戻ってくるのですか」


「ああ」


「私の……私の席はどうなるの?」


 誰も答えなかった。


 エレノアは、王太子妃候補として戻るわけではない。


 リリアナの席を奪い返しに来るわけでもない。


 それなのに、リリアナは怯えていた。


 姉が戻る。


 それだけで、自分の椅子の下が揺らぐと感じている。


 ユリウスも同じだった。


 エレノアが戻る。


 それだけで、自分の無知も、浅さも、これまでの甘えも、全部照らされるような気がした。


 マルタだけが、静かに頭を下げた。


「承知いたしました。王妃私室の封鎖状態を確認してまいります」


 彼女の声には、かすかな力が戻っていた。


 ユリウスはそれを聞いた。


 王宮が、エレノアの帰還を待っている。


 自分ではなく。


 リリアナでもなく。


 王妃の遺言状を握る、あの冷たいと呼ばれた令嬢を。


 彼は手元の引継書を見下ろした。


 そこに残るエレノアの字は、相変わらず整っている。


 感情を押し殺したように。


 だが、今なら少しだけ分かる。


 その整った文字の下に、どれほどの痛みと責任が押し込められていたのか。


 ユリウスは、初めて自分から彼女の名を呼んだ。


「……エレノア」


 小さな声だった。


 誰に聞かせるためでもない。


 謝罪でもない。


 未練でもない。


 ただ、今まで当然のように隣にいた人間の不在を、初めて名前として認識した声だった。


 だが、その名を呼んでも、彼女は来ない。


 以前なら、扉の向こうから静かに現れたかもしれない。


『お呼びでしょうか、殿下』


 そう言って、書類を持って。


 今は違う。


 エレノアは、夕刻に戻ってくる。


 王太子の呼び声ではなく、亡き王妃の遺言状と王弟カインの権限によって。


 ユリウスは、その事実をただ見つめるしかなかった。


 午後の光が、東翼執務室の机に落ちている。


 姉の机に座る妹。


 その横に立つ元婚約者。


 二人の前には、姉が残した書類がある。


 そして王宮のどこかで、誰もが待っている。


 冷たいと蔑まれた令嬢が、今度は誰の影でもなく戻ってくる時を。

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