七話 跡
放課後。最後のチャイムが、狂気への合図だった。
掃除の喧騒が遠のき、再び二人きりになった教室。夕陽は校舎の影に沈み、窓からは紫がかった群青色の夜が侵入し始めている。
「……ねえ、湊くん」
教卓で出席簿を整えていた桜が、ゆっくりと振り返る。
その瞳からは、先ほどまでの「クラスの華」としての光が完全に消失していた。代わりに宿っているのは、飢えた獣のような、底なしの昏い熱だ。
湊が返事をする前に、桜は教室の鍵を内側から静かに、けれど決定的な音を立てて閉めた。
「今日は、私の番……。君の書く物語に、私が『朱』を入れてあげる」
桜は迷いのない足取りで湊に近づくと、彼の机の上に乱暴に跨った。湊の胸ぐらを掴み、その身体を椅子ごと背後の壁へと押しやる。
ドン、と鈍い音が響き、湊の眼鏡がわずかにずれた。
「……桜?」
「黙ってて。君は今、言葉を紡ぐ作家じゃない。私に暴かれるだけの『登場人物』なんだから」
彼女の細い指が、湊の端正な制服のネクタイを容赦なく引き解いていく。
昼間の「よいこ」の仮面を剥ぎ取るたびに、桜の口角は愉悦に吊り上がった。彼女は湊のシャツのボタンを、先ほど彼が自分にしたように、一つずつ、けれどより暴力的な渇望を込めて弾き飛ばしていく。
「あはっ……湊くんの心臓、すごく速い。教科書通りの優等生でも、中身はこんなに壊れそうなんだ」
桜は湊の耳元に唇を寄せ、鋭い歯を立てた。耳たぶを甘噛みし、そのまま喉仏へと舌を這わせる。
「君は、私の傷を『傑作』の材料にしたよね。だったら……私のこの痛みも、絶望も、君の肌に直接書き込んであげる。一文字ずつ、一生消えないように」
桜の手が、湊の胸元にあるペンケースから一本の製図用ペンを抜き取った。
彼女はキャップを外し、その鋭利なペン先を湊の鎖骨のすぐ下、白い肌へと押し当てる。
「っ……、桜、それは――」
「動かないで。これは『挿絵』よ」
彼女はペン先で、湊の肌にゆっくりと、しかし深く線を刻み始めた。インクが肌に滲み、微かな痛みが湊の理性を白濁させていく。
桜は、自分の鎖骨にある湊の噛み痕を見せつけるようにブラウスをはだけさせ、恍惚とした表情で湊を見下ろした。
「ほら、見て。私たちが混ざり合っていく。物語が現実を食い破って、二人を一つに繋いでいくの。……ねえ、湊くん。今の気分は? 自分の肉体が、私の執念で汚されていく感想を聞かせてよ」
湊の瞳に、絶望と陶酔が入り混じった光が宿る。
彼は抗うことをやめ、自分を支配する少女の腰に手を回した。
「……最高だ。君という毒が、僕の血の中に完璧に書き込まれていく……」
窓の外では、完全な夜が訪れていた。
蛍光灯の点かない教室。
机の上に散乱したプリントと、肌を焼くインクの匂い。
二人の影は、もはやどちらがどちらのものか判別できないほど、無残に、そして美しく絡み合っていた。




