五話 壊
## 終止符のない追走曲
湊の唇が桜の鎖骨に刻まれた痕に触れた瞬間、教室の空気は粘度を増し、酸素さえも二人の情動を燃やすための燃料へと変わった。
「あ……、は……っ」
桜の背中が弓なりに逸れる。それは湊が書き殴った『聖』の反応そのものだったが、そこにあるのは文字データの羅列ではない。指先に伝わる脈動、微かに震える皮膚の質感、そして鼻腔を衝く少女特有の鉄分を含んだ甘い香り。
湊は、自分が創り出した物語に食い尽くされているのか、あるいは現実を物語で塗り潰しているのか、その判別さえも放棄した。
「……きれいだ、桜。物語よりも、ずっと残酷で、美しい」
湊の指が、彼女のブラウスの二番目、三番目のボタンを、執拗なほど丁寧に解いていく。露出していく肌は、早朝の青白い光を反射して発光しているかのようだった。彼はマウスを掴んでいた右手を、彼女の細い首筋へと這わせる。
「君が望んだんだ。僕の言葉で、僕の行為で、君という存在を定義し直してくれって」
湊は低く、地を這うような声で囁くと、彼女の肩口に鋭い歯を立てた。
「――っ! 」
桜は湊の髪に指を絡め、狂おしげに彼を自身へと押し付けた。痛みが快楽の回路を焼き切り、彼女の脳内では湊が綴るテキストが、血の文字となって溢れ出していく。
もはや、どちらが作者で、どちらが素材なのか。
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沈黙したモニターの中で、カーソルが規則正しく点滅している。
その横で、湊は左手だけでキーボードを叩き始めた。桜を抱きしめたまま、彼女の背中で、盲目的に、狂気的に。
> *少年は、彼女のすべてを掠め取ることでしか、己の空白を埋めることができなかった。*
> *肉体を重ねるほどに、魂は乖離し、それでも彼らは一つになろうと足掻く。*
> *それは救済ではない。共倒れという名の、永遠の心中だ。*
「ねえ、湊くん……」
桜が湊の頬を両手で挟み込み、無理やり自分の方を向かせた。彼女の瞳は潤み、瞳孔は恐ろしいほどに開いている。
「この物語の結末は、決まっているの?」
湊は一瞬、動きを止めた。画面上の「少年」と「聖」は、絶壁の淵で手を取り合っている。
「……終わりなんてない。君が僕を求め、僕が君を書き続ける限り、この地獄は終わらない」
「そう。なら、もっと奥まで……私の心臓の音まで書き写して」
桜は、湊の指を自分の左胸へと導いた。トク、トク、と、物語のリズムを刻む鼓動が、指先を通じて湊の神経に直接流れ込む。
湊は、震える手で再びマウスを握り、画面上のテキストをすべて「黒」で塗りつぶした。
### 聖域の崩壊
上書きされる現実。
二人の影は、朝日に照らされながら、教室の床にどろりと溶け合う。
ローファーが転がったままの無機質な空間で、彼らはただ、お互いという名の猛毒を啜り合っていた。
それは、世界で最も醜悪で、最も純粋な、未完成の傑作。
モニターの光が消えるその時まで、二人の「執筆」は止まらない。




