第三話 愛
湊の部屋を出ると、夜明け前の空は驚くほど高く、澄み切っていた。
つい数時間前まで、あの閉ざされた空間でどろりとした闇を煮詰めていたのが嘘のように、空気は冷たくて清い。
並んで歩く二人の足音だけが、眠りについた住宅街に響く。
ふと、桜が白み始めた東の空を見上げて、小さく呟いた。
「ねえ、湊くん。世の中の人が言う『愛』って、なんだと思う?」
湊はポケットに手を突っ込んだまま、歩調を変えずに答えた。
「さあね。一般的には、相手の幸せを願うことだとか、守り抜くことだとか……そんな綺麗な言葉でパッケージ化された、生存本能のバグじゃないかな」
湊は足を止め、ガードレールに背を預けた。
眼鏡の奥の瞳が、冷徹な観察者のそれに変わる。
「でも、僕たちにとっては違う。僕にとっての愛は、**『共犯関係の完成』**だよ。相手を自分と同じ深さの地獄まで引きずり込んで、もう一人では地上に戻れないように、お互いの足を鎖で繋ぐことだ」
桜はその言葉を噛み締めるように、ゆっくりと頷いた。
彼女もまた、この澄んだ朝の光に相応しくない、歪んだ笑みを浮かべている。
「……わかる気がする。私にとっての愛は、**『究極の消費』**。相手の人生も、過去の痛みも、流した血も、全部私の栄養にして、代わりに私の毒を全部あげること。あいつらみたいに『支え合う』なんて、気持ち悪くて想像もできない」
桜は、自分の腕を抱くようにさすった。ブラウスの下には、先ほど湊に晒した「真実」が隠れている。
「相手が欠けているから愛すんじゃない。相手が壊れているからこそ、その破片が自分の傷口にぴったり嵌まる。……痛いけど、離れられない。それが私にとっての、一番誠実な愛の形だよ」
「……酷いね」
湊が短く笑った。それは、心からの賛辞だった。
「僕たちは、お互いを救おうなんて一ミリも思っていない。ただ、この腐った世界で、一人で腐っていくのが退屈なだけなんだ」
「そう。だから、最高の傑作を作ってね。私たちのこの醜い『愛』が、誰かの心をズタズタに引き裂くような、そんな物語を」
二人の視線が交差する。
そこには温もりなど欠片もなかった。ただ、鏡を覗き込んだ時のような、冷ややかで絶対的な確信だけがあった。
やがて、街の端から太陽が顔を出し、世界を偽りの光で塗り潰し始める。
二人は示し合わせたように、それぞれの「完璧な優等生」の表情へと戻っていった。
「じゃあね、湊くん。学校で」
「ああ、また後で」
透き通るような青空の下、二人は一度も振り返ることなく、別々の方向へと歩き出した。
その足取りは、これから始まる「日常」という名の茶番劇へ向かうとは思えないほど、ひどく軽やかだった。




